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「一周回ってくる論理」ベースの愛国心が、むしろ日本の「変人許容度を上げる」。

一個前の記事は、結構なんか、書き終わってホッとした部分がありますね。言おうかなーどうしようかなーと思ってた部分を、もういっそ「信仰告白」しちゃった的な(笑)

色々と進むべき方向を迷っていて、長期的に責任取れる言論にできない感じがしてたんで、しばらくブログ書かずにいましたけど、今後は出版次回作に向けてこの方向性に肉付けをしていくためにも、結構頻度高く書いていけるんじゃないかと思います。(まあ例によって予定は未定で、もう本書くのに忙しくなってまた離れるかもしれないが)


「新しい愛国心」って言った時にね、それは「古いタイプの愛国心」とどう違うかっていうと、要するに

「一周回ってくる論理」によって定義された愛国心

ってことなんですよね。

要するに、「俺達は昔からこうなんだからこうだ、文句あるか!!」っていうタイプの愛国心っていうのは、まあ、ベースの本能的な部分は大事なんだけど、でも21世紀的にはおおっぴらに延長していくことができない時代になってるわけじゃないですか。

いろんな人の「俺達は昔からこうなんだからこうだ」が、この狭い地球の中でぶつかり合いまくっていくからね。どっかの誰かが無制限に「こうなんだからこうだ」をやりまくると、「なんであいつだけ」ってなって収集つかなくなるし。

で、結局利害対立が表面化して、でも戦争するわけにもいかないから、その手前で自分でアクセルとブレーキを同時に踏みまくってるようなフラストレーションも貯まるわけでね。

そうなると、ただ「自分たちに合ったやり方で自分たちらしく成功しよう」っていう単純明快な方向をスルスル歩むということができなくて、常に誰かを蔑視したり論争し続けていなくちゃいけなくなったりする。

それに、そういうのは結局、「話として聞いている」時には本人たちには心地よい部分があるんですが、大きくムーブメントとして膨らんでいくと自家撞着的になってくるんで、だから結局「日本国はまだまだいくらでも国債が発行できる」「日銀が札を刷りまくれば解決する」的なところに着地してしまうんですよ。

こういうのは、結局「俺がそうだからそうだ」で成立している自家撞着的な論理の構造が、そのまま表に現れる結果、そういう結論になっちゃうんだと思うんですよね。

だからこそ、そういう


「俺たちはこうなんだからこうだ」に終わらない、「一周回ってくる論理によって定義された愛国心」っていうのを、共有していくべき

なんだと思うんですよ。


で、結局この「一周回ってくる論理によって定義された愛国心」を旗印にして、自分たちの中に広域的なあるべき連携を生み出していくっていうときに、「そこで起きていること自体」は、8割がた「本能的な愛国心」を押し出していった時に似ている部分があると思うんですけどね。

大事なのは、それが「21世紀の地球において、後腐れなく通用する」というか、いわゆる「ポリティカリー・コレクト(政治的に問題ない)な旗印」になっているかどうかが違うんですよね。

でも、そんな「自分たちの本能をストレートに発揮させてくれるような一周回ってくる論理」なんて都合の良いモンがあるんか????っていう疑問もあると思うんですけどね。

今の日本っていうのは、幸運にもそれが可能な「状況」にあるんですよ。それが凄い今の日本の最高の潜在的可能性だと思うんですよね。

それはね、

「グローバリズムvsアンチグローバリズム」「欧米vs非欧米」の矛盾を現地現物に無理なく止揚する実験場

としての自分たちを定義してしまうことなんですよ。

アメリカの世界支配とかね、欧米的発想による地球支配がね、物凄い無理を生みながらも、「でもとりあえず他にないしなー」って感じの惰性で進んでいる現状ではあるわけじゃないですか。

