認知症なのにボケとツッコミは完璧な祖母とグローバリズム

少し前の正月休みに実家に帰ったら、完全に認知症になっている祖母が物凄い「ボケとツッコミのスキル」を維持していて驚いた・・ということから、「プロ経営者」と「縁の下の力持ち」とのギャップといったグローバリズム的課題についての話をしたいと思います。

目次はこちら

1・客観的指標では認知症だがボケとツッコミは完璧ということがある。
2・『プロ経営者』と『縁の下の力持ち』のバランスこそが今の日本の最大の課題
3・「論客」の論調と”あなたの人生”は違うんだと思うところから本当の変革が始まる



1・客観的指標では認知症だがボケとツッコミは完璧ということがある。

私の母方の祖母はもう完全に認知症です。疑いなく認知症。いわゆる痴呆。ボケ。

三分前に言ったことを忘れて何度も繰り返しますし、正月休み中に年末と年始に二回会ったんですけど二回目に会った時一回目のことを覚えてなくて、「久しぶりやなあ!今日神戸に帰ってきたんか?」などと聞かれました。(一昨日会ったのに今日帰ってきたわけないやろ!)

でもね、会話してると凄い人当たりがいいんですよ。関西人的なボケとツッコミも完璧。宴会の時に食器片付けたりお湯沸かしてお茶いれたり・・・と僕が動き回っていると、

祖母 「おお、圭造お茶いれてくれたり色々と機敏に動くやんか。ありがとうなあ・・・気ぃ効くなあ・・・頭の回転がはやいんやなあ」
私  「せやねん、子供の頃からよう言われとる。母方のおばあちゃん言う人がエライ頭ええ人やったからなあ・・・血ぃ引いてるんやと思うで」
祖母 「ああ、そう!せやな。そうやと思うわー・・・ってそれ私のことやがな!あっはっは!自分で言うといたら世話ないな!」(←かなり意図的なノリツッコミ)

実際このレベルのボケとツッコミ的センス(というか”スキル”と呼ぶべきなのか)は完全に健在で、話してると「あ、こっちにオチつけようとしてるな。サポートのボケをここで入れといたろ」みたいな高度なやりとりは全然苦労感なく常にある感じなんですよね。

その物凄く高い会話スキルと認知症の完全な進展ぶりとのギャップには何かしら人間の脳の不思議さについて考えさせられる領域があります。

普段はデイケアセンターに日中行ってるんですが、老人同士のケンカを「そらそこんところは奥さんの気持ちもわかるけれども、そういう言い方したらこちらの奥さんも受け入れようと思たって難しいとこあるやん?」とか言って仲裁して職員さんに感謝されたりするらしい。身体はまだ丈夫だし、身の回りにことはちゃんとできる。でもありえないほどボケている(認知症的な意味では)。

よく診断として「今日が何月何日か言えるかどうか」とか、そういう形式的な指標が使われると思いますし、そうやって早期診断していくことの医学的意義みたいなのは理解できますが、一方で「そういう形式的指標でいうと間違いなく認知症」なんだけど「こういう人がいてくれていいよね」ってなる人と、「形式的指標では全然問題ない」んだけど「日常生活的には大問題」な人ってのがいるもんだなあ・・・ということを思いました。

「無意味な客観的指標」よりは「その人が生きていることの価値」を適切に評価できる文化を我々は持ちたいものですね!っていうツキナミな話をやっぱり大事にしたいなあと思ったんですよ。

「形式的基準」で「問題アリ」かどうかではなくて、「その場にその人がいる価値」が周囲に承認されていて幸せ感を提示できているか・・・という意味では、完全にボケてるのにボケとツッコミは完璧で、かつたまに凄いええこと言うなあ・・・っていうことを言う、っていう人の存在が、大仰な言い方をすれば「果てしなく平準化された記号的秩序から外れたものをなぎ倒すグローバリズムの苦しさ」を緩和するバッファーになる可能性がある。



2・『プロ経営者』と『縁の下の力持ち』のバランスこそが今の日本の最大の課題

最近、鳴り物入りで外部から招聘された経営者が、自分がいた時代に「過去最高益」的な成果をあげつつ、その人が退任したらなぜか色んなところがガタガタになっていた・・・っていうことが、(特定の誰かを指して言ってるわけではないんですが!)結構ありますね。

ある意味で「形にしやすい分野」の建前を押し通すことが得意な人と、「縁の下の力持ち」的な無数の存在の効力感とのバランス・・・という問題として捉えると、「認知症なんだけどボケとツッコミは完璧な祖母」の話と非常に密接に関わってくる話ですよね。

