今更ですけど自己紹介を・・・その3.副題『原生林のような豊かでタフな経済を目指して』


今更ながら自己紹介シリーズ、その3です。これで終わらせようと思っています。

第1回がコレ、第2回がコレです。

目次の、

0 そもそも、「なんでこんなアホなことをしていたのか」(原点編)

1 どういう世界を目指して活動しているのか (思想編)

2 そのために何をやってきたのか  (行動編)

3 今からやっていこうとしていることは何か? (未来の方向性編)

の、

2 そのために何をやってきたのか  (行動編)


ですね。

まあ、やっと普通の意味での「過去の活動紹介」みたいになってきましたけど(笑)



結局、マッキンゼーにいた時、僕には「このままだと10年単位で日本はほんとダメになるな」っていう感覚と、「じゃあかといって今すぐ代案だせって言われても何も出せないし、そもそも今のタイミングで出したって意味ないんだよな」っていう感覚が明確にあったんですよね。

で、第一回に書いたように、

「グローバリズムに対応しろ!」っていう流れが完全に日本社会に定着して、今度は「グローバリズム対応しろって言う流れの中でならどんなカスでも売れてしまうバブル」みたいな状況になった時に、やっとその「両者をうまくシナジーさせる統一的な見解」が必要とされる時代が来るだろう

ってぐらいまで、「この流れ」が一周してしまわないと「日本の反撃のターン」はやってこないし、その時に、

「そんなこともあろうかと」

的に提示できる「一貫した旗印」を、「どちらがわの陣営」にいる人だって必要だろうなと。思った。

それに、30ぐらいで博士を出てマッキンゼーに新卒就職してる同僚を見てると、「30ぐらい」までは、「このこと」だけに全部使うぐらいにクレイジーなことをやったって、「戻ってきたいなら戻ってこれる」っていう感覚があった。

そういう「ギャップ・イヤー的自由」っていうのは、日本の場合あまり誰でも手に入れられる自由じゃないので、それを「得られている」からには、「それだけのこと」を日本に対してできるような使い方をしたい・・・と思った。

と、言うわけで、怒涛の「ワケワカラン体験ロード」に出ることにした・・・ってわけなんですよ。



とにかく僕は、「指揮台から演奏者全員の顔や気分や感情が呼吸が見えていた」時ぐらいに、「日本社会の色んな位置」が「ちゃんと見える」ようにならなくっちゃ、責任ある「言論」をしていくことはできないな・・・って思ったんですよね。

結局、自分の半径5メートル的な世界にいる「恵まれた人たち」の事例を敷衍化して全てを考えるのは、「一企業単位」なら良いかもしれないけど、「国単位」「世界単位」で考えると、自分としてはあまり「責任持てる言説」とは言えない感じがしたんですよね。

だからこそ、「できるだけ、マッキンゼー的世界から遠い場所に、生身で潜入しまくってやろう」と思ったんですよ。

で、まずは船井総研に転職の面接を受けに行って、採用してもらったんですよね。

船井総研っていうのは、マッキンゼーと違って物凄く「ザ・古き良き日本企業の経営ってこうだろう的価値観」でユニークな成果を上げているところですから。

それは、図式的に言っても「マッキンゼーとは対局的」な価値観で、しかも「日の目を見る成果」を出している人たちがいるわけで。

コンサルタント的、MBA的世界観からは遠い、「共存共栄的に自分のビジネスを広げていく生身の世界」があるイメージだったし、実際に在職中にはかなり勉強させて貰ったんですけど。

ただ、船井総研とはいえね、これは「今の経済的に光があたってる人たち」の世界じゃないですか。

で、僕としては、さらにその「外側」があるはずだ・・・っていう直感があったし、そこで「体験」しておかないと、結局「今ある経済の延長でもっと頑張れ」っていう以上のことが言えないんじゃないかっていう感じがしてたんですよね。

