「”一所懸命”的な日本人の本能」の話

昨日、テレビで、世界の色んな辺境の地で、一人だけ現地人と混じって生きている日本人たちの特集番組・・・・を見て、凄い感動した。

色んな人がいたけど、ドミニカ共和国の凄いド田舎に半世紀前に入植した90代のお爺さんとか凄かったなあ。

ハワイとかブラジルとか、昔日本から入植者が沢山渡ったことで有名な土地はどこでも、「事前の広告と実際に与えられる土地のギャップ」が物凄くて大変だった・・・とか言う話を聞くけど。

ドミニカのその土地も無茶苦茶ヒドイ土地しか与えられなくて、沢山いた入植者は、そのお爺さんの家族以外全員帰国しちゃったんだけど、彼と家族だけそこに残って巨大なコーヒー農園を築いたらしい。

カッコよかった。スゲーな!と思った。

その前日には、ハワイの日系移民の今みたいな番組をBSで見てたんだけど、なんか、共通するのは、「もう帰れない、この土地を切り開くしかない」ってなってから、苦労してそこに根を張ってやりきってしまうあの”感じ”が感動するんだな・・・と思った。

その「選択肢」が「最適かどうか」とか考えない・・・というか、考える余地すらない。

もう「それが自分の世界そのもの」みたいになっちゃうからこそできる、底力みたいなのが・・・・ハワイの日系移民の物語にも、そのドミニカ共和国のお爺さんにもあって、それが凄く感動した。

そうやって自分の人生を、丸ごと「特注品」にしていってしまうことは、ある意味「凄く巨大なリスク」ではあるけれども、いわゆる「リスクヘッジとか考えない(考える余力がない)」ことの「凄みがもたらす成果」と、「そうやって生きること自体の幸せ」っていうのも、そこから感じた。

妻と二人で見ながら、「こうやって生きたいね」って言って二人でしみじみ泣いた(笑)


そういうのが、日本人の性質の深いところにあることは間違いなくて、で、それをどうやってグローバル資本主義と噛み合わせるのか・・・・っていうのは、「それ自体」として深く考えていかなくちゃいけないよな・・・と改めて思った。

日本人の集団が、融通が利かない部分があるのは、「根を張って」いるからなんで。「根を張っているから達成している今の長所」と、「根をはっているから動きが取りづらい短所」っていうのがあったとして、それを、「なんでアメリカ人みたいに身軽で行動的になれないの?」っていう視点だけから押していくのは、やっぱり結局最終的に広い範囲の日本人の本能と共鳴していくような「賛同」を引き寄せることができないので。

そういう論理だけでは、そもそも根底的に身軽な国に勝てるわけがない。向こうは「自分の本質に合致した彼らにとって自然なこと」をやっていて、こっちは「自分の本質が悲鳴を上げ続けるような不自然なこと」ばっかりをやっていくことになるんだから。

とはいえ、「全く意味ないところにバンザイ突撃を繰り返す」こと自体は誰にとっても良くないことなんで、この「根を張りたい欲求」と、「合目的性を噛み合わせる」っていうこと自体を、それ自体専門的に深く考えなくちゃいけなくて。

ある程度は、「知性派の仕切り」自体の通用性を高めていくことが、その方法論としては絶対必要なことだと思うし、今日本はどんどんそっちに動いているとは思うんですが。

ただ、最終的にはそこを、「権力関係」として処理するんじゃなくて、「相互の信頼関係」でなんとか乗り切れるようにしないと、本当に日本が「知性派の仕切りだけでガツンと動ける国」と同じだけの身軽さを得ることは不可能なんですよね。

まあ、そこが、「グローバリスト(”知性派の長州藩側”)と国内派(”現地現物主義の薩摩藩側”)との間の「薩長同盟的関係」ってことになるわけだけど。


そういう風にやっていくことは(というかそういう”発想”をすることだけを考えても)、「既得権益を温存して変化のスピードを遅らせてしまうことなんじゃないか」っていう懸念は広い範囲にある感じがするし、適切なタイミングまではその「とにかく変革を求めるエネルギー」は消してはいけないから、その懸念自体も必然性があるんですけど。