最近、東海道新幹線のパンタグラフが逆向きに付けられていたミスがあって、そのまま6回の車両点検でも気付かずに12日間も営業運転してしまったそうですが、それを発見したのは新横浜駅の駅員さんだそうです。

その新幹線が新横浜駅を出る際に、架線の揺れが通常より大きいことに駅員が気づいたから通報して、それで点検したら発覚したとか。

そもそもありえない取り付けミスではあったのですが、逆にこの「発見プロセス」のあまりのプロフェッショナルっぶりに私は感動してしまいました。

そういうのって、本当に「鉄道を愛している」というレベルで働いていないと、ちょっとした違いにちゃんと反応して「なんかおかしい」を引き上げることってなかなかできないですよね。

そういう駅員さんは、ちょっと「意識高い系」な「プロ経営者」的なスキルとはかなり無縁なところにいます。でも、本当の意味で「プロ」とはこういう存在のことではないでしょうか。

・・・とはいえ、そこで終わってしまうと左翼系新聞のコラム欄みたいな話になってしまうんですが、「プロ経営者」だって必要なんですよね。大事なのは、「プロ経営者の活動」が「駅員のプロ」をなぎ倒してしまわずに、両方の力が吸い上げられるようにすることです。

この問題は「プロ経営者を叩いていれば済む」話ではない。なぜなら現代社会にプロ経営者的な存在は絶対必要だからです。

「プロ駅員さん」の力を十二分に発揮させるためにも、「その力」が「意味あること」に振り向けられる必要がある。また、全体的に明らかに過剰品質だから赤字になり続ける世界から、多少は枝を刈り込む力が作用したほうが、「プロ駅員さん」も安心して仕事ができるようになる可能性がある。

しかし、こういうのはなかなか難しい問題ですね。グローバルな文脈で動いている「プロ経営者」の人は、とりあえず泳ぎ続けないと死んでしまうマグロみたいなものなので、ある程度明確な方針が常にないと自分のポジションを維持できなくなっているからです。

だからこそ「彼らの事情」をちゃんと理解して包み込んでやれるか・・・が大事なんですよ。彼らは「日本的密度感」からすると「裏切り者」なんですが、その「裏切り者」が自分たちの心強い味方になってくれるのか、徹底的に「敵」な存在になってしまうかの分水嶺がそこにあるからなんですね。

以下の絵のように、「プロ経営者」的な存在と「日本の現場」をちゃんと繋げる特別な「ワザ」に日本人がちゃんと習熟しない限り、「プロ経営者」側にいる人間は「架線の揺れから不具合を発見するようなプロ」のあり方をなぎ倒し続けないといけなくなってしまうんですね。



現状では、「何もしない無策」のまま、「部分だけ見ると良い感じなんだけど全体としてみると物凄い無責任」な方向に行ってしまわないように、何らかの「改革」を目指すことが、短期的に色んな「なぎ倒し」を伴っているとしてもそうせざるをえないところがあります。

明治維新の時に薩長が革命を起こした結果、東京(江戸)の水道のメンテナンスが行き届かなくなって一気に水質が悪化したという話もあります。しかし、状況的に革命を起こさずに欧米列強にいいように切り取られるよりはまだマシだったという見方もできる。

つまり「水道のメンテが崩壊しないような革命」が今の日本には必要なんですが、ネットや論壇を見ていると声が大きいのは「改革に賛成か反対」という論争だけで、「今は粗い改革になりがちなのを、水道のメンテが崩壊しないような改革にバージョンアップしよう」という方向性はかき消されてしまいがちです。

今の「改革」には「プロ経営者」的な立場の人が参加しがちですから、「プロ駅員さん」の力を抑圧してしまって、その「改革」の中身が粗いものになりがちです。でもじゃあ「何もしない」になってしまうわけにはいかないからこそ、「そのバージョンアップ」にこそもうちょっと衆知を入れ込めるようになりたいものですね。

私は大学卒業後、マッキンゼーというアメリカのコンサルティング会社に入ったのですが、その「グローバリズム風に啓蒙的過ぎる仕切り方」と「”右傾化”といったような単語で一概に否定されてしまうような人々の感情」との間のギャップをなんとかしないといけないという思いから、「その両者をシナジーする一貫した戦略」について一貫して模索を続けてきました。

そのプロセスの中では、その「野蛮さ」の中にも実際に入って行かねばならないという思いから、物凄くブラックかつ、詐欺一歩手前の浄水器の訪問販売会社に潜入していたこともありますし、物流倉庫の肉体労働をしていたこともありますし、ホストクラブや、時には新興宗教団体に潜入してフィールドワークをしていたこともあります。(なんでそんなアホなことをしようとしたのかは話すと長くなるので詳細はコチラ↓をどうぞ。)
http://keizokuramoto.blogspot.jp/2012/07/blog-post_18.html