特に、「グローバリズム的な論理」と、さらに「日本のカイシャならこーだろ!っていうような共存共栄の美学」を、「両方」やろうとすると、凄い大変だったりするんですよね。二重三重にハンデを背負わされるような世界になるんで、だからその両者は全然交わらないまま平行線になっちゃっていて、「統合した自分たちらしさ」も生み出せてない状況にあるわけなんでね。

だからこそ、その「船井総研の領域よりもさらに外」ってのがあるはずで、「今はそこに出てしまっているエネルギー」と「マットウとされている世界」とを、うまくシナジーさせるような形に持っていかないと、「来るべき10年後の日本の反撃のターン」に説得力のある世界観は提示できないんじゃないか・・・・って思ったんですよ。



で、それで、船井総研の転職内定をとりあえず取り付けておいた上で、「さらに外側」の領域を知ろうと思ったんですよね。

そこが、プロフィール欄にある「ブラック企業」や「カルト宗教団体」「ホストクラブ」「肉体労働現場」その他への潜入・・・ってヤツなんですよ。

正直言って、この時期の「体験」をまだうまく自分は完全には咀嚼しきって綺麗な「理論」みたいなものにできたとは思ってないです。とにかくカオスすぎた。これからの人生で、一生かけてこの「カオスさ」をだんだん「深く明晰に理解」していけたらいいな、ぐらいに思ってるんですけど。

どの場でも、「とりあえずこれを一生やっていくとしたら自分にもやれるな」って所までは真剣にやりましたけどね。自分ルールとして。

宗教団体では、「残って幹部になってくれ」って言われたし、ホストクラブでも、自分で街歩いてる女の人を客引きでお店まで来てもらってお客さんにしたし、先輩のホストのお客さんにヘルプで付いてる(先輩に2人以上のお客さんが来てる時に代理でお相手すること)時に、ドンペリのボトル入れてもらったりもしたし。

ただね、「浄水器を凄い高い値段で売る訪問販売」をやってたことがあって、その時は結局自分では売れずにいたんですよね。ちょっと良心の呵責が強すぎて。ネットワークビジネス的なのにちょっとだけ顔出した時も、一回も売らずに終わった。

ああいう・・・「グレーゾーンビジネス」って、かなり考えるべき課題だと思うんですよね。マクロな経済を語る時に。

浄水器ビジネスは、毎晩ゼンリンの地図のコピーを切り抜いて、車でそこまで行って、スーパーの駐車場かなんかに停めて、「はい、じゃあ解散」つって訪問販売しまくってくる・・・っていう・・・・「ノマドってこれか(笑)」みたいな世界だったんですけど。

で、当時の僕はまだまだウブだったんで、リクルート社発行の求人雑誌に出してる会社に、そうそう「反社会的」な会社があるとは思ってなかったんで(ちょっとチクリと皮肉で言ってるんすよ)、とりあえず「まあ営業会社って体験してみるべきだな」と思って入ったんですけどね。

でも、なんつーかね、そもそも訪問販売の声かけからして、「ピンポーン、水道の方から来ました」って言うしね(笑)

「水道局」じゃなくて「水道の方」から来たってなんだよ!!!みたいな。

で、公的な存在であるかのように偽ってズカズカ中入っていって、でいきなり設置しちゃってから商談始めるの。いやもうね、マジで「ええええええええ」って思って、結局僕は一個も売らずに終わったんですけどね。

営業トークが完全に決まっていて、現場の人はそれをただオウム返し的にやりながら売っていくんだけど。

でさ、「こういう経済」って難しい問題なんですよね。ただ「詐欺的だから排除」ってだけでいいのか?みたいなね。

ていうのも、一回深夜の街で、じゃあ帰るかっつって車に集まってた時に「詐欺っぽいよね」ってボソッと言ったらケンカになってね。

「喜んでくれているお客さんがいるから詐欺じゃない」

って殴り合いみたいになって・・・なんか、今思うと青春だなあって感じなんですけど(笑)