でもね、だからといって、海賊行為やテロや核開発や・・・・でその歪みを正そうっていう動きを正当化するわけにもいかないじゃないですか。

なんで核既に持ってる国だけ有利やねん俺にも持たせろやとかさ。そんなん一人が言い出したら際限なく拡散して困ったことになるわけでね。

だから、まあ不平等っちゃ不平等だけど、既に持っちゃった国以上には広がらないようにするってのは大事なことだと思うんですよね。

こういう部分でもね、やっぱり、ここ何回かのブログ記事で連続して言ってきたような、「吉田茂や岸信介的な決断」っていうのが必要になってくるんですよね。

「性急に純化された理想」は、とりあえず押しつぶさせていただきますと。でもそのかわり、「漸進的ではあるけど純度は失ってない理想」をみんなで共有できるように持っていきましょうぜと。

そういう

「吉田茂&岸信介的決断」と、それを補完する「漸進的理想の追求」を、ある程度の規模で実践していく・・・・っていうことにかけて言えば、日本ほど向いてる国はない

んですよ。

まず、「一度ジャパン・アズ・ナンバーワンとか言われた経験がある」ってだけで全然違うしね。

「自分たちの過去の延長のまま世界を支配してしまっていて、ネコソギ転換するとかの発想は生まれない欧米の国」以外では、「過去の伝統社会の延長にまどろんでいる国」「今まさに坂の上に駆け上がろうとしている国」・・・・・しか世界には無いですからね。

「非欧米」で、「欧米的価値観」への「違和感」を凄く感じつつも何世代もずっと過ごしてきて、一度は「ナンバーワン扱い」されてニューヨークの土地を買いまくったりして・・・っていうところまで行ったからこそできる、

「なんか・・・・正直結構飽きてるんだよね。こういうの」

っていう感覚が広く共有されてる国っていうのは、日本以外無いといっていいぐらいなんですよ。そもそもそういう「気持ち」が共有されてないと、「その次」をオリジナルに広範囲に巻き起こそうなんてモチベーションが生み出せないですからね。

で、その「やる気・モチベーション」レベルの話だけじゃなくてね、結局「矛盾を現実的に止揚する」っていうのは、「A?じゃなかったら非A!!」ってドカーンって突っ走るような、概念的思考として怜悧すぎる国にはなかなかできないことなんですよね。

自然保護やらないってなったら無茶苦茶破壊しまくる。一方自然保護するってなったら捕鯨船を変なバットマン・カーみたいな船で急襲する・・・・みたいな世界観では、「現実的など真ん中」を積み上げていくようなことはできないんで。

だから、

「グローバリズムvsアンチグローバリズム」「欧米vs非欧米」の矛盾を現地現物に無理なく止揚する実験場

っていう位置をね、意識的に取っていくことができれば、「それ自体を愛国心のベース」にしていけばいいんですよね。

みんなの感情を結集してそれにどんどん真剣に取り組んで、自分たちだけのオリジナルな良さを発揮していけばいい。

そしたら、「ゴリ押しのグローバリズム」にも飽き飽きしてるし実害も被ってたりするんだけど、だからといってテロや海賊や核開発国家を応援することもできないしなあ・・・・・っていう、

「前世界人類70億人の、物凄く広い範囲の潜在需要」

のど真ん中に飛び込める、21世紀の輝ける希望の星、ウィーアー・ザ・ランド・オブ・ザ・ライジングサン!!ってな感じになるわけなんですよね。

腐っても世界第3位の独立経済圏ですからね、その規模的影響力、可能性、先進性、どれをとってもグラミン銀行どころじゃないっすよ。いやマジで。


でね、そういう風に言うと、物凄く「理想主義的」なことを言ってるように聞こえるかもしれないけれども、でもこういう「新しい愛国心」ベースでとりあえず今日・明日やることっていうのは、「昨日よりちょっとマシ」なこと程度で良いんですよ。

別に、今のグローバリズム経済に対して、「圧倒的に倫理的に優れた」ことをする必要はない。むしろ、その中身を、年に3度ぐらい角度を変えていくことで、いつの間にか気づいたら中身が全然違うものになってましたね!!!っていう風になる程度でいい。

