今更ですけど自己紹介を・・・その2.副題『原生林のような豊かでタフな経済を目指して』

今更ながらの自己紹介シリーズその2です。前回(初回)はこちら。

目次

0 そもそも、「なんでこんなアホなことをしていたのか」(原点編)

1 どういう世界を目指して活動しているのか (思想編)

2 そのために何をやってきたのか  (行動編)

3 今からやっていこうとしていることは何か? (未来の方向性編)

の中の、次は

1 どういう世界を目指して活動しているのか (思想編)

の話をしたいと思います。




前回、マッキンゼー勤務時に感じた、「この方法論自体は必要だろうけど、こればっかりやってたら組織とか国とかの本当の活力みたいなんはどんどんなくなっちゃうだろうな」という違和感について書きました。

そして、その経験の背後には、高校時代に「超名門の部活」が、数年で「一気に見る影もなくなっちゃった」ような崩壊体験があって、そのプロセスと酷似してる現象が、日本中で起きていることに凄く危機感を覚えたんだと。

その「崩壊プロセス」の中の一番大事な部分を一言で表すと、

「活躍できる人間のタイプ」が物凄く狭くなってくる

ってことなんですよね。

で、これが「本当にそれしか道がない」んだとしたら、「弱肉強食だよね、仕方ないよね」で済む話なんですけど、実際には全然そんなことないんですよ。

ただマネジメントの方法論における「人間というものへの理解」が浅薄すぎるから、「ほんの一部の人たちの力しか引き出せなくなって」いるだけの話で、で、そういうのは、

「倫理的に良くないとかじゃなくて、そもそも経済的に合理的じゃない」

んですよね。

アンチグローバリズムの論客の方は、ぜひ「小異を捨てて大同につく」の精神で、この「論法」でもって、この「薩長同盟プロジェクト」に乗っかってきて欲しいんですよね。

「グローバリズム推進派」が、「経済運営上仕方がない」って言ってるところに、そこに「倫理的に良くない」って話をぶつけていてもずっと平行線なんで。

勿論、経済的に合理的だろうと倫理的に許せない部分ていうのは当然存在するだろうし、そういう部分で「武士は食わねど高楊枝」的な部分を追求されること自体は絶対必要だと思うんですが。

「それだけ」で終わらずに、やっぱりこう、


「倫理的に良くないとかじゃなくて、そもそも経済的に合理的じゃない」


っていう論法を積極的に展開していくようにされると、「じゃあ具体的にどういう組織運営にしていけばいいのか」っていう話に、「両側の意見」が乗ってくるんですよ。

「グローバリストの個人主義者」だけの意見しか「経済の現場」に乗らないようでは、結局「日本人のならではの価値」を世界中に通用できる密度でうまく育てていくとか不可能ですからね。

だからこそ、「両側の価値」を、水掛け論の平行線を辞めて、「実務的なレベル」で噛みあわせていかないといけなくて、その時に、ぜひともアンチグローバリズムの論客さんには、

「倫理的に良くないとかじゃなくて、そもそも経済的に合理的じゃない」

っていう展開をサポートして欲しいと思っています。その方法については、本ブログや拙著にまとめてありますんで、参考にしていただけたらなと。



ともあれ、じゃあ、どうやったら「色んなタイプの人間の価値」を吸い上げられるようになるのか・・・っていう風に考えなくちゃいけないですよね。

今の時代的に、「固定的なデキル人タイプ」っていうのが暴走していて、みんながそれを目指しているんだけど、実際には「そういう固定的イメージの人」ばかりが実際に必要なわけじゃないんですよ。

例えば外資コンサル的な資質とかMBA的な思考法とかね、そういうのは、「そういう機能」が「一部」に必要なだけで、みんながそうなったら全体が活性化するとかいうのはありえない話なんですよね。

それは「個人」として見た時に「比較的課金しやすい仕事の取り方ができる」状況にあるだけなんですよ。

それはつまり「個人のスキルアップ・サバイバルの方法論」としては非常に「合理的」な選択なんだけど、「みんな」としての規模を大きくするための「価値産出」にはあまり繋がっていない。

だからこそ、個人がみんな「わかりやすいデキル人幻想を追ってスキルアップする」ことが「マクロに見た経済の繁栄につながる」っていうのは、いわゆる「合成の誤謬」ってヤツなんですよね。