で、確かに、両親が若いころにいなくなっちゃって苦労して育って、線路工をしてたんだけど、街歩いてるヤンママと赤ん坊を見て、「このままじゃいけない!」と思って必死についたのがこの仕事・・・・って言ってる、5歳ぐらいの赤ん坊がいるオッチャンとかを見てるとね、「まあ需要家も騙されたと思ってないんだったらいい・・・のか?」みたいな話になってくるじゃないですか。



バングラデシュのムハマド・ユヌス氏のグラミン銀行プロジェクトはね、こういう「野良の自発的経済活動」を、うまく取り込んでるから成功してるんだと思うんですよ。

ただ、彼らはまだ発展途上国なんで、その場で「素人が考えたビジネス」が充分に「マトモな範囲」に収まるんですよね。牛を買ってきて育てるとか、材料の木を買ってきて家具作るとかね。

でも、先進国でそれをやろうとすると、こういう「浄水器ビジネス」とかね、「ネットワークビジネス的なもの」「カルト宗教団体的なもの」になるんですよね。

だから、グラミン銀行とユヌス氏のことはかなり僕尊敬してるんですけど、あれじゃ本当の意味で貧困問題が解決したりはしないんですよね。あれはあの発展段階の国だからできてることなんですよ。

で、その「先」へ行くにはどうしたらいいのか?ってことを、そういう「グラミン銀行がやろうとしていることが先進国の中ではこうなってしまう」というタイプの集団たちに「中にちゃんと入って体感」した自分として思うんですが、ああいうムーブメントが「意味ある活動」に接続されたら、人間の経済はもう一歩大きな需要を得ると思うんですよね。

つまりここでも、「ジックリ考えた新しい価値」的なものをほそぼそとやってる人(陰樹的な卵を用意している存在)と、「イケイケドンドン的なエネルギー」とが分離しちゃってるから問題なんですよね。

今は、その「イケイケドンドン的なエネルギー」が、ただ「詐欺的なビジネス」に直結して噴出して終わってる一方で、じいいいっくり「本当はこういうことが世の中に必要なんじゃないか」的なことをやってる人たちが、社会の片隅でずううううっと永遠に完璧を目指して研鑽を続けていたりするギャップがあるんですよ。

で、このプロセスの中には、人間社会の中に「科学的知識」ってのをどうやって「共有」するのかっていうレベルの問題があるんですよね。

「科学的知識」を「共有する」っていうことは、まあ「科学的知識」ってのがそのもの自体で存在する真実性を持ったものかどうかみたいな話は別として、こと社会で共有するプロセス自体を見ると、それは「権力闘争」なんですよね。

最先端の科学者は、「これはただの最善仮説にしかすぎない」とかいって判断を保留して生きていくことができるんですけど、その「学歴的に守られた世界」の外側にある「人間の生活の全集合的性質」から考えると、「そんなこと言ってらんねえ」的な世界があるんですよ。

で、今はそこに「科学っぽさ」を演出した「本当にそれ効くのかよ」みたいな商品が溢れてるわけなんですけど、でもそこは本来「科学的にどうこう」じゃなくて、「もっとこういうことしたら楽しいよね」っていう価値交換が大量に行われるべき領域であるはずなんですよね。



インターネットの普及によって「四角い会社の枠」以外の場所で沢山の経済行為が行われる時代になってるわけですけど、それはうまく広げていくと、「新しい経済」が立ち上がる予感はあるんですよ。

でもその為には、ただ「アクセルを踏ませる」だけじゃダメなんですよね。

よくアメリカのベンチャーみたいなアニマルスピリットが大事なんだ!日本にはそれが無いからケシカラン!って言うようなことを言う「グローバリズムの威を借る狐」さんがいらっしゃるんですけど、そういう人が生まれてこの方偏差値主義の学歴システムに守られて生活してきた内輪の生活圏の「外側」まで行けば、アニマルスピリットなんて掃いて捨てるほどあるんですよ。

