新刊『日本がアメリカに勝つ方法』序文公開ページ。

お久しぶりです。倉本圭造です。

2月26日に晶文社から新刊、「日本がアメリカに勝つ方法」が発売されます。アマゾンページは→コチラへ。

って、なかなか野心的なタイトルなんですが、「タイトル的に凄い安易な日本礼賛本・・・かと思ったら全然違う真面目な本だった」・・・って色んな人に言われてるんで、偏見持たずにとりあえず一度手にとっていただければと思います。

以下に、その本のの「はじめに」の部分を転載します。

あ、そうそう、なかなか、装丁がカッコイイんですよ。


(クリックで拡大します↑)

この大友克洋的世界観(笑)ぜひ実物を手にとってオビを取って眺めてみてください。

編集者さんに「映画・戦艦ポチョムキンのポスターみたいなロシア・アヴァンギャルド(ロシア構成主義)の手口で、マイリー・サイラスのParty in the USAのPVみたいな世界観(特にリンク先1分40秒ぐらいの星条旗が翻るシーンのような)を表現する感じで」って言ったらデザイナーさんとコラージュアーティストさんの大活躍でこうなりました。

あと、オビの紹介文に、ミドリムシ培養ベンチャーのユーグレナ創業者、出雲充くんがナイスな紹介文を書いてくれてます。


サンデル先生、
これが『ほんとうの正義の話』です。


もう少し長い文章を書いてくれたのを短くアレンジしたものが載っているんですが、彼からの紹介文を読んだ瞬間「おおお」と思いました。なんというか、アメリカだけが「正義」やと思ってるんちゃうぞコラァ!みたいな。

今の時代を端的にまとめると、

世界におけるアメリカの存在感が相対的には減衰していく時代

と言っていいと思うんですが、それがただ

「誰も責任持ってリードしてくれないから混乱がどんどん広がっちゃった時代」

になってしまうのか、

「アメリカが一歩引いた分、諸国民の”良識”みたいなのが責任を持って安定性を確保するようになって、いやーいい時代になったなあ」

ってなるのか、そのどちらかになるかは、これからの日本にかかってるんですよね。

いい国、いい世界、いい時代にしましょう。

それでは、以下「序文」の転載をどうぞ!

倉本圭造





■はじめに


●今の日本は、まずアメリカに勝つつもりじゃないと、現状維持すらできません

本書のタイトルに含まれている、

「日本がアメリカに勝つ」

というフレーズを見て、「ヒソヒソ、この人右翼のアブナイ人なんじゃないの?」などと思わないでいただきたいです。

本書の元々のタイトルは、「薄明かりが見えた日本経済が、このまま伸び続けるために必要な第四の矢」というものだったのです。

しかし、そういう文章を書いていると、なんかそもそも、「日本経済が伸び続けるなんてことがありえて良いのか?」という日本人の過去20年の負け癖の潜在意識的重圧と常に戦い続けながら一行一行書いていく……みたいなことになってしまっていたんですね。

いやいや、どんな経済だって伸びる余地はありますよ。伸びないなんてことがありますか。というトーンの文章を書けば書くほど、「想像上の読み手さん」が、

「でもねえ……だってねえ……そうは言ってもねえ……なんと言っても日本だしねえ……そりゃあ勢いのよい外国ではそうかもしれないけどねえ……そりゃあアメリカではそうかもしれないけどね……」

とグチグチ言ってくるみたいな状況の中で、なんというかそもそも根っこのところの「世界観」自体が、もうほんと、ねえ?

この我々日本人はこれからも未来永劫衰退の一途を運命付けられているかのような、根底的な心の「負け癖」みたいなものは一体何なのか? ということを考えると、結局それは、

「アメリカ(的なもの)からの精神的自立」

が、先に必要なんじゃないか? ということを、深く痛感するようになったのです。

誤解しないでいただきたいのですが、「アメリカ的なものからの精神的自立」といった時に、「アメリカ由来の優れたものを全否定して引きこもろう」「日本には古来からの日本のやり方があるんじゃ黙ってろ!」というような、そういう方向の話をしたいんじゃないんですよ。

むしろね、逆なんですよ。

本当に精神的に「アメリカ的なものからの自立」ができていたら、無理やりに「拒否」する必要もなくなるんですよ。

アメリカに限らずあらゆる外国由来の良い部分を、「お、コレええやん」的な軽さでホイホイ取り入れる自由さも生まれるし、「まあ、ここんとこはちょっとマネせんほうがええな」っていうところは適切に無視しながら、自然に付き合っていくことが可能になるんですよ。

さらに言うなら、最近よくある「政治家の問題発言」みたいなものも、「別にそんなこと言わなくてもいいじゃん」と“日本人みんなが自然に”思えるようになるんですよ。

「政治家の問題発言」は確かに問題ですが、しかし「彼らがそういう発言をせざるを得ない状況」になっている「根本原因」の方を放っておいたまま、「発言者」の人格やら生い立ちを非難するようなことを言っていても何も生産的なことはありませんし、そもそもそういう非難の仕方はフェアではないですよね。

「問題発言をしてしまう政治家」の裏には、「そうやって吠えていないと自分を保てないほどに誰からも尊重されない状況にいる自分たちらしさ」という問題があり、それをちゃんと「適切にうまく伸ばしていってあげられるムーブメント」がないからこそ、行き場を失った「自分たちらしさを自然に発揮したいよ!」という思いが、今のところは右翼的な問題発言や、外交面における過激すぎる主張などにつながっているわけですよ。

それもこれも、結局「アメリカ的なものからの精神的自立」ができてないからこその問題なんですよね。



●「第四の矢」は、「違う立場の人たちとも共有できる国家ビジョン」

では、「アメリカ的なものからの精神的自立」とは一体何なのか?

