自分の本に染みてきている日本思想史の流れに思いを馳せてしまった日。

なんか、妙に壮大っぽい話になっちゃうかもしれないですけど、予備知識ナシに読めるように書いていくんでついてきてください。




僕にとって「会津」って凄く気になる土地なんですよ。行ったことはないんですけど。

小学校の頃、母親のピアノ教室で何年かに一回やってる発表会で、盆踊りの「会津磐梯山」を編曲したヤツを弾いた(笑)ところから始まり。

「会津磐梯山」で検索したら動画いっぱい出てくるんですけど、有名な歌ね。


(エンヤー)会津磐梯山は宝の(コリャ)山よ
笹に黄金が(エーマタ)なりさがる


ってやつ。

なんか、なんでこんなのを弾くことになったのか?小学校の真ん中ぐらいの時に。

いや「こんなの」って言うたら悪いですけど、他の子供は普通クラシックの練習曲とかね、せいぜい流行ってるポップスの編曲とかね、そういうのみんな弾いてる中でね、なんでこの曲?っていうチョイスではあるじゃないですか。

でも、どっかで耳に挟んで「あれがいい」っつってわざわざ編曲版を探して弾いたんですよ確か。

あとね、渡部恒三さんっているじゃないですか。国会議員の。彼が書いた本に、大学時代に凄いはまったことがあるんですよね。勉強法の本だったかな?

なんか、若いうちに「深い井戸」を一個掘らなくちゃダメだよ的な感じだったんですけど。浅い井戸たくさん掘ってたってだめだよ。みたいな。それ古本屋で見つけて読んで、「そうだな!そのとおりだな!!」って凄い「心酔」ってぐらいしてた時期があった。ほんの一瞬だけですけど。

あと、僕サンボマスターってバンドの、「サンボマスターは君に語りかける」っていうアルバム「だけ」物凄い好きなんですよね。

会社員時代に帰りにタワーレコードで聞いて、すっごい衝撃だった。

一曲目の「歌声よおこれ」の最初のリフも凄いキタし、「美しき人間の日々」のギターのリフ、アッパーにかけあがるかと思わせておいて2小節目に哀切な感じに変わる音調とかスゲーな!!これこそジャパニーズロックのリフだろ!!って思ったし。「月に咲く花のようになるの」とか超名曲だなと思ったし。



・・・で、それらがすべて「会津産」なんですよね。渡部氏も、サンボマスターの山口氏も会津の人なんですよ。

で、僕の共通する資質として、そういう「会津発のもの」に、

「ごくたまに物凄く強烈にハマって最高だなあ!!!て思ったあげく、そのうち熱が冷めちゃってなんで良いと思ったのか自分でもわからなくなってしまう」

っていう感じがしていてですね。

サンボマスターも、そのアルバム以外はなんか・・・・いや凄く良いとは思うんだけど、僕の好みとは大分違う感じになってった感じがするし、今渡部恒三氏をニュースとかで見ると、「若気の至りとはいえなんで俺はこの人の本にはまったりしたんだろう」ってちょっと反省するぐらいだし(笑)

民謡の会津磐梯山もね・・・・なんか・・・・まあ、良いとは思うけど、小学生の僕が突然目覚めて「これがいい!!」って言った時の熱意はよくわからない。

それってなんなんだろうなあ?って、最近ぼーっと考えていたんですけど。



なぜか?

「21世紀の薩長同盟を結べ」

なんて本を出すからかもしれないね(笑)

薩長と会津ってマジ天敵みたいなところがありますし。

なんか、会津藩はあの新選組の大ボスだったんで相当革命側の恨みを買っていて、戊辰戦争の時に無茶苦茶な暴虐をされたとか言う話を聞くじゃないですか。

会津は新政府軍によって無茶苦茶に破壊された上に、会津側の兵士の死者の弔いも許されなくて野ざらしにされてたとか。

なんか、彼らの怨念が、「薩長同盟本」を出す僕の精神に、チクチクと何かを訴えかけてきているのかもしれない(笑)

まあ、単純に、渡部氏が引退して長男に譲るとか譲らないとかいうニュースを見たってのがキッカケではあるんですけど。



とはいえ、「薩長」といっても別に今の山口県や鹿児島県の話じゃないですから、実際の会津若松市在住の方にとっても読んでいただきたいし意味がある本になってるとは思うんですけど。

単純に、キャラクター分けの問題としてね。

その当時なりのグローバリズム的な流れの中で、「個人主義者のグローバリスト」として生きている「長州藩」と、「集団主義者の密度感の中で生きている薩摩藩」・・・そういうキャラクターの両者の間の最適な連携が必要ですよ、っていう本なわけですけどね。

