「個人」レベルに解体されてこそ本来の輝きを得るブラームスのように、「古い共同体」を破壊しつくしたところに湧き上がる、「新しい日本経済の連携性」が世界を救う。

前回の続き的な話なんですけど。例によって、ちょっとオタクな話からはじまりつつ、前提知識もあんまりいらないし、結局はグローバリズム世界における新しいリーダーシップの形論みたいなんになるんで、前半部分のテンションの高さに我慢して読んでいただきたいんですけど。

前回紹介した、村上春樹氏と小澤征爾氏の『対談本』を読んでいて、もう一つ「大きな発見」だったのは、『サイトウ・キネン・オーケストラ&小澤征爾のブラームス』っていいなあ!ってことなんですよ。


なんか・・・まあ正直に言うとユーチューブで見たんですけど(その後ちゃんとDVD買ったんでお許し下さい)。

1990年ロイヤル・アルバート・ホール。サイトウ・キネン・オーケストラ、小澤征爾でブラームスの1番。かっこ良かったです。マジで。

おお、こんな風通しの良いフレッシュなブラームスってあるのか!って感じだった。

なんか、『対談本』の中で語られてた(前回の記事で書いた)「バーンスタイン以降のアプローチにおけるマーラー的」な、「各個人が個人として自分自身を謳歌するように参加」しているのを、全体としてグワワーーーって大づかみに音楽にしていく感じ。

カラヤン的に「掌握」するんじゃなくて、なんかこう・・・どっちがリードしてるってわけでもない、なんかほんと、小林秀雄風にアヤシイ言葉になるけど「自他合一」風な?

小澤さん凄くスカーンと立っていて、自分だけ無重力の世界でフワフワ浮いているような、ヒラリヒラリと蝶のように舞い、蜂のように刺す的な、よくある妙に無駄にオドロオドロしい見せかけの重さをウソ臭く演出していく感じとはぜんぜん違う、凄く純度の高いビジョナリーなリーダーシップで。

それに呼応する形で、我の強い個人事業主の集まりっていうサイトウ・キネン・オーケストラの特徴が良い方向にお互いをドライブしあう感じに出てきてるというか。

「枠組み」的な、「ドイツ音楽の精神」とか「気風」とか、そういう概念レベルの構築物がスカーンと吹き飛んでしまって、ただ「アナーキーに湧き上がってくる」って感じのね。あれ、凄く良いなあと思ったんですよ。

なんか・・・こういうのが、やっぱアジア人がやるからこそ!って感じがしたんですよね。欧米的システムがやっぱり「借り物」でしかない「蛮人」だからこそできることっていうか。なんか、「概念的に人工的なもの」を、本能的には全然信頼してない感じが。

「敵幾千万といへども我征かん」的な、「人間賛歌は勇気の賛歌ッ!!」的な、なんかそういうフィジカルな「勇気」だけがあるみたいな。

特に、最後8分強ぐらいね。今までメインテーマが色んなところに現れては消えていた状態から再度フォーカスが定まってきて、で、ソードーシードーラーソーって弦の分厚い有名なフレーズを、大事に大事に「そっ」とスチュワーデスがファーストクラスの客に酒とキャビアをサービスするように導入してから、風景がスパッと開けて、あとは最後までただただ湧き上がり続けるような感じで。

団員との「一体感」、しかもそれが「無理に掌握」したようなのじゃなくて、「共通のビジョン」に「各個人の奥底のもの」がバッチリ分厚く共鳴していく形で参加してるから、最後の方で入りを揃えるのが難しいようなところが連続して続いてるんだけど、それが、全部ピタァッピタァッって

「はまって当然」って感じで「はまっていく」

みたいな。

最後ダメ押しにダメ押しにダメ押しにダメ押しを重ねていくって感じで数分間たたみ掛け続ける部分があって、入れるタイミング完全に合わせるのかなり難しい曲になってると思うんですが(特に弦と金管がゴッチャになってフレーズを作っていく部分が、よくこんなんピタッと合わせられるな!ってぐらい難しそう)、それがバチーンと完璧なタイミングで来てるんですよね。

しかも「ちゃんと合わせるために遠慮した音楽を作ってる」んじゃなくて「最大限攻めてってる」ところに「みんなの意識」が共有されて集まってる結果、「合わないはずはない」「今ならどんだけ冒険したってピタァッって合っちゃうぜ、試してみるかい?」みたいな感じで「バチーン」と次々はまっていってる。全体として一つの生き物みたいになってる。

最後、終わってから小澤さんも団員さんもちょっとボーッとしてる感じなんですけど、なんかいわゆる「忘我」的に集中しすぎて「個人」の意識が戻ってくるの時間かかってるんじゃないかな。最後の方、あんなに「入魂」って感じになるのって、なかなかないと思うし。

演奏終わってから凄く良いタイミングでロンドンの聴衆が「ブラボー!」って叫んでますけど、僕もユーチューブをノートパソコンの貧弱なオーディオで鳴らしてるの聞いてただけなのに、「ブラボーやなこれほんまマジでほんましかしマジでマジでブラボーっちゅーやつやでこれはいわゆるひとつのほんましかしほんましかし、なあ?それがわからんヤツにはこれがブラボーでなくて何がブラボーやねんと小一時間問い詰めたいわほんましかし」って感じでした。

ほんと、ブラボーだったわ。マジで。なんか、目からウロコが大量にとれた。

そうか!っていうか「そうやんな!」みたいな。

「それでええはずやんな!」みたいな。「それでやってってやろうぜおい!ねえ?」みたいな。

「それが否定される世の中の、どこに”みんなのほんとうのさいわい”が残ってると言うねん言うてみろやコラァ!!ええかげんな眠いこと言うとるといてまうぞ!!!」みたいな。

なんか、よく知らなかったんですが、小澤征爾&サイトウ・キネン・オーケストラにとっては、ブラームスって「名刺がわり」的な代表的レパートリーなんですね。

今回『対談本』でそれ知って、初めて聞いたんですけど、「ブラームスってこんなに凄かったのか!!!」って思った。

正直ブラームスって、「あんまりメロディ作る才能ないからついつい色々こねくり回しちゃう苦労人」ぐらいの印象だったんですよ(いやほんとスイマセン)。

ブラームスと同時代以降の、「国民楽派」的な?シベリウスとかドボルザークとかチャイコフスキーとかはね、「自分のバックグラウンドとしての民族の共有記憶」みたいなのから直接本能的にひっぱってくるように作ってるんで、物凄くキャッチーなメロディを書くんですよね。CMとかで30秒切り取っても誰しもが「いいなあ」って感じになるような。

で、それと比べるとブラームスってちょっと(というかかなり)地味な感じで、ドイツはバッハ・モーツァルト・ベートーベンで、「一周目の本能的なキャッチーさ」を掘り尽くしてしまったから、その「やりつくしちゃった行き止まり」的なところで苦労して苦労して、なんとか何かしらそれっぽいものをひねりだそうとしてた人・・・・ぐらいの印象だったんですよ(いやほんとスイマセン)。

でもこれ、大学時代の合唱団の後輩で、今は若手の文芸批評家として新進気鋭のホープ的存在?(あんまり知らない世界なんでよくわからないんですが)である福嶋亮大氏と話してても「やっぱそうだよな!」って感じで同意できてたことなんで、結構広い範囲にそういう認識の人はいるんじゃないかと思うんですが。(まあお互い若かった時期のことなんで、彼も今では意見を変えてるかもしれないですけど)

だからね、ブラームスが好きとか言う人って、むしろその「行き止まりの無念を噛み締めてるみたいなのに自分を重ねあわせて、苦労してる俺カッケーみたいに悦に入ってるんじゃねえの?」ぐらいに思ってたんですよ(いやほんとスイマセン)。

