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秋葉原連続殺傷事件の加藤智大氏の著書を読んで、こういう問題の「根底的解決」について考えた。

秋葉原連続通り魔殺傷事件の犯人、加藤智大氏が書いた本を、たまたま本屋で見つけて買って、昨日の夜寝る前にちょっとだけ読もうかと思ったら朝までぶっ続けに読んでしまった。

なんか・・・いや「感動」とかはしなかったけど凄く「考えさせられる内容」だった。

まあ・・・普通の感性からすると到底受け入れられない文章でしたけどね。ネット上のレビューとかでも、「全然反省してない」「全く共感できない」「独善的すぎる」とか、色々言われてるし、まあ、それはそれ自体ほんとそのとおりだと思います。

ただ、加藤氏の本の中で、唯一物凄く「なるほど」と思ったのは、「反省の考え方についての補足」っていう最後の方の章なんですよね。



彼が高校時代、友人を殴っちゃって、で失明寸前まで行かせてしまう事件を起こしたんだと。で、その時に、高校の先生に入れ替わり立ち代り怒られまくって「反省しろ」「反省しろ」と言われた。

で、その「反省」をしていないわけじゃないんだと。でもそうやって自分を窮屈に押し込めるような形で「反省」をしても、その「反省」の内容自体が大雑把なものだったらいずれまた暴発してしまうんだと。で、実際に彼は半年後にまた同じことをしてしまった。

ちゃんと引用しようかな↓
私としては、「反省」していました。彼には悪いことをしたと本心から思っていましたし、もう人を殴らないようにしようとも考えました。それなのにまた暴力的行動をとってしまったことに対して、多くの人は「反省が足りない」と考えるようです。つまり、もっと小さくなれ、頭を下げろ、自分で自分を責め、他の人からも責められてボロボロになれ、ということのようです。
しかし私は、その「反省」こそが、反省が足りずに同じ誤りを繰り返してしまう元凶だと気づきました。もちろん、その「反省」は必要です。というより、当然のことで、それすら無いような人は論外です。ただ、そこで終わりではなく、その上で原因を特定し、対策をすることまでが反省ではないか、ということです。(引用終わり)
↑これ、凄いなるほどと思った。

で、彼は、その高校時代の暴発を分析すると、自分が考え事をしてたところに友達が割って入ったから、その「間違っている行為を正すために(←この言葉づかいをやたらにするところが凄い怖いんだけど)」してしまったことなんだと。

しかし考えてみると、自分が考え事をしているということを彼は知る方策がなかったんだから、それを「正す」前に、「今考え事をしているから放っておいてくれ」とか言えば良かったんじゃないかと・・・・みたいな分析をしている。

こういう、「メカニカルな分析」(彼の出した例で言うと、車運転してる時に左の原付を巻き込まないように、”注意しろ!”だけじゃなくて”目立つところにミラーを付ける”というようなレベルの対策をすべきだ・・・みたいな)をすることは、

みんな、「反省してない、他人のせいにしている」というふうに捉えられてしまうが、そうじゃない。自分は反省している。反省した上で、自分が、そして自分に似た存在が今後同じ悲劇を繰り返さないためにこそ、この「分析」をしてるんだ。

っていう主張は、正直、無視できない重みを感じた。なんせ、悪事とはいえあんな体験をした「人生」っていうのは凄いレアで、その行為を正当化するわけじゃ全然ないけれども、その立場だから感じることだってあるというのは確実にあると思うし。

もちろん、こういうふうに考えること自体が、「亡くなった遺族たちに対して冒涜だ」と感じる方も多くいらっしゃると思うし、そっちの方が普通の反応だとは思うんですが、僕はこういう時に、

亡くなった人のためにこそ、この主張↓

みんな、「反省してない、他人のせいにしている」というふうに捉えられてしまうが、そうじゃない。自分は反省している。反省した上で、自分が、そして自分に似た存在が今後同じ悲劇を繰り返さないためにこそ、この「分析」をしてるんだ。

のレベルで物事を考え直さないと、結局同じことをずっと続けてしまうんじゃないか?それこそが犠牲を全く活かせてないという意味において犠牲者への冒涜ではないか?