むしろ、そういう「定型的に処理できる取り換え可能なシステム」化された部分に自由度を与えすぎて、「その場固有の価値」を時間をかけて引き上げていくような作用や、そこに必要な「密度感ある蓄積」なんかは邪魔されまくっていると言っていい。

これはね、アメリカっていう国自体が、既にそういう「システムの魔物」に取り付かれすぎて、「システムに乗せにくい部分」がもう破滅的な状況にある国になってしまっているのも、グローバリズムが結局世界中に「”その場なりの安定”を破壊して新しい貧困”」をまき散らしているのも、同じ問題なんですよね。

そういう「大雑把なシステムが生み出している問題」を、後から福祉やチャリティーでなんとかしようったって無理なんですよ。

そうじゃなくて、我々の目の前の仕事のレベルで「中身の無いシステムに過剰に与えられた権力」をひっぺがして、「適切な分担」に付け替えていく「経営の文化」が必要なんですよね。

で、日本の過去20年のどっちつかずさは、その「両取りが可能になる準備」のためにあったんですよ。

日本経済という「腐っても第3位の経済」のレベルで「両取りの理想」が実現できれば、それを「種火」としてグローバリズム全体を全く新しい段階に「進化」させることが可能になるんですよね。



ただね、マッキンゼーの卒業生MLで、本を出した時に議論になった時にも同じ話題になったんですが、これは「ただ日本の昔ながらのやり方を守れ」って言ってるんじゃないんですよ。

むしろ、「変革を前に進ませるためにこそ、こういうことを配慮しなくちゃいけない」と思ってるんですよね。

これだけ「グローバル対応」を叫び、「抵抗勢力さん」たちに全てをおっかぶせても日本があんまり変わらずにいるのは、結局その「抵抗勢力さん」たちにも「必要な価値があるから」なんですよね。