だからアニマルスピリットを焚きつけるみたいなことは全然いらないんですよ。余計に詐欺的なビジネスとかヤバイ新興宗教団体が増えるだけなんで。

そういう「クソミソいっしょくた」な感じの「アニマルスピリット礼賛」みたいなことをすればするほど、むしろ「普通の日本社会」の方が自分たちの長所を崩壊させないために物凄く「リスク回避的」にならざるを得なくなる因果関係があるんですよね。

だから、「無理押しにリスクを取らせようとする」んじゃなくて、むしろ「詐欺的ビジネス」に対する「適切な抑圧力」をかけていきながら、「今は商売になりそうにないと思われている新しい商行為」が「課金」されるような流れに持っていくことが必要なんですよね。

で、日本経済って言った時に、凄い目立った「大企業」だけの話になってしまいがちなんですが、こういう「カオス的な領域」が、「適切な方向」で、しかも「+5%ほどの成長」を常にできたら、凄いインパクトが大きいんですよね。

アンチグローバリズムという意味で「保守派」な人が、「内需中心の経済」「小商いのススメ」とか言うビジョンを述べられることがありますけど、そういう可能性は、こういう「カオスな領域」の「質的転換」から生まれると思うし、そのこと自体は絶対可能だと自分は思ってます。

ちょっと大きな話になってますけど、こういうことの全体像を、時間をかけてグローバル資本主義最前線的に明晰な言葉で、英語化が十分可能なレベルで最終的にまとめて行く仕事をやっていけたらいいなと思っているところです。

とにかく船井に入るまでのこの「カオスすぎる体験」はね、自分の中にゴッソリ違和感として残ってるんですよね。そのへんが、今でも自分が、自分の発言の長期的一貫性について凄い気にしちゃうようになってる理由なんですけどね。

経済っていうのは、ほんと「あらゆる生身の現象」が関わってくるんで、例えば今伸びてるタイプがあるからそれを伸ばしてそれ以外排除しちゃえばいいじゃん・・・みたいな単純な発想では「全体の豊かさ」は決して戻ってこないんですよ。

そうじゃなくて、「相互に矛盾しない形で、全体の活動量が増えるように持っていく」っていうかな・・・まあ、そういうことが必要なんですよね。



ともあれ、そんな感じで、「カオスすぎる領域」に触れたあと、船井総研で「和風なコンサルティング」にも従事してたんですけど、そうやって「生身な体験」が積み重なっていく体験の中で形になったのが、前回や前々回に書いたような、「経済全体に原生林のような豊かさを回復していくビジョン」だったんですよね。

で、それを「実現する」っていうことになると、「企業単位」だけの働きかけ、コンサルティングでは限界あるな・・・って思ったんですよ。

なんでかっていうと、「企業単位」で物事を考えると、結局「個々人の内奥からのインサイドアウトで」みたいなこと言ってられないことが多いですからね。

だから、「企業単位」で考えると、まあ経営者なら別ですけどコンサル的な関わりで行くと、「今必要なことはコレです、四の五の言わずにやってください」っていう形でプロジェクトを取るしかなくなってしまうからね。

そういう風に考えると、「陰樹的転換が必要」って言っても、全然「陰樹さん」にはアクセスできないし、「陰樹さん」を炊きつけたら何か新しいものが生まれるってことも示せないじゃないか・・・・ってなったんですよね。

それで、結局、「会社単位のコンサルティング」は、それ自体の必要性を否定するわけじゃないけど、自分が「やらなくちゃ」と思っている「10年後からの日本の大反撃のためのバックボーンづくり」という観点からはフィットしないな・・・って思ったんですよ。

で、結局「個人の人生戦略コンサルティング」というか・・・まあ、名前はともかく、「個人」相手に「個人の内奥」から転換を起こすような仕事をしなくちゃな・・・と思って独立したわけです。

ここからは、


3 今からやっていこうとしていることは何か? (未来の方向性編)