それは、「新しい国家の共有ビジョン」を持つことです。もともとの本書のタイトル、「薄明かりが見えた日本経済がこのまま伸び続けるために必要な第四の矢」における、「第四の矢」も、この「新しい国家の共有ビジョン」のことでした。

どういう「新しい国家ビジョン」が必要かというと、それは「立場の違いを超えて共有できるビジョン」でなくてはなりません。

今の時代、色んな立場の人がいます。「古き良き日本」を大事にしたい人たちがいる。「グローバリズム時代の新しい開かれた社会」みたいなものを大事にしたい人たちがいる。「経済の新陳代謝」こそが大事だと思う人もいる。「格差是正」こそが一番大事だと思っている人がいる。

それぞれの立場が尊重され、それぞれに発言する権利が与えられていることは非常に大事なことです。しかし、ある程度小さな企業や、ワンマン創業者が独裁権を持っている会社でもない限り、ましてや「地域」単位、「国」単位で考えた時には、「別の考え方」を持っている人たちのことを無視しては実効性のある具体策を練り上げることができません。

インターネット時代になって、みんなが「同じ情報源」を得ている時代でなくなった結果、今の人間は知らず知らずのうちに、「自分が得たい情報だけを得て、自分が信じたい情報だけを信じ、自分が信じたいものを一切批判しないで簡単にダヨネーと言ってくれる人たちだけとSNSで繋がって、どんどん過激化した意見を言えば言うほど身の回りの小さいコミュニティから喝采を浴びられる」ような状況にあります。

そういう方向でどんどん言論を過激化するということは、要するに「逆側の立場にいる人間」を、とにかく「全力で否定し全力で罵倒する」ための理論武装を完璧に行っていくということです。

そうすると、「ある範囲」までは確かに賛同者が簡単に得られる。しかし、同時に「逆側」に「反対の意見を持っている人たち」が沢山出てくるので、「大きな会社単位」「地域単位」「国単位」みたいな状況になってくると、どこにも進めない状況になってしまうのです。

どんな古代にも、20世紀にも、そういう状況は少しはあったでしょうが、その傾向は今やどんどん加速しています。

そして、その結果として、21世紀の世界は、「20世紀までの世界」とは「違うゲームのルール」が生じてきているのです。その流れをキチンと捉えることが、我々日本人には非常に大事なことです。
なぜなら、

この「21世紀のゲームのルール」は、当初日本人にとって非常に不利なように見えつつ、時間が進むにつれて日本人にとって圧倒的に有利、あるいは「日本人のために作られたゲームのルールじゃないのコレ? いやーほんとこんなに優遇していただいてスイマセンねえ」と言っていいほどに、「我々の本性」とバッチリみあったもの

になっているからなのです。

図0―1と図0―2をよく見てください。


(図0-1 クリックで拡大します↑ 本ブログの画像はすべてコピーレフト≒出典を明記する限りにおいてご自由に再利用可能です)



(図0-2 クリックで拡大します↑ 本ブログの画像はすべてコピーレフト≒出典を明記する限りにおいてご自由に再利用可能です)


この図が、「21世紀のゲームのルール」と、「日本人の本来的特性」が、本来はいかに相性が良いかを示した図です。

そして注意していただきたいことは、この2つの図は「21世紀のゲームのルールにおける日本の優位性」を表すと同時に、「なぜ日本が、21世紀初頭の10年間において調子が悪かったのか」をも同時に同じ理屈で説明する図になっていることです。

解説しましょう。

どちらの図においても、技術的・社会的変化において今までのルールが通用しなくなった社会において、どういう存在が力を発揮しやすくなるのか?ということを分析した図になっています。

横軸にとっているのは、「そのムーブメントが巻き込んでいる人数」です。そして、縦軸にとっているのが、「そのムーブメントの実効性」です。

今のようにインターネットが発達した時代においては、図0―1のように、「理解しあいやすい人たちとだけドンドン盛り上がっていく」戦略を取った方が、最初はお手軽にムーブメントを大きくすることができます。

図0―1は個人に「空気を読まない」方向で後押しをする社会の例なんですね。そうすると、周囲のことや「みんなのこと」なんかを考えることなく、「個人」が「個人の端的な発想」でどんどん周りを巻き込んでいく行動を簡単に起こすことができます。

その結果、お互い立場が似ていて、ほとんどコミュニケーションに困難がない、お互い批判しあわずに済む人たちだけと付き合って、「それ以外」の人たちを徹底的に排除し非難する理論武装を過激化させて……いけば、簡単にある程度の大きさまでのムーブメントになります。

しかし、問題はその「先」です。

そういう風なムーブメントを起こしていくと、「逆側」に、「反作用」として大きな「敵」ができます。そして、いずれそういうムーブメントは、巻き込む人数がある範囲を超えて大きくなってくると、結局「逆側の敵」の存在をどうしようもなくなって頭打ちになってしまうのです。

