アメリカの黒人差別解消運動に日本人はどう向き合うべきか?


(Photo by Cooper Baumgartner on Unsplash)

今アメリカで起きている人種差別反対運動(BLM=Black Lifes Matter)について、この記事は冷笑するつもりもないし水をさすつもりもないし真剣に応援したいと思っているし、逆に例えば日本には差別はないとか、アメリカの黒人差別はもう制度的にはなくなってるのに甘えてるのだ・・・とかそういう系統のことを言いたいわけでもありません。

アメリカに住んだことがなくても、ただヒップホップ音楽やアメリカ映画を見ているだけでもこの問題の深刻さは伝わってくるし、ジョージ・フロイド氏が殺害されるリアルな動画を見て、かなりツライ気持ちになりましたし、この運動が意味あるものに繋がっていってほしいと真剣に思っています。

しかし、そうやって盛り上がった運動が「求めるもの」が「警察予算の削減」って・・・あまりにぶっ飛んでいて脳内が「???」ってなりました。

NYPD(アメリカドラマに良く出てくる”ニューヨーク市警”)の予算を6ビリオンドル(6千億円強)から5ビリオンドル(5千億円強)にいきなり減らすとか、そしてその決定を喝采で迎える活動家さんたちのSNSアカウントを見ていると、本当にそれでいいのか?は真剣に考えるべきだと思います。

そういうところの「アメリカンなザツさ」が、トランプというモンスターを余計に押し上げてきたメカニズムがあるように私には感じられるからです。

この記事では、経営コンサルタント兼思想家として「グローバル(あるいはアメリカ的)なシステム」と「社会のリアリティ」との間をどう取り持つのかを実地に考えてきた立場から、どうやったら「運動の熱量を具体的変革に変えていけるのか」というような事を深く考えて、これからの時代に日本人の私たちが提示していくべきビジョンについて考える記事です。

この事件をきっかけに、今の「なんでもアメリカ的な方法を追従する」日本社会のあり方を見直す時期に来ているのかもしれない・・・という話もします。





●運動の目的が「警官を叩くこと」になってしまっていいのか?


BLM運動のもう一つのスローガンにすらなりつつある「警察予算の削減(Defund the police)」は、トランプ大統領が「左翼叩き」のネタとしてこれを使うようになってしまった事もあって、その響きほどには非理性的なものではない・・・ちゃんと考えてあるのだ・・・という反論はこの数日よく見るようになりました。

要するに、過剰に軍隊的な装備を買おうとする警察を抑止して、「治安を守る別のやり方」を考えるのだ・・・というような感じでしょうか。だから決して警察なんていらないのだ・・・という話ではない・・・というわけですね。

それらの理想論は一個ずつは読んでいると「なるほど」というものも結構あるのですが、この燃え盛る「Defund the police!!」という大合唱の情勢下でそんな「予算の適切な配分見直し」みたいなことができるのか?・・・には私はどうしても悲観的にならざるを得ません。

なぜなら、「抗議者がわ」の多くに「治安を守ることに対する当事者意識」が欠けているというか、むしろ”彼らにそういうことを求めること自体が政治的に間違っている”という意識すらあるからです。

もちろん、実際にアメリカ社会に構造化されている差別の大きさから考えれば、多少強引なレベルの抗議でも「とにかく問題を認識させて変化を起こす」ことが必要だという議論はわかります。

しかし、じゃあその「予算の付け替え」というレベルの話になったら、「公平性と治安維持を”両方”実現するにはどうしたらいいか」をどちらがわも真剣に考える必要があります。ちょっとでも「治安維持」がわの要請を考えたりするのは「敵だ!」みたいな発想で、本当に「適切なDefund the police」ができるでしょうか?

