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『逃げ恥』が教える「自分らしく生きる」の本当の意味

あけましておめでとうございます。昨年の私は普段の仕事的にはそれなりに一歩ずつ経験積んで進歩してこれた感あるんですが、いかんせん本出したりネットに上げた文章が広く読まれて・・・という方向での活動としてはなんだか何もやってないも等しいような印象になりそうで、正直ちょっと焦ってもいます。

ただ今は、焦って本やブログを書いても、よくある「右や左の紋切り型」にしかならない難しい状況に世界がどんどんなっていくなあと感じていて、そうじゃなくて「個別の事例」と仕事で向かいあう中から立ち上がってくる何かを信じて積んでいきたい気分だというか・・・ま、もうこの歳になると自分はマイペースにしか生きていけない人間だってところは骨身にしみてわかっているので(笑)、相変わらずそういうペースで今後もやっていきますので見捨てないでたまに気にかけてやって下さい。

ちなみに、ブログ再移転しました。ブックマークされてる方は変更をお願いします。

新ブログトップページ↓
http://keizokuramoto.blogspot.jp



で、久しぶりのブログ更新、しかもブログ移転一回目・・・がテレビドラマの話題ってなんてミーハーなって感じもしますが、2016年最大の(たぶん)ヒット作となった『逃げ恥』が超よかったので、年末だしそれについて書きます。

全体的に言って、「自分らしく生きる」っていう現代的に超超超言い古されたことについて、ちゃんと一歩ずつ考えて一歩ずつ実現していかなくちゃね!っていう気持ちになったところが凄く良いドラマだったと思ってます。夫婦で見てて毎週二回は泣いてました。

このブログはそういう方向で、

・『逃げ恥』のどこにこんな感動するのかって話
と、
・それはある種「運命へのニーチェ的向き合い方」なんじゃないかって話(より正確には”一連の実存主義哲学”)
と、
・「他人の人生を生きないで、自分の個別性(自分らしさ)を生きること」っていう「言い古されたこと」を私達が本当にちゃんとやりきるにはどうしたいいのか?
というような話に広がっていく予定です。




テレビドラマなんて普段どころか今までの人生で何個か(リーガルハイ・シリーズとか)しかちゃんと見たことがなかったぐらいなんですが、奥さんが途中から「逃げ恥」を毎週見はじめて、それをチラ見してるうちに私も超ハマってしまいました。

だいたい、最終回の一個前ぐらいで、やっと主人公の男とヒロインが、街を歩いてる時にお互いの手を「恋人つなぎ」にできた!!!ってだけで「うおおおおお!!!やったあああ!!!良かったなああ!!!」ってなるドラマってあんまり普通はないんじゃないかと思います。

現代人の男女は「男女交際なんてそりゃあ俺も色々やってきたしね」的にスレたところを見せてないとマウンティングされまくっちゃう恐怖心みたいなのがあって、そりゃあ手をつなぐぐらい、別に付き合ってなくたって、飲み会でちょっとフィーリングがあったらやっちゃったっていいんじゃない?みたいな世界じゃないですか。

まあそれが良くないとまで言うわけじゃないですが、「何かをやることの心理的ハードルが高い臆病なタイプ」ってのは悪いことばかりじゃないですよね。

そこで、こだわりが強すぎて恥ずかしがってるとチャンス逃がすよ!!!って焚き付けまくって、いつでもどこでもアクティブに攻めて攻めて生きてないと駄目って方向に人々を誘導しまくる今の時代の「普通」は、むしろ「今目の前の人と手をつなげている特別さ」から必死に逃げているとも言える。

私事ですが、私の最初の本『21世紀の薩長同盟を結べ』の中で「ニート状態からやっと自分なりの職業にたどり着いて独り立ちできたストーリー」を紹介したウチの弟が昨年結婚できたんですね。「できた」って言うのちょっと失礼な感じもしますが、でも多分奥さんは彼にとって「30歳超えてできたはじめての彼女」だと思う。

結婚式が凄い良くて(兄バカですいません)、たまたま通りかかった中国人の観光客の人が無意味に彼らの写真を撮りまくってたぐらいで!!