というようなことをいつも考えます。


っていうのは、加藤氏の本に限らず、僕は結構こういう犯罪者の手記みたいなの読むこと多いんですけど、毎回犯人が、「自分の犯行動機」が、「正しく社会に報道されない、理解されない」ってことに関して凄い憤ってるし、なんか必死に説明してることが多いんですよね。

それは、ただの「自己正当化したいだけだろ、反省してないだけだろ」・・・・って取られがちなんだけど、でも、なんか僕はそこがいつもひっかかるんですよ。

加藤氏は、「仕事がうまくいかなくてむしゃくしゃしてやった。誰でも良いから殺してやろうと思った」っていう「一般的な理解」が凄く「絶対違う」と感じるらしい。

彼は、

ネットの掲示板で自分のなりすましをやった人間に対して、「間違っている行為を正すために(←また出てきたこの言葉づかい)」、お前がやった「間違ったこと」によって、自分が暴走して大事件を起こしてしまったってことを報道を通じて知らしめることで「心理的に攻撃」しなくちゃいけない!

と思って犯行したらしい。

つまり、目的は「ネットの掲示板でなりすましをやった奴を心理的に攻撃するため」に、「大事件を起こさなくちゃいけなかったからやった」んだとさ。

はあ?

と思うのが普通だと思うんですが、ただ、連続殺人とかする人は結構「こういう感じ」なことが多いので、それを「否定」して「人間らしさがない」とか、「反省してない」とか言ってても、確かに加藤氏が言うように「再発は防げない」んだろうな・・・・って思うんですよね。

要するに、多分世の中の「殺人」とか「犯罪」について、我々普通の人間が、「仕事がうまくいかない状況に鬱憤が溜まっていたからこれをやったんだろう」とか「こういう怨恨があったからこうしたんだろう」的な、そういう

「サスペンスドラマの最後で犯人役が長回しに告白するセリフみたいなわかりやすい理解」

は、

たいてい嘘なんじゃないか

ってことです。

もっとこう・・・

ようわからんけど気づいたら殺してたとかね。ようわからんけどそうなっちゃったとかね。

そういうものなんじゃないかと。

で、こういうふうに言うことが、「責任逃れ」だとか「言い訳」だとか「反省が足りない」ってことになっちゃう世の中なんだけど、でも「こういう考え方」から全てを組み直さないと、決して解決はできない「構造的問題」がここにはあるんじゃないか・・・って僕はいつも思ってるんですよ。


随分昔(2007年なんでもう5年も前になりますね)に、ロックバンド「クィーン」の、「ボヘミアンラプソディ」っていう曲について書いたブログ記事があるんですけど。

ボヘミアンラプソディって凄い感動しちゃうんですよ僕。なんか、やっぱクィーンって凄いなって思う。


歌詞は、最初突然なんかに巻き込まれて茫然自失みたいな感じの状況が語られたあとで、ピアノのアルペジオのところがこんな感じなんですよ↓(倉本圭造訳)

お母さん 僕はさっき人を殺しました。
あいつの頭に銃をあてて、引き金をひいたら死んだよ。
お母さん 人生はまだはじまったばかりなのに 僕はもうメチャクチャにしちゃった。
ああ、お母さん・・・・
お母さんを泣かせるつもりじゃなかったんだよ。
明日の今頃になって僕が戻らなくても、
アナタの人生をそのまま続けて。そのまま続けて欲しい。何もなかったかのように。

でさ、この「あいつの頭に銃をあてて、引き金をひいたら死んだよ( Put a gun against his head, pulled my trigger now he's dead)」の、

「凄い他人事な感じ」

がね、なんか、凄い「何かの真実を伝えている」って感じがするんですよ。毎回聞いてて。

「銃で撃って殺した」じゃなくて「あいつの頭に拳銃をあてて引き金を引いたら死んだ」なんですよね。

でさ、

日常の「とりあえずの抑止力」的には、「なに人のせいにしてんねん、お前が殺したんやんか」って言う論理が必要

ですよね。これはもう絶対。他人事じゃないだろお前がやったんだろと。

ただ、それ”だけ”で終わってしまうと、結局この問題は永久に繰り返されるんじゃないか・・・って、2007年のブログでも言ってますけど、今でも僕はずっとそう思ってるんですよね。

要するに、「自制心で止められること」なら「止めればいい」んですよ。

ただ、「自制心では止められないように育つ人間」が社会の中に一定数生まれてしまっているという現況に対して、「根底的な解決」をするには、「個人の奮発による自制心」によって抑止するんじゃなくて、むしろ