例えば、仕事のやり方ひとつとってもね、欧米的で強引なやり方じゃない、「何らかの可能性」が日本の中にはあって、で、それをグローバリズムに適合するように発揮していければいいですね・・・っていうようなことでいい。

しかも、別に無理やり「非営利的理想」を追ったりCSR的な方向に行く必要もなくて、ただ「自分たちなら自然にやってるけど外から見るとかなり特異」な世界を、ちゃんと「意識的に捉えて運用していく」っていう動きをするだけで良いんですよね。

今の日本の大勢が内向きで、外に向けた積極的アクションが起こしづらくなっている、それが不甲斐ない・・・・と感じる国際派日本人の多くの方はね、彼らを「外に向かせる」のを、「無理やりこじあけるような形」でやろうとしちゃうことが多いと思うんですけど、それは、あまり実効性が高くないと思うんですよ。

「北風と太陽」の「北風さん」的な感じで、今の日本の大企業の不甲斐なさを断罪しても、逆にさらに引きこもるだけ・・・になりがちっていうか。

でね、

日本企業が国際的に自由に動けるようになって、日本人以外の人間もうまくその中で扱えるようになるにはね、逆に「自分たちのあり方のコアの部分」をもっと明確に意識的に自信を持って共有することが必要

なんですよ。これ、今の時代物凄い大事なことだし、なかなか言われないことだと思うんで3回ぐらい言っておきますけどね、

日本企業が国際的に自由に動けるようになって、日本人以外の人間もうまくその中で扱えるようになるにはね、逆に「自分たちのあり方のコアの部分」をもっと明確に意識的に自信を持って共有することが必要

日本企業が国際的に自由に動けるようになって、日本人以外の人間もうまくその中で扱えるようになるにはね、逆に「自分たちのあり方のコアの部分」をもっと明確に意識的に自信を持って共有することが必要

なんですよ。

要するに、「自分たちのあり方の根底的な部分」を明確に共有できていたら、その中で、「異分子」を自由に遊ばせることができるんですよね。

逆に、その「自分たちのあり方の根底的な部分」をバックアップしてくれる風潮が、全然なくなって、「なんでアメリカみたいにできないの?ダメだなあ」しか言われない状況だと、ちょっとした異分子でも強烈なアレルギー反応を起こしてしまうんですよ。

で、そういうのは、「内向きでひ弱な日本人のダメな部分」じゃなくて「大雑把すぎる外国の風潮から、日本人ならではの良さをギリギリ踏みとどまって維持している最後の砦」だったりするんですよね。

そういう部分まで崩壊すると、マジで毎日の首都圏の複雑な列車運行すら、現実的に維持できないぐらいに「自分たちらしさ」が崩壊してしまう危機・・・みたいなのがあるんですよ。いやほんとに。

国際派日本人にとっては、そういう「国内で粛々と生きてる日本人の集団」の良さなんて、無料でいつまでも手に入るもんだと勘違いしがちなんですけど、あれはあれでかなりギリギリのところで維持してる「文化的遺産」なんでね。

だから、「無理やりこじあけよう」ったってそうはいかないんですよね。


で、例えば自動車の工場とかね、「自分たちのやり方」が明確にちゃんと共有できてるような組織文化のところは、世界中どこに出て行ったってちゃんとやっていけてるじゃないですか。別に、「日本人は他国人を使うのがうまくない」ってこともない。

むしろ、NGOとかでありがちな、

「無理やり選挙とかさせるより、とりあえず一緒に水路引いちゃう方が良くない?」的な日本人の良さ

がうまく機能していて、現地人にとっても働きがいを感じられるような方向性を提示できてることが多い。

で、これは、外国人をどう使うか・・・っていうだけの話じゃなくて、日本人の中でも「変な人」っていうか、「個性的な人」っていうか、そういうのをどういう風に使うのか・・・っていう観点でも一緒なんですよ。

今の日本は、かなり「はみ出し者に対して非常に厳しい」ところがあるけど、でも例えばテレビの芸人文化とかを見てても、うまく「キャラ」として吸収できるなら、それほどウルサイこと言われずに変人が変人なまま「みんな」と共有できる流れが生まれたりするのが日本なんですよね。