結婚するって話を最初に聞いた時に、ウチの奥さんが「じゃあお相手の方とは、最初からもう結婚するぞ!って思って付き合い始めたんだね」って弟に聞いたら、彼は

「僕にとって付き合うっていうのは当然そういうことだったんですけど」

って言ってました。で、それ聞いて私も私の奥さんも「そういうのっていいなあ!」って思ったんですよね。弟の奥さんは多分彼が「最初の彼氏」ってわけじゃないと(思う)けれども、でも彼のそういう部分が「良い」と感じて決断してくれたようなところは結構感じます。

そういうのは現代風におしゃれな人間関係からすると「無駄に重い」ように見えるけれども、「重いからこそ、その関門を超えた関係に特別さが宿る」価値もある。

要するに「なんでもできる汎用品」に自分をトレーニングしていくと、「自分である意味」や「眼の前のその人と一緒にいる意味」なんてどこにもなくなっちゃうわけじゃないですか。別に他の誰かだって全然いいことになる。

どんな時でも常に色んな女性に声をかけることができて、相手の女性がどんなタイプでも軽妙な会話ができるスキルがあって、100人の女性が100人とも「良い」と思う容姿と身のこなしを身に着けて・・・ってなっていくのが「結婚への近道」だ現代人はついつい思っちゃうけど、ある意味でそういうのは単に「何かから必死に逃げているだけ」なのかもしれない。

よく経営戦略は「自分ができないこと」がポジティブな意味を持つように持っていくことが成功のカギだって言います。大手に比べて小さい会社なら小さい会社なりのスピード感とか小回りの良さがでるように動くとかね。長所と短所は常に表裏一体で、「その人の本質」の別形式の見かけにすぎないので、短所を無理やりヤスリでゴリゴリ削っちゃうと長所も一緒に削っちゃうことになって、凹凸がないノッペリとした「どこにでもある人材・会社」にしかならなくなったりする。

むしろ「こっちにはこういう凹があるけどそのオカゲでこういう凸がある」という方向に進化していくなら、「自分にとっての特別な凹」を「埋めてくれる凸」を持っている相手と出会うことができる。それは会社だったらお客さんだったり取引先だったりだし、個人の人生だったら「必然性を持った伴侶の候補」だったりするはず。

こういうのは、偏差値的に一直線に序列化された価値観における「要求スペック」がどんどん上がっていく世界とは大きく違いますよね。

ちなみに、「個別の凹に合う凸を持っている人を」とか言ってると要求が厳しすぎて出会いがなくなっちゃうんじゃないか?って思っちゃうのは幻想なんですよ。というのは、現代社会で生きてると、いわゆる「出会い」って無いわけじゃないんですよね。さらにいざ「結婚したい」ってなって動き出したりするならもう出会う「チャンス」なんていくらでもある時代なので。

だから、今の時代の「結婚できない男女」に足りてないのは「出会いの数」ではなくて(これはもう増やそうとちょっと思えば無尽蔵に実は増やせる)」、「その中から個別的必然性を持って一人を選べる確信」の方なんですよ。

勿論、現代日本人の結婚できなさ・・・の中に今は「経済の問題」は深く関わっていることを否定しませんし何らかの対策が取られていくべきだとは思っていますが、でもある意味貧乏なりにワイワイやってるカップルだっていないわけじゃないわけだから、「二人が一緒にいる理由」さえ強固にあるならば、協力しあってサバイバルしていけばなんとかなったりする問題だとも言えるわけですよね。

さらに言えばウチの弟だってさっき紹介した私の本に書いたように一時は「ひきもりニート道まっしぐら」になりかけていたので、そこから「経済的自立を勝ち取り、一緒にいる必然性を持った女性と関係を取り結び」・・・という一連の「惰性を超えたジャンプアップ」が、一個ずつ「偏差値的序列思考からの脱却と、自分の個別性への目覚め」によって実現されてるとも言える。

勿論全く出口のない社会的貧困状態に比べたら周りのサポートだってあった「恵まれた例」なんだろうけど、でもやはり「偏差値的な序列化から見ると希望が全然ない状態」からであればあるほど「個別性」をちゃんと掘って行かないと出口がどこにもないということの良い例でもあると私は思っています。