漫画「のだめカンタービレ」の中で、このブラームスの第1番が凄い大事なシーンで使われてたんですよね。主人公のシンイチくんが日本国内で最後にやった演奏会、それが終わったらもうやっと外国へ雄飛できるぜって時に、そして、のだめちゃんがいつまでも音楽と真剣に相対せずにいるのを目覚めさせるために、「覚醒させるため」に、「俺の本気を聞け!」って感じで出てくるんですよね。

で、漫画のそのシーン自体にはかなり感動してたんですけど、正直「ブラームスってそんなええもんちゃうやろ・・・モーツァルトか、せめてベートーベンにしとけや」って思ってたところがあったりして(いやほんとスイマセン)。

で、それどころか、僕大学の時合唱団でブラームスの「Fest- und Gedenksprüche」ていう合唱曲を指揮してたんですよね。いわゆる「ドッペルコーラス」っていう、SATBの合唱団が”二組”並んでいて、その8声のかけあいが大きな流れを産んでいくみたいな、ちょっと特殊な曲だったんですけど。

しかも、その合唱団の正指揮者の在任期間は1年間だったんですが、その半分もまるまる全部かけて、10分程度しかない曲をずーーーーっとつっつきまわしてたんで、まあアマチュアレベルとはいえ、アマチュアだからこそ音楽だけに終わらない濃密な人間関係の中で嫌というほど向きあわされるみたいな体験もあったりして。

で、ほんとなんか、やってる期間、凄い精神的にも肉体的にも辛かった記憶があるんですよ。

なんか、「突き抜けたい」vs「でも突き抜けられない」、「スッキリキッパリハッキリした音楽にしたい」vs「でもそれを許してもらえない」みたいな、なんかそういうトラウマ的になっちゃったような苦しみがあって。

だから、『対談本』で言うところの「バーンスタイン以降のマーラー的」に、「個人」にフォーカスしてアナーキーに湧き上がるように作られたサイトウ・キネン・オーケストラのブラームスはね、ほんと「やっぱそうやろ!それでいかなあかんって!すっげーわかるわ!なあ!セイジさん!(←なれなれしすぎるぞお前)」みたいな、なんかそういう感じで。

もちろん、やってるレベルは天と地ほど違うけどね(笑)最高級にプロ中のプロ的な舞台で、それをやってくれたら凄いココロが晴れたみたいなね。

前回の記事でも書いたけど、「華麗なパスサッカーに憧れて追求してインターハイベスト16ぐらいまで行ったけどカウンターサッカーの高校に負けたのを根に持ってるオッサンが、バルサのサッカーっていいよなあ!!って飲んだらウザい話してくる」みたいな感じの、いわゆる「我が意を得たり」的な?なんか、そういう感動があったんですよね。



でも、「小澤征爾のブラームス」に対して、「重厚さが足りない」とか「ドイツ精神が足りない」「カラヤンの弟子のくせにドイツ音楽の真髄をわかってない」みたいなこと言う人って結構いるんですよ。ネット上でも結構見かけますすしね。

でもね、しかしね、それでもね、やっぱりね、いやほんとにね、いやそりゃ反対派の気持ちも痛いほどわかるんですけどね、そうは言ってもね、もう我々21世紀に生きてるわけですしね、やっぱりね、ほんといやマジな話ね、「かくすればかくなるものとは知りながらやむにやまれぬ大和魂」的にね、まさにそこんところでね、


「なんとしてでも突き抜けないといけない時代」


だと思うんですよ。

そこをなんとしてでも突き抜けて、それで、「国破れて山河あり」のレベルに、「湧き上がるような自然な連携性」を立ち上げないといけない時代なんですよ。

マジで真剣な話、アンチグローバリズムとかやってる場合じゃない。その熱意は「意味あること」に使えやコラァ!!って世界なんですよ。ムダなところでムダなエネルギーを使ってんじゃねえ!!みたいなね。

既に存在している過去の共同体の幻想の上に、「それっぽい重厚な音楽」を奏でるのは簡単なんですよ。でも、そんな「意味ないところ」に「重厚で説得性のある音楽」とか、成立させてどーすんねん!その


『責任』


とれるんかお前は!!ああん!?ってところがあるじゃないですか。ねえ?

その音楽が導いていく先が、ヒトラーみたいな存在やったらお前はその責任取れるんか!!!ええ?答えてみろ!!!自分だけが今だけカッコ付けられたらそれでええと思っとんちゃうぞコラァ!!って世界ですからね。

だから、閉鎖された共同体の自明性みたいなのに寄っかかった、「フルトベングラー的重厚さ」に寄っかかって「どこまでも重厚な音楽」を作っていくのはね、もちろん、人類の過去の歴史の1ページにおいてそういう芸術が成立していたことの価値と、それが音源として残っていることの人類の大事な遺産的価値はハッキリと確固としてあると思いますけどね、


21世紀に生きてる自分らがそれをなぞってたって意味ないやろアホ!!!


ってとこがあるんですよ。そんな「意味はないけど世の中的には通りの良い」ところで無駄に「勇壮っぽい」音楽をやっていようと、そんなのは「勇気」とは呼べないんですよ。

「ジョジョの奇妙な冒険」の台詞で言うなら、まさにこれですよ↓


ノミっているよなあ………ちっぽけな虫けらのノミじゃよ!
あの虫は我々巨大で頭のいい人間にところかまわず攻撃を仕掛けて戦いを挑んでくるなあ!
巨大な敵に立ち向かうノミ………………これは『勇気』と呼べるだろうかねェ
ノミどものは『勇気』と呼べんなあ
それではジョジョ!『勇気』とはいったい何か!?
『勇気』とは『怖さ』を知ることッ!『恐怖』を我が物とすることじゃあッ!
呼吸を乱すのは『恐怖』! だが『恐怖』を支配した時!
呼吸は規則正しくみだれないッ!波紋法の呼吸は勇気の産物!!
人間賛歌は『勇気』の賛歌ッ!!人間のすばらしさは勇気のすばらしさ!!
いくら強くてもこいつら屍生人は『勇気』を知らん! ノミと同類よォーッ!
仙 道 波 蹴 ー ッ (せんどうウェーブキック)!!」






去ってしまった者たちから受け継いだものは さらに『先』に進めなくてはならない!!




曖昧模糊とした「ドイツ音楽の精神」なんかね(しかもそんなこと言うヤツはたいていその精神そのものへのリスペクトがあるんじゃなくて、ただただ重苦しい音楽にして他人を威圧して自分が偉そ張りたいだけなんだと思うんですよ)、一回全部ネコソギラジカルに解体してやらなアカンのですよ。

お前ら一回戦争に負けた存在やろーが、日本のいじましい謙虚で謙虚な謙虚すぎるほど謙虚なサヨクさんの自虐史観ぐらいちゃんと反省してから首洗って出なおしてこい!っちゅー話なんですよ。

自分たちはナチスと全然一切関係ない善人中の善人中の善人みたいな顔しとるんちゃうぞコラァ!!!って話なんですよ。

結局、局所的に完全な理想がパッキリ明確に歌われていて、それが人類を導いてくれてる大事なビジョンの源泉になってるとしてもね(その価値はマジで本当に人類の最高級に輝ける遺産だと思うけれども!)、それ自体だけを特権的に追求していったらヒトラー的な独善性に転換していっちゃうんだとしたらね、そういう存在をいつまでも延長させてってたらダメなんですよ。そこのところの「感傷」にいつまでも囚われてたらアカンのですよ。

一回解体していまうことですよ。

「押し付けがましい”集団の幻想”」なんかは一回解体してしまって、「最小単位」に還元された「個人」ベースで、ゼロから何かを創り上げないと「21世紀の薩長同盟」は絶対決して絶対決して絶対決して絶対決してどう頑張っても何をどうごまかそうとも無理矢理押し通そうとしても決して絶対実現しないんですよ。

で、これは「日本」っていう社会で見た時の、「古い共同体の抑圧力」みたいなんも一緒なんですよ。

一度、「最高級の愛国心を持ってぶっ壊さなくてはならない」んですよ。ただ昔のままダラダラと個人を圧殺してるのが「愛国心」やと思ってんちゃうぞコラァ!って話ですよ。

「現場的密度感」を守ることを大義名分に、大域的合理性をメチャクチャにして平然としてるような心性でいるから前回(45年の敗戦も、90年のバブル崩壊も)は負けたんやぞ?わかってんのか君たちは!