色んな例をあげることができますが、今回は、その親玉も親玉、「アメリカ政府」をあげてみましょう。

拍手喝采を受けて成立したオバマ政権ですが、今のアメリカの議会は「左右両側の極論」を言う人が力を持ちすぎて、法案が全然通せていない状況にあります。

特に2010年の中間選挙で共和党が下院の多数を握ってからは顕著で、11年4月には予算が通せなくてアメリカ政府が「政府閉鎖」寸前になったり、同年7月の「財政の崖」危機では、あやうくアメリカ国債がデフォルト(返済が不可能になること)寸前のところまで議会とモメてしまいました。他にも重要な法案がたびたび「左右両側の極論を言う人たち」の間の合意が取れずに身動きが取れなくなることが続き、「誰もがオカシイと感じているのにちゃんと物事が進まない」状況になりつつあります。

(……などと書いていたら、原稿が本になるまでの間の2013年10月には実際に政府閉鎖になってしまうわ、国債のデフォルトはギリギリのギリギリでなんとか回避したものの暫定措置に過ぎず、これからも度々蒸し返される可能性が存分にある状況は変わらないわ……という、世界中を呆れさせるような醜態をさらしてくれましたね。

ああいうのは、暴走している政治家たちの中に、どうせこれぐらいの醜態をさらしても、世界のアメリカに対する信任は揺るがないだろうという甘い見通しの慢心があると同時に、より広範囲のアメリカ人の集合無意識的には、もう世界中の問題の最終責任を一手に引き受けたりする立場からは降りてしまいたがっているような諦念を感じます。

しかし別の言い方をすればそれは、今までならありとあらゆる問題について“アメリカが悪い”ということにしておきさえすれば自分は100%の善人扱いでいられた世界中の人たちが、“本当の責任”を果たさなくてはならなくなっていく変化だとも言えますね)。

より大きなレベルで「世界の中のアメリカ」というものを考えてみても、イランや北朝鮮の核疑惑、結局どっちの勢力に肩入れすればいいのかわからずくすぶり続ける中東問題、消えない国内外のテロ……また最近では元アメリカの情報職員スノーデン氏の暴露など、

(2000年代のように)「アメリカ的なものをゴリ押しし続ける」ことがだんだんできなくなってきている……一方でアメリカはもうその道から降りることもできないという袋小路

にハマりこんでいることが、あらゆる側面において顕著になってきている時代だと言えるでしょう。

これは、図0―1のグラフを見れば原因がわかります。

つまり、「最初の段階でのすり合わせ」を一切せずに、あらゆるノイズを無視してゴリ押しで世界に展開していくと、「ダヨネーと簡単に言い合える存在」とは急速に結びつくので、ある段階までは凄いスピードでムーブメントが起こせるわけです。

その「ダヨネーと簡単に言い合える存在とだけ、簡単に盛り上がれるムーブメント」が伸びている時は、「ああ、このままコレは世界を制覇して、一色で塗りつぶしていっちゃえるんじゃない?」とさえ思えてきます。

しかし、そういうムーブメントのやり方が、時が過ぎるごとにどんどん通用しなくなっていく時代が21世紀なのです。

なぜか? 21世紀にはネットがある。グローバリズムがある。あらゆることが可視化され透明性が保たれることが求められる時代である。

そういう「21世紀的な状況」においては、まず、

「空気を読まずにゴリ押しする存在」が最初の10年を制覇

しました。しかし、

「ゴリ押しする存在が無視して踏みにじったもの」が、当然の権利として逆側に盛り上がって「強大な敵」となってしまうのも21世紀のルール

なのです。

そして、いざ「無視して突っ走ってしまった存在」は、そこから先ニッチもサッチも行かなくなります。引くに引けない。押すに押せない。今の時代、「逆側にいる存在」がムカつくからといって虐殺をしたりするわけにいかない。原爆を落として焼き払ってしまうわけにもいかない。無理して押し切ろうとしても、どこかで不意打ちの反撃を受ける。

つまり、21世紀に入ってからの最初の10年と、2010年以降これからの時代とは、「ゲームのルールが違う」のだということです。

より正確に言うと、

「ゲームのルール、構造」は、21世紀に入ってからずっと同じだったわけですが、「グローバリズムが巻き込む人数」が加速度的に増えてくることによって、「その同じルール」が効いてくる影響が正反対の方向を持つようになってくるのだ

というわけです。



●実は21世紀の「ゲームのルール」は日本のためにあると言っても過言ではない

一方で図0―2の方をよく見てください。


(図0-2再掲 クリックで拡大します↑ 本ブログの画像はすべてコピーレフト≒出典を明記する限りにおいてご自由に再利用可能です)

21世紀的に世界が緊密に結びつき、かつ公明正大な透明性が常に求められ、古い共同体が持っていた人々を無理やり従わせるような強制力が消えてくると、確かに当初は合意形成に非常に苦労をします。

20世紀の日本にあったような、「よっしゃよっしゃわかった! もう何も言わんでええぞぉ! ぜえんぶ俺に任せとけい!!」とかいうような親分肌の人間を根こそぎ「透明性と公平さを求めるシステム」が引きずり下ろしてしまうので、誰も大きなリーダーシップが取れなくなる。みんながそれぞれ個別には死ぬほど頑張っているんだけど、「大きな広がり」を自然に生み出すような力がどこにもないので、まるで南方の孤島に置き去りにされた旧日本軍兵士のような孤軍奮闘を強いられる。