単純化して言えば、安定した職業につく必要があるなら就職すればいいし、それに必要なスキルがあるなら習得すればいいし、自分と一緒になるべきパートナーが必要なら出逢えばいいだけの話だと言える。別にオリンピックで金メダル取るとかノーベル賞取るとかいう話じゃないんだから、「本当にそれを獲得するためにその人に与えられた全ての資源を投入できるなら」不可能なはずがない程度の問題だと言えるわけです。(マクロに見ると必ずしもそうは言えないかもしれないが、個々人のレベルで言えば明らかにそうなんですよ。)

でも「それを自分が獲得するべき理由」だけは自分で真剣に編み出していかないと誰かからポイっと与えられたり「こうすれば本当の自分さんに出会えますよ!」というような方程式を教えてもらえたりすることは決して無いということですね。



で、そうやって「自分の意志で選んで積んでいく」という話で言うと、例えばこの

「運命の相手」ってよく言うけど、私そういうのいないと思うのよ。運命の相手に『する』の。意志がないと続かないのは、仕事も家庭も一緒じゃないかな〜
byみくり(ヒロイン)の母親   

みくりさんの母親のセリフ、結構印象的でしたね。この直前には「赤の他人なんだし無償の愛なんて注げないわよ。努力して愛を維持してるの」的な趣旨のことも言ってました。

夫婦って・・・というかまあ、夫婦に限らないんですが、母子関係のように「生まれた時から唯一無二な縁」がある関係でないものは、現代人的にサメた感覚から言うと全て「赤の他人」であるように思えてしまう時はやはりありますね。

でもそれは逆に言うと、「母子関係は選べない」けど、「夫婦(例えばね)のような関係は自ら選ぶことができる」という幸せがあることでもある。特に、母親との関係に心理的に長い間難しい問題を抱えていたような人が(私の話なんですが)、奥さんとの関係の中で「ああ、全ての女の人があの母親みたいなんじゃないんだ」と知ることがどれだけ大きな救いになるか・・・というようなケースもある。

まあそんな個人的な話は別として、現代人的には、「努力して愛情っぽいものを維持している関係」なんて、結婚制度とか家制度とかそういう旧時代的に無理矢理な抑圧で一緒にいることを選択しているだけで、それは『本当の関係』とはいえないものなんじゃないか、そういう無駄な抑圧を全て取り払って、一切抑圧感のない本当に自然な関係だけで組み上げるのが「あるべき姿」なんじゃないか・・・なんて思ってしまいがちじゃないですか。(めちゃ大げさな言い方してるのでそんなこと考えてないよ!って思うかもしれないけど、でも多くの現代人は無意識的にそういう価値観に引っ張られて生きていると思います)

でもそういうのって、人生を生きる戦略としてあまり有効的でないことが多いはずなんですよ。

というのは、人生は毎回ゼロから配られたカードで勝負できるポーカーゲームみたいな構造をしてないからなんですよね。毎回配られるカードによってリセットされるなら、いわゆるサンクコストバイアス(ここまでこうしてきたんだし・・という惰性が次の一手の判断に影響を与えること)は排除しなくちゃいけない。つまり「一手一手を理性的客観的にそれ自体として評価」することが必要になってくる。

でも人間の人生は、「若い頃配られたカードをじっくり温めてたら後々凄い良い味になってくる」「随分後になって配られたカードは見かけ上スペックがいいかもしれないが、もうそこに長い時間をかけた”関係を積んでいく時間”は失われている」というどうしようもない性質がある。

偏差値的に一直線の基準なら「そこそこのスペック」のカードでも、長い時間かけて「馴染んで」いくと、その「馴染み」自体が人生の中で本当に大事な幸せの源泉になったりする。「とても良いスペック」のカードを手に入れても、「馴染み」に時間をかけることができなければそれは結局他人と一緒じゃない?って感じだったりもする。

だから、昔このブログ記事↓
バブル女性は日本の新しいお見合い仲介者になれるか?
に書いたように最近の「恋愛はしたくないが結婚はしたい」というようなワカモノの性向は、妥協や誤魔化しじゃなくて、「本当の幸せへの道」なんだと私は思っています。

