バブル女性は日本の新しいお見合い仲介者になれるか?

「お見合いオバサン」とかいう定型的表現がありますが、そう言うと「誰がオバサンだって?」的な問題を引き起こしそうなので、「お見合い仲介者」とか政治的に正しそうな言葉を使ってみました。

 

ひょっとすると今後そういう「新しい形の”おせっかいお姉さん”」たちが、古い時代に担っていた縁結び機能を文脈として蘇らせて行く流れってあるんじゃないか、あったらいいな・・・と最近思うことが色々とあったので、それについて書きます。

 

これは、最近話題になっている本、

恋愛しない若者たち コンビニ化する性とコスパ化する結婚 (ディスカヴァー携書): 牛窪 恵

の書評&紹介文でもあります。

 

 ・

 

「お見合いオバサン」とか言う言葉が多少揶揄を含んで「嫌ぁな感じ」扱いされるのは、それがいわゆる「パターナリスティック」だからということなんだろうと思います。「パターナリスティック」というのは、要するに本人の意志を尊重しない形での「良かれと思っての強引なおせっかい」を、「個人の自由を尊重するべきという立場」から見て批判する時に使う言葉ですね。

 

で、勿論個人の自由は尊重されるべきなんですが、あらゆる「おせっかい」が排除された社会というのはほんの一部の「コミュニケーション強者」だけに優しい社会になってしまう問題がどうしてもありますね。

 

例えば私が中学校の時運動会の最後にはフォークダンスがありました。男女が対になって輪になって踊るダンスね。思春期の中学生ですから、「うぜぇ」「だりぃ」とか言ってはいるんだけど、でも結構内心嬉しかったりする部分もある。

 

ここで、「フォークダンスを無理やり踊らせることは個人の自由に対するパターナリスティックな侵害ではないか。そうではありませんかみなさん?強く明確に手を上げて参加を希望する生徒にだけ踊るように変更しましょう」となってしまうと・・・ちょっと困る人が沢山出てきますよねやっぱりね。

 

明確に個人の決断として自分はフォークダンスに参加したいです!と周囲が注目する中で宣言するべきだ・・・と言われてしまうと、

 

「いや、嫌ってわけじゃないんだけど・・・」

「え?あなたさっきうぜぇとか言ってませんでしたか?うざいことを無理やりやらせるのは生徒の自由を重んじる当学園としては受け入れられません。」

 

的に不毛な争いごとの中で、本来多くの人がそこで淡く甘酸っぱい体験を共有できたはずなのに、それが徹底的に排除される結果になってしまいます。

 

つまり繰り返しになりますが、「あらゆるおせっかいを排除」すると、ほんの一部の「コミュニケーション強者」だけに優しい社会になってしまう問題があるわけですね。

 

冒頭に紹介した牛窪恵さんの本は、現代の「若者の恋愛離れ」の実態を事細かに事例と数字を上げて分析していった上で、そこで「現代の若者が意気地なしだからダメなんだ」と

 

”裁く”方向に行っていない

 

点で非常に好感できる本でした。

 

現代の若者を取り巻く経済状況の問題や、旧来の男女の役割観の崩壊と、さりとてその先のモデルが見えない中で両バサミの混乱に置かれている実態などを分析した上で、もっと「実態にあった結婚のあり方」を模索していくべきという発想ですね。

 

特に、以下のような部分の発想には非常に「希望」を感じるものがありました。

 

恋愛と結婚をいったん切り離し、多様な結婚に目を向けられれば、彼らはずっとラクになれる。そうか、「私は『恋愛結婚』がしたいわけじゃない、『結婚』がしたいだけ」だと気づけば、彼らの9割が望む結婚にも、いまよりもっと自然に近づけるはずだ。

(中略)

多様な結婚の形をお伝えしたいと願った理由、それは次の二つの思いからだ

一つは、「恋愛は苦手でも、結婚はできそう」な男女が、大勢いること。

(中略)

もちろんコミュ力は、あるに越したことはない。ただそれは、結婚後に2人で育んでいけるもの。私も、お見合い結婚した消極的な夫婦で、そんなケースを数多く取材した。

また、近年、婚活中の若者から、次のような嘆きをよく聞く。

「友達に、お前、結婚はできそうだけど、手前の恋愛がムリだろ」って言われるんです。

 

 

少し長めに引用しましたが、特に「恋愛は苦手でも、結婚はできそうな男女が沢山いる。そこに縁が生まれないのはもったいないじゃないか、その方法を考えよう」という発想は、これからの時代に非常に重要な「共有していくべき価値観」ではないかと思います。