そして、大きく方向を決めて動かしたいのにそういうことをする人間が全員足を引っ張られて潰されるので、結局どこにも進めなくなって小さな範囲にギュウギュウに詰め込まれて息苦しい。

必死に頑張っても成果が小さいものしかでないので殺人的な長時間労働も必要になる一方で、こんな生きづらい国なんか滅んでしまえ!と思う人も出てくる。そういう風に思ってしまってもとりあえず毎日生きていかなくちゃいけないから、無理やりにでも自分たちを奮い立たせる右翼的な叫びが必要になるし、それはたまに近隣諸国との不仲の原因になってしまう。そしてそうやって、あらゆる閉塞感が積み重なっていくと、子供を産んでこの社会を受け継いでもらいたいという気持ちも弱くなって少子化も進む。

それらは全て、図0―1の、グラフがまだ右の方へ動いていない時期だからこそ起きている現象です。もしあなたが日本人なら、身に覚えがありすぎるほどあるのではないでしょうか。

その時期を過ごしている人間からすれば、「もうこのシンドイ時代が永遠に続いてしまうんじゃないか?」と思っても仕方がない。あなたもそう思っていませんか?

どれだけ前向きな話をしようとしても、「でもなあ……だってなあ……なんせ日本だしなあ……日本がこれから良くなるなんてなあ……そりゃあアメリカとかだったら良くなるイメージは湧くけどなあ……なんせ日本だよ? 日本が良くなっていくっつーのがどうも……イメージできないっていうか……」みたいになってしまっても仕方がありません。

しかし!! しかしですよ!!

この失われた10年、20年の間に、我々は、「その先」を求めてあがいてきたのです。「ゴリ押しでない新しい合意形成」のあり方を創りだそうとあがいてきたのです!!







え? そんなものどこにあるの?

その答が本書のテーマなのです。

その本書はこれから世に出るところですが、「どちらにも進めなくなってモメ続けているアメリカ議会」を尻目に、「衆参両院の安定多数を押さえた長期安定政権が誕生したばかりの日本」という「既に現実に起きている現象の対比」自体が、この「図0―1と図0―2の違い」を明確に表していると言えるでしょう。

今後日本は、とりあえず「共有できる1つの政権」を持って、色んな政策を機動的に行っていける国になれる「舞台」は整っているわけです。

もちろん、安倍政権が好きな人も嫌いな人もいるでしょう。安倍政権のあり方の、「ここは許せない」というようなものが明確にある人もいるでしょう。

しかし、既に自民党の沖縄支部が選挙中に「アメリカ軍基地の県外移設」を主張していたように、「自民党の安定政権」になったからこそ、今度は「安倍政権に批判的なエネルギー」もちゃんと「吸い上げられる情勢」にどうせなります。などというのはある種の「開明的」な方向の原理主義者の方には非常に「日本的」で嫌ぁな気持ちがする言い草かもしれませんが、しかし、今重要なのは「そういう我々のサガ」を否定せずに認めて、その上で「本当にみんなのためになることを具体的に実行していく」ことに全力を尽くすことですよね。



●安定政権ができた今こそ、「第四の矢」が必要

そういう状況だからこそ、今まさに「第四の矢」としての「共有できる国家ビジョン」が必要なんですね。

ある特定の人たちだけが「逆側」を押し切ってやろう!と燃えていて、たとえ「押し切った」としても、その「押し切られた人たち」がフテクサれてしまって「もういいやこんな国」ってなってしまっては、一時は良くても長期的に持続的かつ安定的な経済成長を生み出す力が湧いてくるなどということはありえません。

そして、この「極論を言う両者の間に、ゴリ押しでない形でちゃんと合意を形成する文化」というのは、これから21世紀にはどこの国にも普遍的に必要なものになるのです。

つまり、今日本が直面している問題は「世界のあらゆる人間がこの先直面する問題」なのです。

この問題に、「自分たちが自分たちだけの事情について自分たちなりの解決策を内輪で生み出す」という「我々日本人の一番得意なこと」をやりきれば、その結果生まれるものが「世界における喫緊の普遍的問題性」を帯びることになるわけです。

今までのように、高度に「自分たちらしさ」を発揮してみたものの、結局「世界のよっぽどの物好きさん」たちに熱烈に迎えられるだけに終わってしまい、その先は結局「なんかヘンな人たちだよね」で済ませられてしまう……というような「20世紀日本の不幸」を続ける必要がなくなるわけです。

「自分たちらしさ」をどこまでも無制限に追求していった先に生まれるものが、「21世紀の人類にとって普遍的に必要な内容」として受け入れられる可能性を持っているわけです。

私は大学卒業後、マッキンゼーというアメリカの経営コンサルティング会社に就職し、そこで「日本の本当の強み」と「アメリカンな方法論」との間の消せない矛盾に直面し、「これはなんとかしなくちゃな」という思いで過去の10年間を過ごして来ました。

今の日本は、「アメリカンな方法論に親しみ、グローバリズム側の立場にいる人」と「日本の現場的な方法論に親しみ、日本の古来の共同体の側の立場にいる人」の「どちらか」に特化してしまっている方が多く、そのこと自体はその個人のこの時代における有能性を獲得するために不可避なことであるとはいえ、両者をインテグレート(統合)するような存在がいないと、これからの日本は本当の力を発揮することができない状況にあります。