「スペック的に完璧な選択肢」を選ぼうとするよりも、「可能な選択肢」を選んで、「努力して温めていく」ことで、5年後、10年後には本当に人生の幸福感の基礎になるものが築かれて行く。その「想像力」が大事なんですよ。

大げさに言うと「スペック的判断ではないところに自分の人生への自力の可塑性は存在するという感覚」・・・全てがカタログ化される現代社会で人間がどんどん忘れがちな大事な感覚。それは、哲学的に言うと「実存主義哲学」っていう部類の感覚なんですね。



一ヶ月前ぐらいに、
ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のことを教えてくれた
という超ヘンな本を読んで凄い面白かったんですけど。

これはニーチェやサルトル、キルケゴールやハイデガーなど、「実存主義哲学」とくくられる哲学者たちが現代の京都に転生して、17歳の女子高生の主人公にそれぞれの哲学を語ってくれるというヘンな本ですが、ヘンな本だけどそれぞれの哲学をある程度概観したり思いだしたりするには充分なマトモな本でもありました。(ちなみに作者の名前をグーグル検索したらグラビア写真みたいなのが出てきて???ってなりましたが、”元アイドル”さんらしいです・・・凄い時代ですね)

私は大学時代はよくここに出てくる哲学者に勇気づけられましたし、大学時代京都で過ごしていて、まさに作中に出てくるあたりに住んでもいたので二重に楽しめました。

それぞれの哲学者は細部では違いますが、基本思想はサルトルの以下の言葉に集約されます。

実存は本質に先立つ

哲学には色んな名言ぽいものがありますが(我思う故に・・とか)、ダントツでカッコイイ言明がコレだなあ・・・と私は思っています。人生で一番影響を受けた哲学の名言かもしれない。ウィキペディアの解説とか読んでも意味はよくわかりづらいですけど、でもこのニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のことを教えてくれたという本は凄くわかり易く説明してくれてたんでオススメです。

要するにジョジョの奇妙な冒険のセリフで言うと「納得は全てに優先するぜッ!」に近いものだと私は思っています。

つまり社会や親から与えられた自分への期待とか、あるべき姿とか、そういうのは「記号的なラベル」にすぎないんだ・・・てことですね。そしてその「記号的なラベル」を「本質」と呼ぶならば、そんなのとは全然関係なく完全に「先立つ」ものとして自分自身の「実存」ってのはあるんだッ!!それを生きるんだッ!ありのままでLET IT GO!!

ただ、「自分らしく」とか「ありのままで」って現代社会じゃもう挨拶みたいによく言われてるけど、そういう時に前提になってるのは「自分らしさという本質(ラベル)」に振り回されてるだけだったりすることが良くあるので現代人は注意が必要だと私は思ってます。

(「本質」って言葉が普通の用法では凄く「本質的(笑)」な響きになっちゃうから難しいけど、ここでの用法では要するに「実存とは関係ない入れ物・ラベルにすぎないもの」というふうに理解してください。知らぬ間に築いてた自分らしさの檻の中でもがいてたりすることってよくありますよね。僕だってそう、誰だってそうなんだ。)

この「ラベル(本質)」としての「自分らしさ」ではなく「ラベルを取った自分そのもの(実存)」としての「ありのまま」を我々は生きて行くべきなんですよね。そうしないと「自分らしさだと思っている記号」をさらにどんどん積み上げていって大伽藍を築いちゃう一方で、肝腎の「自分の実存」には一瞬たりとも向き合うことなく人生終わっちゃいますよ。

「逃げ恥」と関連してこの言葉を解説するなら、星野源さんのあの曲の歌詞にこうある通りなんですよ。

意味なんかないさ 暮らしがあるだけ
ただ腹をすかせて 君のもとに帰るんだ



じゃあどうしたらいいのか???って考えると、私はクライアントには「無理しない」が一番大事ってよく言ってます。あと「好き嫌いで決める」ってことかな。個人クライアントも法人クライアントも全く同じことだと思っている。