そういう時の自由自在さは、色々とウルサイことを言われるアメリカに比べて圧倒的に自由ってぐらいなんですよ。

でも、それも結局「自分たちのあり方」の自明的安定感が失われていけばいくほど、「はみ出し者」に対して凄い厳しく杓子定規にチェックする方向に行っちゃうんですよ。日本は。それは誰のためにもならないんですよね。


だからね、日本人が変人・奇人・個性派に対して寛容になって彼らの力をうまく使えるようになったり、日本人以外の人材を自在に使えるようになるには、むしろ自分たちの「空気の密度」をもっと高める方向に動かないといけないんですよね。

「北風と太陽」の「太陽」作戦

でいかないといけないんですよ。

でもね、これがなかなか難しいんですよね。少なくとも僕個人で言えば、企業単位でのコンサル時代はどうやってもうまく行かなかった・・・・っていうぐらい難しいことなんですよ。やっぱ「風潮」の側がそっちに寄ってこないと決してできない。

要するに、今のところ、

「昔のままでいいんだよ、うるせえな!」か、「アメリカみたいになんでできないの?」の両極端以外の方向性をちゃんと共有していくっていうのは凄い難しいんですよ。

両極端の方が単純明快でカッコイイんでね。

だから、

「グローバリズム的にカッコイイ経営手法的なものに無理やり自分たちを合わせるんだけど、どうも”日本人の集団の力”をうまく発揮させるプロトコルがわかってないから不徹底になる。それがうまく行かない原因をすべて”頭固い抵抗勢力さん”のせいにしてしまう」

か、

「部分的に見ればこれぞ日本だな、すげーな!という超絶的な良さを発揮しつつも、グローバルな状況と全然噛みあってないから結局数字的に見ると鳴かず飛ばずになっちゃう」

みたいな感じになっちゃうんですよね。


こういうの、でもやってる人本人たちですら、「ちょっと違うんだけどな」っていう違和感はあるんですよ。たいていの場合は。

ただ、難しいのは、「プロジェクトを営業かけて取る」っていうときに、「両極端のどっちかに吠える」ってことが必要になりがちなんですよね。

僕もね、結局「企業単位」じゃなくて「個人単位」」から変革せなあかんな・・・と思って「人生戦略コンサルティング」的なのとか、今のSNSケイゾーネットに近いような事業をスタートした時はね、相当「吠えて」ましたからね。

「吠えてないと維持できない」っていうか。

いかに日本の集団主義的傾向やら、変われない大企業が全然ダメか・・・・「目覚めた個人」から変革しなくちゃいけないか・・・っていう感じで大上段な営業トークを展開しないと、「自分の食い扶持」が保てない感じになるんですよ。

なんか、最初は無料っぽくやってたところから、「やっぱちゃんとお金取らなくちゃ意味が無い」って思って、階段状の料金体系の一番上では英会話学校ぐらいは取るようにした時は、かなり「清水の舞台から飛び降りる」っていう気持ちで、その反応が返ってきてるはずのメールボックス開くのが怖くて家を飛び出しちゃって、一晩中夜の街を徘徊してたってぐらい(笑)の「エイヤー感」があったんでね。

何かの「事業が立ち上がる」っていうときには、やっぱりそれぐらいの「先鋭化」ってのが必要なんで、で、その「先鋭化」は、「その時の風潮」からあまりに外れたものでは不可能ですからね。


だから、外資コンサル的なポジションであるとか、MBA的なポジションであるとかにかぎらず、日本の「大企業経済」の外側で「個人」として何か噛んでいく事業を起こしている人は、なんちゅーか、「生命的必要性」みたいなものゆえに、

「日本の古い企業的なあり方」を徹底的に全否定し続けるようなポジションを取ることが必要になっちゃってる

んですよ。まさにそうやって

「吠えてないと維持できない」

っていうかね。

これは、最初は理性的だった自然エネルギー推進論者が、マスコミに広く取り上げられるに従って東電陰謀論みたいなのに傾いて、かなり非現実的なことを言わざるをえなくなる状況に追い込まれるのに似ているんですよ。


