「グローバルエリートの時代」のグローバリズム2.0。
@lilaclogさんという有名ブロガーさんがいて、僕は昔からそのブログを読んでたんだけど、今回本を出されるにあたって本名カミングアウトされて、その名前見てビビった。
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「倉本由香利」
さんだった。
倉本っていう苗字は多いようであんまりなくて、知ってる人ではプロゴルファーの人と北の国からの人、お笑いの放送作家さんぐらいしかいなかったんだけど。
そりゃねー倉本さんが書いた本やったらねー読まなアカンやろーと思ってアマゾンで予約して買った本、「グローバルエリートの時代」は凄い良い本だった。
タイトルからして、アンチグローバリズム的気風の方にはカチンと来る感じがしますけど(笑)、でもむしろ凄い「日本をなんとかしたい」っていう気持ちを感じる本だったんだよな。
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この本が届く前日に、「よるヒル超会議」っていうイベントの対談で倉本さんが話している動画をネットで見たんだけど、「グローバリズムの時代に国単位の発想とか国単位で良い悪いとかなんて無意味」みたいな方向に話が流れる中で、何回も、
「いや、そうは言っても自分が生まれ育った環境に恩返しをしたい」
的なことをを熱く語っておられるのが凄い印象的だった。
話の流れと関係なくっていうか、何回も蒸し返してそういうことを言おうとしてる感じがあって、そのへん、ただ口だけで言ってるんじゃなくて本気でそう思ってるんだろうなという感じだった。
で、この本は、グローバリズムの進展に日本が対応しなくちゃいけない、そのために「グローバルエリート」と呼べるような技能を持った人間を沢山育てなくちゃいけない・・・的な話なんだけど。
こういう話って、そもそも話の方向性からして凄く賛否両論になっちゃうわけで、倉本さんのブログも英語公用語化関係の時に炎上っぽくなってた記憶があるし、「純粋な国内派」の人にはカチンと来るような物言いが含まれていたりもするわけなんですけど。
この本を全体として読むと、むしろ、「国内の活動」を、「カルピスの原液」みたいなものだとすると、それをベースにグローバリズム世界と対応した大きな活動と関連づけることで、
「2割の原液部分だけじゃなくて8割追加した水の部分の利益」も得て、それを国内に還元することで日本を豊かにするようにしたい
という強い意志が感じられる本だった。
まあ、まさに
を地で行くような感じで。
そのためのアレコレの方策を真剣に考えてあって、その「内容」もさることながら、そういう「ベースの発想・思い」の部分が感動的な本だったな。
一番最後に書いてあった、「アメリカ人みたいに押し付けがましいプッシュ型のグローバリズム」じゃなくて、「相手のやり方もよく聞いた上で良い形を考えようとするプル型」の、「日本人だからこそできるグローバリズムってのがあるはず」みたいな話も凄い良かった。
一番最後に書いてあった、「アメリカ人みたいに押し付けがましいプッシュ型のグローバリズム」じゃなくて、「相手のやり方もよく聞いた上で良い形を考えようとするプル型」の、「日本人だからこそできるグローバリズムってのがあるはず」みたいな話も凄い良かった。
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内容についてもうちょっと詳しく言うと、グローバリズムって昔からある言葉だけど、昔と今で違うのは、全世界における新興国経済の存在感の大きさが全然違ってきているということで。
だから、昔のように、少数の国内社員をアメリカと欧州に駐在させてそれでアレコレやるというだけでは対応しきれなくなっている部分がある。
だからこそ、
「国内で作ったものを売りに行くマーケティング機能の国際化」=第1の波
「生産活動自体の現地化を行う国際化」=第2の波
と言った時に、そろそろ「経営・組織」レベルで新興国人材とのコラボレーションが必要で、そのためには
経営機能レベルのグローバル化=第3の波
が必要になってきてるんだ・・・・っていうような話が、本の基本ラインになっている。
で、その方策を考えましょう・・・っていう話なんだけれども。
その中で、具体策的なビジョンとして「A社」という架空の日本企業のグローバル化の方向性を小説的に書いたケーススタディがあって、そこがなかなかおもしろかった。
なんか、要するに「グローバル化対応機能」自体を切り離してしまって、「国内事業のコントロール」とは「別立ての組織」にするべきだ・・・みたいなのが基本なのかな。
で、国内部門で自分たちのコア的な機能を果たす人間と、それを「グローバリズムの中でちゃんと最適化して利益をあげていく部門」に従事する人たちを分離することが大切だ・・・みたいな。
そうすることで、新興国現地出身の人材を登用していくこともできるし、世界各地の現場の反応をうまく取り込む機能もスムーズになるし、何よりそういう「グローバル対応が得意な人材」の市場から人材獲得がしやすくなる・・・・的な感じかな。
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で、確かにそういう「別立ての組織化」が生まれて、日本企業の意図決定を、もう少し「国内の予定調和」から切り離して身軽にすることができたらいいよね・・・・ということは、読んでいてかなり同意できる部分だった。