こういう「問題意識」を持っているのは私だけじゃなくて、「グローバリズムと日本の強み」的な「境界領域」で仕事をしている人間なら誰しも持っている懸念だと思います。

コンサル業界の先輩方でも、

・「短期の一気呵成なコンサル契約でなく長期の契約にすることでその会社のバイオリズムを崩さずに、潜在的な力を発揮できるようにしていけるんじゃないか」
・「解決策でなく方法論を研修として売り込むことで、内側にいる人間が主体的に変革を起こせる手伝いをする方法ではどうか」
・「ファンドとして投資をすることで共通の目線で参加していく形ならどうか」
・より大きな文脈で捉え返しができるアカデミズムの世界からならどうか
・あるいは自分自身が起業してしまえば理想的な企業体が実現できるんじゃないか

といった色んな「形」を模索しておられる方がいらっしゃいます。

私もその流れの中で、自分の著書を読んで凄く共感してくれたタイプの経営者の人と長期的な関係を結んでみたり、あるいは「組織の一員」として生きている人と直接文通をすることで、「時間をかけてドラスティックな変革を起こそうとする」チャレンジをしてみたりしている。

つまり、何も抵抗がないとシュルシュルっとすぐに回りきってしまうようなゼンマイを何度も減速歯車にかけて最終的に「ピタッと正確な秒針の回転」にまで転換する機械式時計のような、そういう「仕組み」にチャレンジしている人たちがいるんですね。

でもね、こういう『境界領域』に入って行くと、「両極端な罵り合い」で形成されてる世の中でどっちから見ても敵みたいになっちゃって、色々な困難にぶちあたったりするんですよね。

でも日本は「ここから」スタートするしかないし、そこからスタートできればあらゆる立場の人にオールウィンになれる可能性も生まれるんで、ちょっとずつ仲間を募っていきたいなと思っているんですよね。



3・「論客」の論調と”あなたの人生”は違うんだと思うところから本当の変革が始まる

とはいえ、「論客」さんは極端なこと言ってないと自分の商売が成り立たないんですよ。そこをちゃんと割り引いて理解してあげることが大事だったりする。

「日本の古来の良さを守れ!」って言うか、あるいは「抵抗勢力をぶっつぶせ!」のどっちかを言ってないとプロの論客さんは食っていくのは難しい。

「日本には日本の良さがあるけど、それだけじゃどんどん沈んで誰しもが困るようになるので、それをうまく引き出せるような改革をしないとね」みたいな曖昧なことを言っていたんじゃ論客としては物凄く地味な存在になってしまう。

私がなんでそんな曖昧なことを言い続けられるかというと、「それを言い続けるために」論客自体がメインの仕事じゃないような形でキャリアを作ってきているからで・・・でもコンサルとしてやっていくにはそれなりに「なぎ倒す」ことが必要な局面もあるので、色々と難しい矛盾の中でバランスを取って来てるんですよ。

でも、多くの論客さんは「言い過ぎてるな」ってわかってるけどやってるんで、ちゃんと「ど真ん中の道」が盛り上がってくれば参加してきてくれるはずだったりしますからね。

最近、年始のテレビ番組で竹中平蔵氏が、「同一労働・同一賃金であれば、正社員をなくしましょうって、やっぱり言わなきゃいけない」と言ったそうです。ネットを中心にかなりの賛否両論が巻き起こったらしい。でも、こういう意見は案外根強く日本の中にある。

竹中平蔵氏的なゴリゴリの市場原理主義者みたいな人たちの間だけではなくて、結構「開明的」な、たとえばフェミニストの人とかですら、古い日本の男社会の内輪のナアナアさを壊したいという思いから賛成する人がいるし、「労働運動」的な価値観からも、「”正社員”だけを優遇すると非正規に格差を押し付けることになる」という話をする人がかなりいる。

こういうのも、「論客が仕事」だと極端なことを言わないといけないという事情を割り引いて見ることが必要なんですね。

時代の変化や需要構造の変換に応じて供給側の体制が柔軟に変われるようにしなくちゃいけないし、何らかの形で「雇用の流動性」は高まる必要がある状況ではあるんですよ。

しかし、何の考えもなく正社員的な安定感を無理やり壊すだけだと、「認知症だけどボケとツッコミは完璧な祖母」とか「プロ駅員さん」みたいな存在がネコソギ「記号的な処理は得意だけど地道な責任感とかはそれほどない」人に置き換えられちゃうからダメ・・・ってことになるんですよね。

