「一貫して連続した"非合理的"決定」が「次の時代の合理性の中心」を作るという話と、「案外後輩キャラ」の重要性について。 (後編)
これ、件名は「後編」になってますけど、まあ、3連作続きの同じテーマの別々のエッセイみたいになったんで、これ単体で読んでも意味あるものになってると思います。(というかそのほうがシンプルでわかりやすいかも 笑)
さて。
少し期間があいてしまいました。
星海社新書編集長の柿内氏の指導で、「新書という形式」になった時に読みやすいような改行の量、「」のつけかた、小見出しの数・・・・のような「柿内フォーマット」に改稿する作業を、昨日の深夜にやっと終えたところです。
結構しんどかった。ほんと。昨年末12月の半ばぐらいからずっとやってたんで、まるまる一ヶ月もかけてしまったことになりますね。
まあ、でも凄く勉強になりました。ただ既に書いてある原稿の形式の細部をいじったというだけではない何かがあった。
なんか、どんな「場」の定番のノウハウ的な形式にも、その場にまつわる色んな関係者の切実な事情が染みてきて出来上がってる部分があると思うんですよね。
なんで、新書業界のホープ的存在である柿内氏の体験的なものから出てきたフォーマットに合わせていくと、それ自体が、「新書の出版」という「場」にまつわる色んなステークホルダーの事情がまるごと体に染み込んでくるような、大げさに言うとそういう体験でした。
今までの僕の文体っていうのは、マスコミ的なものを一切利用せずに、ネットでブログとかだけで自分をマーケティングしていって、文章を買ってもらったり、あるいは会員さんの人生にメールの文章だけで介入していって、何らかのアクションを起こしてもらったり・・・・っていうことのために特化した職業的蓄積の結果、流れ流れてそうなってた文体って感じなんですよね。
でも、そういうネットを通じた場、あるいはクローズドな会員組織の内側における場っていうのと、マスコミ的な場って全然違うな・・・・って感じがしましたね。
ほんと全然違うわ。っていうことを、今回の「柿内フォーマット」への改稿作業をしながら思った。
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だいたい、まずなんと言ってもマスコミから出すとなると、親戚とか親とかの反応が全然違うしね(笑)
いやこれ、(笑)どころじゃない結構本質的な問題だなと思う部分があるんですけど。
自力で「舞台」を作って、そこでパフォーマンスもやる・・・っていうような、パンクバンドのDIY精神みたいなのでやってってると、「それだからできること」っていうのと、「それじゃできないこと」ってのもあるなと思うんですよね。
ネットの普及で、個人が個人で自分のポジションを切り開ける可能性が物凄く開けたっていうのは凄くあるんですよ。僕がやってることなんて、ネットがない時代だったら、マスコミ経由でやっていくしか方策がないタイプのことだったわけだし。
もしネットがなくてマスコミから出ていく存在になっていたとすると、今みたいにいわゆる「実存主義」風に?パンクバンド風に?、僕自身の問題意識の核心を、そのまま形にしていくようなビジネスにはしづらかったはずなんですよね。
まずはマスから見た「商品価値」を見た上で、「既に商品カタログに掲載されているワンテーマ」に対してこっちが手をあげて「はーい、そのテーマなら書けまーす」っていう形にならざるを得なかったはずなんですよ。
だから地味に、自分は「ネット時代だからこそ」っていうようなキャリアを作ってってるな、「そういうキャリアだからこそ」っていうのは、「思想の内容」レベルでも普通とは違うものにできてるんじゃないかな、って思う部分もあるんですよね。
それは「良い部分」ね。パンクバンド方式「だからできること」の方ね。
けど、でもそういうことしてると親戚や親の反応が物凄く良くないですからね(笑)
そういうところでやっていくと、やっぱ「自分をきっちり権威化していく」ような、そういう「舞台自体を自力で整えるための武装」が、文体の中に必要になってくるんですよ。
ある種、自分自身を特権化するような、そういうストーリー展開にせざるを得ないんですよね。
まあ、特権化っていうと大げさなんですけど、あまりにフレンドリーになりすぎると、「お金を払ってもらえる理由」という構図が消滅してしまったりしてビジネス全体が崩壊するんで、だから、どっかで線引きをして、「あなたとは違うんです」感を出し続けてないといけなくなるんですよ。
で、そういう風なキャラで売っていくと、本当の「素の自分」みたいなのとは違う存在にしていかなくちゃいけない部分もあるんで、昔の友人とか、親とか親戚とかとのコミュニケーションがうまくいかなくなったりするんですよね。
どこかぎこちなくなっちゃうというか。
だから、昔の友人とかにも、遠慮なく「読んでよー」て言いづらいものになる。
で、昔の知り合いに読んでよって言いづらい・・・ってだけなら問題は限定的なんですが、その当然の帰結的な影響として、やっぱりそういう「自然な共感」を広げていくような文章にしづらいっていうのはあるんですよ。
凄く深く先鋭的に、強力な没入感を持って参加してくれる人には届くんだけど、「なんか、あの人の言ってることって・・・・なんかいいよね」っていうような普通の人への分厚い広がりにはどうしても持って行きづらい。
そのへんが、「パンクバンドのDIY精神」の、「長所の裏返しの短所」だなって思う部分なんですよね。
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一方で、マスコミの仕切りから出るってなると、そのこと自体が権威化作用を持ってるんで、逆に僕自身の文章は、どこまでも「普通の兄ちゃん」的な方向に振って行っても崩壊しないなーっていうのを、最近感じていて、そこに新しい可能性があるなと思っているところです。