「自制心なんていらない」形で「そもそもそういう状況が起こらないようにする」っていう形での「解決」が必要

だと思うんですよ。


で、2007年のブログの時から一貫して思っていて、で、結局今の僕の活動に繋がっている解決策はね、結局社会の運営の仕方、経営の仕方、その他もろもろをね、

「もっと帰納的な基準で」(”演繹的”でなく)

行うようにすることが、根源的な解決のために絶対必要だと思うんですよ。

「ビジョナリーカンパニー」っていう超凄いアメリカの経営書がありますけど、3冊ある中でも「2」が一番凄いと僕は思ってるんですが、それに、「圧倒的な飛躍を遂げた企業の共通点」として、

「何をするかを先に決めるんじゃなくて、誰と一緒にやるかを先に決めるんだ。そして、”何をするか”は、その”メンバー”の適正によって

”後から”

決めるんだ。」

っていう研究結果が出てて、僕はこの本をマッキンゼー時代にプロジェクトの合間に読んで、あまりに当時の切実な疑問に光がスパァーって当てられた気がして、「そうや!これや!」って思って深夜のオフィスでひとりで泣いたってぐらい本当にそうだと思うんですよ。

前に、「コンサルにできること、できないこと」っていう記事を書いた時に触れたように、今の「経営レベルの意思決定」っていうのは、「内在的な事情」よりも先に「外形的な分析」の方が先行しすぎてるんですよね。

それは、

結局「実際やる人」じゃない、「他人ごとな人」が、権力を握りすぎてるから

なんですよ。

要するに、「本当にその人自身の価値を引き出す」とかには、「ちょっと小賢しいだけじゃなくて凄い洞察力がいる」んだけど、「こっちの方がトクですよ」程度だったらある程度小賢しければできちゃう・・・・っていう事情があるんですよね。で、そういう「ちょっとサクサク記号的な概念を回せる人間」に、今の社会は権力を与えすぎてるんですよ。

でも、それぞれ全然違う人間、カイシャ、地域、国に対して、その「違い」を一切考慮せずに、「こういうのが儲かりやすい」とか言っても、結局それが「できるかできないか」っていうのは「その人の適正」によるんですよね。

だから、いわゆる3C「自社・競合・顧客」をバランス良く分析するって言う時に、一番深く掘り尽くさないといけない「自社」の部分の掘り下げが全然「他人事」なんで、結局「誰しもにあてはまるようなこと」しか言えてない・・・・みたいな状況になってるんですよ。程度の差はあれどね。

つまり、

「ありものをどうやって活かすか」「今あるコレを最大限活かせる方向性は何か」

っていう問いが、もう全ッ然!足りてないんですよね。

その「コア」的な部分から帰納的に貫き通していけば、色んな状況が噛み合い始めて自然に右肩上がりに好転させていけることができるのに、結局「万人向け」なことしか言えてない状況になってると、次々変わる状況に対して必死に考えて必死に騒いで、必死に対応するみたいなことをやり続けないといけないんですよ。

そういうことをするとね、「頭さん」はいいんですけどね。常に「暫定仮説にすぎない」とか言ってるだけで、実際に「骨身にしみるほどそれをやりこむ」みたいなことはせずに生きていられるんですからね。

でも、「体さん」の方の役割の人はたまったもんじゃないですよね。

そこが、最大の問題なんですよ。

もちろん、変化の激しい時代だから・・・・っていう要因はありますよ?でもね、結局その「問題」に対して、「演繹的」に向かうのか「帰納的」に向かうのかっていう根本のところの様式感が間違ってるからね、「どんだけ頑張っても永遠に間違い続ける」みたいなことになってるんですよ。

つまり、社会の意思決定が、「演繹的」になりすぎて、「生きている生身の人間の本質的事情」を活かすことになってない、トップダウンで押しつぶすだけになっているから、社会の端っこに、「自分の自然性をどこにも発揮させる場所が無い」っていうような不幸が「暴発」することになってるんですよね。

大事なのは、とりあえず「市場も顧客も見た上で」、でも最終的に「自分」ベースで、「自分の中にあるもの」「不可避に存在するもの」が「最大限活かせるような方向」へと動いていくことなんですよ。

で、社会全体が、そういうふうに「帰納的に運営」されるようになったら、そこから絶対「今の平均値化されてしまった市場にはなかった価値」が還流して新しい需要が生まれてくるようになるし、「自分の自然性」を圧殺されて行き場がなくなってどこかで暴発させたり逆に自殺したり・・・・っていう人も減るんですよ。


で、ここまでだと、「人それぞれの価値が認められる世の中にしましょう」的なことを言ってるだけに聞こえるかもしれないですけどね、でも僕はそういうことが言いたいんじゃないんですよ。

そういうふうに「帰納的」な戦略を真剣に模索するようにしていくほうが、

経営戦略として”効率的”

だし、

圧倒的に”経済合理にかなっている”んだ!