でもね、結局、「自分たちのあり方を全否定」して、「なんでアメリカみたいにできないの?」みたいなのは、やっぱ限界ありますからね。当然。

アメリカのやり方にはアメリカだからこそできることってのが多分に含まれていて、それにはアメリカ軍の全世界的プレゼンスとか、覇権言語である英語の存在とか、それらにバックアップされているからこそできる彼らの「純粋にデジタル化された概念思考を無理やり延長していく志向性」とかに支えられているので。

日本の良さはそこから「はみ出ている部分」をナマに扱える力に大部分がかかっているので、その「ナマの部分を直接扱える機能」を、「どうやってグローバリズムの中で徹底活用するか」っていうような発想を血反吐を吐くほど考え尽くさないといけないんですけど。

今のままだと、そういう「一番必要なこと」を考えれば考えるほど、「営業かけてプロジェクトを取れない」みたいな感じになってるんですよ。一種の「市場の失敗」と言ってもいい。

「昔のままでいいんだよ、うるせえな!」か、「アメリカみたいになんでできないの?」の両極端以外の「ど真ん中の方向性」を、「課金できるプロジェクト」に引き上げられるだけの”風潮”を作ること


今の日本の最大のイシュー(それがどっちに転ぶかによって全てが変わる最重要の問題)

なんですよね。

要するに、この「ど真ん中の言論」に対する「風潮」がある程度煮詰まってこないと、そういう方向の「課金できるプロジェクト」を立ちあげられないんですよ。できるとしても相当難しい。

今のところ、日本の「大企業の無意識的延長感」の中で、たまーにそういうことができてるんですよね。

だから、今の日本で物凄い大企業志向が高まっていて、終身雇用とかそういうのに対するしがみつくような気持ちも凄く高まっているのは、とりあえずその「閉じた文化圏」がなんとか保存している「希望の萌芽」みたいなんがあるからなんですよ。


でもね、その「希望の萌芽」を、今みたいに、「閉じた世界の中だけでこじんまりと」やってたってジリ貧ですからね。

だから、その「希望の萌芽」を、意識的に再定義して、どんどん徹底的に活用して、世界中で「俺達はアメリカと違ってこうなんだぜ!!これが21世紀型の最新の文明ってやつだぜ!!!」っていう風に打って出ていかなくちゃいけないんですが。

それをやるには、結局「過去の延長でやってる人たち(集団主義者の薩摩藩士的存在)」と「グローバリズムへの対応を叫ぶ人たち(概念先行の長州藩士的存在)」との間の


が必要なんですよね。

しかも、それが「お話」レベルじゃなくて、「その方向でのコンサルプロジェクトがバンバン取れる」っていうぐらいの「風潮」にまで仕上げなくちゃいけないんですよ。


で、「内容」レベルで言えば、「21世紀の薩長同盟を結べ」にも書いたわけなんですが、それを「風潮」にまでしていくには、まだちょっと「みんなの感情」を引き寄せるためのラベルがわかりにくいというか、「先鋭化」が足りないかな・・・って思っててですね。

その「先鋭化」の方針としては、やっぱ「新しい愛国心」っていう形がいいのかな・・・って思うんですよね。

っていうか、僕、かなり「伝統的なタイプの愛国者」の人たち好きなんですよね。

彼らの問題意識のなかには、非常に「共感」できるものが含まれていると感じる。というか、言ってること話すことに全然生身の現実感がないデジタルな語り口の人間よりはよっぽど共感する。

でも、そういう「伝統的なタイプの愛国心」をそのまま延長していっても、結局21世紀には通用しないところがありますから。

彼らの「熱量」に、新しい「旗印」を提供したいっていうか。

で、その「新しい旗印」に対する熱量をうまく育てていけば、日本全体で「ど真ん中の言論」に対して共有できる「風潮」が生まれてくると思うし。

そしたらやっと、

「昔のままでいいんだよ、うるせえな!」か、「アメリカみたいになんでできないの?」の両極端以外の「ど真ん中の方向性」を、「課金できるプロジェクト」に引き上げられるだけの”風潮”を作ること