もちろん、内容自体にはプロ感があるだけのものを提示しなくちゃなんだけど、その「内容とは関係ない人柄感」の問題としてね。
例えばね、リリー・フランキーさんっているじゃないですか。彼の仕事の作り方って、やっぱりマスコミ的システムの存在が前提なんですよね。
もし全く無名の状態から、ブログとかの無料の場だけを通じて、彼のようなキャラクター性を立ち上げていこうとしたら、「面白いやつだな」って人気になったとしても、そこから収益化をしていくのは凄く難しいんですよ。
なんでかっていうと、彼のように「広い範囲の自然な共感を引き寄せるあり方」っていうのは、まさに「自然な共感」だからこそ、それを権威化して「商品」の形にパッケージして課金するのがかなり難しいからなんですね。
独自のゆるキャラみたいなネタがふとしたキッカケで大ブレイクしたりするような、よっぽどの奇跡的な風を捉えたりすることが必要になってくるんですよ。
でも、マスコミから出ると、既にそういう「構図」が出来上がってるんで、「舞台」を自分で整える必要がないんですよ。
そしたら逆に、「許されるギリギリまで”自然な共感”の方へ振っていく」ことができるんですね。
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でも今の時代、「自然な共感の押し売り」みたいなの結構ありますからね。
ただ相田みつを風のことを筆文字で書いときゃ「自然な共感」が得られるかっていうと、そう甘くもないところがあって。
やはり、その人のパーソナルな、大げさに言うと「実存的」な、そういう部分から自然に出てくる何かを、マスコミ的な仕切りに載せていくことが大事なんですけど。
そこがかなり難しいんですよね。
マスコミから出していく形にしながら、ちゃんと、「自分自身の奥底のもの」みたいなのがストレートに発揮されるように持っていくことが難しいんですよ。
なんか、ロックバンドがメジャーから出すようになって、「俺達のやりたい音楽はこんなんじゃねえ!」的な苦悩を抱えるみたいな、そういう話と同根の問題がここにはあるんですよね。
グローバリズム的なシステムが嫌がられるのって、要するに「システムに無理に自分を合わせなくちゃいけなくなる」からなんですよね。
で、実際、なんか色々「貧困化」は起きてると思うんですよ。批判したくないですけど、最近の新刊本の発行点数とかちょっと異常なレベルだと思うしね。
出版業界の実際の従事者ですら、「色んな事情があってこうせざるを得なくなってるけど、でもなんかちょっとどうかと思う」って、ほぼみんな思ってるんじゃないかという気がするし。
だいたい、次々次々本を出さなくちゃ!ってなったら編集者も疲弊するしね。
最後の一週間毎日終電&最後の三日間連続徹夜で作った本を、2ヶ月後には本人すら内容を覚えてない・・・・みたいなのに、「実に働きがいを感じられるなあ!」って人いないと思うし。
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僕が柿内氏と知り合って、本出そうって言い出してから、出版まで5年以上かかってるんですけど、それもなんか・・・・まあそれほど言葉でパッキリ説明できる理由でそうなったわけじゃないんだけど、似たような問題があったんですよね。
やっぱり、今の時代のマスコミは凄くシステマティックになっているので、「今売れてる感じ」っていうののラインナップが、明確にカタログ化されていて、「これ系?じゃなかったらあっち系?」みたいな感じなんですよ。色んなマスコミ的な立場の人と話してると。
いやまあね、最終的にはそういうカタログ的な理解に載るようなパッケージに持っていかなくちゃいけないと思うし、僕の本も最終的にはギリギリ載せることができた(これは僕の功績というより柿内氏の功績じゃないかと思うんですが)と思ってるんですけど。
でも、最初の段階から、いきなり「●●系」に押し込められるような仕切り方をされると、こっちが持ってる切実だけど未定形な問題意識をちゃんと時間をかけて結晶化させて、明確なメッセージに持っていくようなことはできないじゃないですか。
「結論ありき」で企画されちゃってると、もうコインを裏返しただけみたいな、企画の段階でゴールまで全部見えちゃってるようなのにしかならない。
結果として、興味をひきつけるための面白そうなタイトルづけとかキャッチフレージングとかの編集者側の技術だけは物凄く進化するんだけど、それに見合った内容のある本がなかなかないってことになっちゃうんですよね。
で、そういう時に、書き手側としては、マスコミを通さずに、パンクバンドのDIY精神的なビジネスモデルでやっていくことの意義はあるんですよ。
「実存主義的」にやるっていうか、パーソナルな部分の一貫性をあくまで維持する形で仕事全体を作っていく戦略っていうかがね。失われし太古の文明の言葉で言うなら「アンガージュマン」的なね。
・
で、3回続きに色んな話を続けてきた、件名の
「一貫して連続した"非合理的"決定」が「次の時代の合理性の中心」を作るという話と、「案外後輩キャラ」の重要性について。 (後編)
って話につながるんですけどね。
「合理性」って言葉はあまりに本質的なことを考え始めると色々難しいわけですけど、単純に言うと「今の時代の、売れ筋、今の時代に光があたってる部分、通りが良い部分」に、自分自身を合わせるように持っていくことって、一定の「合理性」があると言っていいわけですよね。
自分自身の「本当の問題意識」とか、「奥底の思い」とか、