に含めて話してしまうことにしようかな。





3 今からやっていこうとしていることは何か? (未来の方向性編)

で、独立してからは、今は「大道楽人生実践会」という名前になってる会員組織をやってるんですけどね。(ちなみに、著書を読んで連絡してきてくれた経営者の方に依頼されて、企業単位のコンサルティング的な仕事も別にやってはいます)

結局、「会社単位」で、とりあえず「決めるべきことは決め」つつ、「個人単位」では、バラバラに「個人の思い」を大切にした「陰樹ならではの希望」ってのを形にする動きを一貫してエンパワーしていこうっていう趣旨なんですよ。

で、今のところ一番「ならでは」の価値が出せたな・・・っていうのは、50代の技術職のオジサン(特にバリバリ働くデキル人ってタイプではなかった)が、時間かけて色んな大学教授や機関にアクセスして、全く新しいエコ系の事業を立ち上げた・・・っていう事例があるんですけどね。(守秘義務的なのがあってあまり詳細話せないのがアレなんですが)

日本における「技術の種」って沢山あるんだけど事業化できてない・・・っていうのを、「仕組み」で乗り切ろうとするのはね、まあやったらいいと思うんですけどね、結局日本は「仕組み」を「個人の自然な気持ちの流れ」を無視してブチアゲては有名無実化するビョーキですからね、だからもっと「内側からの補完」をしていかないといけないはずなんですよね。

で、「俺が技術作ったのに事業化されない、なんでだよ!!」っていう「不満持ってる個人が勝手に動く」とかね、「こういうのがあったらいいのになあ」って思っている「技術者」が、「その専門技術に関する人脈を勝手にファシリテートする」とかね、そういう「下から温泉が沸くみたいに」っていう風な動きをどんどん活性化させることが大事だと思うんですよね。

「最先端の技術を作っている人」自身はあんまり視野が広くないこと多いでしょうから、「最先端に触れられるリテラシーはあるんだけど普段はその周辺で仕事してる」みたいな人が、「手弁当で勝手にやる」みたいな動きをもっと活性化できないかな・・・と思っていてですね。

でも、そういうのって、「今ある普通」の「裏側」の「逆張り」に対する「物凄く一貫した意志力」が必要ですからね、だからまあ、会員組織みたいにして、そういう「大道楽」をやるんだ・・・っていう風にエンパワーするといいなと思ってるんですよね。

そういう技術系の事例以外にもね、サラリーマンだった人が普通に独立起業してガンガン稼いでるとか、転職したベンチャーの会社を自分の会社みたいに自由自在に操って新しい事業を生み出してるとか、そういうアッパー系の事例も結構あります。

それ以外には、なんか子供の頃父親と大げんかして、もうかなり長い間音信不通だったんだけど、ある時期にだんだん考え方が変わって、とりあえずは会えるぐらいにまではなったとかね・・・・なんか、そういう「夜回り先生の代わり」みたいな範囲のことも結構やっててですね。

自分の弟の話ではあるけど、完全にニート状態でもう未来の希望もなんもない状態から、テニスコーチとしてちゃんと働いてる状態にまで転換したとかね。

まあ、要するに「今の時代の”デキル人扱いされる性質”」の「外側」に落ち込んでしまってるんだけど、「でも自分はこれが大事だと思うんだああ」っていう領域を、時間をかけて拾い上げて「新しい経済価値」に転換していく、その「ゆりかご」になるような互助組織・・・みたいにしたいってことですね。

ある程度「成功」しはじめると、僕の持ってる「夜回り先生的性質」が「ダメ人間に甘すぎる」ように見えるらしくって、ちょっと離れちゃう例もあるんですが、まあぼつぼつやってます。

そういう例でも、おかげさまで今ある「狭いデキル人像」からは遠い自分のキャラクターに悩んでいた時代を振っ切る形で、自分ならではの仕事の作り方を次々やっていける人生にできた的な感謝の言葉は必ず貰ってるしね。