つまりは、「グローバリストの人間認識の浅はかさの分だけ、抵抗勢力さんに本能的な力が与えられている」から前に進めないんですよ。

そのプロセスの中で大事なのは、「マクロに見た合理的判断を的確に下す機能」と、「現場的密度感」を、いかに両立させるか・・・ってことなんですよね。

日本の組織は、現場の自律性が強すぎて、変化対応に弱い・・・とかね、よく言われてるアレですよ。

で、そのためには、ある程度大域的に、「経済合理性」を旗印にした、「グローバリスト側の認識」が通るようにならなくちゃいけないと思ってるんですよ。

そういう部分で「無為無策」ではいられない時代ですからね。ただ、それを「バックアップする仕組み」が必要なんですよ。



「グローバリズムと日本的組織の良さの両立を」って、言葉で言うのは簡単だけど実行はかなり難しいですからね。

お互い極論を言っているのも良くないが、かといって単純に、「ここはグローバリズム的に、ここは集団主義的に」とか言って切り分けられる問題じゃない。

なんか、もっと「グローバリズム的方法論の実行に際して、物凄く微細な問題を常に本能的に解釈しながらやる」みたいなことが必要なんですよ。

一個前に書いたように、僕は合唱団の指揮を、高校や大学でかなり真剣にやってたんですけどね。

「本当に構成員の個が活きる」のは、「何もリードしない時」じゃなくて、一種の「強権的なリーダーシップがある時」なんですよ。

「何もリードしない」時には、演奏者の集団は「探り合って」しまうので、「冒険」ができないんですよね。

どこかで「このタイミングだ!」っていう「一振り」はあったほうがいいんですよ。お互いの「息を合わせることに無駄なエネルギーを使わずに済む」からね。

でもその「強権的なリード」は、「官僚主義的なもの」でも良くないし、「個人のエゴでトップダウン」みたいなのでも良くないんですよね。

「空気を読みつつ強権発動」

みたいな・・・なんかそういうのが一番「個が活きる」んですよ。

理想的な「音楽」というのは、「指揮者」が「最初の一振り」をしている時には、「どんな強権的独裁者よりも独裁的権限を取って」いるんですよ。

でも、「次の瞬間」、その「呼吸」が動き出したならば、その「場の自然な流れ」をいかに邪魔しないか・・・・が「指揮者の責任」になるんですよね。

その「次の瞬間」以降は、むしろその「演奏者の息遣い」に「奴隷として奉仕」するように動くのが、一番「指揮者の機能が活きる」し、「演奏者の個が活きる」んですよね。

で、日本の組織っていうのは、「一代で名人芸的に築きあげた組織」には、大抵そういう「活きたリーダーシップ」があるんですよ。

でも、それが二代目三代目になると、「官僚主義的になる」か、「理屈由来の強権的リーダーシップになるか」、どっちかなんですよね。

で、「官僚主義」には未来がないけど、「理屈由来の強権的リーダーシップ」は、「もっと相互運動的なのが理想だよね」っていう「理屈」で転換することができるので、「グローバリズム的勢力によって日本が動くようになる」ことは第一歩としては必要なんですけどね。

その「グローバリズム的な統治機構」を、「質的に進化」させることが必要なんですよね。

そこのところを、いつまでも「因習に囚われたアホどもをぶち殺してしまえ!」的なことばっか言っててもダメなんですよ。



で、「薩長同盟本」では、これを「原生林のような経済」に例えて話してるんですよね。

数年前に、「芦生の森」っていう、京都の奥地にある京大農学部演習林の、「原生林」に行ったことがあるんですけどね。

そこはね、途中までは林業で整備されてる道があって、僕は大学時代に行った時はその「林業的に整備された部分」までしか行かなかったんで、ブランドネーム的に騙されて「自然はいいねえ」と思ってたんですけど(笑)、全然「他と違う」って感じじゃなかったんですけどね。

数年前に再度行った時には、ガイドさんに連れられてその「原生林部分」に入ったらマジで凄かったんですよ。魚屋さんみたいなゴム長靴履いて、「林業化されてない奥地」に入ってったらね。

場所によっては、踏んだらズボッって膝まで抜けちゃうような腐葉土とか、ちょっと踏んだことないでしょう?もうね、フワッフワなんですよ。湿度も全然違うしね。

もう、人知の浅はかさと「本当の自然」ってやつの凄さを感じるような空間があるんですよ。畑とか近所の雑木林とは「桁が違う何か」があるっていうかね。

僕は父親に連れられて子供の頃色んな山登りましたけど、人間が踏み固めてある山はそんな土ないんですよ。落ち葉はすぐ乾燥してカサカサ踏んで歩くのが「自然ってこういうもの」だと思ってたんでね。

でも、本当に「人の手が入ってない自然」っていうのは、「豊かさ」が全然違うんですよね。近所のカサカサで単純化した雑木林とは全然違うんですよ。

まあ、当時でも、ブームになって人が入ってだんだん踏み固められてってるから、もうこの自然はあと数年持たないかも・・・ってガイドさんが言ってたんで、もう今はそうなってないかもしれないですけどね。



で、なんでそうなるんかな?って考えるとね、まあこういう難しい問題は専門家の方が沢山いらっしゃるでしょうから、素人が勝手な仮説考えていいのかって問題はありつつ、「役に立つ図式」的な問題としては、

「陰樹・陽樹・微生物のバランス」

が大事なのかな・・・と思ったんですよね。というか、この説が本当に原生林を適切に説明してるかはともかくとして、「人間の組織」においては確実に正しいと思うんで、その説明のための比喩として理解して欲しいんですけど。

植物には、「陰樹と陽樹」があるんですよね。

光が当たるところでスピードはやくガンガン成長できる陽樹は、逆にあまり最終形としては大きくなれない。一方でその「影」の中で少ない光の量で伸びていって、最終的には陽樹を代替する「陰樹」っていうのもあるわけなんですよ。

で、そういう「目立つ植物」とは別にね、落ちた腐葉土を時間かけてジックリじっとり分解する「微生物さん」みたいなのもいるわけですよね。

で、この「3者」をね、人間のキャラクターにイメージするとですね、本来この「3者」が噛みあったら凄い良い組織になるのに、今のところこの「バランス」が全然保ててない感じなんですよね。

まあ、非常に「図式的」な話になってますけど、とりあえずは図式的にまとめたのを図にするとですね、

バランスが崩れてる今の状態がコレ↓



本来あるべき「相互補完的関係」がコレ↓




(図はクリックすると拡大します。)