これはね、そういう話の方向に本能的な嫌さを感じるタイプの人でも、この本を読んでいると「あ、いいかも」ってひょっとしたら思えるかもしれない・・・っていうぐらいの可能性を感じたんですよね。
特に、新興国の需要のあり方っていうのは、今まで欧州やアメリカ市場を相手にしていた時とは違って、「現地の人にしかわからない領域」っていうのが凄くあるっていう話とかね。
だから、それにちゃんと対応していくためには、かなり現地に権限を移譲していくことが必要だし、研究開発においても、基幹技術以外の商品化段階の技術は現地人材で現地の研究施設で作っていくことがかなり重要だ・・・って話とか凄くなるほどと思った。
「15%の値段で半分の機能」みたいなのを求められるならば、コア技術は国内で作りつつ、商品化に近い段階の技術革新は現地人材ベースでやるしかないし、そうなるとそういう部分と国内部分をうまくシナジーさせるマネジメント能力が超必要になってくるので、それを基本に全てを考えていかざるを得ない・・・っていうような話ね。
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で、ここからは個人的な感想なんだけど。
全体として、そういう風なグローバル対応をすることで、「カルピスの原液部分」だけじゃなくて「水で増やした部分」の利益を日本に引っ張ってくるようにするべきだ・・・っていうのには凄い同意で、そのための具体策としての、「グローバル対応部分」の組織を「別立てにしてしまう」ような発想ってのは、必ずしも唯一解とは言えないとは思うものの、非常に可能性が大きいような気がした。
したんだけど。
でも、これだけだと「らしさの保存」っていう機能が弱すぎるな・・・とやっぱり思うんだよな。
この本の中でもグローバル化対応の先進事例として紹介されている、GEとかコマツとかサムスンとかJTとか、それぞれ、「自分たちらしさ」が物凄く強固にあるからこそ「グローバル化」できるんだよね。
ここが、なんていうか、「グローバル人材」的なキャリアの人が誤解してるところで。
「転職可能性が非常に高い汎用性のあるスキル」の人ばかりがいる組織じゃあ出来ないことって絶対あるしね。
倉本さんは、その中でも相当に「らしさの大事さ」を理解されている方で、「あうんの呼吸」では理解しあえない多様な人材が流入する中で「らしさ」を保存するための方策についてアレコレ書いておられるんですけど。
でも、なんかこう・・・いわゆる「クレド」的な?そういう「明文化された文章」とかで共有できるものって凄い弱いからね。
その部分は、「人」ベースで徹底していくしかない。
で、そういう「人ベースの伝播が期待できる密度感」っていうのは、相当意識的に培っていかないと、そのうち雲散霧消してダメ組織になっちゃうんだよね。
だから、「グローバル化機能」を別立てにして機動力を持たせるって言う時に、「本家部分の価値」を、かなり「過剰なほど言挙げする」っていうのかな・・・・なんか、とにかく特別な配慮が必要だと思う。
「異文化」の人とやりあうためには、「グローバルな共通了解」に通じてるだけじゃダメで、結局やっぱり「こういう時にはこうだろ!!!」っていう明確な方針が立ってなくちゃ何も伝わらないんですよね。
で、トヨタの自動車工場とかみたいに、「自分たちはこうやるんだ」っていうことが物凄い密度感で成立してれば、国境を超えても絶対通じるものがあるんですよね。
コマツみたいに、「俺達イズム」が明確にある組織だとかもそうなんですよね。
あるいは、一代で築いたカリスマ社長が「そりゃーおまえーこういう時はこうだろ!!」みたいなのがガッチリ存在している会社とかね、そういう会社は、国境を超えても「通じる」ものがあって束ねることができる。
そういう「自分たちらしさへの密度感ある確信」が薄まって消えてしまうとね、結局その「伝播プロセス」自体をグローバル化して、標準的な言葉遣いでやり取りできるようになったとしても、結局「現地」と「本社」の距離は開いてくるんですよ。
だから、本の中で紹介されている「先進事例」は、「グローバル化対応した組織」があるから成功しているというよりは、「国境を超えた世界にいたるまで”らしさ”を伝播できるパワーがある」から成功してるんだ・・・っていう側面は、軽視すると後々痛い目を見ると思います。
っていうか、「後々痛い目を見る」よりも、むしろ「抵抗勢力ゆえに進まない」って結果になるんですよね現実には。だからこそ、「開く」ためにこそ「閉じる」べき部分が絶対あるんですよ。
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まあでもね、一企業レベルとか、一コンサルタントレベルで出来ることと言えば、そうはいってもグローバリズム対応していこうぜ!!!ってことでいいと思うんですけどね。
「それが可能な位置」にいる人は、それをやることに躊躇する必要は全然無いわけだし、そういう人が「圧力」を加えていくからこそ、「危機感」が本当のレベルで高まって、逆向きの「本当の自分らしさ(ただの惰性みたいなのじゃなく)を真剣に大事にしなくちゃ」っていうムーブメントも起きるわけなんで。中途半端な保護は余計に「らしさ」を潰すってのは確実にあるからね。
