あいちトリエンナーレ現地ルポ(表現の不自由展再開)

●あいちトリエンナーレ行ってきました!




日本中を巻き込んだ大激論の中、再開された「表現の不自由展」を見るために、あいちトリエンナーレ行ってまいりました。

この記事は、

・メディア的な切り取りではない「普通の一般参加者」としての視点からの「現地の雰囲気」が伝わるような写真付きのルポ的なもの

と、


・この問題をどう考えるべきなのか、という話


をしたいと思っています。

目次は以下の感じ。

1●メディア的な切り取りじゃない、「一般参加者」視点の会場の雰囲気ルポ(写真多数)

2●「不自由展以外の展示」が案外いいし、その点については津田氏も結構頑張ってると思った

3●メディアにぜひ気をつけて欲しいたった一つの単純なこと

4●最後に、より深いこの問題の本質について


です。




1●メディア的な切り取りじゃない、「一般参加者」視点の会場の雰囲気ルポ(写真多数)


会場は名古屋の繁華街「栄」の巨大なビルの中にあるんですが、ビルに入るまではほとんど「本当にここでやってるのかな?」という閑散とした雰囲気でした。平日の昼間だし東京じゃないし・・・ってのもあるかもしれません。

たぶんメディアでは大写しになるだろう再開反対のプラカードを持った一群も、人数はそれほど多くなく、演説も結構紳士的な雰囲気で。


(公開再開時の午後2時頃には、だいたいこれ↑で全部ぐらいでした。大きな公園の中にあるんで、この一群以外はメディア関係者がチラホラいるぐらいで、本当にここでやってるのかな?という雰囲気。)

しかし、実際にビルの中に入ってみると・・・・


人多い!!!しかも廊下は空調効いて無くて暑い!!!



↑表現の不自由展に入るにはチケット以外に整理券の抽選が必要で、その列は延々階段を上がって別の階の廊下を果てしなく端っこまで行って折り返して戻ってきてさらにぐるりと館内を一周してやっと整理券がもらえる状態(繰り返しますがココは会場でなく廊下なので空調効いて無くて暑かったです)

平日の昼間にも関わらず、たぶん数百人ぐらいはいたと思います。(主催者発表によると午前の部と午後の部あわせて千数百人いたとか・・・そこから合計60人・・・)

そしてその抽選結果ちゃんと不自由展を見れるのは・・・



え?こんだけ?↑

半分ぐらいは当たりクジなのかな・・・・とか根拠のない期待をしてたんですが、当選発表時間に指定の場所に行ったらめっちゃ小さなディスプレイが一個おいてあって、「え?これだけ??」ってなりました。

コレはよっぽどのくじ運がないと見れそうにないです・・・

結局午前の部と午後の部両方この長蛇の列にならんだんですが、抽選には両方外れました。

ルポって言っといてハズレたんかーい!!!って思うかもしれないけど、でも「これが普通の参加者の大半の体験」ですよ・・・という意味は確実にあると思います。

暑いところにめっっちゃ並ばされて、ほんの30人だけ公開・・・っていうのは、結構な徒労感がね、ありますよ。いや恨み言ですけど。

なんかある意味、話題のアートにリアクションする普通の市民の権利が検閲されてるとすら言えるような仕切りなのでは・・・・



2●「不自由展以外の展示」が案外いいし、その点については津田氏も結構頑張ってると思った


これ、私はたまたま愛知県にいたからいいけど、東京からわざわざ「不自由展」を目指して遠路はるばるやってきて、コレだったら結構ショックが大きいかもしれません。平日昼ですらこの倍率ですから、休日となるともっと絶望的な感じになるでしょうし。

ただ、もうチケット買っちゃったし、見て帰るか・・・と思って見た「不自由展以外の展示」はかなり良かったです。凄い楽しめた。

「めっちゃアート好き」って人じゃなくても、一個一個「普通に暮らしていては見えない視点」をアート的に表現している感じが新鮮で、普通に知的好奇心がある人ならチケット代分ぐらいは楽しめると思います。新幹線代が追加されて一日潰れて、コレだけ見て帰る・・・ので満足できるかどうかは、かなり筋金入りの「アート好きの自覚」が必要かもしれませんが。