「なんかこう・・・うまく言われへんのやけれども、ここ、そう、”ここ”をもっと掘り下げんと、本当にものすごいものは出てこーへんと思うんやけれども・・・いやまあ、どないして掘ってったらええかは俺にもわからんのやけどな」
的な部分なんかは全部無視してしまうことは、一定の合理性があるんですよ。
「一定の合理性」どころか、今の時代に、普通に生きていくレベルで言うなら、「それしかない」「それこそが合理性だろ」っていう扱いじゃないですか。
で、まあともあれみんな生きていかなくちゃいけないので、本当に世の中全体を敵に回してでも・・・・というほどの切実な思いでもない限りは、とりあえず今の流行に合わせて生きておいたほうが合理的だと言っていいと思うんですけどね。
でも、みんながみんなそれをやりはじめると、全体としてあらゆるビジネスが「”顧客”ではなく”業界”を向いて仕事をする」みたいになってくるんですよね。
わからず屋の上司を説得しやすいからこの企画にしておくとかね。こう言っておけば通りがいいからそうしておく的なね。
柿内氏が前職の伝統的出版社にいた時には、彼と話してると彼の上司の顔がちらつくこと多かったんですよね。
いや、そういう話を彼が持ち出すってわけじゃなくて、むしろできるだけ協力しあってやっていこうっていう感じでいてくれてたし、個人としては信頼してたんですけど、でもやっぱり、自営してる人と組織人の間には精神構造にかなり大きなギャップがあるんで、彼と話してても、「あれ?俺は今誰と話してるんだろう?」みたいになる時があったんですよ。
そういう時には、結局、「まだ見ぬ将来の顧客のこと」じゃなくて、「その上司にウケのよいこと」を考えてしまいがちなんですよ。これはどうしてもそっちに引っ張られて行っちゃうっていうか。
もちろん、自分自身がやるべきことが物凄く明確に自分でわかってる状態にまでなったら、二正面作戦的に、「上司にはこういう風に話を通しつつ、読者のためにこういうパッケージにしよう」とか考えたりできるだろうけどね。
当時はまだまだ、モヤモヤとした問題意識の塊みたいなんがあるだけで、「これか!!そうや!!これや!!!!いけるでえ!!」って狂喜乱舞した次の日には「ああ、あかんわ。これじゃあ半分しか言えてないわ」って落ち込むみたいな状態だったんで(笑)
自分自身がまだまだモヤモヤしてる時に、さらにマスコミ業界の力関係に対して権謀術数を尽くすなんてことはとてもとても無理って感じでしたしね。
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でも今は、彼自身が独立して新書レーベルのボスになったんで、そのへん凄くクリアーなんですよね。
もちろん、彼自身も彼自身のビジネスの事情っていうのもあるから、受けられないことっていうのは当然あるんですけど。
でも、「彼自身の事情」=「その新書レーベルビジネス自体の事情」だったら、「その問題を一緒の視点で考える」ことができるじゃないですか。
そしたら、どないしたら僕自身の問題意識のコアを壊すことなく、彼的にちゃんと責任持って「売っていけるパッケージ」にできるのか・・・・っていう「一番大事な問題」だけに集中できる感じがするんですよ。
そういう感じで、「トンネルを両側から掘り抜く」ことが必要なんですよね。今の日本の閉塞感を打ち破るには。
マスコミ的なシステムが多少(どころじゃない)馬鹿馬鹿しさを含んでしまっているというのは、ほぼ誰もが思ってることだと思うんですけど、だからといってアンチ・マスコミみたいな方向で突っ走っても、本当に「みんなのためのこと」が立ち上がってこないんですよ。
「パンクバンドのDIY精神」で、ちゃんと「マスコミ的な(マスコミに限らず”今の時代の光が当たりやすい部分”の)仕切りに乗らない部分」を、時間をかけて結晶化させていくフロー自体は、もちろん一方で凄く大事なんですけどね。
でも、それ”だけ”がどんどん先鋭化していくと、「普通の人」との間の感情的断絶が大きくなりすぎて、結局少数の人のための希望にしかならないし、そういう仕事の作り方していくと、だんだん選民主義的になってきて、「俺達は真実を知っている存在なのに、世の中のカスどもはわかってない!!」みたいなことになってきちゃうんですよ。
それは、「本当に意味あることをやろう」という情熱があればあるほど、ヤバイ方向にいっちゃう部分なんですよね。
だから、
「本当に意味あること」を、パンクバンドのDIY精神的な、自営的なキャリア形成をしながら準備しておきつつ、そこに、「マスコミ的な仕切り」から「ロングパスをつないでくれる」みたいな連携が必要
なんですよ。
これもまあ、一種の「21世紀の薩長同盟」なんですよね。
個人主義者の長州藩士的存在が突き詰めて突き詰めて考えた新しい方向性を、そういう「突き詰めきるような人たち」の間だけで置いておくとオウム的にヤバイ化学反応が起きてしまうんですよね。
だからこそ、そこに、「集団の和」の中でポジションを得ている薩摩藩士的存在から、「ロングパス」がつながるように持っていかないといけないんですよ。
そうじゃないと、「先鋭的で意味があって内容があるけど一般受けが全然しないもの」と、「みんなに受け入れられやすいけど内容が空っぽなもの」の「どちらか」しか市場に出回らない世界になるんですよね。
そしたら、結局みんなが本当に欲しいものが商品化されないのに、みんなが今日の食い扶持のために「本当は欲しいとも思ってないもの」を必死に持て囃して経済の規模を保っている空騒ぎ状態になってくるんで、まあそりゃデフレにもなるわなって話なんですよね。
