「ヤンキーさん」たちは、実は「インテリさん」たちに凄く「期待」している。それに答えてこそ日本の「インテリ」の存在意義ではなかろうか。

最近、雑誌・ネット・テレビ・その他のあちこちで、日本の「ヤンキー(地元志向で仲間との絆を大事にする・ノリと気合で生きるイオン大好きな地方民で・・・)」さんたちについての話題が取り上げられているので、遅ればせながらそれに参戦します。

こういうのって、やはり「ヤンキー」さんたちを「全的に持ち上げる」「全的にクサす」のどちらも良くないですよね。

彼らのあり方が、「現代社会のせせこましい競争意識から逃れて自分たちらしく生きていくあたらしい文化」であるという主張はある程度正しいだろうし、一方で、日本の「中流」の崩壊、アメリカ型の超格差社会への第一歩ではないか・・・という危惧もあながち間違いではないかもしれない。

インテリの家庭に生まれて中高から超進学校で育った人間にはわからないだろうが、「彼ら」のような人たちは昔から変わらずいたのが、最近やっと可視化されただけだ・・・という指摘もある。

あと、「マイルドヤンキー的」な行動をしているように見える人も、実際付き合ってみると一緒くたに「貧困」「反知性主義」ではないというブログ記事を読んで、これも私の体感からして凄くなるほどと思いました。



私は、それなりに「インテリ」な育ちをしているはずだし俺はインテリだぜ!と自認している人間なんですが、「インテリな理屈が通る社会」の外側のリアリティを繰り込むような「経済のあり方」について一貫したビジョンを作りたいという思いから、「ヤンキー世界」にかなり深入りして働いていたことがあります。

物凄くブラックかつ、詐欺一歩手前の浄水器の訪問販売会社に潜入していたこともありますし、物流倉庫の肉体労働をしていたこともありますし、ホストクラブや、時には新興宗教団体に潜入してフィールドワークをしていたこともあります。(なんでそんなアホなことをしようとしたのかは話すと長くなるので詳細はコチラをどうぞ)

で、そういう体験から今回の「ヤンキー論壇」について思うことは、

実は彼らは「インテリ」さんたちに「物凄く期待」している

ってことです。

彼らは確かに大都会に出て行って(あるいは生まれ育ち)、「上」を目指して生きている人たちと隔絶したような文化を生きているし、時に「敵視」しているようにも見えるかもしれない。

そして日常的な彼らの行動パターンやセンスは、

・「外の世界の広い繋がりを拒否して地元に引きこもる」
・「仲間と感情的な絆を重視し、ノリと気分を“知性”に優先させる」

という形で、「都会で生き、グローバリズム世界における“上”を目指して邁進する人間」とは

全然わかりあえない「異人種」

なように見えます。

しかし、実際に彼らと触れ合ってみて、一緒に働いて・・・というようなことをやって心を開いて接してみると、

実は彼らは「インテリ」さんたちに「物凄く期待」している

んですね。

昔“とんねるず”が、「一番偉い人へ 俺達は 今何をするべきか?」という歌を歌っていたと思うのですが、

「ああいう期待」

は、実は物凄く日本の「ヤンキーさん」たちの中にあるんですよ。

「俺たちにはできねーことを、ちゃんとやってくれよな!協力できることがあったらするぜ!」

というような気持ちは凄くあるんですよ。

そこの部分での「感情的な繋がり」を失わずにいられれば、日本は経済のダイナミズムを生み出すための「ある程度の格差」を社会の中に容認しつつ、アメリカのように「完全に分断してしまった社会」にもならずにいられると私は考えています。

いわゆる「教育格差」があっても、その気になって「階層上昇」を目指すメンタリティの親がいれば勉強すりゃ大丈夫・・・という「ルート」さえ用意されていれば、ある程度親子間の学歴格差の保存・・・などがあっても、「彼らが幸せに生きて」いられさえすれば問題はないはずです。

要するに、「役割分担」ですからね。



で、日本の「インテリ」さんたちにとって、「ヤンキーさんたちとのゆるやかな共感関係」を維持したまま、ちゃんと「グローバリズム最前線的な知性」を体現して生きようとしていくことは、デジタルな理屈だけを無理やりゴリ押すことで世界を制覇しようとして、後から色んな人に恨まれてしまう「アメリカンな存在」の通用性が徐々に減衰していっている現代の世界において、

「本質的な優位性の源泉」

と言ってもいいはずです。

つまり、「日本の中のヤンキーさん」たちというのは、「日本の中のクリミア半島情勢」なんですよ。(ウクライナ情勢の混乱と、今回の突然の日本の“ヤンキー論壇”の隆盛は“本能的”な集合無意識のレベルでは共鳴しあっているように私は考えています)

そこで「知性」と、「生身に生きるあらゆる人達」が完全に分断されてしまって一切の共感関係もなくなってしまったような「文化」の人たちは、世界における「文明社会の外側の“野蛮人”扱いされる人たち」とのコミュニケーションも出来なくなってしまうのです。

しかし我々は、半分“野蛮人”の血が入ってる民族ですからね。

「欧米的な知性主義」の無理やりさへの反発も体感としてわかりつつ、でもその「欧米的な知性主義の運用」も行いながら生きている・・・それが「日本のインテリさん」の大部分の正直な感覚ですから。

なので、「ヤンキーさん」たちへのホノカな共感関係を持ちつつ、そこと「グローバリズム的な知性の運用」との間をシームレスに繋いでいく存在に、「日本のインテリさん」はなろうとしていくべきだし、そのチャレンジは、「自分たちの積年の鬱屈」を解消するための方策として優秀なだけでなく、「自分たちこそが一番うまくやれる分野」であり、かつ「どこにも統一基準がないGゼロの時代」に突入していく世界において「みんなが待ち望んでいるニーズ」がある分野なんですよね。

そしてマニアックな話ですけど、「客観的に認証された知性」というものは「所詮その時代の最善仮説にすぎない」ので「生身に生きている人間全員」というものの「全集合的性質」とはギャップがあって当然・・・という風に考えれば、こういう「日本のあり方」こそが本当の意味で「知性主義」に値するモードであるとすら言えるわけです。

そういう部分を利用して、

「アメリカ的にゴリ押しの世界制覇」ではなく、「グローバリズムが取りこぼす野蛮人性」との共感関係を維持したまま勢力を伸ばしていく戦略」

のことを、私はこれから日本が取るべき「項羽と劉邦作戦」と呼んでいます。

ウクライナ情勢が紛糾するに従って、「野蛮人性との共感関係を完全に切断」したようなデジタルな存在の通用性はどんどん減っていきますから、だからこそ「わけわからないものまでちゃんと包含した懐の深い知性」の出番だって出てきます。

それこそ、日本がこれから活躍する道になるでしょう。

そういう視点から、「日本のインテリさん」のあなたは、「日本のヤンキーさん」たちを、「ただ見下して断罪する」のでもなく、「彼らこそこれからの最高の生き方」などと過剰に持ち上げることもなく、「彼らとの共感関係を維持しつつ、自分たちだからこそできる知性の運用」について考えるように、していきたいですね!


(関連記事)
・「項羽と劉邦作戦」についてはこちらの記事をどうぞ。

・「客観的知性」をアメリカよりもフレキシブルに使えるようになるには、ある程度「偏差値主義」みたいなのもあったほうが日本の場合は良いのではないか・・・という記事がこちら

・ウクライナ情勢の変化からの「Gゼロの時代」「新・東西冷戦の時代」の混乱の中に、むしろ日本の大きなチャンスがあるという記事がこちら


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