っていうことが言いたいんですよ。いやマジで。

なんでかっていうと、そこの回路がバチンと繋がりさえすれば、

「無慈悲な大多数の市場と、焼け石に水の良心」みたいな現状とは、圧倒的に違うレベルで人類全体が幸福になれるから

なんですよね。

「小さな一歩」でもいいんですよ。でもその「小さな一歩」が、ちゃんと「経済合理的」ってことになりさえすれば、全世界を緊密に結びつけて不幸を大量生産しているグローバリズムシステムが、一転して

「みんなのほんとうのさいわい」の大量生産マシーン

になるからなんですよ。

日本は、まさに、その「ラストワンマイル」を掘りぬくことが、今まさに求められてるんですよ。

結局ね、「演繹的」に概念からのトップダウンで押し付けた経済なんて、どんどん「本当に欲しいもの」じゃなくて「とりあえず業界的に売りやすいもの」ばかりを商品化するようになってしまうんで、そりゃあ「需要不足」になるよって話なんですよね。


みたいなことなんですよ。

だからこそ、徹底して「個別の特殊事例」から、「帰納的」に全てを組み上げていくようにしなくちゃいけない。

「厳しい競争を勝ち抜くために、これをやんなきゃいけない、あれもやんなきゃいけない、あの国はこうやっている、かの国はこうやってる、あなたそれのどれもやってないですよね、あーあ、ダーメなんだー、そんなんじゃ絶対ダメですよ。ほら、文句言ってないで、あれとこれとそれとあれとそれとこれをもっとシッカリやってくださいよ!そうじゃないとあなたなんかダメ人間ですよ!」

っていう発想じゃなくて、

「自分たちなら大して苦労感もなくできるんだけど、他の国の人がやろうと思ったらスゲー大変になっちゃうようなことで、しかもそこそこのお金を払ってまで欲しいと思ってくれる人が結構いて、しかもやればやるほど彼我の差が開いてきてさらに無敵になれるような方向性っていうのはどういうものだろうか?」

っていうことを、もうあらゆる英知を結集してとにかく必死に考えなくちゃいけない。

はっきり言ってね、前者↓みたいなのはね、「知性」とは呼べないんですよ。頭良さそうに見えるだけの一番タチの悪い根性論って奴なんですよ。


「厳しい競争を勝ち抜くために、これをやんなきゃいけない、あれもやんなきゃいけない、あの国はこうやっている、かの国はこうやってる、あなたそれのどれもやってないですよね、あーあ、ダーメなんだー、そんなんじゃ絶対ダメですよ。ほら、文句言ってないで、あれとこれとそれとあれとそれとこれをもっとシッカリやってくださいよ!そうじゃないとあなたなんかダメ人間ですよ!」


でもね、今の世の中、

「厳しい競争を勝ち抜くために、これをやんなきゃいけない、あれもやんなきゃいけない、あの国はこうやっている、かの国はこうやってる、あなたそれのどれもやってないですよね、あーあ、ダーメなんだー、そんなんじゃ絶対ダメですよ。ほら、文句言ってないで、あれとこれとそれとあれとそれとこれをもっとシッカリやってくださいよ!そうじゃないとあなたなんかダメ人間ですよ!」

こういう↑、知性の欠片もないような言論が「知性」だと誤解されてるんですよね。

これが社会の成り立ち全体において起きてるんですよ。

で、僕はそれの何が許せないかというと、そういう人たちの存在のせいで、「戦略」だとか「経済合理性」だとか、本来もっと「人間の本当の幸いのためにあるべきもの」たちまでが、ネコソギに悪者にされてるってのが許せないんですよね。