これはみんなノンビリそこそこの熱量で生きなくちゃいけないっていう話じゃないんですよ。「なんか今めっちゃ頑張りたい気分!」なら頑張らない方が「無理」だし、「この作業他人にとっちゃすげー大変かもしれないけど、自分は凄いショウにあうんですよね」みたいなのならどんどんガンガンそれをやればいい。

ただ、今は「自分らしさ」を就活とかででっち上げて言明しまくらないといけない時代なので、なんかみんな「ラベル(いわゆる”本質”)」の自分らしさの大伽藍を築いてしまって、自分の「あるがままの実存」からはむしろどんどん遠くなっちゃってるところがありますよね。

で、自分の人生を考える時に、「●●業界でこういうことを成し遂げたい」とか言うのはたいてい「ラベル」の方なんですよね。そうじゃなくて「実存」の方ってどんなんかというと、

「普通はこういう作業するの嫌いな人多いだろうけど、案外俺苦じゃないんだよね。むしろなんか隅々キッチリ終わらせた時に凄い気持ち良い感じがする」

こういうの↑です。こういうのを大事にすべき。

他人と違って自分が「無理なくできる、知らんうちにずっとやってても苦じゃない」ようなものこそが「ラベルでないあるがままの実存」への大事なヒントであって、それが他人への優位性にちゃんと繋がるような選択肢を選んでいくと、本当の意味で「人生が自分のもの」になっていくんですよ。

これって、「誰をパートナーに選ぶのか」でも一緒なんですよ。よくあるラブソングの「ありがちなパターン」として、「ずっとそばにいてくれた君の魅力にやっと気づいたよ」ってのあるじゃないですか。アレですよアレ。

「ラベル」としての「自分のパートナーはこうじゃなくちゃ像」を追いかけてた時は自分の「実存」なんて一瞬たりとも向き合ったことがなかったけど、ある日本当に「このままじゃ一生独身じゃん!それは嫌だ!」ってなった時、それは「駄目駄目な妥協」のように見えるけれども、そうじゃなくて「本当の自分の実存に向き合うことを始めた日」と言えるかもしれない。

そしたら、「過剰なトキメキ志向とかでなく、一緒にいて自然だってことが、どれだけ大事なことなのか。」がわかる。一緒にいて「自然」っていうことが一番大事で、そこが外れていると、お互い必死に強がりに強がりを重ねて関係を維持し続ける必要があるので、ちょっとしたことで壊れちゃうんですよね。そしたら「積んでいくことの価値」を享受できないから、一緒にいる意味そのものがなくなってくる。

うまくいかない時、待っていてくれる人、信じてくれる人。見失っちゃいけない。
byみくりさん

結婚式で「病める時も健やかなる時も」って言いますけど、健やかなる時だけ良い関係なら誰とだって結べますよね。逆境でも一緒にいた友達が本当の友達だとわかった・・・とかもよく言われますけど。

人生の中にそういう関係が「ある」人は、本当の意味での「リスク」を取って生きることができる。そういう関係が「ない」人は、人生の長い期間四六時中「ちゃんとオーケーな範囲内」から決してはみ出さないことが第一義になってしまって、「あれもやってない、これもやってない、ああ取り残されてしまう!」という不安に押しつぶされながら生きていくことになる。

さっきも言ったけど、これは経営コンサルティングのクライアントでも同じ感じなんですよ。個人の場合と全く同じ。まあ、私は経営者がちゃんと権限持ってる会社しか取引しないからでもあるけど。

私の本読んだだけで、別に募集もしてないのに依頼してくるような経営者は優秀だから(笑)、このギョーカイならこういうことはキチッとやらなくちゃね・・・ということをちゃんと勉強してちゃんと優位性を確保するようなことは当然できちゃう人たちなんですよね。さらにプラスして、何らかの”スキル”的なことでまとまった習得が必要な時にはソレ用の専門家をパッと買ってしまえばいいという「自他の得意分野の切り分け感覚」も明確にある。

でも、さっき個人の話で、
単純化して言えば、安定した職業につく必要があるなら就職すればいいし、それに必要なスキルがあるなら習得すればいいし、自分と一緒になるべきパートナーが必要なら出逢えばいいだけの話だと言える。(中略)
でも「それを自分が獲得するべき理由」だけは自分で真剣に編み出していかないと誰かからポイっと与えられたり「こうすれば本当の自分さんに出会えますよ!」というような方程式を教えてもらえたりすることは決して無いということですね。