まあ、図式的っちゃ図式的だけど、人間のタイプとして見ると、非常に「イメージできる」感じがすると思うんですよね。

色んな人が、薩長同盟本の読後感としてこの部分を凄い押してくれてる感じだし。

要するに、「時間かけて考えるタイプ」=「ハキハキするの苦手なタイプ」の機能を、いかに取り込むか・・・ってのが一番のキーレバーなんですよ。

いわゆる「因習的な組織」っていうのは、「その部分の機能」を守るために「みんなに我慢をさせてる」と言っていいぐらいなんですよね。

逆に言えば、「その部分さえちゃんと守れれば、因習的な組織にみんなが我慢してイヤイヤ従ってる状況も必要なくなる」んですよ。

つまり、「じっくり考えた大きな方向性」がちゃんとドームを作った明確なビジョンを共有した中に、「ガツガツやっていくぜ!!」っていう明快なタイプの活躍の場があり、同時に、日々地道な分解活動をしていく人の居場所もある・・・っていう、「全体の豊かさ」が実現するように持っていかなくちゃいけない。

要するにね、「微生物」タイプの人に、「陽樹さんみたいなハキハキした行動力」を求めるのも無駄だし、「陰樹さんタイプ」の人がジックリ何かを考えてるのに、「今日明日形になるもの出せ」っていう圧力しか与えられないのも良くないんですよ。

で、そういう「陽樹さんしか活躍できない経済」っていうのは、全体として「小手先だけ変えた新しいっぽいもの」は次々と生み出せるんだけど、時代を転換するような骨太な異質を一貫して生み出すような展開もできないし、「現場の密度感」もスカスカになってくるし、誰のためにもなってないんですよね。

で、原生林においても「陽樹さんによる他の存在への淘汰圧力」ってのは当然あるわけなんで、生存競争的なものがあること自体は、「陰樹の卵さんたち」を、「ただの衒学的な不平不満の表明」みたいなのに向かわせないためにも大事なことではあるんですけどね。

でも、そこの部分をキッチリ保全していかないと、ただ「グローバリズムに対応しろ」って言うだけじゃ「生態系がどんどん単純化」するんで、結局「活力」なんて生まれてくるはずがないんですよね。

これは要するに「市場に任せちゃいけない」って言う話ではなくて、経済学的に言う時の「市場の失敗」みたいなもんなんですよね。

「価値のラベリング」の時点で「本当の価値」と「価値の名付けやすさ」にギャップがあるんで、そこを補完する「文化」をうまく導入しないと「市場原理主義」では破壊されてしまう「豊かさ」があるって話なんですよ。

だから逆に言えば、「この問題」さえクリアーにできれば、「市場原理主義」的なものをスムーズに適用しても、すればするほどみんなハッピーになれるリバタリアンの理想みたいなのも実現できるんですよね。

要するに「何をやるのか」を考える時に、「もうちょっと慎重」に「みんなが活かせるような動き」を予め考えておいたほうが、「小さい範囲だけで成功」しておいて「余った存在を後から福祉的になんとかする」よりも、全体として絶対「エレガントなシステム」になるはずだってことなんですよ。

要は「じっくり考えて人生一個の何かを形にしようというリズム感の動き」をどうやって「スピードの早い組織の決断」と共存させるのか、それを考えなくちゃいけないんですよね。

そうじゃないと、結局「小器用なタイプだけがワイワイ頑張って見せていて、他の大多数が物凄く白けている」っていうような経済はいずれ空騒ぎ感が強くなってきて崩壊しますからね、「持続的な経済発展」なんて夢のまた夢なんですよ。

「陰樹的転換」もちゃんと内在するような、「アメリカ人の思考の癖のさらに外側」からちゃんと「転換」が起きるような経済を、全体として実現していかないと、世界中で経済がちゃんと回ってる国が1つもないみたいな今の現状は打開できないんですよね。

これは、「陰樹的な革命」と言った時に一番イメージしやすい「新しい事業を考える」的な部分だけじゃなくて、「今ある事業を効率化する」とか、そういう「既存の箱の中」でもそうなんですよね。

結局「陰樹的な捉え直し」がないような「効率化」なんていうのは、結局「見た感じ頭良さそうな根性論」にすぎないんですよ。

だからこそ、「グローバリズムの延長的な整備されたシステム的なもの」の「外側」の思考を、ちゃんと「くりこむ」ような発想が、経済のあらゆる点において今一番必要とされてることなんですよね。