で、ふと、現代においても「会津」にあたる人がいるのかもしれないな・・・・って思ったのかもしれないですね。

繰り返すようにそれは現実の会津若松市の方とは関係なくて、例えば鹿児島市在住の人にもそういう意味では「会津」的な位置の人がいるのかもしれないという話としてね。

それってどういう人なんだろうか?ってことをツラツラと考えてたんですよ。



僕、東北には仙台に旅行に行ったことがあるぐらいで、ああ、あとサラリーマン時代に仕事で山形県に出張行ったことがあるぐらいなんですけど、東北から生まれる文化って結構好きなんですよね。

「ジョジョの奇妙な冒険」がまず東北産だしね。あと、宮沢賢治とか太宰治とか、かなり好きなんですよ。

あと、高3の時の合唱の全国大会で、山形県の鶴岡南高校がピツェッティの「リベラ・メ」って曲をやってたんですけど、今だに覚えてるぐらい感動したんですね。なんか・・・・凄いなあ!と思った。まっすぐだなあ!と思った。(だいぶん後になって近くに出張行った時にわざわざ校門の写真取ってきたってぐらい感動した)

合唱の全国大会ってね、やっぱ凄い「お国柄」みたいなん出るんですよ。

こういう「お国柄」みたいなことを単純化して語るのって嫌な感じする人多いと思うんですけど、個人としてはともかく、集団としてみると、でも結構「大きな違いとして出る」もんだなあっていうのが、僕が高校時代に痛感したことだったんで、ついつい今でもそういうことを考えちゃうんですよね。

特に自分が1年間「描いた理想と現実との間のギャップ」に悩んで悩んで悩んできた結果と比較していろんなのを聞くとね、「自分たちがやろうとしてもできないことを普通にやっちゃえてるなあ!」っていうようなところが凄く目に付くんですよ。

ある個人をそれで偏見的に判断するのは良くないと思うけど、集団として見た時にその集団の価値を本当に発揮させるように持っていくときには、マルチカルチャー理解的な話として、

こういう「大枠の特性」を「そんなもの無いよ、結局個人だよ」って言ってしまうと、実際問題としてはみんなを「アメリカ的なもの」に無理やり合わせさせてしまうことになる

んで、

むしろ「積極的に語っていく」、そしてそれを「活かすような方向づけ」をしてやる・・・・ってことが大事

なんですよね。

で、九州の団体は総じて凄い伸びやかで、熊本第一ってとこの女声合唱が凄い好きだったんですけど(僕の妻の両親はともに熊本出身なんで、なんかそういう縁を感じてしまうんですが)、一方で東北の人たちは総じて、凄く「まっすぐ」だなあ・・・って思ったんですよね。実直でまっすぐで妥協がない感じがあって、凄く良いなと思ったんですよ。

そうそう、東北の「実直なまっすぐさ」っていうのに、僕は時たま物凄くはまる性質があるんですよね。

「すごいなあ!!!!!!最高だなあ!!!日本人はかくあるべしだなあ!!!!」ってなるんですよ。

凄い「心酔」しちゃう。

関西には一番無いものだからかもしれないが(笑)

でも、そうやって期間限定に物凄くはまって周りに薦めまくったりした後で、ふとなんか・・・・関西生まれ関西育ちでドロドロしたところで育った「地」が出てきちゃって、「真っ直ぐなだけでもなあ・・・」っていう風に後々思い始めるのかもしれない。

新選組のまっすぐさには感動して、たまーに「カッコイイなあ!!」ってなるけど、でもやっぱ最終的には、「大きな物語としての意義」を実現しようとした革命側の方が好きだなってなっちゃうというね。

だから、僕の本的な捉え方をした時の「薩長」に対する「会津」な人っていうのは、僕が言おうとしているような大枠の話なんかを根本的に嘘臭いと思うような、そういう「日常のキッチリ感の延長の実直な真っ直ぐさ」を生きている人たち・・・っていうことになるのかもしれないね。

そういう人たちに、戊辰戦争の時のような酷い態度を取らないで、ちゃんと「敬意」を持ちながらも巻き込んでいけるようなムーブメントにしたいなあと思おうとしているのかもしれない。

それは、やっぱり「大枠としての仕切りの問題」をちゃんとやっていきながらも、それがちゃんと「日本のゲンバの人たちの日常の手先のレベル」までちゃんと無理がなく行き渡るものでなくてはならない・・・っていう風に僕が思い続けてきたってことの、「審判」が、その「会津な人たち」によって決まる・・・っていうことなんでしょうね。