て書きましたけど、これが「法人」の場合でも物凄い重要なんですよ。他人ではなく自分たちこそが「それをやる優位性を築ける理由がある」ってことをいかに選べるかが、経済活動では一番大事なことですからね。

でこの「理由」ってね、構造的客観的に説明できるものだけじゃないし、むしろ「好き嫌い」とか「ショウにあう・あわない」が凄い大事なんですよ。(むしろ、インターネットや金融技術の発展やその他色々な社会的文脈の変化で前者のインパクトがどんどん減っていくので、これからは後者こそが一番大事というぐらいだったりする)

そういう感覚はどんどん摩耗していくんですよね現代に生きていると。特に日本人は真面目なので、「かくあるべき像」が社会に共有されてると必死にそれに追い回されるだけで終わってしまいがちで。

そこで「本質というラベルを剥がしてありのままの実存の感覚をフレッシュに保つ」ことが、私がコンサルティングでやってること・・・と言っていい。

日本企業はとにかく中小も世界的大企業も現場は強いが「経営力」が駄目駄目で、戦略的価値がないところにバンザイ突撃を続けてどんどん没落してってる・・・ってよく言われる惨状ですけど、私の考えではそれは「戦略を考えて採択し実行するスキル」の問題ではなくて、「戦略を選び取る本能的センス」にフタがされてしまっていることが原因だと思っています。

それはある意味「無理しない」で「本質でなく実存」を優先する姿勢からしか見えてこない。

要するに「なんかこれやらんといかんのはわかるんやけど、言うたら悪いけど嫌やねん!」ていう時に「嫌」って言える人じゃないと「実存へのセンス」はオモテに出てこないんですよ。でも日本人は(特に今の日本人は)その「本質でない実存のセンス」からは必死に逃げてるようなところがあるから、そりゃうまくいかないよねって話になる。

だから日本社会が本当の「戦略的経営センス」を取り戻すためにも、我々は合言葉のように
実存は本質に先立つ
って言葉を大事に生きていきたいですね!

そしてそれは、単純に言えば、「嫌なことは嫌」と言える訓練から始まるわけですね(笑)頑張りましょう。

目の前の会社の上司に言えたり、周りを巻き込んで環境を自分で変えていければ理想ですが、それが無理でも、たとえネットで「日本死ね」って言うんだとしても(もっと良い相互コミュニケーションができれば理想ですけど)、そこから「交渉」に入って「お互いの事情」を突きつけあって変わっていけるようにしたいものです。

「逃げ恥」の中では、「搾取です!」とキレるシーンが沢山あったけど、その後「言いっぱなし」にならずに、「相手側の事情も全部テーブルに上げて、一個ずつ自分たちなりに解決する」って流れになってたじゃないですか。そこがいいんですよね。

●ステップ1
「嫌なら嫌という。搾取です!!と言う」
●ステップ2
「それでも一緒にやっていきたいから、嫌だと言いっ放しにするんじゃなく相手の事情も自分の事情も時間をかけてしっかり理解する」
●ステップ3
「お互いにとって良い形になるよう交渉する」

今はステップ1だけが暴発してるけど、全然2や3に入っていかないで全部自分たちの「敵」に押し付けて内輪で騒いでるだけっていう状態に社会のあちこちがなっていて、そんなことやってても何も改善していかないので、そりゃ閉塞感も感じるよねという世界です。

嫌なことは嫌だと言い、しかし「それでも一緒に暮らしていく現実がある」というところから逃げずにいるなら、我々のその袋小路から、自分だけの人生を自分で勝ち取っていく「実存」への道が開かれるのです。

