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"So I showed him how people in the Far East get down"なモジュール戦略が、欧州左翼風理想主義の本当の具現化ツールとなる。

なんか、最近昔好きだった音楽を物凄く聞くようになってる自分がいますね。特に本出るの決まってから、さらにはアマゾンのアカウントができてからさらに特に。 「The Yellow Monkey」の、 「未公開のエクスペリエンス・ムービー」 とか 「8」 とか、あるいはインディーズ時代の 「Bunched birth」 とかね、彼らの中でもあんまり売れなかった方のアルバムをひさしぶりに聞いたら凄い良いなあ!!ってなって、なんか聞きながら家の近所走りに行ってしまいましたわ。

「すみません」と「ありがとう」の間。

この回のブログ で、後輩キャラってものの重要性について話した時に、最後の部分で、「すみません」って案外良いよね、ガイジンから見たらなんか変だけど的なことを書いたんだけど。 なんか、あれからちょっと時間たってきて、やっぱ「ありがとう」の方がいいなあとか思ったりしてきた。 「ありがとうと、君に言われるとなんだか切ない」って宇多田ヒカルさんの歌があるけど。 あれ、「”愛してる”よりの”大好きだよ”の方が君らしいんじゃない?」って歌詞もあるし、なんかこう・・・・大雑把に言うと「欧米風の生活の仕切りと、その裏側にあるリアルな感情」の間の相互干渉が切ない人生の味・・・・って感じの歌なのかなと思うんですけど。 「愛してるvs大好き」「ありがとうvsすいません」 みたいな、そういう二分法的な文化のあり方ってのがある気がする。 いや、「すいません」とか言うと二人の愛を語るモードにはありえない感じになるけど、志村けん風に「いつもすまないねえ」「それは言わない約束だよお父つぁん」みたいな(笑)のを考えると、結構この「二分法的な感じ」がイメージできるんじゃないかと思うんだけど。

「イシューからはじめる」ための薩長同盟のあり方について。

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新卒で入社した会社が、かなりその人の職業人生のキャラクターを決める的なことってよく言われているし、確かに結構そういう部分もあるなと思うんですが。 もちろん、そういうみんなが乗っかるエスカレータ的なものとは違うところからスタートした人の方が、色々大変だろうけど自由でもあるだろうし、逆に最初に入った会社があまりにダメダメなところだったからこそ奮起して今の自分があるとか、そういう色んな事情はあるんで、だから最初の会社に影響を受けるのが良いか悪いか、っていうのは一概には言えないと思いますが。 ともあれ、僕自身は凄く影響受けてるなーと思うところがあって、で、思い返してみるとですね。 マッキンゼーにいたころに、当時既にボス中のボスぐらいまで出世してた人にはあんまり知りあう機会がないまま辞めちゃったんですけど、よく一緒に時間を過ごすことが多かった中ボスぐらいまで出世してた人の中に、「うわーこれは天才やな」って思った人がいてですね。 それが、安宅和人さん(現ヤフーCOO室室長)なんですね。(あともう一人物凄く影響受けた人をあげるとすれば ツイッター日本支社代表のジェームス近藤さん なんですが・・・まあこれは全然違うタイプの人なんで別の機会に)

コブクロと馬場俊英の間・高杉晋作と西郷隆盛の間に真っ直ぐ伸びる、「純愛と経済合理性が一致する特異点」を狙え。

こんな話、日本の音楽全然聞かない人には全然伝わらないじゃないかという話なんで、こういうのはクラシック以上に例に出すとき難しい問題があるように思うんですが、最近「馬場俊英」さんっていう人の歌が好きなんですよ。 「人生という名の列車」「ボーイズ・オン・ザ・ラン」とかが有名ですけど、他にも「男たちへ・女たちへ」「旅人たちのうた」とかいいなあ!って思ったりして。 とはいっても、「人生という名の列車」っていう昔買ったアルバム(初回版だったんでオマケで”男たちへ女たちへ”その他ライブ4曲が入ってたんですよ)しか持ってないんですけどね。 曲調は、まあ一応ロックの体裁にぎりぎり載せつつも(でもこれがロックだとか言ったら普通の洋楽ロックファンとかは怒るかもしれない)、もう、なんつーか、フォークと言っていいぐらいまで、あるいは「男版・中島みゆきさん」ってぐらいな感じなんですけどね。