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でもね、逆に言うと、こういう「21世紀の薩長同盟」的な関係を大量に巻き起こすためにこそ、人類はグローバリズムを発明して推進してるんだとも言えるんですよね。
こういう「ロングパス」方式じゃないと、「80点は取れるけど100点は決して取れない世界」みたいになるんですよね。
システム的なものの透徹性が低い社会だと、「ある程度良いもの」は、みんな「よっしゃ!俺に任せとけ!」みたいな親分力がある存在によって均等に引き上げられるんで、だから80点ぐらいのものが平均的に色んなところに満ちている平和な世界になるんですよ。
でも、そのそれぞれの「中規模の80点的成功」の一つ一つは濃密な人間関係のシガラミの中で成立してるんで、いざ「本当に圧倒的に良いもの」が生まれたとしてもよってたかって潰されちゃうしね、結局「まあまあいいんだけど、みんなが腹の底からスカッとするほど物凄く良いものは決して生まれない社会」になっちゃうんですよね。
一方で、システム的なものが社会を覆い尽くすと、「大きな可能性を潜在的に含んでいるんだけど未完成なもの」をネコソギ駆逐してしまうような副作用があるんで、結果として、「小さく小さく作ってあるから文句つけづらいもの(でも本当にみんなが望んでいるというわけでもないもの)」だけで社会のあちこちが満たされてしまう・・・・という問題は確かに発生するんですよ。
でも、その「システム的なもの」をかいくぐって、「本当に意味あること」を、「システムに載せる」ような「薩長同盟的関係」が実現したら、それはそのグローバリズムシステムを利用してどこまでも広がっていって、人類を次の段階へと導いてくれる可能性を得たりするわけなんですよね。
で、そのためにこそグローバリズムとか、「アメリカ」とかはあるんだと思うんですよ。
それらは物凄く世界中に迷惑をまき散らしながら突き進んでいるけれども、その奥底にある希望っていうのは、こういう「21世紀の薩長同盟的な関係」が人間社会に次々成立するようになったら面白いよね!っていう、人々の潜在的な願いによって駆動されてるんだと思うんですよね。
やっぱ、結局、どこかの誰かのエゴ的陰謀で、こんなに世界中を埋め尽くすようなムーブメントが生まれたりしないはずですよ。みんなの潜在的な願いの結果がそういう風になってるんだと僕は思うんですよね。
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なんか、アメリカ由来のスポーツと、イギリス由来のスポーツって、大分雰囲気が違うところがあると思うんですが、僕ある時期突然アメフトを見るのにはまって、よく衛星放送で見てたことがあったんですよね。
イギリス由来のスポーツって、「前にパスする」ことについて結構ストイックじゃないですか。サッカーのオフサイドは多少の自由度があるけど、ラグビーとかちょっとでも前に投げたら反則って世界ですからね。
で、そういう「前にパスできない」世界観だと、密度感が高くなってくると思うんですよ。ラグビーみたいに、外側へ外側へパスをつないでいって、「その場」にあらゆる人が関わってミッチリつつきまわすようなゲーム展開になる。
一方で、「前にパスできる」と、ちょっと大味になってくるんですよね。
アメフトは物凄くロジカルかつシステマティックにやるんで、だから「FCバルセロナの華麗なるパスサッカー」みたいなのは消えがちだと思うんですよ(本当のトッププロはそういう要素もあるんだぜ!とかいうのはあるんでしょうけど比較問題として)。
本能的にお互いの動きを読み合って、小さなパスを無数に繋いでいって・・・・的なのはなくなりがちで。
逆にアメフトは、たまにドッギャァーンって前にパス出せるんですよね。というか、それ自体が「一番の見せ場」みたいな感じなんですよ。
サッカーでロングパス出しまくるゲームとかは「大味でつまらん」って非難の対象になりがちなのとは対照的なんですよね。
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この2つは、イギリスとアメリカの社会全体の構造の違いでもあると思うんですよね。
要は、デジタルなシステム的なものの通用性が高い社会は大味になるけどダイナミックで、より自然的で本能的な社会運営をしているところは密度感が高くなるけど革新性に欠ける・・・・的な、「あたりまえすぎるほどあたりまえな因果関係」が顕れてるんだと思うんですけどね。
でもね、両者の「一番の理想」っていうのは、「同じもの」に収束してくるはずなんですよ。
昔、なんかの試合でベッカムがセンターサークル付近からパーンってロングボールあげて、それをロナウドがノーバウンド・ノートラップでスコーンとゴールしたシーン見たの覚えてるんですけど、ああいうのとかね。
アメフトは、たった数カ月突然はまってただけなんで、似たような例をあげられないんですけど、多分、本当に凄いロングパスが通るときっていうのは、「サッカーに比べて大味だなんて決して言わせないぜ!」っていうような、そういうプロの妙技的連携があるはずだと思うしね。
あ、そうそう、何年か前に、どっかのチームがかなり大事な試合で(曖昧すぎるな、すいません素人で)、タックルで倒されても倒されても、それをバックアップする選手が自然に現れて、受け継いで受け継いでタッチダウンまでランで繋いでった大逆転プレーみたいなんがあったんだよな・・・・ニュースで一瞬見ただけだったんだけど。
そういう風にやったら、アメフトもほとんどラグビーみたいなプレーになりますよね。