そしてですね、この「不自由展以外の展示」を見て回ってる時に、芸術監督の津田大介氏が取り巻き?数十人を連れて見て回りながら解説してるのに出くわしたんですね。



学校の一クラスを引率する先生みたいな感じで↑、数十人引き連れて一個ずつ解説してたんですけど、案外凄い良かったです。

いや「案外」とか言ったら失礼ですし、彼のことを私はよく知りませんが、ネットで「アートの専門家でもないのに云々」みたいな批判されてるの結構見ましたけど、「普通に専門家っぽかった」です。

一個ずつの作品の狙いや注目点、ユーモアを交えた裏側話など・・・よく美術館で配布される、イヤホンで一個ずつ解説してくれる機械・・・よりも「へえ、なるほど」的な発見もあったし、「なんだ普通に頑張ってるじゃん」的なことは思いました。

まあ、「学位」とかそういう話を持ち出すと専門家とはなんぞやみたいな話になりますが、アートの専門家度合いが学位だけで測られるというのも反アート的な態度だと思いますし(笑)

もちろん、この「不自由展」に関する政治的問題や、トップとしての責任など、色々と彼が批判されるべきところもあるでしょうし、立場によっては強烈に彼を許せない思いを抱いておられることも理解できますが、ただ「不自由展以外の展示」に関しては、「芸術監督」としては結構頑張っておられたように感じましたことを、「フェア」に書き記しておきたいと思います。




3●メディアにぜひ気をつけて欲しいたった一つの単純なこと

さて、ここからがこの「問題」の考察に入るんですが、「単純なこと」と「深い議論が必要なこと」の2つを書きたいと思っています。

まず「単純なこと」として、メディア関係者やSNSで議論する時に、どうしても一個気をつけて欲しいことがあるんですよ。

それは、

「不自由展に対して世間の反発が大きかった理由について述べる時に、少女像の話だけじゃなくて天皇の写真を焼く展示の話も必ずする」

ってことです。コレ、単純なようで凄い大事なことだと思います。

と、言うのも、

会場前で「再開反対」している人たちのプラカードの中に、少女像の話は一言もない

からです。

むしろ人々が怒っているのは天皇の写真を燃やす展示の方で、もちろんその是非について正々堂々と論じるのは当然やるべきことですが、今はほとんどのメディアがこのニュースを報じる時に、ほぼほぼ少女像の話しかしていないのは、かなり悪質な情報操作と言われても仕方がないんじゃないでしょうか。

むしろ紛糾している天皇の写真問題を正々堂々と論じるならば、例の「シャルリ・エブド事件」のような問題とも関わってきて、「表現の自由問題」について国際的に最先端に重要な議論ができたはず。

外国メディアとの関わりの中でも、ちゃんとこの「天皇の写真問題」をメインに、いや少なくとも同等レベルに扱って議論するならば、もちろん天皇の写真だろうとなんだろうと焼くアートも認められるべきだ・・・という立場を主張するにしても、日本のナショナリストさんをコントロール不能な過激化に追い込むことのない「フェアな議論」ができるはずです。

これを読んでいる日本の保守主義的ネットユーザーさんへの呼びかけなんですが、メディアでの取り上げ方が

・「天皇像の話を全然しないで少女像のことだけ話している」
とか、
・ニュースのアイキャッチ画像に使われているのが少女像だけである
というような報道を見つけたら、あなたがたがあらゆる手段で徹底的に抗議をするだけの「価値」があるように思います。

単に日本のナショナリスト側の要求というだけでなく、リベラルな理想から見たフェアな議論という観点から見ても、この「単純なこと」を守らないのは物凄くアンフェアなことだと思いますから、そういう熱意のあるネットユーザーさんが「徹底的に」やるだけの価値というか正義がここにはあると私は考えています。

そりゃあメディアによって「論調」てのはあるし「角度」だってつけてもいいと思いますし、必ずしも両論併記でなくては的な最近の風潮も良くないと私は思っています。

が、この怒ってプラカードを用意しに来ている人たちが「何に怒っているのか」をちゃんと正確に報道することなく、最初から印象操作をしかけているのは明らかにアンフェアですし、「そういう態度」が逆に日本の保守派を過激な行動に駆り立てていることに関しては真剣にメディア側の自覚が必要でしょう。

そういう基礎情報はちゃんと伝えた上で、それでも表現の自由が、アッラーや天皇といったアイコンですら侮辱することが許されることなのか、そもそもそういう仕組みは何のために整えられたのか?について、正々堂々と論じ合うことができれば、今回のこの狂騒があっただけの価値があったと言えるでしょう。




4●最後に、より深いこの問題の本質について

この問題については「普通の議論の範囲」だけをなぞっていても平行線なままで解決できません。

ただ、もしここまでの私の記事を読んで、あなたの「今までの普通」とは違う議論を聞いてみてもいいな、と思うのであれば、以下の重大な問いについて考えてみて欲しいと思っています。

中国という「欧米とは違う理想像」が厳然として存在する時代に、リベラルがあくまで理想をあきらめたくないならどうすればいいか?