結局、単に熱狂の結果としての警察の予算削減がされるだけで終わり、治安維持能力が低下して、それで困るのは、貧困地域に住んでいる普通の人です。92年のロサンゼルス暴動でも、結局それで困ったのは黒人地域に店を出していた韓国系の店主とかでしたよね。

自分は治安のいいエリアに住んでいるインテリ階層が、自分の政治的ナルシシズムを満足させるために、「治安維持と公平性の両立」という難しい課題から逃げ、とにかく警察を叩けばいいのだ・・・と騒ぐ結果として、その治安悪化のダメージを引き受けるのは結局貧困層・・・というのは考えうる限り最低最悪の欺瞞構造だと私は感じます。

もちろん、差別を解消し公平な社会を実現していきたい・・・という熱意は非常に大事なことです。しかしそれを、単なる「警察たたき」的なムーブメントに乗っ取られないようにしないと、結局騒ぐだけ騒いで飽きたら終わり・・・みたいなことにしかならないでしょう。



●「敵側の懸念」を両側から解決するように動くべき


じゃあどうすればいいのか?

・公平性を求めるがわが、治安維持の必要性も”我がこと”として考える
・治安維持を重視するがわが、差別を解消して公平な社会とすることを”我がこと”として考える

これ↑を”両方”からやっていくしかありません。ここから逃げる議論は単なる20世紀の遺物的なイデオロギーのお遊びでしかなく、本当の問題解決につながることは決してない。

まあアメリカはアメリカのやり方でやるしかない事情もあるので難しいこともありますが、少なくとも日本においては「日本のやり方」で一歩ずつ解決していくことを考えなくてはいけない時期に来ていると思います。(そしてそういう「日本発」のやり方が、いずれ欧米の混乱を収めるヒントになる未来もありえるでしょう。)

たとえば、こないだ公開されたウェブインタビューに掲載されている写真でわかるように、私は結構「わるい人」風の外見をしているので、ただ歩いているだけで日本人の平均からすればかなり頻繁に”職質”されます。

でも私はいきなりそこで「差別だ」と思ったりしません。まあこの系統の外見の人の犯罪率が高いのは事実なんだろうから、彼らが職質したくなる理由もわかる。

ただこれは、「こちらの尊厳を無視するような警察の横暴を許容する」ってことでは決して無いわけです。そうはさせないぞ!という態度も同時に出す必要がある。

別にヘリクダった態度を取るわけじゃなくて、ある種の「なめんなよ」感だって大事だし、警官に求められているある一線を超えて上から目線だったりしたら抗議しようと思っている。

要するに「扱いの公平さ」と「治安維持という役割」をあなたがた警察官と私の双方で協力しあって実現することが大事だ・・・ということを自分は了解していることを態度で示すんですね。

日本的な表現で言うと、「あんたらはそれが商売なんだから、その役割は果たさないといけないよね。理解してますよ。でも法律的な公平さは守ってもらいますよ」という感じです。

「警察官が果たしている役割」について「敬意」を払う振る舞いをするようにしていけば、日本ならたいてい相手は態度を変えてくれます。無法者だと思って職質した時の態度とは違う丁重さになる。

この「相互信頼感」をどうやって維持するのか・・・が大事なんですよ。

もちろんこれは、日本における日本人の男としての「特権的地位」だからできることだということは理解していますし、同じことを、たとえば私みたいに「多少外見が悪い人っぽい」というレベル以上に偏見をもたれやすい属性の、例えば非白人の外国人の人ができるとも思っていないし、やるべきだ・・・とも言えません。

しかし、もしアウトサイダー的な扱いを受けている人の「地位向上」を目指すのならば、「扱いが一歩平等に近づいたなら、一歩こういう”相互的信頼”を作る努力をしてもらう」必要がある。そこの「双方向性」を無視して話を進めると、その社会を維持していた信義則が壊れるので、逆に差別主義的な暴力にコミットする人も増えることを止められなくなるでしょう。

アメリカの場合、トランプ大統領のようなモンスターを支えるムーブメントにどんどん油を注いでいくことになってしまう。



●社会を成り立たせている”見えない信義則”を軽視しないことが大事


私も昔は左翼風の「警察とかを国家権力の押し付けと見て反発する意識」があったんですが、私のプロフィールにあるように、

国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感、その探求を単身スタートさせる。まずは「今を生きる日本人の全体像」を過不足なく体験として知るため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、時にはカルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働くフィールドワークを実行後・・・・