「今度は絶対勝つために、どうしたらいいか(誤解ないように言っておきますけど戦争じゃなくて経済においてですよ)」っていう観点がないようなのは、結局本当の現場的問題意識なんかは欠片もないただの逃避ですよ。そんなものは愛国心という名に値しない、ただの怠慢なんですよ。

進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚める事が最上の道だ。日本は進歩という事を軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義に拘って、本当の進歩を忘れてきた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか?今目覚めずしていつ救われるか?



「ベーム&ウィーン・フィルの君が代のように」って話しましたけど、要するに我々は、グローバリズムとかそういう「システム」的なものを拒否しては生きていけない時代なんですよね。

だから「グローバリズムvsアンチグローバリズム」とかやってても仕方が無いし、無理矢理に再度ブロック化していくような動きっていうのは、そもそもそれを主張してるような「アンチグローバリスト」さんでも、実際に実現しちゃったら「息苦しいな!」って思っちゃったりするようなものなんですよ。

だから、程度問題はあるし、ペースをもう少しゆっくり進めたいとか、そういうのはあってもいいけど、基本的にグローバリズムは絶対に逆戻りしたりできないんですよね。そういうのを目指すのは、ただの「夢物語」なんですよ。夢のまた夢のさらに夢ぐらいに非現実的なことなんですよ。身の回り数メートルぐらいでは有効な感じがするけどね。

でも、その「グローバリズム的に無機質なシステム」を、「みんなでうまく使うやり方を考える」ように持っていくことで、むしろ「ただの旧来の共同体の延長線上」でやってるときよりも隔絶して、圧倒的に高いレベルに、「ハートフルで、かつ人間性のもっとも美しい本質的機能性が具現化したような」方向ってのは出していけるはずなんですよ。

で、こういうのは、「アタマ派(IQ的)」vs「現場の集団のココロ派(EQ的)」の罵り合いになっちゃうとどこにも希望がないので、その両者の矛盾を現地現物で実践的に乗り越えて行くような、「フィジカル・フィロソフィシャル・パーソナル」な領域の「実感と洞察」ベースで動いていくような、PQ的な解決のあり方が必要になってくるんですけど。

でもね、これって、「罵り合いをやめなくてはいけない」けれども、ただ「罵り合ってないで仲良くやりましょうよ」って言ってもうまく行かないんですよね。

むしろ、「直前まで罵り合っているからこそ成立する理想的なチームワーク」みたいな話もあるじゃないですか。

特に、趣味の世界じゃなくて本当に仕事の世界でそういうことをやろうとすると、基本的に失敗できないですからね。自分とは全然違う立場の相手のことを常に配慮してすりあわせなんてしてられないところがあるんで。

だから、とりあえずは「片側だけの論理」をガツンと押し通して「有能性」を具現化しておくことが必要っていうこともありますしね。

むしろ、「凄く理想的な人間社会の協業状態」をロマンティックに求めているタイプの人だからこそ逆に偽悪的なまでに「片側の論理」だけを追求しているような姿勢の人とかもいますしね。

特に、「資本主義原理主義」的な言説をやってる人たちっていうのは、むしろ奥底には「人間社会の本当の理想的協業状態」への憧憬が凄く濃厚にあったりすると思うんですよ。

それに、特に日本においては「旧来の共同体」側のパワーが凄く強くて、「マクロに大きな視点からの合理性」なんて「キョトン」とされるだけ・・・ってこと自然状態としてはあるんで、この10年強引にでもグローバリズム的システムを隅々まで入れ込んだことはどうしても必要だったってとこありますしね。

そういう意味では、今の時代的状況に「何もせず愛国を叫んでる人」と、「とにかく一回ぶっ壊さなくては」って行動している人だったら、ある意味後者の方が本当の意味で「愛国者」ってところがあるんですよ。彼らは決してそんな言葉を使わないでしょうがね。

一回崩壊寸前にしてやらんと日本人は「目覚め」たりしないですからね。

今「日本の古い主流派」にいる人達が多少なりともヒドイ目に合わされているのは、それ以前まではその「抑圧されていた新しいムーブメント」に対して無意識的に無茶ヒドイことを「日本社会の主流の精神」はやってきたんだから、一回逆襲的に痛い目にあわされて当然なんですよ。お互いの痛みがわからんと話が先に進みませんからね。

今は、それが「後戻りしないレベル」にまで社会に行き渡ったことで、旧来の共同体が持っていた自然な連携性は一回寸断されて、色々なことがうまくいかなくなってるんですけど。

それを、これから、その「行き渡ったシステム」を利用して、「自分たちなりの使い方」を身につけていくべき時なんですよね。そういう気運は、やっと高まってきつつあるんで。

昔は、アメリカが物凄く好景気だったんで、「外資側」「グローバリズム側」に立ってる人間は、その立場に一切疑念を持ってないところがあったし、日本でも、例えばトヨタとかが世界一に駆け上がって行ってる時期とかには、「日本には日本のやり方があるんじゃい!」って言ってればそれなりに通った時代だったんで。

でも、今、どっち側の「ご本尊」もあんまり調子よくないですからね。

だから、「確固とした自信を持って相手側を押しつぶす」ことがどちらもできなくなって、だからリーダーシップをどちらも取れずに右往左往ってことになりがちなんですけど。

そういう時だからこそ、「薩長同盟的気運」が立ち上がってくれば、『ベーム&ウィーン・フィルの君が代』のように、「ただそこに湧き上がるもの」が新しい経済を生み出すっていう時代に入ってくるはずなんですよ。

で、そういう動きを主導するのは、やっぱり「今風にデキル人」的な領域から出てくるはずなんですよね。



「理性的個人主義者の長州藩」「集団の和重視の薩摩藩」で言うならば、「長州藩側」に属しているあなたの明日の仕事のあり方からリードしていって動かしていかないといけないんですよ。

コンサルとか金融とかビジネススクール的なものとかね、あるいは今のいわゆる「良い企業」に共有されて立ち上がってきている「仕事のあり方」みたいなのがね、「グローバリズムのご本尊」のアメリカとかでもあんまり完全な理想とかはないんだな・・・・ってなってくることで、じゃあ「現地現物から日本なりのグローバリズムの利用法を考えなくちゃいけない時代じゃん!?」っていう動きは自然に生まれるんでね。

そういう人たちは、日本国内だけじゃなくて、むしろ「世界の最先端」的な位置において、「今ここ」で「全く新しいムーブメント」を立ち上げてゆくべき使命を帯びているところがあるんですよ。