っていうことができると思うんですよ。

で、それができたらね、日本は絶対物凄いスピードで、「今までの日本ってなんだったんだろうね?」ってレベルで蘇りますよ。いやマジで。

日本経済の現場を、「色んな立場から複眼的に」見ていくことで、結局何が最終的にネックになってるのかっていったら、結局ココなんですよね。

個別の優秀性が、全然全体として噛みあってない状況を、なんとかしなくちゃいけないんですよ。

でも、そこのギャップが埋まって、「自分たちの本当の長所」を、「グローバリズムの中で再定義」すること自体に、「みんなの愛国心的感情」を吸い寄せることができたらね。

そらねーもう、ほんまねーもう、お前ら見とけよー、失われた何十年の間ただの愚鈍なアホな国やと思いやがってカスどもが・・・・お前ら欧米人だって結局これから同じように失われた経済の自体過ごすがいいぜ馬鹿野郎っちゅー話なんですよ。

結局、「土地」に対する幻想にやたらと資金が流入するのは、「考えつくされたまったく新しい経済行為」を社会全体で「課金できるプロジェクト」として共有することができてないからなんですよね。

要するに、経済に対する感覚が「本当の実質」を失って、「わかりやすい数字」だけを追うしかなくなったら土地に資金が流入するんですよ。

日本がこれまで苦しみながら、「考えつくされたまったく新しい経済行為」を「共有するための特別の言葉と文化」を蓄積してきた20年間は無駄じゃない。

今はまだ、そのラストワンマイルのすれ違い・・・・が超えられてないだけなんですよ。

だからこそね、「新しい愛国心」ベースに、その「ど真ん中の言論」に日本人の「気持ち」を吸い寄せていかなくちゃいけないんですよね。


「両極端の言論」っていうか、まあ僕の場合「日本の古い社会全否定」みたいな方向に自分を駆りてれば駆り立てるほど、吠えれば吠えるほど儲かってたみたいな時代があったんですよね数年前。面白いように儲かった。

でも、そのままやったらアカンなーって思って、かなり意識的にビジネスを縮小したんですよ。それは結構苦渋の決断っつーかね。

で、「わかりづらい話」ベースでやっていけばいくほど、とりあえず規模は凄い小さくなったけど、でも会員さんの中から「これは新しいなあ」っていうような事業を起こさせることもできてきたしね。

その「板挟みの不遇」に対する潜在的な鬱憤はスゲーあるんですよね僕。色々固定費を切り詰める算段をして、生き延びることが今の最良の戦略だと思ってやってきたけど。

でも、そうやって意識的に動かしていくことで、今度は「ど真ん中の言論」を、「真っ直ぐ単純明快に」主張していける「準備」が整ってきてるとも言えるはずなんで。

これから、「新しい転換の旗印」を単純明快に主張していくことによって、その鬱憤を晴らしてやりたいと凄い思ってます。

そしてその鬱憤は、この20年間ありとあらゆる国に「愚鈍な終わった国」扱いされてきた、この日本と日本人の「働き手」のみなさんの「違和感」そのもの・・・だと思いますからね。

鬱憤、晴らしてやろーぜ!!なあ!!