・・・みたいなことをしていた時期に、他の国(たとえばアメリカ)だったらスラム的にムチャクチャな治安状態になったりする階層でも日本の場合は最低限の遵法精神と職務的勤勉さが維持されている「理由」がどういうところにあるのか・・・を凄く「体感的」に理解したところがあったんですね。

そこには一緒になってこの社会を「住みよい安定感」のあるものにしようとするある種の「信義則」があって、それはこの社会に対するオーナーシップ(我がこととして考えている)的なものでもあるわけです。

そして、「協力して治安維持をしていこうとするオーナーシップ」と「警官が横暴なことをしないようにお互い調整しようとするオーナーシップ」を”両方”持つことは、ある意味で「憲法」的なものを重視する政治姿勢そのもののコアにあるはずのものでもありますよね。

今回のコロナ禍でも、アメリカでは何千万人もの失業者が出ていますが、日本では1万人とか2万人とかぐらいです。それぐらい、私たち日本人は「雇用」を通じてお互いを助け合って生きている。有形無形に張り巡らされた相互信義則が、日本社会を形作っているわけです。

私のクライアントの経営者の人たちも、この危機状況でも雇用を維持し続けることの責任とか、この10年で平均賃金を170万円も上げることができたのが自慢だとか、そういうことを真剣に考えている人がかなりいます。

もちろんそういう風に助け合うことが、「インサイダーでない人」にとって支援が弱い構造になってしまう問題はあるわけですが、それを解決する時に、

「その助け合いの輪をそのままもっと発展させていって外側にいる人を包含できるようにしよう」

・・・ならいいんですが、過去何十年と日本で行われてきた「アメリカを理想とする変革」は、そういう「助け合いの輪」を引きちぎろうとする「改革」ばかりでしたよね。

結果として、経済学で言う「共有地の悲劇」のように、「誰もオーナーシップを持って我が事として社会を良い状態に維持しようとは思わない」社会になっていってしまうことになる。

そういう風にやると、結局個人の能力でなんとかできる一部の強者の人以外は決して助けられない社会になってしまいますよね。そうやって「アメリカ的な不幸」が生み出されないために、日本社会がどうしても閉鎖的になってしまう不幸も生まれていた。

だから、日本には「差別」がないとかそういう話ではなくて、「アメリカ人のやり方」で日本の現状を全否定するような運動しかないから、日本社会は閉鎖的に過去の延長でグズグズ自分たちのコアの価値を守らなくてはいけなかったのだ・・・という理解が必要なタイミングなんですね。

過去数十年日本の「後進性」だと思われていた閉鎖的なところにある価値を、オープンで普遍的な文脈の中でいかに再生していくかが、これから大事になってくるはずだと私は考えています。



●日本ならこういう方向性で改革を押し出していくべき


では、「アメリカ型」ではない日本人ならではのこういう問題への向き合い方とはどういうものであるべきなのでしょうか?

こないだパキスタン系日本人(帰化済み)の方のツイートが話題になっていましたが、確かに日本でも外国人の外見の人に対して警察官が過剰に反応する例はよくあるようです。

ただ、この方が素晴らしいなと思ったのは、この記事で自ら述べておられるように、

職務質問は、犯罪防止や治安維持に役立つ業務の一つであり、日本に住んでいる以上、私は警察の方に協力をする義務があると考えています。

という態度をちゃんと示していることです。そのうえで、

職質には協力します。しかし最初から「在留カードは」「パスポートは」「ないなら逮捕しなきゃいけないよ」と言う聞き方は嫌な気分になります。「本人確認書類の提示をお願いします」が適切です。この顔でも日本人なんです。