・・・って、興奮してきてしまった(笑)。

まあ、内容的にはブログでも著書でもいつも言ってることなんで、毎回どこまで「フルセット」書くべきなのか迷ってしまうんですけど。

とりあえずは、「日々の経営」に、こういう「帰納的に骨太な話」を「どうやったら反映させられるようになるのか」っていうような具体的手順とかね、「日々のジャッジ」と「大きな話」を併存させるための組織のあり方とかね、そういう話は、ぜひ「21世紀の薩長同盟を結べ」を読んでください。プロフィール欄や自己紹介ブログ記事読んでもらったらわかると思うけどこの10年超苦労して追求してきてやっとまとめた本なんで。

「本質的なこと考えよう!」って言ってるだけじゃなかなか組織に実装されていかないですからね。色んなプレイヤー同士の本来的な連動性を、

「交通整理」

してやるだけで、日々のサクサクした決断も、みっちりつつき回す密度感も、大所高所から骨太な方針を作り出す深い思考も、

「全部組織の中に吸い上げる」ことが可能になる

んですよ。

その「具体的方法」について書いたのが、「21世紀の薩長同盟を結べ」なんですよね。

で、もういっつも同じこと言ってますけど、「演繹的・概念的な物事の見方・グローバリズムシステム的なもの」と、「現地現物のリアリティ」の間のラストワンマイルを、ちゃんと「すり合わせ」で解決できる社会スキルを日本の「職場」が身につけていったらね、マジで日本は「世界の希望」になれるんですよ。

だからこそ、それを真剣に突っつき回すことが最大の「経営課題」なんですよね。細かいことで喧嘩してる場合じゃない。


これは、日本国内だけの事情じゃないんですよ。全世界的に、そしてグローバリズムのご本尊アメリカ本国だって、切実に必要としている「次世代への扉の鍵」なんですよ。

関係ないようで凄い関係ある話をすると、最近、アメリカで一番売れてるバンド「FUN」の「We are young」って曲、この前日本の民放の朝の番組に出てるの見てから結構ハマってるんですけどね。

これもユーチューブに公式チャンネルがあったから貼るぜ。(っていうか事務所の名前が”ラーメンで動いてる”ってなんだ 笑?)

このバンド、「クィーンとフレディーマーキュリーの再来」とか言われてるらしい。

確かにこの曲は、テーマ性が「ボヘミアンラプソディ」に似てるっていうか、「ボヘミアンラプソディそのもの」って感じがするんですけど。

これ、大体の歌詞を訳すと、バーでこの前まで彼女だった女の子が泣いてて、でも別れちゃったから声もかけらんなくて、となりにはサングラスかけた変な男が「わかるー、わかるよー●●ちゃーん」とか言ってるみたいな状況(笑)からはじまるんですよね。

最初「scar」とか言ってるから、DVとかで文字通り傷つけちゃって、それを別の男が「そんなひどい男別れちゃいなよー」って言ってるのを見てるのかなと思ったんだけど、色々なサイトを見てると「心の傷」的な意味らしいですね。

で、その事に思い悩んで、飲みまくって、わけわかんなくなって・・・・ってところで一気に音楽のトーンが変わって、

俺らって若いんだからさ。
もうマジで今夜、世界中に火をつけてやろうぜ!
で、太陽なんかよりもっと、もっと輝くんだ俺たちは!!!

って、超ヤケっぱちなサビの繰り返しが続く・・・っていう曲なんだけど。

その「前半」→「後半」の展開の仕方が凄い似てる。

ボヘミアンラプソディも、ウィーアーヤングも、両方とも、「自分自身の自然性」のままに生きていたら、「抜き差しならない状況」に陥ってしまって(まあ、抜き差しならなさのレベルが全然違いはするが)、で、そこで行き止まりになったところの苦悩・・・・っていうのを前半で歌ってる。

で、後半には、両曲とも、「そうはいってもさ、なんか・・・・なんか・・・・」みたいな「運命的な行き止まり感」みたいなところを、「ヤケっぱちな祝祭的に暴走する曲」によってガツーンと展開させてシメてる・・・・ってところが似てるんですよね。

まあ、だから「クィーンとフレディの再来」と言われているんだと思うんですけど。


でね、この曲がアメリカで今一番売れてるっていうのもね、この前のバットマン新作映画「ダークナイトライジング」についてブログ書いたのと一緒でね。

結局、「ガチガチに整備されたシステム」の網目が、「人間の本当のリアリティ」から遊離しすぎてて、「みんなで我慢大会」みたいになってるんですよね。

だから、「自分たちの本来的な良さ」をストレートに出すことがどこの国でもできずに、「自分はこれだけ無理をしたんだからお前も無理をしろ」的な叩き潰し合いをしてるんですよ。