「一貫して連続した"非合理的"決定」が「次の時代の合理性の中心」を作るという話と、「案外後輩キャラ」の重要性について。 (後編)

これ、件名は「後編」になってますけど、まあ、3連作続きの同じテーマの別々のエッセイみたいになったんで、これ単体で読んでも意味あるものになってると思います。(というかそのほうがシンプルでわかりやすいかも 笑) さて。 少し期間があいてしまいました。 星海社新書編集長の柿内氏の指導で、「新書という形式」になった時に読みやすいような改行の量、「」のつけかた、小見出しの数・・・・のような「柿内フォーマット」に改稿する作業を、昨日の深夜にやっと終えたところです。

「一貫して連続した"非合理的"決定」が「次の時代の合理性の中心」を作るという話と、「案外後輩キャラ」の重要性について。 (中編)

神戸に戻って、祖父の通夜と葬式に出て、で、また名古屋に帰って来ました。前回の続きを話す前に、ちょと今回の葬儀その他で感じたことを一回分寄り道してまとめます。 ・・・というつもりで書いてアップロードしてたんですけど、読み返してみると案外同じテーマについての話になってるなって思ったんで(これが無意識の才能か! 笑)、同じ件名で3つ続きの連作エッセイってことにしようと思います。 ・ なんか、神戸の実家に戻るときも、名古屋に帰って来る時も、どっちに行くときも「帰る」って使っちゃう流れになってるんですけど、でもやっぱり、今暮らしている名古屋周辺の町に帰ってきて、最寄り駅についた時の方が、「帰ってきたなあ」って感じがしますね。 僕にとってこの町は、妻が生まれ育った町という以上の縁は一切ないんですけど、でもなんか、そこがいいなって思うんですよね。ゼロから縁を積み重ねていっている感じがする。 神戸や関西は、自分の原点ではあるけれども、色々なものが絡まりあいすぎていて、僕の場合はちょっとそこでゼロから何かをやっていくことはできなかった。

「一貫して連続した"非合理的"決定」が「次の時代の合理性の中心」を作るという話と、「案外後輩キャラ」の重要性について。 (前編)

なんか凄い長いブログになりそうです。 ブログであまりに長文書くのってどうなんだってとこもあるんですが、しかし、言い訳するけど、普段は全然関係ないように分節化されて語られているものごと同士も、特に経済と我々の生身の人生というものは密接にお互い絡まり合って生きているので、バラバラに「よくある形」で語ってても決して真実はつかめないという時もあるのだよワトソンくん。 というわけで、あっちこっち話が飛ぶように感じるかもしれないけど、最終的には一つの軸に沿ったお話みたいに読めるように書いていこうと思うんで、呆れずについてきていただきたいんですけど。

謹賀新年に寄せて・・・・勝間和代さんと実家の近所のオッサンの話。

あけましておめでとうございます。今年も・・・というか今年はほんとマジで色々とご協力をよろしくお願いいたします。 今、実家の神戸に帰ってきてるんですが、今さっき紅白でレディガガのステージやってて、いやーよかったなあーと思いました。 うちの母親はあんまりこういう新しい音楽に詳しくない方だと思うんですが、「レディガガっていう人はすごいよ!聞かなあかんで圭造!あれはただの変な格好してる人ちゃうで!言ってることやってることに魂があるわ!!」とか言ってた(笑)うんうん、いや別にあんたに言われんでもファンやで。 うちの母親は、色々問題ある人だと思うんですけど、ことなんか「やたらポジティブでめげない」ところだけはかなり凄いレベル(妻があんな人見たことないとびっくりするぐらい)の人なんですよね。 そういうのって普段は結構疲れる部分があると思うんですが、今年みたいに「来年はマジで勝負の年やで!」ってなってる時には、あの暑苦しいポジティブさも、まあまあ受け流せる感じで。 「出版おめでとう!」ってわざわざ書いてあるケーキの蝋燭を吹き消させてもらったりしてたんですけど(笑) 近所のオバチャンネットワークに宣伝しまくってくれてるそうで、まあ、それも昔なら暑苦しすぎると思ってたと思うけど、まあ、今年はええかなという感じです。