そういう「会津な人」にまで届く「薩長同盟本」でありたい。そこまで考えて作ったはずだから、届いてほしい。

そう思っています。



ところで、会津磐梯山について調べていて、恵日寺っていうお寺についての話が面白いなと思ったんですけど。

空海と最澄の時代に、磐梯山近辺を拠点とした徳一という僧
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E4%B8%80
が、空海と最澄にかなり強固な論戦を仕掛けたらしいんですよね。

で、興味のない人には意味不明だろうし、プロの方にとっては僕なんかが語るのは増上慢極まりないと思うかもしれないんですが、宗教的な内容には立ち入らずに「社会的ムーブメント」の観点だけで捉えると、これは、「自由競争で能力あるものにシッカリ報いる社会がいいのか」あるいは「ちゃんと分厚く再分配をしていく社会がいいのか」論争に似た側面があるなあっていつも思うんですよね。

特に、最澄との論争↓の方が喩え話に使いやすいんですけど。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%B8%80%E6%A8%A9%E5%AE%9F%E8%AB%8D%E8%AB%96

これ、「三乗と一乗とどっちが正しいのか」っていう論争なんですよ。

で、僕は全然仏教思想のプロでもないながら、こういうことを言ってるんじゃないかなってことを述べるとですね。

奈良時代までの仏教の「三乗」っていうのは、要するにいわゆる「大乗」と「小乗」と「普通の庶民」っていうのがあって、「自分だけ悟ってしまう小乗の人」と「みんなのための悟りを求める人」と「そんなの関係なくただ生きてる奴ら」っていう3通りがいるんだっていう説なんですよね。

で、その「3者」のうち、「みんなのことを考えている大乗の人」>「自分だけ成仏する小乗の人」>「何も考えてない奴ら」の順番でエラい、そういう「序列」は確実にあるんだっていう思想なんだと思うんですよ。

で、それに対して、法華経をベースに仏教を統合しようとした最澄が重視した「一乗」っていうのは、それら3通りの違いは、全体としてみんなが幸せになっていく流れを生み出す大きな物語の中の登場人物に過ぎないから、その分離には本質的な意味はなくて、実際にはあらゆる個人に「仏性」ってのはあるんだ・・・っていうロジックなんだと思うんですよ。

つまり、その「3つのキャラクター性は、優劣があるんじゃなくてそれぞれがそれぞれの特性を持った”部品”みたいなもので、それが全体として最適な連携を実現することによって、人類の本当のあるべき連動性は実現するんだよ」っていう思想っていうかね。

「個別のキャラクター」を、分断されたままにするんじゃなくて、「有機的に繋ぐ大きな物語」を発想する感じというか。



これ、なんとなく、

「とりあえず金持ちをもっと金持ちにしてやればみんなが豊かになるんだよ」

vs

「共産主義・社会主義的な再分配主義者」

の間の

「尽きること無い論争」

に似てません?僕は毎回そういう感想を持つんですよね。

正確に言うと、この両者の論争は「大乗vs小乗」の論争であって、


結局その両者を比較して「大乗が上なんだよ」っていう論理展開をする既存の左翼的なあり方が、「奈良時代の三乗型仏教」に似ている

ってことですか。

「自分だけ金持ちになるような奴らはダメ」「みんなのことを考えなくちゃダメ」「そういうことを考えずただ生きてる奴らもダメ」

っていうのが「三乗」と言っていいんじゃないかと。


そして、それを「大きな物語」として有機的に連携させていこうとするのが「一乗」の思想ってことになる。



僕はいつも、いわゆる既存左翼的なあらゆる理屈は、「小乗的」なものだけが大きくなり過ぎたら社会の安定が破壊されるということのカウンターとして必要なんであって、やっぱ基本的に全体が経済学で言う「シュンペーター的」な創造的破壊によってダイナミックに動いていくロジックにしなくちゃいけないよね・・・・て思うんですよね。

だから、それ単体では意味がないと思っている。

その、「どこまでも続く論争」を、「大きな物語」によって再回収したいな・・・・と思っている。

そのへんに、法華経が長い時間をかけて日本史の中に浸透してきて大きな思想潮流になったことの意義があるのかな?と思ったりする。

いや、別に僕は日蓮宗系の新宗教の皆さんとは全然関係ないですけど。

ただ、日本のインテリゲンツィアの端くれとして(笑)・・・ってこれは半分冗談で言ってるんで怒らないでほしいんですけど・・・・法華経と浄土宗ぐらい日本史の大きな流れを作った思想的ムーブメントはないんで、大きなムーブメントをしかけていく以上、そういう「底流的なもの」に乗っかるように持っていきたいなと思っているってことなんですけどね。(浄土宗については別に考えることがあるんですけどとりあえず長くなりすぎるんで省略)