そしたら、「余裕のある人」は、頑張って「無理」をして「俺は悪くない」って言えるけどね、「余裕のない位置」に生まれた人は、もう暴発するか自殺するかしかない・・・・って状況なんですよね。

で、アメリカで一番売れてるバンドやら今年一番の話題作ハリウッド映画やらが、「同じそのテーマ」を扱ってるってことはね、アメリカ人だってこの「システムにがんじがらめになってる状況」は嫌で嫌でたまらないんだってことなんですよ。

ただ、だからといって、アメリカは引くに引けないからね。そういう「責任」を負ってるんで。

システムの融通性が足りないのが問題だからといって、犯罪やテロや戦争や核開発を容認するわけにもいかないですからね。

とりあえずの抑止力として、その「個人」を裁いておいて、「他人のせいにするな、お前の責任だろ」って言っておくことは大事なんですよ。そして、アメリカがとりあえずの「抑止力」として、この「システム全体が崩壊しないようにする」「自縄自縛の苦しみを負ったとしてもそれを維持する」ことは彼らの使命ですから。

だからこそ、日本がそれを「補完」してやらないといけないんですよ。

いつまでも、「アメリカの暴虐な部分」をあげつらって「被害者ヅラ」してる場合じゃない。

アメリカを否定するってことは、その「否定する存在」が、「アメリカよりもフェアで世界中で通じる公正っぽいシステム」を「自分で作る責任」を負う覚悟がないとダメなんですよ。

だからこそ、「アメリカのダメな部分をあげつらう」んじゃなくて、「そうなってしまっている不可避な事情」を「理解してやる存在」が今の世界には切実に必要なんですよね。

で、それを「補完」するように動いてくれる存在が必要なんですよ。

いつも言ってるように、それができるのは日本だけですからね。

それを求めているCカスタマーは潜在的には世界中に、どんなC競合よりも日本にその適正があり、そしてC自社の強みを最高に活かせるテーマがそれなんですよ。

その方向に日本が進み始めた時に、過去20年間グダグダにどちらにも進めずにいた日本のあり方こそが、「その先」のための無意識の深慮遠謀だったんだ・・・ってことが世界に明らかになる瞬間なんですよね。

そういう方向に行って、アメリカを補完してやって、そして後腐れなくアメリカに(今度こそ絶対)勝つ!!

その方策について書いたのが、「21世紀の薩長同盟を結べ」なんですよね。

いやもう、ほんと、勝つ!今度は絶対勝ってやりましょう。後腐れなく。

1945年以降誤解されまくって一番の邪悪扱いされ続けてきた、自分たちの「自然性のそのままの延長」こそが、「これからの人類の希望なんだ」っていう形を提示することによって「勝つ」。

それが一番の「英霊への鎮魂」ですよ。僕はそう思ってます。人種差別みたいなこと言ったり過去の罪が”全く(捏造には冷静に対処しましょう)”なかったとか言うのは、逆に彼らの犠牲を貶めているだけだと思います。

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今更ですけど自己紹介を・・・その1.副題『原生林のような豊かでタフな経済を目指して』

このページはよほど倉本圭造に興味がある人のためのありえないほど長い自己紹介エッセイなので、サクッとコイツ誰なんだ?ってことが知りたい場合は、私のホームページの「Who?」欄をお読みください。(向こうにしかないコンテンツもありますし、とりあえずコンパクトに全体像がご理解いただけると思うので、かなりご興味を持ってくださっている方も、先に向こうをお読みいただけるとご理解しやすいように思います。その後以下の”長文”へと戻ってきていただければと)







最近出版の依頼を下さった人がいて、”出版社の女性社長さん兼編集者”としてギョーカイでは結構有名な人らしいんですが、「21世紀の薩長同盟を結べ」本体を読むまで、プロフィール欄を読んでも「???」って感じだったと言われたんですよね。

その「???」になったっていう文章は、本の著者プロフィール欄に記載されているコレなんですが。

1978年神戸市生まれ。兵庫県立神戸高校、京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感、その探求を単身スタートさせる。まずは「今を生きる日本人の全体像」を過不足なく体験として知るため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、時にはカルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働くフィールドワークを実行後、船井総研を経て独立。「個人の人生戦略コンサルティング」の中で、当初は誰もに不可能と言われたエコ系技術新事業創成や、ニートの社会再参加、元会社員の独立自営初年黒字事業化など、幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。星海社新書より『21世紀の薩長同盟を結べ』発売中です。
で、「なるほど、意味わからない・・・かもしれないな」と思ったんで、それについて、一度まとめた文章を書いておいたほうがいいのかな・・・と思って、これから書きます。