だからね、現実社会でも、今後アメリカは、ソ連崩壊以降の「唯一のスーパーパワー」的な地位から徐々に降りてくることになるんで、「普通の国」に近づいてくるはずだし、そしてイギリスに限らず「文化的連続性に乗っかって自然的に運営されてる普通の国」の側は、グローバリズムの浸透とともに、「アメリカ的」になってくるはずなんですよ。
で、そういうプロセスの中で、
「自然的な密度感の中の一番良い結晶体」
に対して、
「システム的な世界から超ロングパスが通る」
というような、そういう連携が生まれてくるはずなんですよ。
それが「21世紀の薩長同盟」なんですよね。
今は、その両者をつなぐための「特別の技術」が未発達なままなんでギクシャクしてるんですよね。
アメリカ的に「システム原理主義」でやるにしろ、昔の日本(というか普通の国はすべて本来こっちなんですけど)「共同体原理主義」でやるにしろ、「一色で塗りつぶされた社会」だったら、その方向性における偏差値的基準が明確に共有できるんで、その社会において「みんなが認められる納得感のあるスター」が、ちゃんと引き上げられる社会になるんですけどね。
アメリカが未だにそれなりに強い国であるのは、目指すべき価値観が良くも悪くも明確でブレないんで、だから「ある明快な偏差値的基準」で「上位」に立った存在がリーダーシップを発揮しようとしたときに、広い範囲のコンセンサスを得やすい状況にあるからなんですよね。
今の日本は過渡期なんで、だから、「滅び行く共同体側のスター」の側も、「新しいシステム的世界観のスター」の側も、どっちの側の人間も、広範囲に説得性を持った自然なリーダーシップを発揮できない状況におかれてしまってるんですよね。
だから誰も「意義深い大きなムーブメント」を仕掛けることができず、バラバラになって右往左往しつつも、ただバラバラになってしまうだけだと社会が崩壊してしまうんで、「本当はこれが欲しいわけでもないんだけどな・・・」的なもので無理やり空騒ぎをして場を繋ぎ続けなくちゃならなくなってるんですよ。
だから、新刊書もあふれるほど出し続けてないといけなくなってるんですよね。
でも、だからといってアメリカみたいには決してなれないですからね。アメリカ以外の国は決してアメリカにはなれないし、当のアメリカだって、今後10年20年も今のアメリカのままであり続けることは決してできなくなっていくんで。
アメリカンに単純な世界観で統一しきることはできないが、「両バサミのどちらにも行けない苦労」を1億数千万人で味わい続けてきた日本の、「違和感」が、ある瞬間結晶化すれば、
「薩長同盟的なロングパスを通す技術」
に、日本が世界最先端に目覚めるときが来るはずなんですよ。
なんせこの問題は、「智に働けば角が立つ、情に棹せば流されるby夏目漱石」以来の日本民族の宿願といっていいぐらいの問題ですからね。
「非西欧の先進国」っていう超レアな立場を何世代にもわたって続けてきた国って現状では日本ぐらいですからね。
その「両バサミの違和感を生身で感じてきた蓄積」で言ったら圧倒的に世界一ィィィィィィィのはずなんですよ。
そこの間をつなぐ技術が、「経営の実務」レベルで共有されたら、「そうだよ!こぉーれぇーがぁー欲しかったんやっちゅぅーねん!」っていうような新機軸の商品を次々資本主義市場最前線に送り出せるようになるだけじゃなくて、今まで「どっちつかずの決められない愚鈍さ」だと思って自己卑下してた自分たちの煮え切らない性質が、「実は一番真実を見通す智慧のある存在だったんじゃねえの俺たち?」みたいに思えるようになる、そういう「積年の悩みが晴れる」体験がやってくるはずですよ。
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で、また件名↓に戻ってくるんですけど(笑)
「一貫して連続した"非合理的"決定」が「次の時代の合理性の中心」を作るという話と、「案外後輩キャラ」の重要性について。 (後編)
だからね、今の時代、「本当にみんなの願いにつながること」をやろうと思うと、一回「光のあたらない場所」に行って、マイペースに、「明日の売上のため」じゃなくて「本当に必要なことはなんだろうかという問い自体のための探求」の時間を持たないといけないとこあるんですよ。
今の時代に「合理性と呼ばれているもの」の裏側にある「本当の合理性」を結晶化させるために、一貫して「今の時代の基準から言うと”非合理”扱いしかされない」ようなことを続けなくちゃいけなかったりするんですよね。
でも、それを、「光のあたらない場所」で延々と一生死ぬまで続けてても意味がないわけじゃないですか。いや意味がないとまでは言わないが、しかしモッタイナイですよねそれは。
だから、いずれはその探求結果を、「みんなが参照できる光のもとに」引っ張り出すことが必要になってくるんですけど。
そこには、かなり難しい問題があれこれあるんですよね。
「本当は大事なこと」かもしれないが、あまりにも「みんなの興味から外れたこと」だったら商業的に成立しないわけだし。
特に、マスに売っていくときっていうのは関係者が膨大にいるんで、個人でネットでPDF冊子を読者に直販して利益率9割以上っていうようなビジネスモデルじゃないから、やっぱある程度「数」が出ないと成立しない仕切り方になりますからね。
だから、昔の親分と子分みたいに、「よっしゃ俺が売ってやる!」「お願いします、兄貴!」みたいに密着した関係じゃあダメなんですよ。
「お互いにお互いの譲れない事情がある」
って感じの関係じゃないとダメなんですよね。そこが、
「●●ちゃんと僕の仲だろぉー頼むよぉー」
って感じになったらダメなんですよ。でも、お互いの事情を理解しあって、
こっちの状況から言うと「これ」は本当に決定的に必要なサポートなんですけど、あなた側からすると大した問題でもないことですよね?