単線的に「デキル人」が偏差値主義的にいるんじゃなくて、「その場その場への責任感」といったレベルで見た時の本当の多様性が担保されている領域がそこにはあるからです。

でも「論客」としてやっていくにはそういう問題は捨てて単純化して話さないといけない事情はどうしてもある。

だからこそ、通勤電車の中でスマホの記事を読みながら、「日本古来の良さを守れ!」っていう記事にも、「抵抗勢力をぶっつぶせ!」っていう記事にも「そうだよなあ」と思いつつ、会社に行ったら全然違う現実が待っている・・・っていう毎日の中で生きているあなたこそが、2つの勢力をかけあわせて新しい流れを生み出す坂本龍馬的存在としての「変革の鍵」を握っているんですよね。

で、実際に日本的な会社で働いているあなたなら理解できるように、本当に「変革」を起こしたいなら、ある程度守られた立場の中で、今すぐ何かわかりやすい改革をぶちあげ無いといけないわけじゃない・・・という人こそが「本当の改革」ができるはずなんですよ。そうやって全体的なパフォーマンスを改善することで、やっと本質的な意味で「弱い立場の人」を助ける余力も手に入るようになる。

私の「文通」のクライアントでは、財務ポジションにいて「他人にはわからん四角い仕事」で自分の立場が守られているからこそ、「結論を急がずに現場感が本当に篭った変革を仕掛けることができる」というチャレンジをしている人がいます。

日本企業の「大きな変革」は、そういう「現場感もちゃんと理解しつつ、でも窮屈だなあと思って我慢して生きてきた」人が、外部の「グローバリズム的存在」と適切なタイミングで共鳴しあうことで成し遂げられることが多いわけです。

「変わらない組織」に嫌気がさして「日本の組織の外側」で仕事をするようになるのもひとつの人生の選択ではあります。しかし、「中にいるからこそ最もドラスティックな改革ができる」という風に考えることも今の時代大事なことなはずです。

中にいれば、「今すぐってわけじゃないんだけどさ・・・こういう方向に動くとしたらどういう問題があると思う?」とかなんとか言いながら、警戒されずに「刑事コロンボ風」に色んな立場の人の話を聞くことができます。職場の空気を深く理解した上での受け入れられやすい、しかし本格的な変革を仕掛けて行くことができる。

大きく言えば、「わかりやすい話」と「それによってなぎ倒されるプロ駅員さんのような存在」のギャップこそが、もっと大きな話で言えば「過激派組織自称イスラム国」みたいな存在として噴出しているんだとも言える。

また、「経済付加価値」の重み付けが、「プロ駅員さん」から「プロ経営者」に吸い上げられすぎているから持続不可能なレベルの格差問題になっているのであって、その「両者の本来あるべき連携関係」を模索することこそが「無理な介入のいらない格差是正策」であるとも言える。

「グローバリズム的に共通したシステム」が世界中に行き渡っていくグローバリズムの第一期が終わった今、その「とりあえず作ったデジタルな共有システムははじき出してしまっている現地現物のリアリティ」を、「システムと無矛盾になるように入れ込んでいく」ことが鍵となる時代が来てるんですね。

私はそれを「グローバリズム2.0」と呼んでいます。

・グローバリズム1.0の世界のゲームのルール単純なルールをいかにバンバン現地事情をなぎ倒して押し通していけるか?が勝つ条件
・グローバリズム2.0の世界のゲームのルール「とりあえず行き渡った単純なルールの中に、それを否定することなく現地の事情をどんどん入れ込んでいくこと」をいかに上手くできるか?が勝つ条件

そういう大きな流れの中での「世界最先端の課題」に向き合うための、「坂本龍馬的存在」になるための特等席にいるのが、日本の「サラリーマンのあなた」なんですよ。

「日本の古い組織をぶっ壊せ!」という論客さんの文章に溜飲を下げて「いいね!」を押した後に、ふと考えながら「内側から食い破るような変革」を仕掛けようと思ってみていただければと思います。(そういうチャレンジのパートナーとして、最近値下げした文通サービスでの出会いもお待ちしております。)





今後もこういうグローバリズム2.0とそこにおける日本の可能性・・・といった趣旨の記事を書いていく予定ですが、更新は不定期なのでツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々チェックしていただければと思います。

倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
・公式ウェブサイト→http://www.how-to-beat-the-usa.com/
・ツイッター→@keizokuramoto
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(当記事の絵や図は、出典を明記する限りにおいて利用自由です。議論のネタにしていただければと思います)

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