その問題意識から私は、「恵まれたエリートビジネスマン」的なポジションにいてはわからない、「今を生きる日本人の全体像」を過不足なく体験として知るため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、時にはカルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働くフィールドワークをやったり、「純和風のコンサルティング」で有名な船井総研で働いたりした後、今度は「アメリカンな方法論では窒息してしまうような、“地味な個人の粘り強い貢献”を引き出す」ような活動の中で、当初は誰からも不可能と言われたエコ系技術新事業創成や、ニートの社会再参加、元会社員の独立自営初年黒字事業化など、幅広い「個人の奥底からの変革」を支援する仕事をしています。

私は、グローバリズム最前線で戦っているゴリゴリの経済合理性至上主義者のあなたの気持ちも“体験として”わかります。毎日毎日他の余計なことを考える余裕もないほどに長時間働いても月給14万円のブラック企業で働いているあなたの気持ちも“体験として”わかります。透明性の高いクリアーな論理がどこまでも何の滞りもなく通用していくようなロジカルさを愛する方の気持ちもわかるし、「うっせーな!! 日本人ならこうなんだよ!!」というナニクソ精神で人生全体を透徹されている方の気持ちもわかります。

その私がこの10年かけて、「両方の立場の方にも受け入れやすいビジョン」を時間をかけて練り上げてきたのが本書です。その「どちらの立場のあなた」にも、届くものであると自負しています。
もちろん本書は基本的に「経済」の話ですから、「共同体」側にいるあなた、いわゆる「右翼」なあなたには、少しご自身のお考えとは違う部分もあるかもしれません。

しかし、最近私は、幼稚園時代からの幼馴染で「人生初の友人」、そして現在も神戸市在住で派遣会社の派遣元で正社員として勤務している(つまり今の経済状況における“弱者の辛さ”に毎日直面している)自称「真性保守」のヨシダくんと、凄い長文を毎日やりとりしたりしていました。実験のために、あえて彼の意見とは逆側の「経済合理性至上主義」のようなポジションをわざと私は取りながら、合意点について探ってみる作業をしたのです。

そうすると、確かに色んな点について、考え方が真逆だなあと思わされることは多かったのですが、「おお、俺もお前ぐらいやないと逆側の立場の考えとか普段聞かへんしな、遠慮せず思い切ってドーンと来てくれや」的なことを言ってくれる彼と色々話してみると(普通なら議論を深める遥か手前でお互い“敵”だと認識して、“冷静な議論という名の罵り合い”に入ってしまいますからね)、結局「アメリカ」という存在が間に入っているから喧嘩になるけれども、「目指すべきビジョン」を具体的に詰めていけば、合意に至れることも多いことを「体感」しました。

そういう準備と配慮はできるだけしてあるつもりなので、ご自身の「今までのお考え」とは大分違う部分が含まれていても、「わたしの真意」を「あなたの真心」で受け取っていただければと思います。

私は、どんな筋金入りの右翼のあなたにも負けないほどの「一点の曇りない愛国的行動」を、今までしてきたと自負しています。



●名付けて「“項羽と劉邦”作戦」

しかし、何も物凄く難しいことを言いたいわけではありません。本書で書かれていることは、どんな立場の方にとっても、「そうそう、本当はそうだと思っていたんだよ」と思っていただけると私は思っています。

なぜなら、今の時代に立ち向かわなくてはいけない問題は、「想像もできない難しい問題」というよりは、「誰もがわかっているけれども合意を形成するのが難しい問題」だからです。

たとえば、アメリカの議会が現状あまりに馬鹿馬鹿しい混乱をしていることは、「ほとんどのアメリカ人」にとっても簡単に理解できることである……けれども誰にもどうにもできない……というような状況こそが今の時代の「最大の困難」だからです。

両者の立場を超えた「合意点」が構成できる「風潮」さえ生まれれば、「やっぱり? 俺もそう思ってたんだよ」という形で生まれる「自然な流れ」が、日本をあるべき「本来の自分たちの力」を発揮できるポジションへ導いてくれるでしょう。

2012年に上梓した私の前著、『21世紀の薩長同盟を結べ』(星海社新書)では、この対立を超える連携のことを、幕末に気質と性格と利害と立場が大きく違っていた薩摩藩と長州藩が、幕府を倒して日本に新政府を生み出すという一点において違いを超えて結びついた「薩長同盟」になぞらえました。

それに対して、今回の本における「日本再反撃作戦」を私は

「“項羽と劉邦”作戦」(Operation “Liu Bang and Xian Yu”)

と呼んでいます(英語では両者の名前の順番を逆にして言う方が普通なようです)。

項羽と劉邦は、ともに古代中国の有名な武将です。

彼らが生まれた時代は、それまでバラバラの小さな土着的勢力がそれぞれのやり方で統治していた中国全土を秦の始皇帝が圧倒的豪腕で統一した時代です。度量衡(長さや重さを測る単位のこと)や車の幅の統一などが強力に全土で推し進められたことを考えると、その当時なりの「グローバリズム」が一気に進んだ時代だと言ってよいでしょう。

その後、始皇帝が死んだことで秦の強力な統一力がゆるんでくると、楚漢戦争と言われる戦争時代となります。項羽の楚や劉邦の漢以外にも色々な勢力が各所に乱立し、お互いに争いながら新時代の覇権を争った結果、最後に劉邦が勝って、「漢字」「漢民族」などの言葉にいまだに残る有名な「漢王朝」を打ち立てます。