そういう「物凄く狭くなってるデキル人像」からこぼれ落ちた存在の、「本来発揮されるべきだった能力」を発揮できるように一貫してエンパワーしていくってことが、今絶対必要なことだと思うんですよね。

もし興味がある方がいらっしゃれば、こちらからご入会ください。



結局、この「大道楽人生実践会」は、コンサルプロジェクトで言う「パイロットプロジェクト」みたいなもんだと思ってるんですよね。

「パイロットプロジェクト」っていうのは、「ある戦略・方向性」を組織に導入する時に、まずある一部だけでそれを実験的に導入して、それが機能するか、実践上の注意は何か・・・っていうのを調べるプロジェクトのことなんですけど。

「実践会」から、物凄く巨大な成功事例を出せたらいいな・・・とは思いますけど、でもそういう風に持っていくには、「夜回り先生的性質」は沈黙させて、次々切り捨てるアッパーな雰囲気にしていかなくちゃいけなくなったりして、それはそれで「バックアップとしての機能」と矛盾するんですよね。

だから、ある程度「育って」来たら、そこから先はむしろ世の中にベンチャー・キャピタル的なものは沢山あるわけですから、そういうところと一緒になって、「色々切り捨てながら進んで」くれないと規模が出せないところがあるんでね。

ともあれ、自分としては、そういう「ゆりかご」を運営しながら、経済の色んな現場に会員さんを通じて「間接的に常に接して」行きながら、その「パイロットプロジェクトに存在する意義」を、「共有認識」として共有するための「本を書く」ことを、もう一本の柱にしていきたいと思っています。

今の「グローバリズム的に単純化された世界」に対する「違和感」っていうのは、日本中に物凄く濃密に共有されているからね。

でも、だからといって、「グローバリズム全拒否ってわけにもいかない」が、「薄っぺらくて他人ごとみたいにデジタルなことしか言わないヤツらはムカつく」・・・っていうあたりに蓄積されている「違和感」っていうのは凄いあるはずなんで。

それは、バラバラにまとまらずにいると役に立たないというか、むしろ「スムーズに”決める”ことを邪魔する存在」になってしまうわけですけど、その「なんとなくの違和感」を「薩長同盟的方向性」にまとめあげる「ムード」さえ生み出せれば、凄い可能性が生まれるはずですからね。



で、やっぱり、「過去20年間決められなかった過去」は、「日本ならではの価値を保存するためだったんだ」っていう風に考えるべきなんですよ。

そこで、韓国やシンガポール的な、「ただグローバリズムに無理して合わせるだけ」で成功しているタイプとは違う、「拒否はしないが、システムを利用してより多様で豊かな実質を表現できる存在」に日本はなれるし、なるべきだし、そういう方向でないと結局日本はアメリカに勝てないし、韓国やシンガポールにすら勝てないんですよ。

なぜなら、そこで「荷物が多い部分」にこそ「本当の良さ」が眠ってる国が「荷物の軽さで勝っている国」と同じ事やって勝てるわけがないからね。

10年前に僕が、

「グローバリズムに対応しろ!」っていう流れが完全に日本社会に定着して、今度は「グローバリズム対応しろって言う流れの中でならどんなカスでも売れてしまうバブル」みたいな状況になった時に、やっとその「両者をうまくシナジーさせる統一的な見解」が必要とされる時代が来るだろう 


と思った時代が、「そろそろ」来てると思うんですよね。

「古い入れ物」は次々と崩壊していって、「ならではの価値」を「古い入れ物」の中で実現する流れは一時的に阻害されちゃってますけど。

「新しい入れ物」の中で、ちゃんと「原生林のような豊かさ」を消さずに実現できる、そういう「最後の一歩に残された大ジャンプ」が、我々日本人の目の前にはあるんだと思ってます。

