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2月, 2015の投稿を表示しています

燃料電池車による水素社会実現と格差問題の意外な因果関係

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昨年末に発売されたトヨタの燃料電池車(FCV)MIRAIは、官公庁を中心に受注が好調で、発売後一ヶ月で1500台(既に当初の年間目標の約4倍)に達したそうです。その他にも、関連特許を無償公開して参加者を募る戦略や、2020年東京オリンピックに向けて「水素社会実現」を官民挙げて目指す機運も高まっています。 しかし一方で、燃料電池車は本当は全然エコじゃないし、インフラを整えるのが大変だから世界では普及しないだろうというシニカルな意見もある。 特に批判の急先鋒なのは、電気自動車ベンチャー・テスラのCEO、イーロン・マスク氏で、 「フューエル・セル(燃料電池)はフール(愚かな)・セルだ」などと上手いこと言いながら批判、トヨタの上級副社長と舌戦になったというニュース も見ました。 まあ、電気自動車ベンチャーのCEOは当然そういう話をするよな・・・という問題もあるので、実際にはどうなんだろう?ということを少し調べてみると、 「めっちゃウマく行けば凄い可能性があるが、中途半端にやると最低の技術になる」 というような状況のようです。この記事は、そのあたりの問題と、日本の可能性について考えてみる記事です。 結論的を端的にまとめると、 1)FCVはちゃんと社会が活用できなければエコ的に最悪の技術になる 2)しかし、本当に活用できれば凄いエコになる。 3)かつ、現代社会の核心的課題である”格差問題”などにまでポジティブな影響を与えうる可能性があるし、ここ20年絶不調だった日本の良さを提示していける可能性を秘めている というような内容になります。特に、この「技術動向」的な話だけじゃない、「3」の話が今回の主題なので、12はもう知ってるよ・・・という方も「3」だけ読んでいただければと思います。

認知症なのにボケとツッコミは完璧な祖母とグローバリズム

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少し前の正月休みに実家に帰ったら、完全に認知症になっている祖母が物凄い「ボケとツッコミのスキル」を維持していて驚いた・・ということから、「プロ経営者」と「縁の下の力持ち」とのギャップといったグローバリズム的課題についての話をしたいと思います。 目次はこちら 1・客観的指標では認知症だがボケとツッコミは完璧ということがある。 2・『プロ経営者』と『縁の下の力持ち』のバランスこそが今の日本の最大の課題 3・「論客」の論調と”あなたの人生”は違うんだと思うところから本当の変革が始まる

いわゆる”左翼叩き”にも飽きてきたあなたへ。

私のクライアントのある経営者の人が、 「いわゆる”なんでも反対的無責任”な左翼的志向に、”論破”とか”お説教的なこと”をするのはもう限界が来てるんじゃないか。いっそそれは受け入れた上で何ができるか考えないといけないんじゃないか」 みたいなことを言っていて、凄い「なるほど」と思いました。色々考えこまされた。 ・ イスラム国人質事件関連で、というかこの事件にかぎらず、”何か”があるたびに盛り上がるパターン化された安倍批判・・・という盛り上がり方をする勢力が強すぎると、 むしろ安倍政権の基盤は強化される ばかりか、 安倍政権が本来望んでいる以上に「過激」な方向に日本は追いやられてしまう んだ・・・という記事を最近何度か書いています。 この記事から最後のリンクをたどってもらうとフルセット読めます が、そうすると新書の1章分ぐらいの長さになるので、興味はあるが時間はないというあなたはとりあえず重要な部分だけ分割掲載した以下の記事を読んでいただければと思います。 ・ 安倍批判をすればするほど安倍政権は過激化する矛盾を超えて ・ リベラルが安倍政権と向き合うことはイスラム国と向き合うこと 簡単に要約すると、とにかく「安倍批判」の中に意味があるものが含まれているとしても(実際かなり含まれてるんですけど)、今の状況のままでは「一方向的に批判すればするほど安倍政権が過激化せざるを得なくなる」メカニズムがあるので、もう一歩自覚的な言論をしていかないと、本当に「安倍政権がやりすぎない状況」に持っていくことは難しいぜという話です。

ダメ政府しか持てないのは自分にも責任があると考えてみよう

これを書いているのは2月1日の早朝なんですが、朝起きたら後藤健二さんの殺害情報が流れていて、とても悲しい気持ちになりました。 人が一人や二人死ぬニュースなんていつでも腐るほどあるのに、一個の事件に感情的に引っ張られるのってどうなんだ?っていうシニカルな見方もあるんですが、この人質事件は始まった直後から凄く嫌な気持ちになっていて、ネットで適当なことを言うネタにするのは辞めようとか最初は思っていたぐらいで。発生してからずっと、仕事をしていてもご飯を食べていても寝ていても心のどこかでジットリと重い気持ちになっていました。 フランスのテロ事件についてもそれなりに重い気持ちになりつつ軽口のネタにしたりはしてたので、なんか自分の中でのここまでの「扱いの違い」はなんなんだろう?と考えずにはおれません。 それはいわゆる「同胞愛」的な心理的コミットの影響なのかもしれません。 そういうのって透徹した理性からすると単なるエゴ(外国で飛行機が落ちた時に、ニュースキャスターが嬉しそうに乗客に日本人はいませんでした・・・という話を聞いて僕は何を思うべきだろう的な)とも取れますが、でもそう思うことって俺は大事だと思う・・・と言い訳しておきます。あらゆる人が万人に平等な心理的コミットをしようとするよりも、それぞれの人がそれぞれの人に近い心理的コミットをしてくれる人がいる・・・という世界の方が、個々に対するケアが薄まって汎用品化しなくて済むように思うので。 あともう一個ショックを受けていた理由は、人質事件が始まった時点で、二人が生きて帰れなそうな予感が私は妙にヒシヒシとしていて、内輪ではよくそう言っては、「まあ、この予感が外れて帰ってきてくれたらいいとは思ってるんだけど」とか言ってたんですよね。そういうのが妙に、気づいたら既に死んでいた時点でのあまたのニュースを読むよりも深刻な、目の前で断頭台が落ちるのを今か今かと見物させられているような気分になっていたんだと思います。 ともあれ、後藤さん、湯川さんのご冥福をお祈りします。