今後、どんどん「空騒ぎ的な需要喚起」に対しては厳しくなっていく時代で、グローバルに見て、新興国含めてどこにも「元気な需要」が見つからない時代だからこそ、「考え尽くした新しいタイプの仕事の作り方」自体を、真剣に生み出していかなくちゃいけないんですよ。



で、こういうビジョンをどうやって「実現」するんだって話なんですけどね。

日本社会の、「面倒くさい部分」をうまく使うしかないんですよね。

アメリカ人的な単純さから「はみ出る部分」が物凄くあるのが日本人の短所であり長所でもあるんでね。

だから、単純に「グローバリズムに対応しろ」つって「陽樹的淘汰圧力」を加えるだけじゃなくて、「陰樹的巨木」が時間をかけて育っていくバックアップシステムを「共有」することが必要で。

で、その時に、「日本ていう単位」が凄い大事になってくるんですよ。

「日本人」ならば、「シンプルすぎるシステム」に対する違和感を明確に共有してますからね。常に、どんなグローバリズム原理主義者でも、日本で育った人ならば、かなりの程度「ホンネのホンネの部分の違和感」っていうのは絶対あるんですよ。(それを出すか出さないか、むしろ逆に意地張ってもう全部淘汰してやる!ってなってるか・・・はそれぞれですけど)

だからこそ、「面従腹背のモード」が大事なんですよね。

原生林においても陰樹は「面従腹背」してるわけじゃないですか。とりあえず、「何にも決められずに右往左往」するわけにはいかないから、「陽樹的仕切り」がスムーズかつストレートに通じる社会になったほうがいい。

ただ、それが「一方向的で単純すぎる」ようになると、アメリカみたいに「一握りのデジタルな知性は大活躍するけどスラムはもう悲劇的」っていう状況にマッシグラなんでね。

そうじゃなくて、「陽樹的仕切り」に対して「面従腹背」しながら、時間をかけて「バックアップをしていく個人のチャレンジ」が「物凄く大量に活動している」状態に持っていくことが大事なんですよね。

で、そういう「陰樹的バックアップ」をうまく保全していくことは、「とりあえずの決定」を「陽樹的クリアーさ」で行うためにも凄く大事なことなんですよ。

このブログでは何回も書いてますけど、そうやって

「無制限の理想主義は現実的妥協に置き換える&漸進的だが完全な理想追求の動きはうまく共存させる」

っていうモードに持っていくことが、

日本社会を「グローバリズム対応させながら、”豊かさ”も失わせない」ために一番大事なこと

なことなんですよね。

例えば原発問題に対する「社会的コンセンサス」だってこういう形でしか、本当に現実的な路線では「共有」できないんですよ。



今後、日本の「会社」は、どんどん「グローバリズム的なもの」に対応を迫られていくわけですけど。

で、その事自体は、「必要」だし、「うまくやればどんな人のためにもなる」んですよ。

「崩壊しかかっている昔の組織の密度感を押し付けられて生きている」っていうのは、たとえ今それに「博物館的価値」があるにしたって、やってる本人たちだって息苦しいからね。

だから、「古い共同体の枠組み」は解体されていく。それはいい。

けれども、そうやって「バラバラの個人の集まり」に日本人がなっていった時に、ちゃんとこういう「原生林のような相互作用」が生み出せるのか、それとも、ほんのひとにぎりの「デジタルなシステム的なサクサクした運用に適性がある人だけ」「決まった枠組みの中でうまくやる才能だけ」が評価されて、「その外側の真実の多様性」は経済に導入できない貧困な経済になってしまうのか?

それがこれからの課題なんですよね。

でもまあ、「ちゃんと配慮しないと、前には進ませてくれない」ってぐらい「日本の守旧派さん」は意地っぱりですからね。ありがたいことに。誇るべきことに。

20年間世界で一人負けしてても、変えなかった意固地さの強さが、うまく「薩長同盟的理想」に動かしていけば、「世界のどこにもない希望」になるってわけですよ。

そのための手順的なものは、ぜひ「21世紀の薩長同盟を結べ」をお読みください。

以上が、


1 どういう世界を目指して活動しているのか (思想編)


ですね。

では、


2 そのために何をやってきたのか  (行動編)

3 今からやっていこうとしていることは何か? (未来の方向性編)


は、またページを改めて一気に書きますかね。

続きを読みたい方は、こちらの「第3回」へ。

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