IQ的なものとEQ的なものとの矛盾を「止揚」する「PQ的ムーブメント」を濃密な「文化」として創成していくという「使命」があるんですよね。



でも、その時に一番難しいのが、いわゆる「ジジころがし」的な部分なんですよね。・・・・余談ですけど、僕の本と同じ日に星海社新書から出るもう一冊の本はこのテーマを扱った『じじいリテラシー』(編集長柿内氏入魂のタイトル)らしいです(笑)。

「マクロに見た戦略の概念的一貫性」と、「現場の共同体的密度感」とをどうやってシナジーするかっていう「ジジころがし」的な部分・・・・それをいかに両立させるのか、っていうのが、「現場レベル」において一番のキーになってくるんですよ。

そこを乗り越える「文化のモード」がないと、ほんとただ無意味な罵り合いになるだけなんでね。今は「ジジ」の方に「概念的一貫性」の方が「我慢して合わせる」みたいな形になりがちなんですけど、それを、限界まで罵り合ってるような形にすることで、「どっちも我慢しない形」に持っていける、そういう一歩手前までは来れてると思うんですよね。

で、こういうのって、コンサルの人とか、あるいは組織の中で働きながら個人として動いていこうとしている人だったら、一番「ああ、そうだよね」ってなる部分じゃないですか。

マトモな感性を持っていて、日本の中で「個人として目覚めた」立場から仕事をしようとしていれば、この「概念的一貫性・合理性」と「集団の”共感”をどう引き寄せるか」の矛盾する課題って、常にカギになってくる部分なんで。

で、正解はないというか、むしろ完全に相手側は無視してガツンとやらなくちゃいけない場合もあるし、妥協しなくちゃいけない場合もあるわけですけど。

「罵り合ってちゃ意味が無い」というか、ほんと「罵り合いになってどちらにも決められない」っていうのが一番致命的にダメなことなんで、現場レベルにおいては常にある程度は「無視して進めちゃう」ことが必要になってくるんですけどね。

でも、この10年間、日本の職場で、その「矛盾のストレス」を、誰しもが感じて生きて来てると思うんでね、この文章を読んでいる他ならぬ”あなた”にとって、どんな立場にいようと日本において生きている限り味わっているであろう、その


「なんか・・・なんか違う気がする・・・・なんか・・・・でもとりあえず今日の仕事はキッチリやらないといけないから、毅然とした態度はしてなきゃなんだけど、でも正直・・・・なんか・・・・なんか違う気がする・・・・どうしたら・・・」


という”共有された思い”が、ある瞬間バチッと一方向にまとまって、限界までネジレたゴムがギャアアアアアーーンって元に戻っていくように、「薩長同盟的な動き」が成立していけば、日本経済は今までの不調っていったいなんだったんだろうね?的に突然生命力溢れる経済になってくるはずなんですよ。

そしたら、単純に、


「シンプルなリーダーシップ」が通用する歴史的特殊事情があるから、それでそれなりに活躍できている外国を取り上げて「日本はこれだからダメなんだよ」みたいな意見

vs

「ただの現場の惰性の追認」



みたいな、どっちにも正解がない議論(ほんとこういう議論は全然現場的意義がないのにやたら盛り上がるんでほんと注意が必要なんですよね・・・”語り得ぬものについては沈黙しなくてはならないbyウィトゲンシュタイン”的な問題があるんですよ)が続いている状況から、


「どういう場づくりをすれば自分たちの強みが一番生かせるのか」という「問題の核心」


に、”どちらの立場にいる人も共通した目的を共有する形”で、みんなの意識がガッと集まってくるようにできるんですよね。

そう、だからこういう「国内派vs国際派」「知性派vsココロ派」「大きな政府vs小さな政府」みたいな不毛な二元論的抽象論争は、全て最終的には現場レベルの


「場づくり」の実践的ハウツー


にかかってくるんですよ。

そこさえうまくやれればケンカする必要はないし、自分たちの一番良い部分を力強く引き出せる経済の運営方法を、「借り物」じゃなくて「自前で」作れるようになるんですよね。

それが「21世紀の薩長同盟」ってわけです。

そういうのはね、さっき書いたような、


「なんか・・・なんか違う気がする・・・・なんか・・・・でもとりあえず今日の仕事はキッチリやらないといけないから、毅然とした態度はしてなきゃなんだけど、でも正直・・・・なんか・・・・なんか違う気がする・・・・どうしたら・・・」


ていうような、「今の日本の職場」の両ばさみな矛盾の中で精神を常に蝕まれながらも、


「なんとかしたい」「もっと楽になりたい」「もっと自分たちにとって自然な状況に持っていきたい」「グローバリズムへの対応とか、日本人の精神とか、そんな抽象的なことじゃなくて、明日の自分の職場がもっとスッキリハッキリ気楽に笑いあいながら本当に成果が出ることにスパッと集中できるようになったらいいなあ!!!」っていう思い


がね、臨界点にまで達した時に、「日本の今を生きる個人」レベルで、読者の「あなた」レベルで、発火した種火が、燎原の火の如く広い範囲に一気に燃え上がって、「共有する問題意識」になった時に立ち上がるんですよ。

でも、そういう時に、「ただ他国の事例(その長所には、そのままでは日本の良さが崩壊してしまうような短所も合わせ持っているというのに)を単純に持ってきて日本はダメだなあ!」って言うヤツとかね、「日本なんだから日本のやり方があるんだよ!」って言うだけのヤツとかね、そういうのは「無駄無駄無駄無駄(以下7ページ半続く)」ってな感じではねのけて、「日々生きている・日々働いている自分たちベース」で、「世界のどっかの事例じゃなくて現地現物に」考えていくムーブメントが必要なんですよ。



そう考えたらね、まだまだ一周目に単純にやることがあるから、キャッチーなメロディをハッキリ作って楽しく音楽ができる「国民楽派」の人たちに比べてね(なんか韓流ブーム的な感じがするし 笑)、ブラームスとかはね、数世代前のバッハ・モーツァルト・ベートーベン的な「ドイツ音楽の正統的な遺産」をちゃんと継承している存在だからこそ身動き取れなくなって、第1交響曲作るのに20年もかかったとか言う感じだと考えればね、凄く今の日本の「時代性」を感じるなあって思ったんですよね。

シベリウスとか素晴らしいメロディ書くじゃん。いやほんと憧れるよ。最高だよ。韓流スターも、僕結構好きな人は好きですからね。だいたい、ビジョナリーにアタマで考えてビジネス全体を掌握して動かしていきたい夢を持ってる人にとって韓流ムーブメントは「やっぱ凄いな」ってとこありますよ。全体としてのコンセプトがバチッと決まっていてブレないし、歌詞とかのローカライゼーションの細部まで、本当に「行き届いた配慮」みたいなんがあるしね。今の日本がやるとついついグダグダになっちゃう細部までバシッと明快な方向性が決まっているようなコンテンツを作ってる韓流ムーブメントの人たちの仕事力には感服するところがあるじゃないですか。(歴史的に征服されてしまいやすい難しさを常に抱えている”半島国家”っていう地理条件が一緒だし、フィンランドはロシア、韓国は日本という、”とにかく何はなくともアイツらが悪い”っていう風に世界観を設定できる”巨悪”がいるところが、ああいうシンプルで見通しのよい世界観に繋がるのかもしれませんね)

でも、ちょっと単純すぎへんか?ってとこあるわけでね。そのシンプルさという独善性が全方位的に見ても問題を起こさない、そういう将来的な問題とかはないのか?とかね。日本人がどうしても今そっちに行かれへん理由の中には、あなたがたが非難してやまない日本人的存在の歴史の一周目的暴発が悲劇を生んだ、そういうメカニズムも含まれてるわけやでほんましかし。そのへんは、半島にお住まいの人でも、良識的な人の中には感じられるメカニズムになってきてると思うしね。