『逃げ恥』が教える「自分らしく生きる」の本当の意味

あけましておめでとうございます。昨年の私は普段の仕事的にはそれなりに一歩ずつ経験積んで進歩してこれた感あるんですが、いかんせん本出したりネットに上げた文章が広く読まれて・・・という方向での活動としてはなんだか何もやってないも等しいような印象になりそうで、正直ちょっと焦ってもいます。

ただ今は、焦って本やブログを書いても、よくある「右や左の紋切り型」にしかならない難しい状況に世界がどんどんなっていくなあと感じていて、そうじゃなくて「個別の事例」と仕事で向かいあう中から立ち上がってくる何かを信じて積んでいきたい気分だというか・・・ま、もうこの歳になると自分はマイペースにしか生きていけない人間だってところは骨身にしみてわかっているので(笑)、相変わらずそういうペースで今後もやっていきますので見捨てないでたまに気にかけてやって下さい。

ちなみに、ブログ再移転しました。ブックマークされてる方は変更をお願いします。

新ブログトップページ↓
http://keizokuramoto.blogspot.jp



で、久しぶりのブログ更新、しかもブログ移転一回目・・・がテレビドラマの話題ってなんてミーハーなって感じもしますが、2016年最大の(たぶん)ヒット作となった『逃げ恥』が超よかったので、年末だしそれについて書きます。

全体的に言って、「自分らしく生きる」っていう現代的に超超超言い古されたことについて、ちゃんと一歩ずつ考えて一歩ずつ実現していかなくちゃね!っていう気持ちになったところが凄く良いドラマだったと思ってます。夫婦で見てて毎週二回は泣いてました。

このブログはそういう方向で、

・『逃げ恥』のどこにこんな感動するのかって話
と、
・それはある種「運命へのニーチェ的向き合い方」なんじゃないかって話(より正確には”一連の実存主義哲学”)
と、
・「他人の人生を生きないで、自分の個別性(自分らしさ)を生きること」っていう「言い古されたこと」を私達が本当にちゃんとやりきるにはどうしたいいのか?
というような話に広がっていく予定です。

日本から老害を一掃して残業を減らす唯一の方法

なんか挑戦的なタイトルになってしまいましたが、ただ最近「老害」っているんだよなァ〜と物凄く実感することがあって、その詳細をそのままは言えませんがそのやるせない思いをより広くて皆様と共有できるテーマとして昇華して書いてみたいと思っているんですが。

あなたは、「老害」って言葉、キライですか?好きですか?

私は最近まであまり好きではなかったです。老害扱いされてる人にも、うまく使ってあげればそれなりの価値やら色々あるんだぜ・・・と言いたい気持ちが結構あって。

ただ、そんなこと言ってると「老害さん本人」が「自分の老害性」を一切意識せずにノウノウと暮らし続ける反面、困ったことにその「老害さん」は権力持ってたりするのでその集団全体の適切な運営がどんどん滞り、直接的には「ヤル気のある若手」さんが、そして結果的には「その組織の人全員」が非常に困った状況にみんなで追い込まれていくことになってしまう。

物凄く大枠での言い方をすると、過去20年にわたる日本の苦境はこの「老害さんをどう扱うか」について、思い切りの良い諸外国のように何のテライもマヨイもなくボコボコに権力を奪って放逐していくような思い切ったマネジメントができなかったから・・・と言ってしまっても悪くないかもしれません。

ただね。現状の日本は、老害さんたちを腫れ物に触るように扱って捨てずにいたので、社会全体が「トランプvs反トランプ」みたいにどこまで行っても平行線な対立に落ち込んだり、スラム街がどこまでも悲惨なスラムになっていくようなことは避けられたり・・・というプラス面もあったんだろうとは思います。アメリカに比べたらまだ貧富の格差もまあマシなレベルに留まっている。

つまり、なぜ日本が「老害さん」たちを諸外国のようにはボコボコに斬ってしまえないかというと、「その老害さんが代表しているものの中に自分たちの良さの根幹も混ざっている」からだと言えるでしょう。