『他者に寛容でありたいと思っていたら果てしなく損な役回りを続けることになる連鎖』をどう抜け出せばいいのか。

なんか、一個前の記事、書いて良かったなあとは思うんだけど、もっとスッキリ言えないもんかね?ってずっと思ってるんだよね。

「スギちゃんみたいな余裕」が欲しいといいつつ、自分自身もそうなってないってとこあるしな。

なんでもっとスッキリ書けないのか?って考えた時に、結局「無意味な遠慮」をしてるんだな・・・・っていう風に、思い立った。

なんか、何回も、「こういうタイプの人はとりあえず現状そういう風な方向での言論をしておいてもらう必要があるし云々」みたいなこと言ってるじゃないですか。

ここ二ヶ月ぐらいの記事の中に、そういう方向の文章、結構書いたと思うんですけど。

その「遠慮」が良くないのかな?って思った。

って、これは「僕個人の問題」でありつつ、グローバリズムの中で日本人が自分たちの良さを発揮していくって時には普遍的な問題なのかな?って思ったりするんで、ちょっと書いてみようと思ってるんですが。

題して、

『他者に寛容でありたいと思っていたら果てしなく損な役回りを続けることになる連鎖』をどう抜け出せばいいのか。

みたいな話。

結論的には、

とりあえずは寛容な態度を取ることによって「色んな立場を包含するような全体の世界観」自体を自分で定義するとこまで行って、それの主張においては「寛容さ」を一切捨てて主張していく、という一貫した態度が必要

・・・・ってことになるのかな。



一個前の記事、内容的にはね、もうほんと凄い大事なことだと思ってるんですよ。

村上春樹エッセイのポジションが、石原慎太郎より倫理的に上位である

とか、

村上春樹は売国奴だからケシカラン

っていうのは、「光と影」にすぎないんで、

どっちかが偉い、どっちかがカスっていう立場から、本質的な事態収拾の流れは生まれ得ないんですよね。

その、「どっちもどっちさ」を自覚するところから始めないと、結局20世紀的な罵り合いの連鎖から抜け出せないわけなんですよ。

でね、この「どっちもどっちだと自覚する」っていうのは、凄い「他者に対して寛容であろうとする努力」を必要とするじゃないですか。

だから、「こういう方向の言論が盛り上がっているのも、それはそれで今は意味があるんだろう」的なことを、あらゆる方向に対して言い続けることで、やっと徐々に立ち上がってくるポジションだったりするわけなんですけど。(日本の外交の対外的態度も、もっと言えば”普通の日本人の人付き合いのあり方”も、結果的に常にこういう感じになってしまっていて、だからこそ時々暴発的なガス抜きが必要になっちゃってるんですよね)

その余波でね、結局、

「どっちもどっちさを自覚しないと前に進めないよという言論をやっていくにあたって、”それを主張していくという実際の行動面”においても過剰に遠慮しすぎてる」

ところがあるなあ・・・・と思った。

「村上春樹派」と「石原慎太郎派」に対する「寛容さ」を持った上で、全体としてマットウに組み合わせて行こうとする言論を組み立てるにあたって、その「言論を構築するまで」は、「真剣に寛容さを目指す」べきなんだけど。

いざ1つのメッセージになった「言論」をたちあげていくにあたっては、「無駄な遠慮をしていると誰のためにもならない」んだなあ・・・と思った。「自分だけカッコイイ極論」やってるだけじゃダメだぞ!”ということを主張する”にあたっては、「寛容さ」は捨てて堂々と主張しなくちゃダメなんだなと。

なんか大げさなことを言っているようで、そういう方向でどんどんやっていこうとすることは、独善じゃないんだろうか?っていうことについてはもう僕、中学生ぐらいから毎日ずっと考えてると言っても過言じゃないぐらい(笑)考えてきたことなんですけど。

でも、それをやっていかないといけないんだな、いや、やっていってもいいんだな、って思えて来た感じがある。むしろそれやんないと、無駄なとこで嫌な表現を使ったり、誰かに怒りをぶつけてしまったり、っていうような誰のためにもならないとこで暴発する結果になるんですよね。結局「世界の端っこにゴミを押し付け続ける世界の構造」が永遠に変わらないってことになるんで。



数日前に、「ドッグヴィル」っていう映画を見たんですよ。ちょっと古い映画なんですけど、奥さんがたまたま思いついて、「昔こういう映画見てさあ」って言い出したストーリーが衝撃的だったんで、見てみたんですけど。

ストーリーの詳細は、ウィキペディアページに譲るとして、単純に言うと、「デスノートの最後で夜神月が勝っちゃう話」みたいな(笑)

ヒドイ映画だな・・・と思ったんだけど、まあ確かに、「凄い作品」ではあったと思う。





以下、ネタバレ注意でお願いします!!!