的な協力は、むしろ
「普通のシステム上に乗っているときのモードをかなり踏み越える形」で、あえてやっていくべき
なんですよね。
そうしないと、両者の間の断絶ってほんと大きなものがあるんで、なかなかそこをつなぐ「薩長同盟的関係」は生まれにくいんですよ。
・
これ、なんかアメフトっぽいなあというか、アメリカというシステムを人類が保持していることの希望みたいなんを感じる瞬間なんですけどね。僕は個人的に。
アメフトのクォーターバック(ゲームが始まったらボールを受け取って、パス出すなり走るなりの作戦を決めて実行する司令塔)って、野球のピッチャーほど「完全に守られた存在」じゃないんですよ。
あんまりにも時間かけてボール持ってるとタックルされる危険が高まるし。でも、時間かけて持ってるほうが、パスのレシーバーが敵陣の奥まで攻め込めるんですよね。
今の時代、マスコミ的存在(に限らず、例えば”投資家と事業家””上司と部下”みたいなあらゆる関係性の中に全く同じ事情はあるんですが)が、「本当にみんなのためになるには?」みたいな殊勝なことを考え始めると、物凄くこのクォーターバック的な「両バサミの問題」にぶつかるんですよ。
いざという時に自分の権限で物事を動かすだけのポジションを業界的に維持しておくためには、ある程度数を出し続けられる企画を打ち続けなくてはならない。一方で、「売れりゃいいのかよ!」っていうことはしたくない・・・・的な両バサミ。
一方で、パスを受け取るレシーバーの方も、ただ単純に「真実とはなんぞや」的に敵陣の奥まで走ればいいってわけじゃなくて、ちゃんとパスコースが確保されてる位置に適切なタイミングで走りこまなくちゃいけないけど、でもあんまりそういうことを考えすぎると奥地まで突き進むことができない・・・・的な両バサミの問題がある。
その両者は、全然違う立場で全然違う問題と向き合っているので、だから「真実の探求者」からすると、「マスコミ的存在」は「真実ではなく売れるかどうかばかり気にする奴」みたいに見えちゃいがちだし、「マスコミ的存在」からすると「真実の探求者」は、「浮世離れした独善的な変人」に見えてしまいがちなんですよね。
で、そこの2つは、「お互いがお互いの職分を全うすることが大事だよね」っていう相互理解ができないといけないんですよ。
レシーバーとして走りこむ役割の人はあんまりマッチョ過ぎても鈍重になるんで、クォーターバックやましてやクォーターバックをガードする役割の人ほどのガタイだと良くないんですよね。
それを、「お互いの職分」なんだから、「自分の基準で相手を判断しちゃいけないよね」っていう風に持っていけないと、理想的な「ロングパス」は通らないんですよね。
でも、そこをちゃんと通す「技術」を社会全体で発達させていくと、ラグビーみたいに「決して前には投げられない世界観」でやっていた時のような密度感を持たせつつ、アメフトみたいにドギャーン!って前にパスを出して局面が展開していくような革命的に大きな場面転換も起こせるというような、その「両方の良さ」を具現化したような社会に持っていくことができるってわけです。
その時、
「一貫して連続した"非合理的"決定」が「次の時代の合理性の中心」を作るという話と、「案外後輩キャラ」の重要性について。 (後編)
っていう例の件名の前半部分、
「一貫して連続した"非合理的"決定」が「次の時代の合理性の中心」を作る
が実現するんですよね。
おお、なんとか話がつながったぜ(笑)
・
で、最後にやっと「後輩キャラ」の話になるんですけど。
なんかね、「一貫して連続した”非合理的”決定」ってね、やるの凄い難しいんですよ。
そんなこと全然妥協せずにやってると、マジで食っていけなくなるんでね。
だから、ほんと騙し騙し、今の時代のシステムの抜け穴を通り抜けながら、なんとか「必要なこと」を積んでいく・・・・みたいなことが必要になってくるんですけど。
でもね、そんなこと、よっぽどの幸運に恵まれた状況の人にしかできないじゃないですか。
でも、比較的多くの人が実行可能な道として、
ある程度安定した組織の中での「後輩キャラ」っていう生き方
があるんですよね。
同一組織ってだけじゃなくて、社会全体の色んな場所をわたっていくにあたっての「後輩キャラ」っていう感じで広く捉えてもいいんですけど。
今の時代にちゃんと成果を出そうと思うと、その時点での「普通なあり方」をかなり大部分受け入れていかないと、他のシステムとの調和が取れないんですよね。
だから、「成果を出す」っていうことは「今の時点のシステムに縛られる」っていうことでもあるんですよ。
でも、だからといって引きこもっているだけでは、「本当に必要なこと」を現場感を持って吟味していくこともできないんでね。
「ある程度現場の最前線的なものにふれつつ、ちょっと守られてる」みたいな微妙に絶妙なポジションで、「一貫して連続した非合理的決定」をしていかないといけないんですよ。
で、そういうのをやる方法って、ほんと権謀術数的に大変な部分もあるんですけど、一つの大きな方針がね、やっぱ「後輩キャラ」ってことなんですよね。
・