っちゅー話やでほんましかし。

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1978年神戸市生まれ。兵庫県立神戸高校、京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感、その探求を単身スタートさせる。まずは「今を生きる日本人の全体像」を過不足なく体験として知るため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、時にはカルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働くフィールドワークを実行後、船井総研を経て独立。「個人の人生戦略コンサルティング」の中で、当初は誰もに不可能と言われたエコ系技術新事業創成や、ニートの社会再参加、元会社員の独立自営初年黒字事業化など、幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。星海社新書より『21世紀の薩長同盟を結べ』発売中です。
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『逃げ恥』が教える「自分らしく生きる」の本当の意味

あけましておめでとうございます。昨年の私は普段の仕事的にはそれなりに一歩ずつ経験積んで進歩してこれた感あるんですが、いかんせん本出したりネットに上げた文章が広く読まれて・・・という方向での活動としてはなんだか何もやってないも等しいような印象になりそうで、正直ちょっと焦ってもいます。

ただ今は、焦って本やブログを書いても、よくある「右や左の紋切り型」にしかならない難しい状況に世界がどんどんなっていくなあと感じていて、そうじゃなくて「個別の事例」と仕事で向かいあう中から立ち上がってくる何かを信じて積んでいきたい気分だというか・・・ま、もうこの歳になると自分はマイペースにしか生きていけない人間だってところは骨身にしみてわかっているので(笑)、相変わらずそういうペースで今後もやっていきますので見捨てないでたまに気にかけてやって下さい。

ちなみに、ブログ再移転しました。ブックマークされてる方は変更をお願いします。

新ブログトップページ↓
http://keizokuramoto.blogspot.jp



で、久しぶりのブログ更新、しかもブログ移転一回目・・・がテレビドラマの話題ってなんてミーハーなって感じもしますが、2016年最大の(たぶん)ヒット作となった『逃げ恥』が超よかったので、年末だしそれについて書きます。

全体的に言って、「自分らしく生きる」っていう現代的に超超超言い古されたことについて、ちゃんと一歩ずつ考えて一歩ずつ実現していかなくちゃね!っていう気持ちになったところが凄く良いドラマだったと思ってます。夫婦で見てて毎週二回は泣いてました。

このブログはそういう方向で、

・『逃げ恥』のどこにこんな感動するのかって話
と、
・それはある種「運命へのニーチェ的向き合い方」なんじゃないかって話(より正確には”一連の実存主義哲学”)
と、
・「他人の人生を生きないで、自分の個別性(自分らしさ)を生きること」っていう「言い古されたこと」を私達が本当にちゃんとやりきるにはどうしたいいのか?
というような話に広がっていく予定です。

日本から老害を一掃して残業を減らす唯一の方法

なんか挑戦的なタイトルになってしまいましたが、ただ最近「老害」っているんだよなァ〜と物凄く実感することがあって、その詳細をそのままは言えませんがそのやるせない思いをより広くて皆様と共有できるテーマとして昇華して書いてみたいと思っているんですが。

あなたは、「老害」って言葉、キライですか?好きですか?

私は最近まであまり好きではなかったです。老害扱いされてる人にも、うまく使ってあげればそれなりの価値やら色々あるんだぜ・・・と言いたい気持ちが結構あって。

ただ、そんなこと言ってると「老害さん本人」が「自分の老害性」を一切意識せずにノウノウと暮らし続ける反面、困ったことにその「老害さん」は権力持ってたりするのでその集団全体の適切な運営がどんどん滞り、直接的には「ヤル気のある若手」さんが、そして結果的には「その組織の人全員」が非常に困った状況にみんなで追い込まれていくことになってしまう。

物凄く大枠での言い方をすると、過去20年にわたる日本の苦境はこの「老害さんをどう扱うか」について、思い切りの良い諸外国のように何のテライもマヨイもなくボコボコに権力を奪って放逐していくような思い切ったマネジメントができなかったから・・・と言ってしまっても悪くないかもしれません。

ただね。現状の日本は、老害さんたちを腫れ物に触るように扱って捨てずにいたので、社会全体が「トランプvs反トランプ」みたいにどこまで行っても平行線な対立に落ち込んだり、スラム街がどこまでも悲惨なスラムになっていくようなことは避けられたり・・・というプラス面もあったんだろうとは思います。アメリカに比べたらまだ貧富の格差もまあマシなレベルに留まっている。

つまり、なぜ日本が「老害さん」たちを諸外国のようにはボコボコに斬ってしまえないかというと、「その老害さんが代表しているものの中に自分たちの良さの根幹も混ざっている」からだと言えるでしょう。