そう、グローバリズム世界においては、「一周まわってくる論理」に無頓着ではいられないんですよ。それをやっていいのはとりあえずアメリカだけで、それはとりあえずの共通了解的な秩序を誰かが定めておかないと人類社会が崩壊するから、とりあえず全人類が一応「信託」してるってことなんで、彼らだって今後どんどん、思いつきみたいな理由で他国を空爆していい理由は削り取られていく流れになってるわけだし、彼らは彼らでその「責任」がゆえに自分自身をガチガチの理屈(日常のあらゆる細部まで色んな存在についてポリティカリーコレクトでありえているかという検証を偏執狂的にやり続けなくてはならないというような)で縛り付けている不自由さだって甘受してるわけでね。

でも、歴史的事情からね、その「一周回ってくる論理」に過敏になって過敏になって、どこにも大きな「無理矢理の動き」ができなくなって小さくなってきた、この20年間の日本の苦労の中にね、そう、まさに「20年間」じゃないですか。日本経済が不調になってから20年間。小澤征爾氏とサイトウ・キネン・オーケストラがロイヤル・アルバート・ホールでブラームス第1番を演奏してから20年間。ブラームスが交響曲を着想してからも、「やはり作るならベートーベンの精神を完璧に受け継ぐものでなくてはならない」と悩みに悩みぬいてついに書き上げた20年間。

今の日本の「煮え切らなさそのもの」の中に、ブラームスが、ついに、ついに20年かけてやっとたどり着いた交響曲第1番的な、そういう「全体(というより”あらゆる個別性”)を内包する理想」が生まれてくるはずなんですよ。

部分的に見ればね、ブラームスにも良いメロディ書く才能が凄くあるんですよ。いや、過剰なほどあったりするんですよね。特に、聞いててもわからんくても演奏者ならわかる「良いメロディ書くなあ」って部分があるんですよ。でもそれは、多声のそれぞれのパートに、「ただの伴奏じゃなくて良いメロディにしてやりたい」という親心みたいなんが過剰にあるんで、全体として聞いたら埋もれちゃったりするんですよね。

それなのになんで全体として「国民楽派」的にキャッチーにならないかっていうとね、やっぱり「一周目のキャッチーさ」だけで全体をまとめていいわけがないと強く思っている、なんか「責任感」的なものがある感じなんですよね。

ちゃんと「ドイツ音楽を名乗る」のであるならばこれは外せないだろう的な過去の形式を深く深く勉強している。かつ、当時の民謡・俗謡的なものもちゃんと取り入れて、それがちゃんと反映されるように持っていっている。そういう「良いと感じるもの」は一切合切入れてしまわなくてはならないと思っている。なぜって?「我こそがドイツ音楽の正統なる継承者」という自負があるから。

しかも、全体がマーラー的に暴発的な方向に行くことなく、まるでベートーベンの交響曲が最後ダメ押しにダメ押しにダメ押しを重ねて「これが、最後だァアアアアアアアアア!!!」って感じで終わるように、そういう「ドイツ音楽のラストってのはコーじゃなきゃならないんだッ!!」っていうような、そういう構成感も外してはならないと思っている。

そのあらゆる方向からの矛盾に、応える「普遍性」を備えてなくてはならないという『責任感』と『自負心』。それこそが「ドイツ音楽の精神」ってやつだと思うんですよね。ただの一周目の本能的暴発を謳歌してるのとはワケが違うんだッ!!っていう精神なんだと思うんですよ。(それを借りてきてただわざとらしい重苦しさで演奏して自分自身が偉そばるネタにするようなヤツは、この”ホンモノのドイツ精神サン”に土下座して謝れ!って思うんですよ)

で、それを今日本人が演奏する意味って言ったらね、それを「アメリカニズム」との新しい調和に持っていくというか、「わざとらしい概念的構築性」を吹き飛ばしてしまうような、「現地現物の個人」ベースで、全体がスカーンとアナーキーに「ただ湧き上がるもの」にしてしまうような、そういう演奏であるべきだと思うんですよね。

そういう連動性を、毎日生きているなかで、「なんかうまくいかねえなあ」と思っている、その「矛盾」に悩み続けてきたこの20年の日本人の記憶、「あいつら鈍重な終わった国だよね、プププ」と笑われ続けても、それでも「どっちも諦めずにいた」からこそ浮き上がれずにいた、この国を生きて来た「あなた」の「明日」の、一人ひとりは小さなものでも、「あ!」ていう「世界のどこにもない新しい方向性の火花」の中から、21世紀の人類を導く「薩長同盟」が、グローバリズム最前線の世界に立ち上がっていくんですよ。

それはね、変に「日本人の精神」とか「古い共同体にしがみつく」ようなんじゃなくて、むしろ「今を生きる日本人」の、「ボーン・ディス・ウェイbyレディ・ガガ」的な「個人の覚醒」が、「現地現物のリアリティ」を「今ここで世界のどこの真似でもなく」工夫していくムーブメントの中から生まれてくるんですよ。

これ、宣伝用公式チャンネルやからリンク貼ってもいいと思うんですが、このグラミー賞の時のレディ・ガガはマジで凄かったと思う。普段の(もいいけどさらに)100倍ぐらいカッコイイ。・・・それなんかのさなぎだったんじゃない?みたいな意味不明さはいつもどおりだけど

『つまんねーヤツになるな、クィーンであれ(ウィーアーザチャンピオン的な意味で)。』

これ、あまりに感動して、これ見てから結構な間、妻と一緒にドタドタとこのダンス真似してたりしてたんですよね(笑)プロのダンサー以外がやるとただジタバタしてるだけみたいに見えちゃうんだけど。

あと、このCM見て、妻も僕もブラウザをクロームにしたってぐらいなんですよ(笑)いいなあ!みたいな。でもクロームの動作がやっぱまだたまに不安定なんがちょっとアレなんですけど、グーグルさん責任とってちゃんと完成度高めてくださいよ!

余談ですけど、今初音ミクバージョンのクロームCM初めて見つけたんですが、これいいな・・・・なんか、ガガの世界観と裏表的な何かがあるよね。こういうのに共通する、「誰も誰かを抑圧しない優しさ」ベースのムーブメントって、今はまだ力がないけど、でもそれを大きく育てていったら絶対素晴らしい世の中になるよなって思う部分があるんですよね。



レディ・ガガに限らずね、スティーブ・ジョブズにしろフェイスブックにしろね、あらゆるグローバリズムとアメリカイズムのアイコンが、世界中の個人をこうやって「覚醒」させていく流れなのにね、「古い共同体の押し付けがましい統治方法」なんかが、今はまだなんとか生きていても10年後にさらに生きているはずがないんですよ。どんどん「齟齬」が大きくなって問題になってくるわけなんでね。

だからこそ、グローバリズムなんかは全部受け入れちゃって、でも「その先」に、「それで根こそぎに破壊されてしまうような日本人の連携力じゃねえぜ!なめんじゃねえ!」っていうような世界を現出させていかんといかんのですよ。

でもね、今の日本を生きている我々ならね、ただ「ムチャクチャに崩壊するような個人主義」にならずに、「ジョブズ的リーダー」や「カラヤン的に他人を掌握する存在」に頼らずに、お互いに調和をしあった状態で一つの生き物のように動いていきながらね、「グローバリズム」と「現地の共同体」をちゃんとシナジーさせれるように持っていけるはずなんですよ。

そのためには、「どっちか主義」だけが横行できる状態になったらダメで、でもそうなれずにグダグダになり続けてきた日本の我々が、その「どちら側のご本尊」の存在感も消えてきた世界だからこそ、今まさに「今までずっと敵だと思っていた同胞」と協力しあえる瞬間がやってくるんですよ。