といっても、「押忍!倉本ッス!!先輩ッお世話になります!!」みたいなんのことじゃないんですよ。←こういうタイプの文化って、多分今後どんどん消えていくと思うしね。
件名に「”案外”後輩キャラ」って書きましたけど、普通の感じだと全然「後輩キャラ」って感じじゃないのに、結構「後輩的ポジション」にいるのが自然にできる・・・・っていうタイプのことなんですよ。
例えばね、サッカーの中田ヒデ選手とかね、実は「案外後輩キャラ」だと思うんですよね。
前園さんと一緒にCM出てるの見たことあるけど、なんか凄い自然な感じで(笑)
なんか、日本において、「凄く個人主義者で、かつあらゆる人に対等にフェアに接したい理想を持ってる人間」って、直感的には意外な感じがするんですが、案外「後輩キャラ」になると収まりがいいんですよ。
そういう人は逆に自分が唯一の大黒柱的キャプテンみたいなポジションを与えられると、「後輩から見上げられる」みたいになるのが居心地悪かったりするんですよね。
「自分は自分、お前はお前でしっかりやらなきゃ」って思ってるのに、後輩側から「先輩!!」って感じでベタベタされると居心地悪いんですよ。
でも、自分が後輩側のポジションにいると、先輩ぶってる人と「対等風に話す」のが、うまく噛みあうんですよね。
先輩役の人は先輩役の人で、「先輩なんだからシッカリしなくちゃ」って思うから「独立した個人」として行動してくれて面倒がないし、その「先輩的な人」の「良い部分を引き出してあげるように動くのが自分の役割」みたいに捉えると、案外自分の内側にある「グッドアメリカン的理想」と矛盾しなかったりするんですよ。
・
日本社会に生きていると色んなことがアメリカより粘着質なのは仕方がないですよね。文句言ってても仕方がないんで、うまくやれるやり方を編み出してしまえばいんですよ。
で、せっかく「粘着質に面倒くさい人間関係を生きる」っていう「多大なコスト」をかけてるわけだから、それに見合ったリターンがないと寂しいじゃないですか。
そういう時に、この「案外後輩キャラ」っていうのは、もっとドライな国では不可能な、「かなり美味しいポジション」とも言えるんですよね。
それを積極的に使わない手はないんですよ。
本当に新しいことをやるには、「ある程度現場最前線的なものに触れつつ、多少守られてる」みたいなポジションで、ジックリネットリジトジトと、準備していくことが必要なんですけどね。
そういう「絶妙なポジション」って、今の世の中なかなかないですからね。
アメリカにはそういうポジションが多分ほとんどないんで、だからこそ、ホワイトボードにギャギャッって書いたコンセプト一発ドカーン的アイデアを、ドララララララララアアって遮二無二実行するビジネスには強いんですけど、だんだんそういう形のビジネスの単純さに世界中が飽きてきつつありますからね。
それよりもう一段「深いところ」からゆっくりじっくりネットリ引き上げられてくるようなものを、待望する空気は凄く高まってるんですよ。
で、そういうのをやるにあたって、日本社会において「後輩キャラ」的に生きるのは、「ファーストクラス的特等席」と言っていいぐらい恵まれたポジションなんですよね。
そういう場所って、今の世界からほとんど消えていきつつありますからね。
サッと今すぐ明確な形にできる何かが提示できないと淘汰される圧力が物凄く高まってるんで、「ええっと、あれ?ちょっと待ってよ?なんかおかしいな・・・・」っていうのをジックリネットリ何年もかけて考えるなんて贅沢なことはできなくなりつつあるんですよ。
でも、「後輩キャラであること」をワザとして徹底すると、そういう場所が日本社会にはまだまだあるんですよね。
むっちゃたくさんあると言ってもいい。
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で、そこであまりに「目先の成果を出すために120%の力を使ってしまわない」みたいなのが、ズルいようですけど、結構一つの人生戦略だなあって思うんですよね。
そのへん、先輩を立てておいて、先輩の手柄にしてもらって、で、隣で、一応自分にもそのやり方ができるかどうかはちゃんと試してみたりね、でもそれ以外にも、色々と実験的なことをいくつもやらせてもらったりね。
そういう風に、特に20代を過ごすのって、将来的に凄く良い投資になるんじゃないかと、僕は個人的に思ってるんですよね。
20代からバリバリと最前線的な成果を出しまくる位置に立てた人は、別にわざわざ後輩キャラぶったりする必要はなくて、俺はもっとアクセル踏むぜ!って行ったらいいと思うんですけど。
日本社会に生きてると、そういう立場になれる人ばっかりじゃないですからね。
そういう時に、そういう「20代から最前線ど真ん中人生」の友達と自分を比べたりしたら結構落ち込むじゃないですか。
でも、まあ、それはそれ。利用してやろうと思って、「後輩キャラ」でいたらいいと思うんですよ。
でも、全然自分のほうが下だとか尽くさなくちゃと思ってるわけじゃない、上の人を利用するだけ利用しながら、本当に大事なことを自分個人主導でいずれやってやるぜ!っていうような、「目覚めた後輩キャラ」にね。
「今の時代の普通」にどうしても納得できない部分、その「なんとなくの違和感」を大事にしてね。
