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ダメ政府しか持てないのは自分にも責任があると考えてみよう

これを書いているのは2月1日の早朝なんですが、朝起きたら後藤健二さんの殺害情報が流れていて、とても悲しい気持ちになりました。

人が一人や二人死ぬニュースなんていつでも腐るほどあるのに、一個の事件に感情的に引っ張られるのってどうなんだ?っていうシニカルな見方もあるんですが、この人質事件は始まった直後から凄く嫌な気持ちになっていて、ネットで適当なことを言うネタにするのは辞めようとか最初は思っていたぐらいで。発生してからずっと、仕事をしていてもご飯を食べていても寝ていても心のどこかでジットリと重い気持ちになっていました。

フランスのテロ事件についてもそれなりに重い気持ちになりつつ軽口のネタにしたりはしてたので、なんか自分の中でのここまでの「扱いの違い」はなんなんだろう?と考えずにはおれません。

それはいわゆる「同胞愛」的な心理的コミットの影響なのかもしれません。

そういうのって透徹した理性からすると単なるエゴ(外国で飛行機が落ちた時に、ニュースキャスターが嬉しそうに乗客に日本人はいませんでした・・・という話を聞いて僕は何を思うべきだろう的な)とも取れますが、でもそう思うことって俺は大事だと思う・・・と言い訳しておきます。あらゆる人が万人に平等な心理的コミットをしようとするよりも、それぞれの人がそれぞれの人に近い心理的コミットをしてくれる人がいる・・・という世界の方が、個々に対するケアが薄まって汎用品化しなくて済むように思うので。

あともう一個ショックを受けていた理由は、人質事件が始まった時点で、二人が生きて帰れなそうな予感が私は妙にヒシヒシとしていて、内輪ではよくそう言っては、「まあ、この予感が外れて帰ってきてくれたらいいとは思ってるんだけど」とか言ってたんですよね。そういうのが妙に、気づいたら既に死んでいた時点でのあまたのニュースを読むよりも深刻な、目の前で断頭台が落ちるのを今か今かと見物させられているような気分になっていたんだと思います。

ともあれ、後藤さん、湯川さんのご冥福をお祈りします。



今回の事件に対する安倍政権の対応には、色々と批判できる部分もあったのかも、と思います。

何かが起きるたびに後手後手にまわって、

「国家安全なんちゃら」とか「危機管理なんちゃら」を招集し、情報収集をして指示をしました

・・・的な公式発言の中に、硬直化したお役所仕事の言い訳的なコケオドシの匂いを感じた人は多かったように思います。なんというか、日本人が社会生活をしていると常にどこかで直面する(してなければあなたは幸運)、「想定外の事態にぶつかって機能不全になった組織」ってこういう感じの発言するよな・・・っていうような感じ。

本来安倍政権のせいじゃない部分も大量にあるであろう「こういう事件が起きたこと」自体についてなんでも安倍政権のせいにして、日頃抱えている自分の政治的ポジションを披露するネタにする・・・のは個人的にどうかと思うんですが、「事故後の対応」においてもっとできたことがあるんじゃないか的な批判はあってもいいし、当然あるべきことなのしれません。

しかし、感情的にそういう気持ちが湧いてくる直後に、「本来政府ってそういうものだ」っていう考え方もできます。

ここでありとあらゆるパイプを柔軟に駆使してハリウッド映画ばりの大立ち回りを演じてくれる政府を持てている国が世界にいくつあるだろうか?と考えると、まあそれほど多くはなさそうです。特に人口が1億人を超えるぐらいの国ではね。

それに、人質事件はたとえ解決してもあからさまに身代金払ったとかは言えない難しい交渉なので、関係者がバンバン増えると余計に難しくなる・・・という事情もわかる。



ともあれ、そういう色んな事情はあるにせよ、安倍政権や安倍政権がリードして動かそうとしている国の動きには、日本国民の「だいたい半分以下」の人間の「良いところ」しか吸い上げられていないのは確かです。これはこういう「国自体の動き」だけじゃなくて、経済レベルでもそうで、それはなんとかしなくちゃいけない。

でもその「なんとかしなくちゃいけない」ってことについて、「アンチ安倍」側の人も責任感を持ってもらわないとこれ以上前には進めないんじゃないでしょうか。

安倍政権には色々とダメなところがある。批判されるべきところが沢山ある。それは正しい。

が、しかし。

日本人が結局安倍政権しか持てていないことに対する責任は、アンチ安倍のあなたにもある。

そうでしょう?それが民主主義国家ってやつですよ。

「そのこと自体」を対象化して、で、真剣に対処方法を考えるってことには誰しもが責任を持たないと。

ある意味「アンチ安倍」勢力は「安倍政権以上に頼りない」と日本人の集合無意識から思われてるんだ・・・っていうところに悔しさを感じて、「なんとかしなくちゃ」って思わないと。

「アンチ安倍」のあなたが「安倍政権」のそういう部分と向き合うことは、「イスラム国」的な存在とちゃんと向き合って生きていく責任を取るってことでもあるんですよ。

なぜそうなのか?そしてどうしたらいいのか?どんどん難しくなる国際情勢における日本ならではの貢献とは何か?については、数日前に真剣に書いたこの記事を読んでいただければと思います。