 

先のフォークダンスの例で言えば、本当に嫌な人がフォークダンスから抜けられる権利を保証することは勿論大事なんですが、一方でそれに熱中するあまり、「本当は参加したいんだけど恥ずかしい」という人たちが「自然な流れで平凡な幸せを得られる流れ」を演出する権利を侵害している状態を、徐々に「うまくいくように」転換していくべきという発想ですね。

 

また、世代的にもう少し上かもしれませんが、最近ブロガーのちきりんさんが、「10歳差婚」が流行らせよう・・・というブログを書かれていました。

 

女性が結婚したいと思う頃に同世代の男はそこまで思いきれないことが多い(経済的理由や精神の発展段階的理由などで)となった時に、ここで「男の性質を裁きにかからない」発想を模索することが、今の時代凄く重要なんですよ。

 

一昔前だと、極端に美化された欧米の理想とかまで援用されて日本の男はほんとダメだ・・・みたいな裁きのモードに入るのが普通みたいなところがありましたからね。

 

そこで、同世代の男女だとすれ違いが多いなら、ちょうど10歳差で出会う形を模索すりゃいいんじゃあないの?というちきりんさんの発想には非常に「いいね!」という気持ちになります。

 

牛窪恵さんの本にも、そういう「古い考え方だと”圏外”だったような組み合わせ」によって「新しい縁」が生まれていく事例が後半に沢山紹介されています。

 

大きく年が離れた「年の差婚」や、外国人男女と結婚する「グローバル婚」、そして妻が主に稼ぐ「逆転婚」。彼らは(多少語弊はあるが)私が「圏外婚」と呼ぶカップル。一昔まえなら「そういう相手との結婚はないよね」と見られていた圏外の男女の魅力を、既成概念にとらわれず、改めて見なおそうとする動きだ。

 

「実際そういう性質」が人間にある時に、「なんで教科書どおりに動かないんだお前たちは”間違っている!”」という方向で裁きにかかると、色々な金銭的社会的能力的余裕があるほんの一部の層だけが「理想をなぞってみせる」ことができても、社会の周辺部では物凄いカオスが満ち溢れてしまうことになります。

 

欧米社会の理想が、辺境に非常に大きなカオスを生み出し、テロでしか彼らからの異議申し立てのコミュニケーションが不可能になってしまっている現代の世界では、その「理想と現実」をうまくつなぎ、「理想を捨てるわけではないが現実に沿っている」ような「抑圧的でないおせっかい文化を生成して共有すること」は全世界的に最先端の課題なのです。

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こうなって↑しまわないように、本当に「欧米的理想を諦めずに末端まで行き届かせる」には、左手で「理想主義」を伝道すると同時に右手で「コミュニケーションがうまくない男女にもその文化の中で”つがい”を作れる希望を与えられるおせっかいシステム」まで整備してあげる必要がどうしてもあるわけですね。

 

なぜ欧米的な理想が辺境的な世界ではうまく行かないのか?それは「金銭的社会的その他の余裕」が欧米社会にはあるから・・・という点もありますが、牛窪恵さんの本でアメリカの「プロム(卒業パーティ)の背後に実は存在している”地域社会の親心”」が紹介されていたように、欧米社会には”理屈としての自由主義”の背後に、彼らなりの文化的連続性が連綿と保たれていることによる彼らなりの”おせっかい文化”は消えてないという事情もあるんですね。

 

それに対して非欧米社会では、「欧米的理屈」としての自由主義を導入する時に、その社会なりの「おせっかいシステム」をネコソギ排除することになるので、社会の末端でヒドイ絶望を過激主義に練り上げるしかなくなってしまう個人が生まれる不幸にもなる。

 

そこを、「手作りに、現にある性質を裁くことなく、うまく行く方法を作っていこう」とする「あたらしいおせっかい主義」って、今の時代本当に必要なことだと私は考えています。

 

LGBTの人たちの保護も「大事な多様性」ですが、そういう「普通の人たちの生き方のモデル」を確保していくことも「大事な多様性」ですからね。

 

 

でも確かに、これはうまくやらないと、「良くない旧世代的抑圧」に逆戻りしてしまう可能性が、いつでもあるんですよね。

 

私のこの記事ですら読んでいて既に「嫌ぁな」気持ちになった開明的な感性の人もいるだろうと思います。

 