大事なのは、「集団」として見た時の、「抵抗勢力」の裏側にいる、「ハワイの日系移民のように生きたいという本能」的なものの方を見てあげることなんですよね。

そこには、欧米文化的に「人工的に定義した”個人”」というようなものじゃなくて、なんかもっと土着の深い本能的なレベルでの日本人の「個人」っていうのがあるので。

「グローバリストvs古い日本の中間集団」みたいになっちゃうと良くない。グローバリストと、「日本人の奥底の”個”」っていうのが手を結ぶように持っていかないとね。

で、その日本人の「個」っていうのは、やはり「一所懸命」的な?自分の人生からその他の選択肢を徹底排除した「場」を設定して、そこに浸り切るように没入するときに、一番本来の力を発揮するところがあるので。

グローバリストはその「日本の個」に対して「敵」で、「国内派」は「味方」っていうようについつい考えちゃいがちだけど、でも実際には、どっちの側も、本当の意味で「日本の本当の個」の力を救いあげられているとは言いがたい状況にあるんですよね。

いわゆる「凄い会社」の中に、特異的に、その「個」を本当に発揮させられている「場」があるだけで。で、そういう実例は、グローバリストっぽい人たちの中にも、国内派っぽい人たちの中にもいる。

だから、制度論争的に、「どっちがいい」を議論するのは、政策決定プロセス的には大事なんだけど、「本当に日本をうまくいかせる」ための議論としては抽象度が高すぎるんですよ。

今、あんまり「働く」のが楽しくなくなってる日本人が多くなってるのも、そもそも「自分たちの本能」と、「古い中間集団の制度」が噛みあってないからってところがあるし。

本当は、「細胞の奥底まで浸り切るような没入感で仕事をしたい」と思ってるのに、「そういう場」が与えられないから、もう「働くこと全体」が嫌になってきている・・・・っていうような。

惰性でこういうのが「日本流」って思ってるだけで、でも自分たちが本当にやっていきたいのはこういうスタイルじゃあないんじゃないの?って、実は個人としてはほとんどの「薩長両側」の人が思ってる状況ではあると言えるはず。

それに、「物凄い成果を出す没入感を生きている人」と、「形だけの仕事にしがみついて食い扶持だけを稼ごうとする生き方」って、「案外似てる」んですよね。

「深く静かな没入感」を生きていたいという意味においては。

「常に状況判断を迅速冷静にして、仮説ドリブンで・・・」っていう生き方の方がむしろ特殊なんでね。

だから人間集団全体として見た時に、成果が最大化するのは、「物凄い成果を出す没入感を生きている人」をできるだけ増やして、「形だけの仕事にしがみついて食い扶持だけを稼ごうとする生き方」の人をできるだけ減らせるような、「仮説ドリブンな知性派の仕切りのスキル」にかかっていると言える。

だから、「守旧派」vs「グローバリスト」じゃなくて、「自分たちが本当にやりやすいようにやるにはどうしたら?」ってことを、両方の人が協力しあって現地現物に考えていかなくちゃなんですよね。

「グローバリスト」側が、「日本人の本能」を「守旧派」以上にストレートに発揮させられるスキルを獲得したら、暫定的に必要とされている「守旧派」なんて、一気に消えてなくなりますよ。

長期的に見れば、今の日本の現状っていうのは、この「両派の対立」がどこまでも高じていって、何も決められない現状への不満が暴発寸前になった時に、結局「薩長同盟的均衡点」にギャーンと収束していくことによってしか解決しないというのは確信してるんですよね。

今は、色々お互いに理解できないコミュニケーションギャップを抱えていても、「今はそうなっていること自体が必要」ってことも結構あるしね。

例えば、僕、よく古い会員さんに、「倉本さんはダメ人間(特に男)に甘すぎる!」って怒られ続けてるんですけど、僕が展開していく思想活動的に、そういう部分はどうしても消えないんで、それ自体が、やっぱり問題を起こしたりするんで。

そこのへんで、やっぱり純粋なグローバリストの明快な論理との「補完関係」が、ある日適切に噛み合うように持っていかないといけないな・・・・ってところだったりもして。

そういう感じのことは無数にあって、だから、「適切なタイミング」までは、決してわかりあえないまま居続けることが、今の日本には必要なんですよ。

でも、徐々に徐々に、どちらの立場の人の感情も吸い寄せる形で、「薩長同盟的均衡点」に、動かしていきたいと思っています。

ご協力、よろしくお願いします。

あ、そうそう、まだ読まれてない方は、「21世紀の薩長同盟を結べ」、よろしくお願いします。

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