と、言っておいて続けるとですね。

ある謎の主人公の女の子が、マフィアに追われてドッグヴィルっていうアメリカの僻地のムラに逃げてくるんだよね。で、かくまってもらうことになるんだけど、主人公は最初は素朴に「みんなとわかりあいたい」的に奮闘しているんだけど、最初は「わかりあえてるよね私達!」って興奮がある間はいいけどだんだんそのムラの人からイジメられ始めて、どんどん仕事増やされるわどんどん報酬減らされるわレイプされまくるわと同時にレイプしてきたオッサンの妻からウチの人を誘惑した悪女めとイジメられるわある事件の冤罪で罪人扱いされて常に重い車輪付きの首輪をはめて生活させられるわ・・・・・とヒドイ話が2時間半続くんですよ。

で、映画の残り30分、最後の最後に、そのムラの人は主人公の女の子をマフィアに売るんだけど、その子は実はマフィアのボスの娘で、で、その父親に、「お前をヒドイ目にあわせたあいつらをどうする?」って聞かれるんですよね。

最初は、「いや、彼らは可哀想な人たちだから、私だってツライ環境に生まれていたら彼らと同じことをしただろうと思う」みたいなことを言ってたんだけど、それに対して父親のマフィアのボスが、

「そういうのは傲慢だ」

って言うシーンがなかなか良かったんですよね。

そういうのは、自分だけ高度な倫理を持ってるという風に振る舞って、他の人達を見下してる傲慢な行為なんだ。君が果たしていると思っている「責任」を、「彼ら」も果たせるようにしてあげなくちゃいけないんだ

・・・みたいな話で。

それ自体は良かった。なるほどと思った。

だからといって、最後にムラを全部焼き払って皆殺しにする決断をする・・・ってのは、映画とはいえさすがにどうかと思ったんだけど(笑)

なんか、最後のボスの発言、

「彼らにも責任を果たす”権利”がある」 

って、ちょっと不思議だけど本質をついた表現だなと思った(見終わって奥さんと話してるうちにいつの間にか出てきてた言葉なんで、ひょっとするとこういう言葉は映画にはなかったかもしれないけど)。

勝手に、「こんな迂遠な話はわかってもらえないだろう」的な感覚を持つのは傲慢で相手に対して失礼な態度なのかもしれないなとか。



まあ、こんな迂遠なこと、普通の国じゃ無理だと思うんですよね。限られたインテリ以外にまで浸透させようとしていくことは。

でもね、「今の日本」ならね、「そのど真ん中」に、「そうだよな!!!」っていう共鳴軸を立ち上げることが可能だと思ってるんですよ。

『他者に寛容でありたいと思っていたら果てしなく損な役回りを続けることになる連鎖』

的な問題を、生身で心底感じ続けてきたのが「日本人」ですからね。

それに、「伝統的な右・左の紋切り型」の延長でアレコレやろうとし続けながら、結局「反対側の影」が大きくなって何もできないみたいな苦労を、今まさに大量にしてますから。

その「積み重なった徒労感」ゆえに、「やっと理解できる道」があるだろうと思うんですよ。

「集団的無意識」のレベルで、「右的に無理やり強がり続ける」のも、「左的に自己納得し続ける」みたいなことの、「どっちかだけじゃダメだ」っていうのは、だんだん明確に共有されてきてると思うので。

そういうのは、「政治的論争」みたいな形にするとほとんどすくい取れてないんだけど、それこそ「出ては消えていくお笑い芸人さんたちが捨て身で創りだしてくれている流れ」ぐらいのレベルで言えば凄い「20年かけて必死に準備してきた文化的ソフトウェア」があるんでね。

それは、過去20年間、「わかりやすい形になるもの」に注力するのを一旦辞めて、色んな意味で無理をしつつ勝ち取ってきた武器なんで。

そのど真ん中に、「政治論争」ではなく「面白い話」ぐらいのパッケージングで、「共有できる軸」を与えてやりたいと思っています。

「迂遠だろうとなんだろうと、コレを伝えていくしかない。このレベルで”20世紀的罵り合い”を超える視座で動いていかないと、結局何にもできない」

っていうところで、自分の中で「もうこれしかない。これを伝えるしか無い」って心の底から思えたら、もっと明快でかつピースフルで、色んな人に理解してもらえるパッケージングができるようになっていくと思うしね。



大げさな話してますけどね、これは僕個人の問題というより、「日本人が共有する問題」じゃないかと思うんですよ。

「グローバリズムの中での日本人」ってなった時に、「ただ相手に合わせて自分を殺すだけにならない」ためには、「こういう覚悟」が必要なんじゃないかと思うんですよね。

なんで、いわゆる「タカ派」の人の勢いが止まらない状況になるかというと、全体として「周りに合わせて自分を殺す」方向でしか対外的に対応できてないから、その「一般的なポジション」の修正のために暴発する存在が必要になってるっていう因果があるんで。

勿論、相手に「押し付ける」のは良くないし、そもそも自分たちだって「自分たちへの押し付けでツライ思いをしている」ようなことを辞めていくことも大事なんですけど。

でも、「自分たちはこうなんだ、こういう部分が良いところなんだ」っていう部分を伸ばしていくのが、一番「ツライことをしなくても良くなる」ためには大事なことなんですよね。

相手に合わせるべき部分は合わせつつ、全体として「自分たちだからこそ誰よりも得意で楽にできること」を、どんどん押し出して押し出して発揮していくことが、「右と左の20世紀的罵り合い」を超えるための唯一の処方箋なんで。

そういう日本にしていくためにも、「紛争にならない形での青天井な自分たちの押し出し方」をムードとして作っていくためにも。

とりあえず自分が、「躊躇」してちゃイカンのだな、それは「相手に対する失礼」なんだな・・・っていう風に思おうと思えてきました。

まあ、よく考えれば「21世紀の薩長同盟を結べ」には、そういう話が沢山書いてあったんだよな。

あの時は、色々と怖いもの知らず的に書けた部分もあったんで、今度はちゃんと意識的な覚悟を持って、次回作を書ききりたいと思ってます。

今の日本なら、これは「世界の行き止まりを超えるための倫理的問題」みたいなことじゃなくて、「日々の働き方の問題」「経済合理性の問題」としての「お話」に落とせるはずなんですよね。

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