この時代は、項羽と劉邦のお互いのキャラクターが対照的に大きく違っていて、またあまりに古代なので人間の本能がムキダシになったような魅力的な登場人物が多く、彼らがやることに容赦がなくてダイナミックであることなどから、歴史ファンも多い時代です。私も個人的には中国史において、「三国志時代」「清朝の勃興時代」と並んで好きな時代です。

詳しい方には今更な知識ですが、項羽は即断即決の圧倒的な「強いリーダー」です。やることがとにかく常に明確で曖昧さがなく、迅速な行動と圧倒的な勢いで目の前の敵を粉砕します。味方となった存在への熱い情愛で多くの人に愛される一方、敵となった存在へは全く容赦がなく、勝敗を決した後に何度も敵方を皆殺しにしたことで恨みを買い、それが最終的な敗因となっていきました。

一方の劉邦は全く頼りない。地方のお調子者のヤクザが混乱のドサクサで流れ流れて出世したような存在です。最初は地方の小役人をやっていたのですが、そういう仕事は実際には全然できない。酒好きで女好きで行儀も悪い。戦争も決して上手いとは言えず、項羽には何回も敗北し(というか最後の戦い以外は全部負けたと言って良いぐらいです)、目の前に這いつくばって命乞いをしたこともあります。

もしあなたが紀元前3世紀の中国にいて、項羽と劉邦にそれぞれ会ったことがある人だったとしたら、「いやそりゃ当然、項羽が勝つでしょ。何言ってんの?」と思ったはずです。

しかし、結果は“最後には”劉邦が勝った。

その理由は何か? それは、もう一度図0―1と図0―2を見直してみてください。



(図0-1再掲 クリックで拡大します↑ 本ブログの画像はすべてコピーレフト≒出典を明記する限りにおいてご自由に再利用可能です)


(図0-2再掲 クリックで拡大します↑ 本ブログの画像はすべてコピーレフト≒出典を明記する限りにおいてご自由に再利用可能です)

当時なりのグローバリズムが急速に進んだ中で、過去の習慣で「この地域ではあの血筋の人がリーダー」といったような合意形成が一気に難しくなった結果、真っ先に優位に立ったのは項羽のような「単純明快で強いゴリ押しのリーダー」でした。そのおかげで当初は連戦連勝だった。

しかし、そういう「ゴリ押しのリーダーシップ」は、「逆側に強大な敵」を作ってしまいます。結果として、当初はどうも決断力に欠けて頼りなかった劉邦が、「アンチ項羽」的な勢力を一切合切吸収していくことでどこまでも大きくなり、結局「次世代の覇権」を取ることができたのです。しかも、歴代中国王朝の中で(数え方にもよりますが)最も長続きした「漢王朝」を打ち立てることができました。

これから10年、20年の日本は、この「劉邦のような戦略」で向かうべきです。

今はまだ「項羽のような戦略」を取っている存在が目立って成果をあげている(ように見える)時代ですよね?

しかし、その方向に日本が無理やり向かおうとしても、「世界で最も空気を読んでしまう国民」の我々が、「インディアンを虐殺した更地の上に理屈だけで打ち立てた某国家」だとか、「日本だとほんの地方都市ぐらいの規模しかないから思い切ったことができている某都市国家」みたいなことができるわけがない。

「できるわけがない」「できるわけがない」「できるわけがない」!!

あなたも、ぜひここで「できるわけがない」という言葉を四回ぐらい言ってみてください。

そう、「できるわけがない」んですよ。人間、向き不向きってもんがあるんですよ。向いてないことを無理やりやろうとしたって、とにかく苦労ばっかりかかっても成果はでないし、「向いている人」に軽々と追い越されていくしで、とにかく本当に世の中で一番やってはいけない罪深いこと、一種の「神への冒涜」こそが「向いてないことを必死でやること」なんです。

いやもちろん、今カリスマ的なリーダーに率いられた企業で毎日充実して頑張っておられるあなたはいいんですよ。

そういうあなたやあなたの周りにいらっしゃる方をドロドロの日本的コンセンサスに無理やり押し込む必要はありません。しかし、そういうリーダーシップのあり方は、国全体から見て「局所的」だから成立しているんですよ。

詳しく言うと「(自分たち以外の)ああいう古い日本みたいなのじゃ駄目だ」という危機感を結集軸として成立しているので、逆側に「古い日本の共同体」が大量にあるから「ほんの一部」で成立させることができる例外なのです。それでは「局所的成功」はできても、日本人全体が関わってくるような大企業や地方やましてや国の運営はできないんですね。

我々は、何に「向いていないか」についてもっと真剣に向き合わなくてはならない。でも、その「日本人は何に向いていないのか」の徹底的な追求の結果からこそ、「本当のオリジナルで一貫した戦略」というのは生まれるのです。

そして、「国全体」のレベルで「自分たちの本来性」が自然に発揮できるようになれば、現在既に果断速攻型の行動パターンで成功し、「古い日本的なもの」を苦々しく思っている方々も、今のように「あちこちから足を引っ張られる」ような感じ方をしなくて済むようになるのです。

だからこそ、我々がやるべきことは、長期的な視野に立って、「劉邦の道」を行くことなんですよ。
そうすれば、図0―1と図0―2の違いが、大きく効いて来るようになります。1つにまとめたものが図0―3です。