法華経って、なんかこう・・・強烈な新宗教の団体のイメージが強かったり、あるいは戦前の軍部のイメージが強かったりして、東北地方の寒村の老婆が髪を振り乱して一心不乱に「南無妙法蓮華経」って唱える・・・・みたいなイメージがありますけど。

でも、実際に現代語訳を読んでみると、なんかこう、結構ハッピーな感じの内容なんですよね。あんまりドロドロしてない。むしろ凄く「色々苦労はあるけど、最終的にはこういう風になって落ち着くから信じてがんばろうぜ」的な感じ。

そういうムーブメントにしたいなあ・・・と僕は思ってるんですよね。この「薩長同盟本」の出版について。

「自分だけ成功している人」

も、

「既存の左翼的な良心のムーブメントをやっておられる方」

も、あるいは

そんなのとは関係なく「ただ毎日を自分の職務を果たして生きている人」

も・・・・

それぞれ3者の間の罵り合いになってても結局意味がない

んで。



個人として金持ちになって経済の規模を保っている人もそれはそれが役割

で。

「みんなのための幸福」を考えて自らの大義のために苦労しようとしている人もそれが役割

で。

そういう大きな話とは関係なくただ自分の持ち場をキッチリやって生きているっていう人もそれが役割

で。

それぞれ三者三様の役割が、「大きな物語の中で噛み合う」ことによって、「新しいタフな経済」っていうのは立ち上がっていくんだよ・・・・っていう話

にしたい。

それこそが、最近スピリチュアルな人たちがよく言ってる「ミロクの世」てヤツじゃないの?って思うんだよな。

そういう思想的な「青天井な突破点」を作ったような全体像を設計しないと、「三乗」的な、「既存左翼」的な価値観でやっていると、結局だんだん「天井が低くなってきちゃう」っていうか、人間が持っている本来的なダイナミズムを社会システムが吸収しきれなくなっちゃって、最終的には結局お互い罵り合い続けながらグダグダになっちゃうんですよね。

共産主義国家の失敗を持ち出すまでもなく。



でも、そうやって「三者三様の役割を全体として噛み合わせるには?」っていう話を始めると、ある意味ではその「三者のそれまでのあり方」を全部それぞれ批判する形になるんで、結構孤立無援感が出てくるところがあって。

法華経にも、法華経を信じたら弾圧されるけどそれでもがんばれよみたいなこと書いてあるらしいし。

まあ、この回の記事に書いたように、そこんところを、「商業主義の最前線」において乗り切っていける「時機」が、来てるんじゃないかなーーと思ってるんですけど。

結局、僕がやってることっていうのは、キリスト教由来の演繹的な欧米的ムーブメントを、日本的な「現地現物」の手法で、「ゲンバの日常の手先のレベルでも無理がないように再構成する」ってことなんで。

その時に、「起きていることはすべて正しい」的に、「資本主義のダイナミズムの未来を信じている」っていうところは、かなり空海とか親鸞とかの影響を受けてると思いますし(この両者の違いを哲学的に考え始めるとかなりややこしいので省略)、「客観的な知性と物自体とのギャップ」を大切にする、「IQ的世界が取りこぼすフィジカル・フィロソフィシャル・パーソナルなPQ的レベルの実感が大事」っていうのは、明らかに禅っぽい感じの影響を受けていると思うんですが。(これらは、彼らの宗教的本質を捉えてるとかそういう驕った気持ちではなくて、そういう思想が社会ムーブメントとして染みてくるときにどういう影響があるかという観点においてのみの話としてご理解くださいね)

本の中にも、「こういう三者の連携が大事ですよね」っていう言葉を、別の例を使って(原生林の自然を喩え話にして)語っている部分があるんですけどね。

詳しくは本を読んで欲しいんですが、「陰樹(思想家)・陽樹(革命家)・微生物(実務家)」のバランスをどう取っていくのかっていう話なんですがね。

それは、日本社会の中に染みている法華経的世界観の感覚が、無意識に染みてきてそうなったのかもなあ・・・と今日、思いたちましたね。

「三乗」的に分断された世界を、それはひとつの大きな物語の中のそれぞれのピースに過ぎないんだから、どれがいいとか悪いとかはない・・・・ちゃんと「噛みあわせる」ように持っていくべきなんだ・・・・っていう話。

そういう話は、かなりずっと僕の中に明確にあったんだけど、その源泉を見つけた?(って別にそれほど法華経の信仰をしてるわけでも全然ないんだけど)ような気がしました。


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