このツイートは本当に印象的で、むしろ感動すらしました。

そうとうな右翼の人・・・でも「この態度」に反対する人は少数派だと思います。なぜならこの「公平性」と「治安維持の信義則」の「両方」をちゃんと理解して敬意を払っている態度だからです。結果として、このツイートには「わかる。なんとかしたいよね」というコメントはあっても、ネットでよく見る暴力的な排外主義風のコメントはほとんどついていません。

私はこの問題に非常に問題意識をもっていますし、解決するにはどうしたらいいかと常に考えていますが、「この態度」の延長ですべてを見ていくしか、決して解決しえないと考えています。

世の中には果てしなく「反政府」が原理主義化した人もいるし、「反外国人」が原理主義化した人たちもいる。そういう「両端の果てしない過激派」から離れて、「良識」によって「ちょうど良さ」を一歩ずつ実現していくプロセスを実現していかないと、本当にこの問題を解決することはできないでしょう。



●アジア系アメリカ人とアジア本国人のインタラクションの中で、白人VS黒人の問題はいずれ調和がもたらされていくはず


アメリカはもっともっとあらゆることが過激なので、こんな「相互信頼」の回復などと悠長なことは言っていられないと思うかもしれない。

しかし、どこの国だろうと、この「相互信頼の回復」から始めるしかないです。

アメリカでは、黒人は「白人を怖がらせない」態度を習得する必要がある・・・と言われています。

以前、アメリカ黒人と結婚して黒人の子供がいる在米日本人女性が、自分の子供にも「変にアンチ警察!みたいになっても良くないから、警察の存在に慣れさせて敵意を持たせないようにする教育をしている」みたいなことを言っていて、それは本当に素晴らしいなと思った記憶があります。

その女性も普段は在米の人らしく、「アメリカ的に個を大事にしよう」という方向で色んな意見を言うタイプの人みたいでしたけど、そういう人でも、やはりアジア人なら普通に「お互いの事情を考える発想」があるものだと思います。

今後アメリカ社会の混乱を収めていくには、長期的にはアジア本国と共鳴しあいつつ発揮される「アジア系アメリカ人の文化」が、「白vs黒」に新しい調和をもたらす未来があるはずだ・・・と私は考えています。

以下は昔私の本で使った図なんですが・・・


こうやって「純粋化しすぎて現実を離れたイデオロギーを、ちゃんと生身レベルのものに転換する」変換器に日本がなっていけば、それはアジア諸国と共鳴しつつ、最終的には「アジア系アメリカ人」を通じてアメリカ社会を変化させていくでしょう。

その事によって、過去20年間単なる日本の意固地な後進性の象徴だと思われていたものの背後にあった深い知恵も再評価されるし、逆に日本人ですら息苦しくなるような日本社会の閉鎖的な部分を本当にやめることが可能にもなってくるはず。



●イデオロギー対立をやめて、「両側のニーズ」を具体的に現地現物で解決していくべき


この「警官に警戒されない態度を取る」問題にしても、もちろん、原理主義的に「平等さ」だけを捉えると、白人なら考えずに済む配慮を黒人ならしなくちゃいけない・・・というのは許せないことにも見えるわけですよね?

だから、単に被差別者として抑圧されている状況下で、そういう態度だけを求められる状況なら、それに反発するのは当然とも言えるかもしれない。

しかし、これから一緒になってアメリカ社会を差別のないものにしていこう・・・という合意が取れたなら、そこから先はどうしてもこういう問題に踏み込まざるを得ないし、それを原理主義的に拒否し続けるかぎりこの問題は解決しないでしょう。

要するに、「治安の悪い地域で、警官がちゃんと職務を果たすことが可能で、しかも公平性も維持できる状態にするにはどうしたらいいか」を両側から知恵を持ち寄って具体的に解決する必要がある。

その中には、マイノリティの「犯罪率が高い」外見の人が、警官に止められた時に、ちゃんと警戒されずに安全を確認し、かつその人の尊厳を傷つけないような”具体的な作法”を作り込んでいくようなことも必要なはずです。