単なる欧米社会の受け売りをしてそれ以外をけなしていればいい簡単なお仕事・・・ではなくて、欧米人・非欧米人を問わず本当のこの世界に生きる人間にとってフェアな考え方は何だろうということを、オリジナルにゼロから考えていく作業が、今日本人のインテリには切実に求められているのです。



ともあれ、私はこういうことが、本当に「リベラルの良心」を持っているならば避けて通れない問題だし、これについて真剣な議論が盛り上がっていかないと結局誰のためにもならない20世紀的罵り合いが続くだけに終わってしまうんだ・・・という切実な問題意識があって、随分前から本を出したりブログを書いたりといった問題提起を続けてきてるんですけど。

「こういう話」に一歩でも踏み込んだ時の、「リベラルな人たち」の対応の冷酷さ・無関心さには唖然とさせられることが多いです。

この記事はネット上の色んなところに配信されるわけで、中でも朝日新聞も関わっているハフィントン・ポスト日本版には反応を楽しみに出しているわけですけど、「こういう話」に一歩でも踏み込んだ記事は明らかに凄い冷遇される。

ハフィントン・ポスト日本版は、トップページからブログ記事へのリンクはなくて、公式ツイッターで宣伝されない限りは流入がない構造なんですが、毎回「こういう話」に踏み込んだら当然のように無視されます。たまたまですよ・・・と彼らは言うかもしれないが、「明らかに毎回」この領域の話になると無視されるんですよ。

一転して、明日の世界最大級のスポーツイベントスーパーボウルをアメフト初心者が楽しんで見る方法・・・みたいな、ある意味毒にも薬にもならない記事だったらホイホイ取り上げてくれるんですけど。

まあね、所詮こういうのはメディア主催者の自由ですから、好きにしてもらったらいいんですよ。でもリベラルメディアの志みたいなのを高らかに歌っておいて、それはないんじゃないの?という行き場のない思いが、ここ何年かこういうことがあるたびにヒシヒシと私の中に積み重なってきています。

別に確固たる政治的スタンスがあって冷遇してるんじゃなくて、なんとなく空気読んで、「よくある話」以外のトーンだったら「こんなのおおっぴらに出したら批判されるかも」的な感じなんじゃないかと思うんですけど。

池上彰氏が朝日新聞の例の慰安婦問題報道での失態について、「政治的主張というよりただ事なかれ主義でこうなっただけじゃないか」という話をしていましたが、まさに「そういう感じ」を、編集部の方と話していると雰囲気的に感じる部分があります。

しかしね、そういう態度でいればいるほど、広い範囲から見た「リベラルへの信頼」は根っこのところから毀損していくんですよ。あなたがたの深いところにある「矜持」も傷ついていっているはずだ。

安倍政権そのものや、特に「安倍政権の熱心な支持者の中にいる特有の人たち」にはかなりヤバイ要素が含まれているので、それを批判すること自体は凄い大事なことかもしれない。もうこれはどう頑張っても擁護できないレイシストだな・・・って人もたくさんいますからね。

が、今リベラルがしなくちゃいけないことは、というか「現状の現象に対するマトモな責任感があるリベラル」ならば、その事自体を一歩メタな視点から見なおして、で、「今やるべきこと」ってのが切実にあるとヒシヒシと感じる状況になっているんじゃあないんでしょうか?

別に皮肉じゃないんですが、私がこういう話をしはじめた時は「リベラルな人間」だったら「この話」を聞いたら一発でわかってくれるだろう!って凄い思ってたんですよ。でも、結局特有の「むしろ徹底して冷酷な無関心の装い」みたいなのに遭遇しまくってきていて、それにはほんと怒るというより困惑するというか、いったい脳内でどういう風に納得したらそんな態度が取れるのか?全然わかりません。

普段しているリベラルっぽい態度は、ただのカッコつけなのか?ただ世の中にあるそれっぽい言葉を右から左に再生しているだけなのか?

こういうのもただ単に、確固たる思考とか政治的主張とかじゃなくて、なんとなく事なかれ主義的にお仲間同士の褒め合いの連鎖から外れたくないからしているだけなのかもしれません。

でも、「そういう連鎖」が弾きだしているものこそが、イスラム国や安倍政権となって我々の前に立ちはだかってるわけですよ。それが「自分自身の影にすぎない」っていうことを認めることから、本当にリベラルの良心を実現する真摯な思考ってのは始まるんじゃないでしょうか。

そういうのは、もう「世界中をその世界観で征服しまくってしまった責任がある欧米人」にはやりづらいことです。日本人がやらないでどうする?っていう領域ですよ。

世界中の解きほぐせないネジレを一刀両断にできる可能性が、今「日本のリベラル」の目の前には開けているんですから、その手前で空気読んで20世紀的言説を壊れたラジオみたいに繰り返すのは辞めて、はやく「この領域」に入ってきてください。

切実にそう思っています。とりあえずこの前書いたこの記事↓を読んでいただければと思います。

そろそろ安倍政権を倒したいあなたに授ける戦略(←精一杯の皮肉としてハフィントン・ポスト版へのリンクを貼ってやります。)