でも、それが「一部の事例」っていう以上に広がっていくには、もっと本格的な「自分たちらしさの保存」に関する一貫した考え方が必要になってくると思います。
それは、いわゆる
「暗黙知的なことを言葉で言えるようにする」っていうのの、物凄く深く徹底したレベルの運動
っていうかね。
日本の組織の良さって言った時に、「和の精神」しかキータームがないようでは、結局それって個人を圧殺することですよね?みたいな感じでなし崩しになっちゃうわけなんで。
その「和の精神」って言われてるものの中にある、個々人の力の活かし方とかね。物事の根底的な考え方とかね。
そういうのを、ちゃんと「深いところから復興する文明レベルのムーブメント」がちゃんと起きてくれば、逆にグローバル化は簡単になるんですよね。
で、いわゆる「グローバリズム」が世界中で問題引き起こしてるのって、当のアメリカ人ですら薄々わかってることですしね。
例えば、大企業の経営者にどれくらいの報酬払うべきかとかね、そのへん、ほとんどモラルハザードレベルで高くなりつつあるアメリカの企業に対して、日本の企業の文化は「あるマットウさ」を持ってると言えるはずで。
そういう「マットウさの保存場所」としての「国内市場」「国内組織の密度感」っていうのは、今の時代「徹底して保存する」だけの価値があるはずなんですよ。
で、その「国内組織の密度感」があるからこそ生まれている「技術蓄積のあり方」とか「経営文化のあり方」とかね、それを国内でよってたかってもっと正当に評価するムーブメントが起きれば起きるほど、それとは「別立てのグローバル化機能」を切り出してしまってもOKになるんですよね。
もっと言えば、「自分たちの切実な事情」をちゃんと「言葉」で語れるならば、出資関係において外国の資本を利用してもOKになっていくしね。
そういう、「本当のローカルの良さ」を「グローバリズムの作法に転換する」プロセス=「グローバリズム2.0」が、もっと徹底して行われるようにならなきゃね。
「欧米文化の単なる延長の齟齬」を、一身の中の違和感でジクジク感じ続けてきた日本人だからできる「新しい文明の定義」
ぐらいのことが出来れば、「グローバリズム対応機能」の部分をどれだけ自由にしても揺るがない・・・っていう状態になれるはずで。
僕はそういうムーブメントを起こしたいね。
それにまつわるアレコレの問題や解決の方向性については、「21世紀の薩長同盟を結べ」にギチギチに詰め込んで書いたんで、もし良ければ倉本さんにも読んで欲しいなと思いました。
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でも、僕の本と、倉本由香利さんの本は、見た感じの趣旨は全然違うものの、最終型のイメージがかなり似てる感じが凄いしたのが良かったです。
「グローバリズムの延長としての概念的思考機能」に「優先権」が与えられるようにして身軽に動けるようにすべきだ・・・っていう発想も同じだしね。
その時に、世界中の色んな人の多様性を認めつつも、「自分たちらしさ」を明文化してちゃんと世界中に展開できるようにしていくべきだ・・・・っていう発想も同じ。
倉本由香利さんは、グローバル化への対応自体をキャリアとして積んでこられた方なんで、そのプロセスをやるために「必要なこと」をまとめておられるわけですけど。
でも、そういうコンサルタントにとって一番鬼門というか、どうしてもできないのが、「トヨタ」や「コマツ」や「サムスン」をゼロから作ることなんですよね。
そこには、「ドロドロした生身の無数の人間の情念の塊」的なものを長い時間かけて束ねることでやっと可能になった「密度感のコア」があるんですよ。
で、その「密度感のコア」は、「明文化された理念やそれを徹底する仕組み」で伝えられるように見えるけれども、でもその「密度感の本体」自体が薄まってくるとどんな仕組みを作ったって何も伝わらなくなってくるんですよね。特に”国境を超えたりすると”。
だからこそ、その「密度感を生み出しているそもそものもの」を、もっと徹底して意識化して捉える運動をやりこまないといけないんですよ。「新しい文明を作る」ってぐらいにね。
でも、そういうのは、「トンネルを両側から掘っている」ようなものなんだな・・・・と思えてよかったです。
最近、僕はもういっそ「英語公用語化すらできる」ぐらいにまで「自分たちらしさを再定義」できたらいいなと思ったりするんですよね。
いや、これは半分妄想なんですけど、でも、
「自分たちらしさのコアを意識的に捉えることが一歩できれば、”開国”も一歩進む」という因果関係
を考えると、
「英語公用語化?いいじゃん、俺らの良さをもっと世界のみんなにわかってもらえるってことだろ?」
って
みんなが思えてる社会
・・・に日本がなったら、それって素晴らしいことだなあ・・・って思うんですよね。
っていうか、そこまでいけていないなら、グローバリズムは「ローカルの本当の良さ」を今だに圧殺していることの証拠である・・・と言っていいぐらいだと思うしね。
「薩長同盟本」において「ラマヌジャンフロー」っていう名前で呼んでるんですが、「ローカルの本当の良さ」がガンガン再定義されてどんどんシステム上に乗って行くような、そういう「大きな補完メカニズム」を稼働させたいと、僕は切実に思っています。
それさえできれば、日本は世界の新しい希望っすよ。グローバリズムvsアンチグローバリズムとか20世紀脳な争いをやってる場合じゃないっす。