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(オリパラ会長人事)日本で本当に女性が活躍するにはフェミニズムも「アップデート」が必要

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森元首相の「女性蔑視発言」が問題視されてオリパラ会長を辞任した件、後任は橋本聖子氏に決まりましたね。 この人事には色んな人が色んな思いを持っているでしょうがそれはとりあえずさておき、この騒動を振り返りながら、日本における「女性活躍」がもっと進むにはどういうことが必要なのか?について考える記事を書きます。 特に、日本社会で本当に「女性の活躍の場」を広げていくには、「今のタイプのフェミニズム」には一歩「やり方」をアップデートしてもらう必要が出てきていると私は考えていて、その事について書きます。 とはいっても、「女は黙れ」的な話ではなく、本来的なリベラルの理想から言ってもそう悪い話ではないと思っているので、まあ脊髄反射的に反発せずに最後まで読んでいただければと思います。 ・ 1●「保守派」まで共感を広げてこそ物事は動く 個人的にはかなり初期から、「今回はおそらく辞任まで行くんじゃないか」みたいな感覚がありました。 というのは、 私は経営コンサル業のかたわら色んな「個人」と文通しながら人生について考えるという仕事 もしていて、(あまり政治的な話をすることは多くないけどあえて党派的に言えば)”右”の人も”左”の人もクライアントにいるんですけど。 そのクライアントの中でも、私 自身と比べてもかなり「保守派」の女性ですら、この問題については「もうほんとイライラします」って言っていた んで、これはちょっと擁護しきれない空気になるだろうな、という感じがしていたんですよね。 辞任報道が出る前日には、トヨタ会長の豊田章男氏が「アレは良くない」って会見で言った・・・みたいな話がトップニュースになっていましたけど、 「トヨタの会長ですらそう言うなら」的な空気の変化 はあったように思います。 これは「トヨタが会社として大きいから影響力がある」みたいな話ではない(それもあるけど)んですよね。そうじゃなくて、例えば新興ITベンチャーの社長が「日本社会って遅れてるよね」みたいなことを言っていてもそりゃアンタはそういう事を言うタイプですよねって話なんですが、トヨタ的に「日本社会の最も保守派の良識を司っていると思われているタイプの会社」の代表が「良くない」と言った・・・ことが大きいという話なんですよ。 つまり、 今回辞任にまで至ったのは、フェミニストをはじめとする「左の人」だけじゃなくて「保守派の多くの

大河ドラマ最終回!「本能寺の変」とは日本人にとって何なのか?について考える。

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アイキャッチ画像は「麒麟がくる」公式サイトより ・ 明智光秀が主人公の大河ドラマ「麒麟がくる」の最終回放送が、今週末2月7日日曜日に迫っています。 私は最初からずっと見ていたわけではなく、SNSで話題になっているのが気になって5回前ぐらいから見始めた程度なのですが、それでも 「誰でも知っている最終回の展開」=「本能寺の変」 に向かって徹底的にぶつかりあう人間模様が盛り上がっていく展開に目が離せなくなっています。 今回は、大河ドラマ「麒麟がゆく」の魅力について語ると同時に、日本史にとって「本能寺の変」とはどういう事件だったのか、経営コンサルタント兼思想家の視点で考えてみる・・・という記事になります。 1●それぞれの「人物イメージ」を強烈に塗り替えてくれる「麒麟がくる」の魅力 「今回の大河ドラマの主役は明智光秀」と聞いた時に、失礼ですが私は「なんか地味なドラマだな」と思ってしまいました。 それぐらい、明智光秀という人物は信長とか秀吉とか家康とか武田信玄とか上杉謙信とか毛利元就とか・・・もっと言えば松永久秀や斎藤道三みたいなレベルの知名度の人物と比べても「地味」な印象が、よほどの日本史マニアというわけではない多くの日本人にはあったのではないかと思います。 よくわからないけど、「本能寺の変」の時にポンと歴史の舞台に飛び出てきて、その後すぐに秀吉に敗れ去って消えた人物・・・というぐらいの印象の人が多いのではないでしょうか。 しかし、「麒麟がくる」を途中からでも見始めると、そんな明智光秀像が一変するというか、世の中全体の事を考える良識があり、高い能力があり、周囲のあらゆる人に対する人間的な優しさがあり、そして織田信長とも強い信頼関係で結ばれている・・・そういう非常に魅力的な人物であるように思えてくるわけですね。 長谷川博己さん演じる光秀だけでなくこのドラマの中では、剽軽ぶった振る舞いの奥に不気味なくらいに底知れない人間的深みを感じさせる秀吉(佐々木蔵之介)とか、「神秘的な魅力」と言っていいほどの存在感を放つ正親町帝(坂東玉三郎)とか、最終的には光秀に謀反を決意させた張本人といっていい役割になる迫力がある帰蝶サマ=濃姫(川口春奈)とか、私のように「一応は知っているけど最新の研究動向を事細かに知っているわけではない」ようなレベルの人間の人物イメージを徹底的に覆してくれる鮮烈な人物像

これからの時代のマスコミは、「批判」でなく「率先した問題解決のリード」まで踏み込むべき(”望月衣塑子型陰謀論”を超えて)

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1● 政府の施策が困窮者に伝わっていないのはマスコミのせいではない・・・でいいのか? ここ数日SNSで、 「コロナ関係での政府の支援策の情報が必要なところにちゃんと届いていないのは、マスコミが周知に協力しないからではないか」 という批判が大量にシェアされていました。 ある朝日新聞社員がツイッターで、「新聞は政府の広報誌じゃないんだよ!権力を批判することだけが専門なんだ!」的なことを言って、それに批判が殺到した・・・というような話のようでした。 断片的にそのツイートが流れてきた時には「おいおい、そうはいっても伝えるのをまずちゃんとやれよ(怒)」と思ったんですが、今この記事を書くためにその記者さんご本人のツイートを見に行くと、 霞が関周辺で「マスコミが報じないからだ」という声もたまに聞きますが、そもそも新聞は政府の広報誌ではありません。政策を分かりやすく伝えるために記者は取材しているのではありません。政策の問題点を見抜き、政府が隠していることを暴くために取材しています。 — 内藤尚志(朝日新聞記者) (@naitouhisasi) January 29, 2021 ↑確かにこのツイートは批判されても仕方がないように思いますが、その後批判を受けて結構すぐに   ×政策を分かりやすく伝えるために ○政策を分かりやすく伝えるためだけに  申し訳ありません。「だけ」が抜けてしまっていて、おかしな意味になっていました。まずは分かりやすく伝えられなけば、記者の仕事を果たしたことになりません。ご指摘、ありがとうございます。たいへん失礼いたしました。 — 内藤尚志(朝日新聞記者) (@naitouhisasi) January 31, 2021 ↑このように謝罪ツイートをしており、 全くもって「全く話の通じない”自己目的化した反権力”的なタイプの記者さん」というわけでもない ように思います。 この方は1999年入社だそうで、おそらく私とだいたい同世代の今40代半ばごろだと思うのですが、 個人的な感覚としては、今の30ー50代ぐらいの中堅社員の新聞記者の多くは、もっと上の団塊の世代の記者がSNSでやたらイデオロギーに凝り固まった放言を繰り返しているイメージとは違う柔軟な部分を持っているように思います。 あまりにイデオロギー的な放言を繰り返す団塊の世代の新聞記者のイメージが強すぎ