「漫画スラムダンク」の「最後のパス」みたいにね、むしろギリギリまで罵り合ってたからこそできる「最高の協業関係」ってのが、あるはずですからね。



その具体的な「手順」については、来年2月に出る新書をご期待いただきたいんですが、でもまあ、「気運」さえ盛り上がれば、僕の本だけがその「起点」となるというよりは、あらゆる日本人のココロの中に「せやろ?せやんなー!そうやと思っとってん!」みたいな原型は既に眠ってると思うんで、あとはそれをみんなで持ち寄るだけって感じになると思いますけど。

1つだけ方針を考えてみるとね、結局、今の時代、「薩摩藩側(共同体側)」「長州藩側(個人主義者側)」で見た時に、その「対立構図を維持するためだけに存在する嫌なやつ」ってのがいるんですよ。

薩摩藩側にはね、「本当の意味での現場の良心」みたいな人と、「ただのバカ殿様」がごっちゃになっているんですよね。

で、長州藩側には、「現実感と知性のバランスがちゃんとあって、本当にグローバリズムの可能性を現出させようと動いている良心的知性派」とね、「ただオベンキョウだけできたバカ」みたいなんが混在してるんですよね。

で、両者が対立している世界というのは


「バカ殿様」&「現場の良心」  vs  「知性派の良心」&「オベンキョウだけできたバカ」


っていう組み合わせで「VS」関係になっちゃってるんですよね。

でもね、これを


「バカ殿様」&「ベンキョウだけできたバカ」 vs 「現場の良心」&「知性派の良心」


っていう構図に持ち込んでいけるかどうかが「勝負」なんですよね。それが「薩長同盟」そのものなんですよ。

でもね、「現場の良心」は「バカ殿様」の方を心情的には擁護してしまいがちで、一方で「知性派の良心」も、ただ「オベンキョウだけはできたバカ」を心情的に擁護してしまいがちなんですよね。

そこのところで、「直前まで罵り合ってたからこそできる最高の協業関係」ってのは生まれてくるはずなんですよ。小さなレベルで言えば、あなたが明日も行くことになる「職場」「事務所」内でもそうだしね、マクロに見れば、「ベンチャー的気風の会社」と「経団連的気風の会社」とかがね。

今の時代、「ベンチャー的気風の会社」で、それでも結構好調な会社っていうのは、現場レベルにおいて深く「現実」と関わり合ってる分、かなり「経団連的気風の会社のかなり良い部分」と、本当は凄く『話がわかる』関係にあるはずなんですよ。

でもね、お互いね、「薩摩藩側の良心」みたいな会社は、隣にいる「バカ殿様」の方が心情的に近い感じがしたりするし、「ベンチャー的気風の良心」を代表するような会社はね、隣にいる「ベンキョウだけはできたバカ」の方が近い感じがしちゃうんですよね。

で、そういう「具体的な会社」の存在感って凄い大きいから、その会社同士が「vs」になると、日本人全体の言論環境も、無駄なところでこういう↓「vs」になっちゃってるんですよね。

「バカ殿様」&「現場の良心」  vs  「知性派の良心」&「オベンキョウだけはできたバカ」

これが、その「vs」関係の馬鹿馬鹿しさが限界まで行ったらね、ある瞬間、「薩長同盟型の組み合わせ」↓

「バカ殿様」&「オベンキョウだけはできたバカ」 vs 「現場の良心」&「知性派の良心」

に転換していくはずなんですよ。

その「感情的なムーブメント」が、「心情レベル」「本能レベル」で起き始めたら、我々日本人の「ココロ(EQレベル)」と「アタマ(IQレベル)」が「現実レベル(PQレベル)」で一気に本来的な噛み合い方を取り戻していくからね、「小澤征爾&サイトウ・キネン・オーケストラのブラームス1番」のように、「誰がリードしてるわけでもないけどなんか、だよねーって感じでうまくいっちゃうよね」っていう「湧くが如し」の経済が立ち上がっていくんですよ。



で、最後にブログだから書ける、新書にはちょっと余るほど個人的な思い出話なんですけど。

大学の合唱団でブラームスやった時にね、凄い怖いバス(ベース・・・男の低い声部)の先輩がいたんですよね。当時もう理系の博士後半?だったような、大分年上の人で。名前検索したら、今はもう第一線の化学の研究者として活躍されているみたいなんですが。下の名前だけなら迷惑かからないと思うんで明かすと、みんなに「ブンタ先輩」って呼ばれてた人なんですがね。

今となったら、博士の院生といっても今の僕よりも大分若いんで、その年になっても大人ってわけじゃない部分あるよなって思うんですけど、当時からすると相当「雲の上の人」的な感じで参加してる人で。

むっちゃ歌うまくて、2組並んだ合唱団の第2群のバスは、彼の声しか聞こえないぐらいの、しかも、それが個人が無理に突出してるんじゃなくて、ちゃんとメンバーみんなの声が吸収されて一つの声にまとまるような、凄い良い声してる人だったんですけど。

でもね、ちょっとガンコ者なタイプでね、まあ僕もそういうタイプがちょっと苦手だったこともあって、あんま関係がよくなかったんですよね。

僕がなんか練習の時に前立ってあれこれしゃべってるとね、明らかに聞こえるような声で、「トリマキ」に対してブツブツ文句言ってるんですよ。マジで今思い出してもスゲエ腹立つ(笑)

僕に至らない点があるのは当然としてもね、こっちにはこっちの事情があるんじゃって話だしね、そこでこっちがペコペコしにいったら、僕が大事にしたい全体の流れが流れそのものとして浮き上がってくるような音楽にするための「明晰なリーダーシップ」が消えてしまうんじゃ!ってところがあるんでね。

で、ここで無理矢理こっちがペコペコしにいったら負けやな・・・って思ってて、で、結局、個人で腹わって話したとか、そういうちょっと美談風なことは一切やらないままだったんですけどね。

でもね、彼みたいな方向性をそのまま認めるような方向でやるとね、凄く「予定調和的な音楽」になっちゃうんですよね。意地悪く言うと「ドイツ音楽の良さをわかる僕達って高尚だよね」風の演奏になっちゃうんですよ。で、僕はそれが嫌だったんですよね。

ブラームスは凄く、各パートにバラバラにちゃんと「歌えるメロディ」があるんで(そう、よく聞いたら、演奏すればそれがわかるんだよな・・・・埋没しちゃいがちなんだけど)、それを、「それ自体の必然性」を活かしたかったんですよ。

「ドイツ音楽ってこう演るもんだよねー」みたいな、そういうのに頼るのが嫌で。むしろ、高校時代によくやってたような、ルネッサンス期のイタリア音楽の「各個人が独立して思う様”歌”を歌うことが結果として全体像につながる人間讃歌的理想」を、そのまま無理矢理流用するぐらいに持って行きたかったんですよね。

ベートーベンはカトリックだったみたいなとこありますし、ドイツ音楽の良さっていうのは、最終的に「イタリア的な源流」に憧れて、そっちに吸い寄せられていくことの中にあるんじゃないかって感覚もあったしね。

英国ロックバンド”コールドプレイ”の「美しき生命」って曲みたいな、「カトリックと断絶して人工的に創り上げた世界観が、だんだん本能レベルからの叫びが浸透してくることで相互干渉しあい、一つの調和的世界になっていく」みたいな、ああいうダイナミックな世界観の中に、とりすました”ホモソーシャル的”な「ドイツ精神」とかをたたき落としてやりたい悪魔の野望みたいなんがあったりして(笑)