今は、人類のGDPの大半が欧米諸国が独占している時代ではなく、中国という巨大な「別の理想像」が存在しており、多くの新興国が中国のような開発独裁を理想としはじめており、「民主主義なんてオワコン」と思ってる中国人が10億人以上いる時代なわけです。

そんな時代に、中国人に「もう民主主義とかやめちゃいなよ!」って言われても、いーや、諦めたくないの!!!とあくまで「リベラルの理想」を追求したいなら、単に「欧米的理想ではこうなっているのにお前らはそうなってないから間違っている」と上から目線で殴りにいくだけでは足りなくなってきてるんですよ。

むしろ、「いかにこういう理想を社会に通用させることが、あなたがたの大事に思っている社会の価値にとっても重要なんですよ」とちゃんと「相手に伝わる言葉」を考えなくちゃいけない。

そりゃ「公式見解を大声で言い続ける役」だって必要だけど、「それ」だけで収まるはずがない。

表現の不自由展が批判されている潜在的な理由は、

「21世紀の今」の本質をちゃんと切り取るならば、そういう「欧米的価値観すら相対化されていってしまう時代に、理想を諦めないためにはどうしたらいいのか?」みたいな切実な問題にぶち当たるはず

なのに、

全然そんなこと考えもしない感じで20世紀的にアナクロな”権力批判”をして、案の定帰ってくるリアクションに”弾圧された!”と騒いでいる・・・”ヤクザの当たり屋商売みたいな精神”

というのが、

本当に「21世紀の今を生きるアートとして誠実に物事に向き合っていると言えるのか?」

ってところにあるんじゃないでしょうか。

「不自由展以外のアート」は一個ずつ、「普通の見方では見えないアート的な気づき」が凄くある「あたらしさ」があったけど、表現の不自由展にあるアートは、むしろ「そんなにもここ何十年間言い尽くされまくってる」ことって、「日常のベタベタな価値観」から一歩も出ていないのでは?という問題がある。

そりゃね、戦後すぐの1946年に「朕はタラフク食っているぞ、ナンジ人民飢えて死ね」っていうプラカードが問題になったらしいですが、それはもう物凄いアートだったと思いますよ。感服するような超凄いアート。

そういう「時代の精神と真剣に向き合ってる」迫力があれば、本当の「保守派」の良識ある人なら、そりゃ不愉快になるかもしれないけど、そのプラカードについては「日本が天皇を頂く国家である以上、真剣に受け止めねばならない問題である」ぐらいは言うものだと思います。

そういうレベルの「それぞれの時代の”今”の切実さ」から考えると、表現の不自由展に関しては。

本当にあなたの考える「今の時代の切実なアート」とか「今の時代の切実な知性」というのが、「ソレ」でいいの?

というのは私はどうしても考えてしまう疑問としてありますね。

そういうところのいらだちが、グレタさんふうに「how dare you!」みたいな反応を保守派から巻き起こしているのではないでしょうか。

この「本質的問題」については、もっと深く掘り下げて、記事にしてあるページがありますので、ここまでの文章に少しでも「感じる」ものがあったかたは、ぜひ以下の記事↓をお読みください。

東アジアの混乱の先にある「アジアの時代」の希望について

↑今までにない大きな視点の転換が味わえると評判です。よく言われる「ドイツの場合の戦後処理」というのにどこに問題があるのかや、日本語のできる韓国人や中国人の方へのメッセージもあります。

紛糾する日韓問題や香港問題といった「東アジアの混乱」は、もう「この地平」にまで突き抜けるしか決して解決しない・・・と私は考えていますし、私なりに「今の時代の本当の切実さ」に迫る「アート」であり「知」のあり方を込めたつもりです。



それでは、また次の記事でお会いしましょう。更新は不定期なので、ツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々ご確認いただければと思います。


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倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
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