「21世紀の薩長同盟を結べ」

には、そういう内容を、物凄く真剣に詰め込んで書いたので、あなたに届けばいいなと思っています。

結果として、たとえばバリバリのグローバリズム的な価値観でお仕事をされている方にも、「現場・現場・現場的な価値観の方にも、かなりアカデミックな立場の方にも」、「それぞれの立場」で、ちゃんとそれぞれ高い評価をいただけている本になってますんでね。

↑これだけ立場が違う人に、同時にちゃんと熱意を持って読んで貰えてるって、それ自体で結構レアなことだと思うんですよね。

で、そうやって「両側にソレゾレ響く言説」が今必要なはずなんですよ。

「片側には響くけどどちらかを切り捨てる言説」っていうのは、結局「逆側の人の抵抗」に合うから、そもそも「現実的に実現不可能」ですからね。それは「本として売りやすい」だけで、結局「現実的実効性がない」んですよ。

見るべき人は見てくれてるっていうか、その本を読んだ、「出版業界ではかなりの実力派」な人から依頼は結構来てるしね。「探し続けていた答えを見つけた思い」とかおっしゃっていただいたりしているし。

気づいたら今では、今年中ぐらいのスパンで、さらに3冊出す話がまとまっているので、その「蓄積された違和感という爆薬庫」に、「薩長同盟的ビジョンというトータルイメージ」を届けられるように、今後ともマイペースで頑張っていこうと思っています。



ここまで長い自己紹介を読んでいただいて、ありがとうございました。

この自己紹介の中で、「否定的な文脈で扱った」位置にいらっしゃる人は、多少不愉快な思いをされたかもしれません。その点は、僕の実力不足だと思うので、心苦しく思っています。

僕が言いたいことは、「どんな立場の人だって本来的には必要なんだ」ってことです。

グローバリズムへの対応を叫ぶ経済原理主義者も必要。日本らしさの保護を叫ぶアンチグローバリズムだって必要。コンサル的スキルを学んだプロフェッショナルも必要、現場的密度感を根をはって蓄積する人も必要。

ただ、それらを「総体として噛み合わせるためのオリジナルな発想」が無い限り、ただ「グローバリズムに対応しろ、うまく行ってる国の真似をしろ」ってだけじゃダメだってことです。

別に僕の会員組織に入ってくれなくてもいいし(僕の本はぜひ読んで欲しいですけど)、倉本圭造はなんかいけすかないヤツだと思ってくれてもいいんですけど、その「全体として噛み合わせるオリジナルなビジョンを作ろうという視点」は、ぜひ持ってほしいなと思っています。

そうじゃないと、今は「どこかの戦犯」に「全部おっかぶせ」てしまうような「非難の論理」が暴走しすぎですからね。




最後に、芦生の森で撮った原生林の写真を一枚。なんか、ほんと「もののけ姫」的空間だったんですよね・・・”シシ神さまの森”だっけな。(クリックで拡大します)





我々日本人は、「他国が作った大雑把な何か」を「物凄く高度に運用する才能」の持ち主です。「グローバリズムシステム」だって、同じようにできますよ。

そして、「原生林の奥地にあるような、タフで豊かな経済」を実現しましょう。そこには「血も涙もない生存競争」は確実にあるが、それが「多様性のない貧困な森」には繋がっていない。

そこから学び、「薩長同盟的解決」に向かえば、これからの日本は絶対明るいですよ。

そもそもの性質が全然違う他国の猿真似でなく、世界のどこにもない自分たちだけの「道」を、想像力を全開にして自信を持って歩いて行きましょう!



そうそう、最近ツイッターを始めました。古くからの既存会員さんには「ツイッター?けっ」的な文化圏の人が多くてちょっと寂しい感じなので、フォローしてくださると嬉しいです。→@keizokuramoto

あと、「薩長同盟本」から2年たって、ずいぶん僕もレベルアップした状態で書いた二作目、「日本がアメリカに勝つ方法」もぜひよろしくお願いします。

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