だからこそ、一個一個のケースについて、

・「そりゃいくらなんでも許されないだろう」

・「なるほど、それは新時代の二人の関係のあり方だね」

を微細に微細に分別しながら、「新世代のロールモデル」をいくつもいくつも「色んなタイプのメニュー」として作っていく作業が必要になります。

 

例えばある年齢を超えて結婚してない女性に対してアカラサマに悪口を言うような社会はちょっとやっぱり良くないですよね。

 

その辺、「オッサンがやると現代国際社会的に許されないパターナリズム」と、「バブル女性が自分の感性の延長でやるならまあ許されるパターナリズム」みたいなのがどうしてもありますからね。(真面目な言い方をすると、後者なら、”彼女たちも自分が嫌だったことは無理強いしないだろうから、古い価値観の良くない部分だけを選別的に取り除いた新しい価値観を生み出せるだろうという期待がある”ということですね)

 

バブル女性の「なんで恋しないの?なんで?私わからないわー幸せになりたくないの?」みたいにバシバシ問い詰めてしまうような性質って持って行きどころが難しいですし、実際蛇蝎のように嫌ってる人もいるみたいですけど(牛窪さんの本のアマゾンのレビューには、何か強烈な個人的な恨みがあるんじゃないかというようなレビューがいくつかあって、それがバブル女性的な価値観の社会の中での難しさを感じさせます)。

 

余談ですがなぜバブル女性は一部から強烈に嫌われているのか?について示唆的だったのは、この対談↓でした。

ラブホの割り勘は女の価値を下げるか?

 

牛窪恵さんの本を読もうと思ったキッカケは、私も本を出す準備中の出版社ディスカバー21の干場弓子社長との上記対談を干場さんがフェイスブックでシェアされていたからなんですが。

 

対談の中で、バブル女性の牛窪恵さんの「最近の若者はラブホ代を割り勘にする。そんなに女が自分を安売りしていいのかと私には衝撃だった」という発言に対して、さらに上の世代(ウーマン・リブ世代?)の干場さんが「どっちも楽しんだんだからそれで普通なんじゃないの?」とおっしゃっていたのが話題になっているようです。(私の妻も私が紹介するまでもなくこの記事を読んだと言ってました)

 

実際、徹底した女の価値の「商品化」を行い、「アッシー・メッシー・ミツグくん」などという冷静に考えると超ヒドイ扱いの実害を受けた当の男の人からすると、積年の積もる恨みみたいなものがあるのかもしれません。

 

しかし、そうやって一度「古い制度的抑圧」をかき乱してくれたから、後の世代は息苦しい思いをせずに済んでいる面もあるわけですよね。

 

願わくばその情熱のほとばしる先に、あたらしい「抑圧的でないおせっかいシステム」を立ち上げる流れを生み出してくれれば、それは大げさに言えば『テロに怯える現代社会の根本的な暗部に愛の息吹で新しい希望を与える偉業』になるでしょう。

 

「透明化されすぎる欧米的システム」を「末端の人たちのリアル」まで浸透するようにバージョンアップさせることで、「本当の意味で多様な人材(単なる”コミュ強者”だけでないタイプもという意味で)」がそれぞれなりに活躍できるようになり、日本は原生林の奥地のような豊かさを持った経済が再生できる・・・というビジョンが私の最初の著作


21世紀の薩長同盟を結べ (星海社新書): 倉本 圭造

からの持論なわけですが、その「あたらしい文化」は、日本がこれから生み出す「個人に抑圧的ではないが、しかし優しいおせっかい文化」を欧米の借り物でなく自前で作っていけるかどうかにかかっているわけです。


最後に私事ですが、上記の本でニート引きこもり状態から一歩ずつ脱出した事例として紹介したウチの弟は、同時に長年彼女いない歴=年齢的な感じだったんですが、ついに最近結婚することになって、正月に彼女さんと親族一同で会うみたいな機会がありました。なんか・・・やはり単純に凄く嬉しい瞬間です。

 

私の妻が弟に「じゃあ去年から結婚を前提におつきあいしてたってこと?」と聞いたら、「付き合うって俺の中では当然そういうことだったんですけど」とか言ってました。

 

恋に臆病であるということは、「ちゃんと最後までうまくいく形にしよう」という責任感だとも取れます。そういう責任感を持つ個人が、滅茶苦茶なムリをしなくても自然に「出会い関係を作れる文化と経済状況」を、我々は社会全体で協力して作っていこうではありませんか。


 

倉本圭造

経済思想家・経営コンサルタント
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