そうですね、交渉は大事です!! by津崎平匡



最後に、弟の結婚式の写真をもう一個(笑)いやほんと幸せ感ある式だったんですよ・・・


ちょっと最後の数段落真面目なこと言いますけど。

結婚という「形式にすぎないもの」をディスればディスるほど知的でポリティカリーコレクトっぽいみたいな時代が長く続いてますけど、そりゃ嫌な人に無理強いするのは良くないが、「単なる普通の人」同士を、「時間をかけて積んでいけるだけの特別性をお互いに演出しあった二人」に変えるには、多少大時代的な演出だってあった方がよくて、そういうのの価値をちゃんと理解して取り込むことが「ポリティカリー・コレクトネス」がトランプ現象やイスラム過激主義に反撃されずに「必要なあらゆる人に届く」ようにしていくために大事なセンスだと私は思います。

「古い男性社会による女性への抑圧を解放していくプロセス」が人間社会で進行中なのを別に邪魔するつもりはないんですが、そのプロセスが「普通に生きている男女」から「自分たちの自然的な生の満足」をひっぺがして、一部の「人生のあらゆることが政治権力闘争」みたいな人の個人的なエゴの充足に回されてしまうような流れはちょっとサステナブルじゃないです。

ある男女(男女じゃなくてもいいんですがとりあえず)がいて、その男女が「お互いのことだけ」をちゃんと見れればいいけど、でもその「あるがままの実存」を、「対男に対する闘争における女代表」「対女に対する闘争における男代表」的な非常に人工的な文脈に回収してやろうとする欲望はこの社会にうなるほどうごめいてるわけですけどね。でもそんなのに付き合っても、自分の人生が他人に占領されちゃうだけですよね。

他の色んな人と変わらない赤の他人だった人を、「人生を一緒に歩む特別な誰か」に変えていくプロセスも、「夫婦」や「カップル」といった問題に対する社会的に難しい文脈から離れたところで、「リアルな自分たちにとって一番良いのは何か」を二人で考えていくことから見出されていくんですよね。それが「夫婦を超えてゆけ」っていう歌詞の意味だと私は思っています。

夫婦を超えていけ!!二人を超えて行け!!一人を超えて行け!!



それではまた、次の記事でお会いしましょう。ブログ更新は不定期なのでツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々チェックしていただければと思います。

今回から、「ブログに書ききれなかった話」をさらに別記事にしていくことにしました。既に普通のブログとしちゃ結構長いですが、まだ読めるぞ!という方は上記リンク先へどうぞ。


倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
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経産省若手資料はそんなにダメか?褒めときゃいいじゃん。

書籍の執筆でアタマが沸き立っていて、箸休めに軽いブログを書きたいので書きます。



ネットで話題の、経産省の若手有志による、

国内外の社会構造の変化を把握するとともに、中長期的な政策の軸となる考え方を検討し、 世の中に広く問いかけることを目指すプロジェクト

っていうのがあって、このリンクからパワーポイント資料が読めるんですが。

数日前にリンクを見つけてパラパラ読んだ時には、「いいなあこれ、頑張って欲しいねえ」と思ったし、ネットでも高評価な人が多かったんですが、なんかそれから日がたつうちに色んな人が

・全く新しくない
・具体的な政策への落とし込みが足りない
・データ分析が雑

などとクサしまくってるのを見てて、いやーそんなにダメかねえ??いいじゃん!と思ったのでそれについて書きたいです。

「ダメかどうか」もさることながら、「最高とは言えなくてもとりあえず褒めときゃいいじゃん」的な話でもあります。

いや、批判は批判で内容的にはゴモットモではあるんですが、あまりにそういうのが盛り上がっちゃって、この資料に対してちょっとでも高評価をするのは知的人間として恥ずかしい・・・ぐらいの空気になってきてるのがちょっとどうかと思うんですよ。

そもそも役所が懇談会的にインテリ集めてとりまとめた資料で、総花的にならずに一方向的なストーリーがあって、ある程度こういう「何言ってるかちゃんとわかる」資料ってそんなに多くないですし、だからこそ「うるさ型」の人たちがクサし始める前の段階では結構ネットで「いいじゃん!」的空気が巻き起こったりもしたわけですよね。

単純に言って、役所発のペーパーで、その「いいじゃん!」モードが小規模でも巻き起こったりした時点でそりゃ奇跡と言って良くて、そりゃ批判は結構だが、じゃあどっかに「超絶凄い官僚さんの集団」がいるわけじゃないんだから、今の日本の官僚さんたちに、官僚の役割の中でできることは頑張ってもらうしかないわけで、だからあんまりクサすばっかりなのもどうかと思うわけですよ。