警察がボディカメラをつけることとか、ジョージ・フロイド氏の死の原因となった首を膝で抑える方法を禁止するとかもその「作法の作り込み」の一部になるでしょう。

しかし、じゃあ首を膝で抑えないんだとしたら、かわりに柔道の寝技(袈裟固めとか?)を指導するとか、「現場の抑止力の事情」をちゃんと勘案した代替案を考えることから逃げてはいけません。

実際に禁止されている州もあったそうですが、それでも実行され続けているならば、単に批判するだけじゃなくて「現場的にそれ以外の方法で抑止できない場面がある」という可能性を疑う必要がある。

そういう「現場側の抑止力の事情」を理解せずに単に差別問題だとして騒ぐ声が大きくなるほど、警察がわに立つ人間は余計に過激化し、トランプ的なモンスターの政治力をさらに押し上げる結果になるでしょう。

そういうところでマイノリティがわに「協力」を要請し、一緒になって「この社会の治安を維持する」っていう目的に向かっている実感が共有できれば、その他の経済面などにおけるアファーマティブアクションとか、教育予算を貧困地域にも分厚く配分するべきとか、今問題になっている色々な改革案も共有しやすくなるでしょう。

私はアメリカ人じゃないから、他人事ゆえに空想的な理想を言っているように聞こえるかもしれません。

しかし、こうやってちゃんと「一周回って跳ね返ってくる論理」を無視して全部「敵」のせいにして騒ぐだけで問題が解決すると思う態度こそが私にとっては空想的な理想だとしか思えません。



●アメリカ一極支配の終焉の先で私たち日本人が提示していくべきビジョンとは


今回のアメリカの混乱は、むしろ世界史のターニングポイントぐらいに大きい現象なんじゃないかと私は感じています。

アメリカの混乱がもたらしていることは、アメリカの「覇権」の崩壊だとか、米中のパワーバランスの変化を加速するとか、そういう論調も見られるようになってきました。

もちろんそういう変化も徐々に起きてくるでしょうが、私がこの一週間・二週間で感じたことは、そういう「覇権」的なパワーの崩壊というよりも、「アメリカが持つソフトパワーの崩壊」、もっと言えば「アメリカというブランドの価値」の崩壊・・・といった効果の大きさを感じます。

要するになんでも「アメリカ的なやり方」でやるのがいいのだ・・・という「気分」の世界的な崩壊というか。

そういう状況の中で、中国とかは「もう民主主義とか終わった制度だろ」みたいなことを声高に主張してくるわけで、その中でアメリカ的な価値の信頼性を維持できるかどうかがこれから問われるようになってくるでしょう。

でもなんというか、私が言いたいのは「アメリカざまぁwwww」みたいなことではないんですよ。むしろ頑張ってくれないと困るんだけど!みたいなことなんですよね。

果てしなく全部「敵」のせいにしてさわぐ結果、どこにも「オトナ」がいない・・・みたいな状況は、やはり誰がなんと言おうと良くないです。それ以外の「対抗馬」がいない状況ならいつまでもそうやって暴れてればよかったけど、中国という巨大な「別の選択肢」がある時代には・・・

共産主義国家の対抗馬があることで、資本主義の悪い部分が是正されたように、権威主義国家の対抗馬があることで、「全部敵のせいにして騒ぎ続けるだけ」的な態度も是正される機運が高まる・・・というようにできればいいと私は考えていて、そういう未来像を描く時、日本という国がこれから果たすべきビジョンも見えてくるだろうと思っています。

「米国一極支配の崩壊」時代における、「私たち日本人にとってのこれから果たすべき役割」について、この記事の続きを書いたnoteマガジンもありますので、ご興味があればこちらのリンクからどうぞ。

それでは、また次回の記事でお会いしましょう。連載は不定期なので、更新情報は私のツイッターをフォローいただければと思います。

この記事に興味を持たれた方は、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

また、この記事への感想など、聞かせていただければと思います。私のウェブサイトのメール投稿フォームからか、私のツイッターに話しかけていただければと。


倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
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