「なんとなくの違和感」なままだとどうしようもないですけど、それをジックリじっとりネチネチと、フィジカル・フィロソフィシャル・パーソナルな「PQ的領域」で突っつきまわし続けたら、いつかはわからないがいつかは「結晶体」になってくるんで。
そういうのを諦めない「PQ的大道楽のモード」で生きる人がある程度増えてこないと、「みんなが違和感感じてるシステムなんだけど代替案がないからずっとそれを使い続けなくちゃいけない」ってことになりますからね。
で、そういうPQ的大道楽を生きる人・・・・が、アメフトで言う「敵陣深く走りこむレシーバー役」だとすれば、ちゃんと「成果を出すポジション」を維持しながら、それでも「本当に意味あることってなんだろうか?」という思考をやめないタイプの人は、「クォーターバック役」なんですよね。
クォーターバック役の人も、さっさと手近なところにパス投げてればリスクは小さいんだけど、ギリギリその位置を確保したまま、できるだけ敵陣の奥深くまでパスを投げたいと思って色んなことを調整しているわけじゃないですか。
その両者の間に、「超ロングパス」がバンバン通り始めるようになったら、グローバリズムシステムが人間社会の自然な連動性を失わせて、色んなところで経済が不調、「国のサイン」を連発しなくちゃいけなくなってどこの先進国の国債もヤバイ状態・・・・みたいな状況は終焉を迎えるんですよ。
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ふう。やっと後輩キャラの話ができた(笑)
なんでこんな話を始めたかというとね。
最近本が完成に近づいて今までの時間を思い返してみると、「なんか俺凄い後輩キャラやったな!」って思ったんですよね。色んな「先輩役」の人に助けてもらって、助けてもらいっぱなし(笑)ぐらいの感じでここまで来たなっていう。
僕自身、全然「後輩キャラ」って感じじゃないと自分では思ってたし、「押忍!あざーす!」的な「いわゆる後輩キャラ」じゃあ全然ないんですけどね。
でも、ふと思い返すと、「案外後輩キャラだったなあ」って思ったんですよね。
まあ、高校時代にやたら体育会っぽい(文化部だけど)部活にいたしね。なんか、そういうのがあったなあって思ったところがあって。
マッキンゼーにいたころは、ちょっと人生に悩みすぎてて余裕がなくて後輩キャラになるどころじゃなかったんですけど。
それ以降はね。
ホストクラブに短期間いた時すら、店長さん(売上ナンバーワンホスト)に「お前は見所あるから、俺のホスト道の奥義を教えてやる」とか言われて、つきっきりに色々教えてもらったりしたし(笑)
船井総研でも、「会長(船井幸雄氏)がいたころの、本当の船井流の一番良い部分をお前に教えてやる」的な感じで、わざわざ勉強会を開いてくれた先輩がいたし。(あそこじゃ他にも色んな先輩に凄い色々勉強させてもらったな)
そのどこの場所でも、結局「もらいっぱなし」で、ちゃんとお返しする暇もなく、「自分がやるべきこと」のためにスパッと次のステージに行かざるを得なかったことについては、いまだに心のどこかがチクチクするんですけど。
まあ、「教える役に立つ」っていうことは、そのこと自体がその人のためにもなることだし、教える・教えられるっていう関係が成立してる限りにおいては一種イーブンな関係なんだよってことにさせてください・・・・ってことをこっちから言うとなんか超厚かましい感じがするけど(笑)
でも、受けたご恩の分は、今後自分自身の仕事においてその「受けたルーツ」をちゃんとレペゼンしていくことで、彼らの評判を高めるっていう効果によって返すしかないかなって思ってますね。
あとは、自分の仕事によって「より良い日本」になったら、それが間接的な恩返しになるかなとか(笑)
そういうことにさせてください。いやほんとすいません。
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ところで「すいません」って、日本滞在が少し長くなったガイジンが一様にギャグにする日本人の口癖みたいなところがあると思うんですけど。
で、それを、欧米人風の「罪の意識」的な重々しさでマトモに受け止めてしまうと結構物凄く辛い精神の袋小路にぶちあたるんですけどね。
でも、「まあ、こいつもすいませんって言うてるんやし、もうええってことにしようぜぇーすんだことやんかぁーなぁ?」みたいな世界観で言う時の「すいません」って、なんかいいなって思うんですよね。
後腐れがなくて。サラッと水で流れていって、もう全然精神に禍根を残さない感じが。
それも「後輩キャラ」構想の一環みたいなところがあるんですけど。
反省全然してないダメ人間・・・・みたいになるのの紙一重ですけど。
でも、「憎めないキャラ」みたいなんに着地できたらいいなーとか。ってそんなん狙ってやったらアカンかね(笑)
と、いう感じで。
色んな雑談ぽい形式で広がりをつけつつも、一応最終的には一貫してちゃんと件名どおりの内容は書けたかなと思うんで、このへんで終わっておきますかね。
毎度の長文をここまでお読みいただきまして、ありがとうございました。