(図0-3 クリックで拡大します↑ 本ブログの画像はすべてコピーレフト≒出典を明記する限りにおいてご自由に再利用可能です)

真ん中あたりに「2013年はだいたいこの辺りの状況」と書いてあります。「項羽の道」に陰りが出てきて、「劉邦の道」が徐々に上り調子になりつつあるポイントです。まだまだ「項羽の道」の方が輝ける時代(今の時代大活躍している存在がいるとすればそれは間違いなく項羽的存在と言ってよいぐらいでしょう)ですが、この両者のグラフは徐々に交差していきます。

そして重要なことは、いざこのグラフが交差しはじめると、「項羽側の道」を進んで成功していたプレイヤーたちは既に「項羽側の論理」に自分たちのあらゆる部分を最適化してしまっているので、どれだけ頑張ってももうこの「易姓革命の構図」から抜け出せなくなってしまっているということです。

これぞ、年間3万人の自殺者を出しながらも決して具体的で明快な打開策など出せずにただただ落ちるだけ落ち続けてきた20年間の間に日本人が秘密裏に培ってきた、「死中に活を見出す」無意識の大戦略なのです。

見るがいい世界よッ!! この日本の圧倒的深謀遠慮をッ!! この日本はなにからなにまで全て計算ずくだぜェー!!(ほんとは違うけど“項羽側の人たち”が悔しがるように胸をはってこう言ってやりましょう)

ここまで無意識のレベルまで総動員した本能的な打開策など、あの賢い賢い「項羽側」の国々にはとてもできません。なぜなら彼らは頭いいし決断力も行動力もあるからねぇーー。僕らはそういうとこほんんんまにあきまへんからなぁーー。いやー20年間苦しかったねえー。

そろそろ、「お、日本案外イケるかも?」と思っていただけたでしょうか? 今はまだそうなっていなくても、本書一冊を読み終わったころには「ソノ気」になっていていただければと思います。

過去20年日本が不調だった「原因」こそが、これからの「成功の原因」となるのです。怖気づかずに、胸を張って前に進みましょう。



●晴天を誉めるなら夕暮れを待て

何度も言うように、これは「アメリカのやり方」「グローバリズム時代に適合したやり方」を、全部拒否しろという話ではないのです。そうではなくて、「アメリカのやり方、グローバリズムのやり方」を「ゴリ押しに国内で押し切ろうとする」ような方向が終焉を迎えるということです。

本書でさまざまに詳しく検討していきますが、「論理・主張」のレベルで見ると180度対立しているように見える色んな論点も、「現実」レベルで見ていくと、結局「みんなのため」になることは1つだけ、「ど真ん中の道」であることがわかります。

そして、「押してダメなら引いてみな」や「北風と太陽の話」的な意味で、その「合意形成プロセス」を丁寧に実行していくことによって、実際には「最善の配慮と最速のスピードによって」、グローバリズムへの対応も実現していけるようになるのです。

これは、アメリカで生まれた「自動車の大量生産システム」を、大雑把な彼らにはできない圧倒的な高度さまでに日本人が完成させた……というような物事になぞらえられる、「我々の十八番、得意中の得意なこと」をやればいいだけの話です。

無駄な罵り合いを超えて、「本来みんなのためにある本当の合理性」をどれだけスムーズに具現化できるか。それがこれからの日本のチャレンジなのです。

終わりのない経済学の派閥論争は、「頭の良い国」に任せてしまいましょう。我々は常に現地現物の手触りに徹底してしがみつき、そして世界のどこにもできない新しい知見を、「徹底したボトムアップ」で作り上げるべき使命を持った国なのです。

そして、我々が「劉邦の道」をこれから行く時にぜひ覚えておいて欲しいことは、「項羽的存在」への「敬意」を忘れないことです(これは、その敬意が無ければ本当の意味で劉邦の道を行くことなどできないというぐらい大事なことです)。

リアルタイムではそれほど好きでなかった「CHAGE and ASKA」さんが最近私はとても好きで、昔は知らなかった色んな曲を聴きまくっているのですが、その飛鳥涼さんのソロ曲に「晴天を誉めるなら夕暮れを待て」という曲があります。

これは本当に名曲だなあ……と思うので、ぜひ聴いてみてください。その歌詞にこういう一節があります。

沈みかけの太陽 見つめたら 許すようにうなずいて
振り返らない覚悟で ついでのような角度で 誉めりゃいい

ある意味、項羽がいなければ劉邦なんて、田舎のどうしようもないアブレ者で終わったはずです。

項羽が強烈にその強みを発揮してくれればくれるほど、「人工的な無理やりさ」がどうしても取りこぼしてしまう「本当の自然のリアリティ」が逃げ場を求めて一箇所に集まってくることで、劉邦に大きな力を与えていったのです。まさに「柔よく剛を制す」。この言葉の本当の意味を、世界中に教えてあげることこそ我々日本人の使命ではありませんか。

同じように、今をときめく「項羽の道」のスターたちは、そして「グローバリズム」そのものは、次世代の「劉邦の道」を行く存在を後押ししてくれる、「ミクロに見れば天敵だが、物事を歴史的に最大限に大きく見れば最大の味方」という存在なのです。

「グローバリズム」に対して恨み骨髄に徹している方もいらっしゃるでしょう。ひょっとすると本書の読者のうちのキッチリ半分の方はそう思っておられるかもしれない。

しかし、我々が粛々と「劉邦の道」を進む時、いずれあなたは私の真意を理解していただけるでしょう。

その時に、我々は「沈みかけの太陽」としての「項羽の道」を、「許すようにうなずいて」あげるべきです。

そして、もう自分たちは自分たちの道をどこまでも極限的に突き詰めて行くだけだぜ……という「振り返らない覚悟」を持って、そして両者の力関係が今まさに入れ替わっていく瞬間に「ついでのような角度」で眺めながら、今まで長い間この混乱した世界の中に、賛否両論はあれどとりあえずは明快な基準点を世界に提示し続けてくれた存在に対する“ねぎらいの気持ち”をもって「褒めてあげる」のです。

なぜそれが必要なのか?