今後もこういうグローバリズム2.0とそこにおける日本の可能性・・・といった趣旨の記事を書いていく予定ですが、更新は不定期なのでツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々チェックしていただければと思います。

倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
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最新刊『「アメリカの時代」の終焉に生まれ変わる日本』発売中です

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1978年神戸市生まれ。兵庫県立神戸高校、京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感、その探求を単身スタートさせる。まずは「今を生きる日本人の全体像」を過不足なく体験として知るため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、時にはカルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働くフィールドワークを実行後、船井総研を経て独立。「個人の人生戦略コンサルティング」の中で、当初は誰もに不可能と言われたエコ系技術新事業創成や、ニートの社会再参加、元会社員の独立自営初年黒字事業化など、幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。星海社新書より『21世紀の薩長同盟を結べ』発売中です。
で、「なるほど、意味わからない・・・かもしれないな」と思ったんで、それについて、一度まとめた文章を書いておいたほうがいいのかな・・・と思って、これから書きます。

『逃げ恥』が教える「自分らしく生きる」の本当の意味

あけましておめでとうございます。昨年の私は普段の仕事的にはそれなりに一歩ずつ経験積んで進歩してこれた感あるんですが、いかんせん本出したりネットに上げた文章が広く読まれて・・・という方向での活動としてはなんだか何もやってないも等しいような印象になりそうで、正直ちょっと焦ってもいます。

ただ今は、焦って本やブログを書いても、よくある「右や左の紋切り型」にしかならない難しい状況に世界がどんどんなっていくなあと感じていて、そうじゃなくて「個別の事例」と仕事で向かいあう中から立ち上がってくる何かを信じて積んでいきたい気分だというか・・・ま、もうこの歳になると自分はマイペースにしか生きていけない人間だってところは骨身にしみてわかっているので(笑)、相変わらずそういうペースで今後もやっていきますので見捨てないでたまに気にかけてやって下さい。

ちなみに、ブログ再移転しました。ブックマークされてる方は変更をお願いします。

新ブログトップページ↓
http://keizokuramoto.blogspot.jp



で、久しぶりのブログ更新、しかもブログ移転一回目・・・がテレビドラマの話題ってなんてミーハーなって感じもしますが、2016年最大の(たぶん)ヒット作となった『逃げ恥』が超よかったので、年末だしそれについて書きます。

全体的に言って、「自分らしく生きる」っていう現代的に超超超言い古されたことについて、ちゃんと一歩ずつ考えて一歩ずつ実現していかなくちゃね!っていう気持ちになったところが凄く良いドラマだったと思ってます。夫婦で見てて毎週二回は泣いてました。

このブログはそういう方向で、

・『逃げ恥』のどこにこんな感動するのかって話
と、
・それはある種「運命へのニーチェ的向き合い方」なんじゃないかって話(より正確には”一連の実存主義哲学”)
と、
・「他人の人生を生きないで、自分の個別性(自分らしさ)を生きること」っていう「言い古されたこと」を私達が本当にちゃんとやりきるにはどうしたいいのか?
というような話に広がっていく予定です。

日本から老害を一掃して残業を減らす唯一の方法

なんか挑戦的なタイトルになってしまいましたが、ただ最近「老害」っているんだよなァ〜と物凄く実感することがあって、その詳細をそのままは言えませんがそのやるせない思いをより広くて皆様と共有できるテーマとして昇華して書いてみたいと思っているんですが。

あなたは、「老害」って言葉、キライですか?好きですか?

私は最近まであまり好きではなかったです。老害扱いされてる人にも、うまく使ってあげればそれなりの価値やら色々あるんだぜ・・・と言いたい気持ちが結構あって。

ただ、そんなこと言ってると「老害さん本人」が「自分の老害性」を一切意識せずにノウノウと暮らし続ける反面、困ったことにその「老害さん」は権力持ってたりするのでその集団全体の適切な運営がどんどん滞り、直接的には「ヤル気のある若手」さんが、そして結果的には「その組織の人全員」が非常に困った状況にみんなで追い込まれていくことになってしまう。

物凄く大枠での言い方をすると、過去20年にわたる日本の苦境はこの「老害さんをどう扱うか」について、思い切りの良い諸外国のように何のテライもマヨイもなくボコボコに権力を奪って放逐していくような思い切ったマネジメントができなかったから・・・と言ってしまっても悪くないかもしれません。

ただね。現状の日本は、老害さんたちを腫れ物に触るように扱って捨てずにいたので、社会全体が「トランプvs反トランプ」みたいにどこまで行っても平行線な対立に落ち込んだり、スラム街がどこまでも悲惨なスラムになっていくようなことは避けられたり・・・というプラス面もあったんだろうとは思います。アメリカに比べたらまだ貧富の格差もまあマシなレベルに留まっている。

つまり、なぜ日本が「老害さん」たちを諸外国のようにはボコボコに斬ってしまえないかというと、「その老害さんが代表しているものの中に自分たちの良さの根幹も混ざっている」からだと言えるでしょう。