で、資料の内容なんですが、たしかに「どこにもない新奇性」とか、「具体的な政策へ落とし込みきった提案」とかは弱いかもしれないが、この資料は1つの「ストーリーの提示」を目標としてるわけですよね。

いわゆる「高齢者に属する人」にも、資産や健康面でかなり余裕がある人もいるんだから、一概に「高齢者サマ扱い」で終わ…

今更ですけど自己紹介を・・・その1.副題『原生林のような豊かでタフな経済を目指して』

このページはよほど倉本圭造に興味がある人のためのありえないほど長い自己紹介エッセイなので、サクッとコイツ誰なんだ?ってことが知りたい場合は、私のホームページの「Who?」欄をお読みください。(向こうにしかないコンテンツもありますし、とりあえずコンパクトに全体像がご理解いただけると思うので、かなりご興味を持ってくださっている方も、先に向こうをお読みいただけるとご理解しやすいように思います。その後以下の”長文”へと戻ってきていただければと)







最近出版の依頼を下さった人がいて、”出版社の女性社長さん兼編集者”としてギョーカイでは結構有名な人らしいんですが、「21世紀の薩長同盟を結べ」本体を読むまで、プロフィール欄を読んでも「???」って感じだったと言われたんですよね。

その「???」になったっていう文章は、本の著者プロフィール欄に記載されているコレなんですが。

1978年神戸市生まれ。兵庫県立神戸高校、京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感、その探求を単身スタートさせる。まずは「今を生きる日本人の全体像」を過不足なく体験として知るため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、時にはカルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働くフィールドワークを実行後、船井総研を経て独立。「個人の人生戦略コンサルティング」の中で、当初は誰もに不可能と言われたエコ系技術新事業創成や、ニートの社会再参加、元会社員の独立自営初年黒字事業化など、幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。星海社新書より『21世紀の薩長同盟を結べ』発売中です。
で、「なるほど、意味わからない・・・かもしれないな」と思ったんで、それについて、一度まとめた文章を書いておいたほうがいいのかな・・・と思って、これから書きます。

日本から老害を一掃して残業を減らす唯一の方法

なんか挑戦的なタイトルになってしまいましたが、ただ最近「老害」っているんだよなァ〜と物凄く実感することがあって、その詳細をそのままは言えませんがそのやるせない思いをより広くて皆様と共有できるテーマとして昇華して書いてみたいと思っているんですが。

あなたは、「老害」って言葉、キライですか?好きですか?

私は最近まであまり好きではなかったです。老害扱いされてる人にも、うまく使ってあげればそれなりの価値やら色々あるんだぜ・・・と言いたい気持ちが結構あって。

ただ、そんなこと言ってると「老害さん本人」が「自分の老害性」を一切意識せずにノウノウと暮らし続ける反面、困ったことにその「老害さん」は権力持ってたりするのでその集団全体の適切な運営がどんどん滞り、直接的には「ヤル気のある若手」さんが、そして結果的には「その組織の人全員」が非常に困った状況にみんなで追い込まれていくことになってしまう。

物凄く大枠での言い方をすると、過去20年にわたる日本の苦境はこの「老害さんをどう扱うか」について、思い切りの良い諸外国のように何のテライもマヨイもなくボコボコに権力を奪って放逐していくような思い切ったマネジメントができなかったから・・・と言ってしまっても悪くないかもしれません。

ただね。現状の日本は、老害さんたちを腫れ物に触るように扱って捨てずにいたので、社会全体が「トランプvs反トランプ」みたいにどこまで行っても平行線な対立に落ち込んだり、スラム街がどこまでも悲惨なスラムになっていくようなことは避けられたり・・・というプラス面もあったんだろうとは思います。アメリカに比べたらまだ貧富の格差もまあマシなレベルに留まっている。

つまり、なぜ日本が「老害さん」たちを諸外国のようにはボコボコに斬ってしまえないかというと、「その老害さんが代表しているものの中に自分たちの良さの根幹も混ざっている」からだと言えるでしょう。