でも、「ベートーベンのラストのしつっこさ」って、やっぱカトリックの人だなって思うしね。本人がどれほど信心してたとかじゃなくて、無意識に浸透した文化の問題として。で、ブラームスのラストの情念深いところも、バッハ的な、「ルター派的信仰義認」みたいな、勝手に自己納得しちゃってる感じとは違う、「俺のこの思い、わかってくれよおおおおお」っていう部分が凄くベートーベンに共有するものを感じるしね。

で、だから嫌だったのは例えばね、ドイツ語の発音を凄い時間かけて練習したりとかね(カタカナでいいよそんなの!って思ってた)、あるいは、「重厚な構成感」みたいなのが生まれるような常にインテンポ(テンポが揺れないこと)で、「それっぽい声」を出す演奏とかね、そういう方向に流されるのを必死に拒否してたんですよね。

まあ、今の僕があの場にいたら、もっと余裕があるから、あんまりにもカタカナだと素人くさすぎる部分もあるし、ドイツ語得意な人に任せて指導やってもらったりしたら、「反対派」の雰囲気も大分和らいだだろうなとか、そういうことも考えますけど、でも当時はちょっとでも妥協したら根こそぎに絡め取られて予定調和な音楽から抜け出せなくなっちゃう!ってぐらいの危機感があったんですよね。自分でも自分がやってることを完全にわかってるわけじゃなかったし、雲を掴んでなんとか固体にしようみたいに必死になってたからね。

それに、江戸時代の隠れキリシタンが、弾圧から隠れて信仰してるうちに、お祈りの言葉が変な方言みたいになっていっちゃってたのとかね、アレはアレで凄く良いもんだというような思想もあったしね。なんか、真剣な思いの結果でソレなのなら、ローマ教皇だってそれを批判する権利はないだろって思うような感じがあったんで。



ともあれ、32小節ぐらいの流れを提示してね、だからこの4小節は「無理矢理インテンポ」って感じにしつつ、ここで「ガッ」とアクセル踏むからついてこい!みたいな話をね、してるとね、そのブンタ先輩とか無茶不機嫌そうにね、トリマキにブツブツ言うんですよ。

いや、僕にも余裕なかったけど、かなり年下の指揮者が頑張ってなんとかやっていこうとしてるのに、大分年上の人がその態度ってどうやねんってちょっと今でも思わないでもないですけど。

多分ね、そうやって指揮者が引き回すようにテンポを動かしていくと、その「共同体」に外側から力が加わるんで、そのへんが本能的に嫌だったんだと思うんですけど。

で、確かにね、合唱団の「声」とか「呼吸の深さ」っていうのは、そういう「共同体の暗黙の了解」的なものによって練り上げられていくところがあるんで、無理矢理に大きなフレーズを作っていって、指揮者側の本能的権限を強化していくと、「声が痩せてくる」部分もあるんですよね。

前回書いた「ベーム」みたいに、高校時代の僕と高校の合唱部みたいにやれればいいんですけどね、そうじゃなくて「無理矢理掌握にかかって」いってるとついつい「痩せて」くるんですよね。(これは、グローバリズム的なシステムの浸透が、最終的にはその会社や国家の本来的・生命そのもの的活力を奪ってしまいがちってのと似た事情があるんですが)

それに、やっぱりそういう「個人の膂力」みたいなので引き回していくと、「様式感」みたいなんが薄れてくるんで、「新進気鋭の建築家の建築って、実際そこで住むとなったらちょっと住みにくくない?」みたいな感じになっちゃうような、そういう「危うさ」を含んでしまう部分があるしね。

そういうの、全然わからない状態でいられたらシンプルだったんですけど、実際には「なんか痩せてくるな・・・」っていうのも感じてたしね。僕としてはギリギリの両睨みなことをやっててですね。

別の、今は国家官僚の内定を蹴ってエコノミスト?になっているアッパーな先輩(元指揮者)に相談して、できるだけ「個人の掌握力」に頼らない、「共同体の自明性を邪魔しないような指揮のやり方」を工夫してったりね、そしたら全パートにちゃんとキューを入れるようにしろって言われて、で、神戸が地元の「圭造くんて面白いよね」派の女性の先輩が、「私たち練習するし、圭造くんも練習しなよ」って呼びかけてくれたメンバーの前で、何回も「できるだけ客観的な指揮」になるように練習したりね(いやあれはありがたかったっすマジで)。

まあ、その間もずっとブンタ先輩(とその一派)とは冷戦状態風だったんですけど。

でも、曲の最後にね、湧き上がるようなアーメンコーラス(バッハの音楽の最後に付け足しみたいに存在する、2小節のカデンツァみたいなのしかアーメンコーラスとは呼ばないかもしれないんで、この単語が正しいかどうかはわからないですけど)があるんですよね。

で、そこをうまくやるために、その2つフレーズ前から準備したかったんですよ僕は。でもそういうの嫌がられてる感じ凄いしつつもね、やらせろや!って感じで大きめのフレーズを作っていって、で、物凄くテンポ落としていって、ひっぱって、1,2,3,いーーちにーーーーーさーーーーーー(止まってしもたんちゃうか?・・・・・)で、最後の8声が「アーメン」て掛け合いながら登っていくところを湧き上がるようなアッチェル(だんだんはやく)に持っていきたかったんですよね。

で、僕がそうやって「権限」を発揮するのを、なんか、ブンタ先輩は凄い嫌そうな感じだったんですよね(いや僕の個人的妄想かもしれないが)。でも、そのアーメンコーラスはそのブンタ先輩がいる、第2コーラスのバスのソロから始まるんですよ。

だから、その手前、僕はひっぱりたいけどそんなのはウザいという無言の情報は凄く明確に返ってくる・・・・って状況の中で、まあギリギリなんとかできうる限りはひっぱってから最後の部分に入って、そこからだんだんテンポあげていって、最後になだれ込む・・・・ように、まあ、本番ではできたんですよね。

終わってから舞台袖に引っ込んだら、テノールの声楽の先生が、「おお、指揮者、最後のフレーズよかったやん!」って数分間ずっと指揮の真似してたしね、「おお、わかってくれます?」的に、それは凄い嬉しかったんですけど。

でもなんか、ずっと気を使ってたんで、僕自身のカタルシスはほとんど全然なかったりして。というか、もうほんと「各方面に気を使いすぎてとにかく疲れた」ってだけが残って。ほんと、なんか「これでよかったんかなあ?」ってその日一日、終わってからの宴会もボケーっとしてたしね。

その時までは、高校の先生にでもなって、合唱部を指揮して全国大会を目指すのを生きがいにするとかもアリかなってほんのちょっとは思ってなかったわけでもないんですけど、このブラームスの演奏会で「もうこんなん絶対嫌だ!」と思って、それから就職活動に超のめりこんでった感じだったんですけど。

なんか、客席で聞いてた別の先輩が、「元気なブラームスやったなー」って言ってて、その人は好意で言ってくれてるんやろうけれども、でも「元気」とかちゃうねん、「嘘くさい内輪だけの”だよねー的”共通了解」みたいなんじゃない「フレージングの実在感だけ」のにしたかったんやけどな・・・・っていうのも凄く不満だったりして。

まあそういうことがあった分、小澤征爾氏&サイトウ・キネン・オーケストラのブラームスに、「ああ、おお!」って凄い感情的に共鳴する部分があったんですけどね。

ほんと、やってる間は、「風通し悪いなあ、しんどいなあ」ってそればっかり感じてたんですよ。

ちょっとブラームスとは大分違う位置にいる人ですけど、メンデルスゾーン(僕はかなり好きなんですよ)が死ぬ直前に残した言葉が「疲れたよ、ひどく疲れた」だったらしいんですけど(笑)、スゲーわかる!!みたいな。