なぜなら今の時代を一言でまとめると、

「アメリカ的な秩序」の限界は誰もが理解しているが、かといって「次の秩序」を形成してくれる存在がどこにもいない結果、「アメリカのことは確かにムカつくんだけど、テロや戦争が世界中で起きている世界よりはマシ」という袋小路に陥っている

のだと言えるからです。

グローバル金融システムは確かに人類全体の「みんなのほんとうの幸い(by宮沢賢治)」から見ると、現状では色々と問題があるのは確かだ。しかし「ウォール街を占拠せよ」とデモをしている人に、この複雑緊密に結びついた世界を毎日滞りなく運営できる実務的なスキルがあるのか?というと無い。じゃあどうしようもないじゃないか……となってしまう。

これは、20世紀のほとんどの共産主義政権が、キューバみたいな小規模で牧歌的な規模ならともかく、もっと巻き込む人数が増えてくると最終的には大虐殺と大飢饉をまき散らしてヒドイ結果になった反省を、人類が乗り越える挑戦でもあるのです。

つまり、

この「項羽と劉邦」作戦を完遂して、世界のどの国に対しても圧倒的に「勝利」することは、結果として「人類のあらゆる存在」に対しての「貢献」となる道なのです。

そして、

日本がこの「劉邦の道」で成功することは、その結果を「アメリカ」を通じて「21世紀で最もクールな社会運営のあり方」として広げてもらうことで、「世界中のあらゆる人間が劉邦の道の安らぎの秩序」の中で生きていける道を開くことでもあるのです。



●「誰がやるの?」「俺でしょ!」

さて、ではこの、「柔よく剛を制す」の劉邦の道を完遂するのは誰でしょうか?

それは、我々日本人なんですよ。まさに「俺“ら”がやらなきゃ誰がやる」の世界じゃないですか。

これは、「今まさに古い時代からの伝統的共同体のエネルギー」で経済発展している新興国にはできないことだし、アメリカ本体にも決してできないことです。ヨーロッパにはひょっとすると可能性があるかもしれないが、彼らは自分たちが生み出した文化が世界を制覇している分、日本みたいに一回はもうどうしようもないほどグダグダになってしまう前にちゃんと社会の自省力が働いて「旧来のパラダイムの内側だけで」なんとかしてしまいがちなところが、逆説的ですが日本にとって有利な点です。

欧州諸国には、日本みたいに「欧米由来の世界観で統一された世界で長いこと“唯一の非欧米の先進国”でいる」という矛盾に苦しみ続けたあげく、さらに一回国全体を爆撃されて焦土にされて原爆まで落とされて憲法を押し付けられてアメリカの言いなりになって60年間アクセク生きてきた経験がない。自分たちの伝統が根こそぎに踏みにじられても、それでも笑って何事もなく明日を生きていかなくてはならない苦しみを味わい続けてきた経験がない。

だから日本のように「根こそぎ一回ダメになりきる」ことができない。歴史的にずっと一貫してきて踏みにじられたことがない自分たちの社会の「良識」を、根こそぎ否定してやり直すということができないからです。

さあ! この20年間世界中にバカにされながら苦しんできた日本の苦しみが、「無駄」ではなかったということをこれから彼らに教えてやりましょう。

日本経済は腐っても世界第3位の規模があり、内需比率も非常に高い。自分たちさえ「ヤル気」になれば、他のどこにもない独自性を一貫して追求していける条件は揃いに揃っているのです。

最近、日本では「いつやるの? 今でしょ?」というフレーズが流行っていますが、私はこのところよく「誰がやるの? 俺でしょ!!」を合言葉にしたいと思っています。やっぱり今の時代、どうしても大きなことは他人任せにして、自分は小さい範囲のことでキュウキュウとしながら、大きなことをやろうと苦労している人を無責任に批判してるだけ……という方向になってしまいがちですからね。

でもね、「時代の覇権を取る劉邦の道を進む」のなんて、世界のどっかの賢い賢い国がやることで、自分ら日本人にはそんなん無理ですわいな……とか呑気なことを言ってられる時代じゃないんですよ。

結局この「劉邦の道」を進み、「アメリカからの精神的自立」を果たさない限り、今度は次世代の覇権どころか、結局内輪の争いでどこにも進めない袋小路のまま日本は衰退するしかない運命にあるわけですから。

「次世代の覇権を取りに行く」か、それとも「どこまでも衰退するか」、今の日本は中間がない二者択一の状況に陥っているのです。

いいですか? この「はじめに」の最後に、一つあなたに質問をします。大きな声で答えてくださいね?

「劉邦の道」を進んで柔よく剛を制し、21世紀の新しい覇権を握るのは、どこの国なの?











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