ドイツ人(薩摩藩的存在)とユダヤ人(長州藩的存在)の間で板挟みになって苦労し続けた状態で死んだら、ほんとそういう気持ちになるよね!みたいなね。



でも、最近その時の音源を聞いたらね、最終的にブンタ先輩は、最後の部分も含めて、全部僕がやりたいことをわかってくれてて、しかも最後、ギリギリの駆け引きをしつつも、うまく「必然性のある歌」にまとめてくれてるし、で、その部分の最初に第2コーラスのバスがちゃんと凄く良い歌ゴコロで入ってくれてるから、全体があとは勝手に盛り上がってきて、テノールの声楽の先生が何回も「よかったやーん」って言ってくれるような「流れ」になってるなー・・・・って思ったんですよね。

その部分全体の大きなフレージングを、第2コーラスのバス(というかブンタ先輩)が、自分の声でグイグイ引っ張ってくれてるから、全体がうまく機能してってるってところがあったなって思ったんですよ。

他の音源聴いてもね、実際には、「僕のやりたいことを一番理解してくれて、ちゃんと自然な呼吸の流れの中で、細部まで具現化してくれたのは彼なんじゃないか」と思わなくもないんですよね。

結果として音源だけを聞いてれば、彼は「凄い理解してくれてる歌い手」って感じなんですよ。

しかも、個人として理解してくれてるだけじゃなくて、彼の歌のフレージングが、コーラス全体を引っ張ってくれて、で、僕のやりたい音楽を実現していってくれてた部分もあるなーって凄い思ったんですよ。

まあ、その後も、一回も親しく話したりしてないですけどね。

その演奏会後の宴会で、サークルボックスでみんな酔っ払いながら全部歌い直すんですけど、そこではもう僕の指揮なんかおかまいなしに彼と彼のトリマキだけ突っ走って歌って、で終わってから「まあ・・・色々文句あったけど終わったら悪くない演奏だったな」とかボソッと言ってたりしてね(トリマキに向かって言いながら、一応こっちにも聞こえるように)。

「それこっち見て言えよ!」

と今でも思いますけど(笑)でもまあ、僕もアレコレの意味で問題児だったんで、お互い様かなってところがあったりして。

これが「ツンデレ」ってやつか!!的なね。



なんか凄くパーソナルなこと話してしまいましたけど、今の時代「一番仲悪いタイプの組み合わせ」こそが、本当は「仲良くなれる」はずなんじゃないか・・・その「一番遠い組み合わせ同士の本来的連携の復活」からしか、「日本の底力」っていうのは再興できないんじゃないか・・・・って、僕が強く思ってここまでこれたのは、そのブンタ先輩のおかげかな・・・・って部分もあるんで、書いてみたんですけどね。

新書の中で書くにはパーソナルすぎる話ですけど、まあブログはその「氷山の一角の裏の氷山本体」まで全部開示していくことが大事かなって思いますしね。こういう体験って、この粘着質な日本社会の中で真剣に「個人」として生きてたら、「ああ、マジそういうことあるよね」って、「それぞれの人生の中の”実例”」とlして共感してもらえるリアリティがあると思いますしね。

やっぱり、今の日本の中の「対立」って、この大学時代の僕とブンタ先輩みたいにね、「どっちにもどっちにもの必然性」があるんですよね。

で、やっぱ基本的に「グローバリスト側」をまずは100%通させてもらわないと、全体が「外の世界」とうまく噛み合わないものになってしまうんで、だからこそ「グローバリスト側」は、妥協せずにガツン!と押し通してしまうことが必要だし、変な美談みたいなところでごまかしてしまわないことが大事だと思うんですよね。

でも、「グローバリスト側が押し通していきつつも、本当の良さって何だろうかという自己批判的な回路を日々の現場で消さずに追求し続けて」いるならば、「バカ殿様」とは手を結ぶ必要は全然一切全く一ミクロンも完全にゼロに無いですけど、「現場の良心代表」みたいな人とは、どっかで繋がれるはずなんですよね。

どんな外資コンサル的プロジェクトも、ビジネススクール的なビジネス手法も、プライベート・エクイティ的な「投資をしてハンズオン」的な関わり方でも、大会社の幹部社員が何らかの変革を志していくときも、結局この、「現場の良心代表」みたいな人と、「グローバリズム的な全体の構築思想」みたいなのがちゃんと「ガッ」と噛みあわないと本当に良いものはできないんですよ。

でも、あんまりうまく行ってないことも多いんですよね。それは、そういうビジネスの現場にいる人の能力や良心が足りないというより(平均値的に見れば全然悪くないと思うんですよ世界的に見ても)、そういうふうに持っていく「風潮」がないことが大きいなって思ったんですよ。色々やってるうちにね。

アメリカ人とかね、あるいは例えば韓国の、財閥系の権力関係がシッカリできてるところで働いてる人とかはね、基本的に、「ブンタ先輩」みたいに面倒クサイ人のことは完全に無視してサクサク進められる「環境」にあるんですよね。だから「有能そう」に見えるけど、でもそれはある意味「本当の現実の複雑さ」からは甘やかされてるという風にも取れますからね。だから、韓流スターの音楽が、なんかやっぱり10曲目ぐらいになったらどれ聴いても同じじゃない?ってなってきちゃうような、そういう「土壌の貧困化問題」はあるんですよ。

そこはね、日本のメーカーの技術蓄積が、やっぱり「コアのコア」的な部分においては世界において今だに例外的に強い、その「強みのコア」を支えている部分でもあるんですよね。「面倒くさいジジイ問題」はね。

だからこそ、その「裏側の短所」を単純に外国の真似をして潰しちゃうと、その「本当の長所」まで消えちゃうような「一周回ってくる因果」があるんですよね。

でも、そういう「面倒くさいジジイ問題」がある国で、なんとかこの矛盾をやりくりしようとしてきた我々にはね、「一周目のクリアーな論理をサクサク進める」ことは確かに苦手だが、ある瞬間「昨日までは罵り合っていた両者の連携」がうまく行く、「薩長同盟の文化」が成立したら、「一番現場の美味しい部分の豊穣さ」も、「一番大きな理屈の部分」も、両側からスカーンと「以心伝心」で通っていくような、そういう「湧き上がる経済」が成立させられるはずなんですよ。

そこのところの薩長同盟の「技術」がどんどん高まっていけば、グローバリズムも決して悪いもんじゃないし、システム原理主義が生身の生命力を制限していくことで、各国の国債市場が死に絶える直前にまで行ってる現代世界の問題も、どこかにブレイクスルーを見つけられるはずなんですよね。

で、世界中見渡してもね、結局その「薩長同盟的関係」の部分に橋がかからないと、どこにも全然希望なんてない時代じゃないですか。

だからこそ、腐っても世界第3位の経済ですしね、独立して自分たちのやり方を追求していけるだけの規模があるし、歴史的に言っても「非西欧の先進国代表」ていう特殊な地位を続けてきている我々だからできることってのはそこに必ずあるはずなんですよね。

「今、一番の敵だと思ってるヤツ」と、「うまく連携できる未来」が、今後10年必ずやってきますから。そこから日本の輝ける21世紀が、生まれるんですよ。

漫画「スラムダンク」の最後の最後の山王戦の最後の最後、花道とルカワのラストパスみたいにね。

またまた、超長い文章をここまでお読みいただいて、ありがとうございました。

あまりにマニアックな音楽の話をするのは、前回と今回の二回だけで終わりにしたいと思います。『対談本』でそのキッカケを作ってくださった、村上春樹氏と小澤征爾氏に感謝します。

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