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『ジョブズ的リーダー幻想』を超えて。

再開するにあたって、僕の過去のブログ(リンクはこちら)をどうするのか?というのは結構悩ましい問題だったんですが、とりあえず結婚して以降の30本弱については、公開のまま残しておこうと思います。「はじめまして」の読者の方にも、過去の倉本圭造がどういう感じの活動をしていたのかがイメージできると思いますし。(いや、読んでもわからないかもしれないですけど)


結婚する以前の文章は、ちょっと今の自分とは立ち位置が違いすぎるものがありますし、一応削除しました。当時出してたPDF形式の電子書籍も、当面公開中止にしてあります(過去ブログからのリンクに飛んでも切れています)。

といっても、過去の文章が無意味というわけではないと思うのですがね。一つ一つが、来年2月に出す新書の色んな主張をバックアップする大事な布石になっていってたというのはあるし、今回の削除にあたって全部読み返したんですが、「内容自体」について失敗だったなっていうのはほとんどないぐらいなんですよ。むしろ、メジャーへ移行(マス出版的な動き)するにあたって、各方面への配慮を身につけてきた今の文体よりも、直接的でストレートに熱いので、凄く「意義」を感じてもらえる人も多くいるとは思います(PDFの電子書籍も合わせて全て保存はしてあるので、いずれ読者を選ぶ形で再公開したいとは思っています)。

ただ、やはり一番大きな問題は、昔は自分自身に根本的な意味では自信がなかったというか、日本において「日本の普通」と違う生き方をしようとすると、やっぱ結構「吠えて」いないと自分を保てないってところがあったんですよね。「普通の生き方はこう。なんでやってないの?」っていう圧力を日常的に凄く感じてしまうところがあったんで(まあ、それ自体は抜け出してみれば幻想にすぎなかったりして、案外日本社会は懐が深いところがあると思うんですが)。

そういうわけなんで、過去のブログは、「倉本圭造個人がどう生きるべきだと考えているのか」を模索していくプロセスの一部だったというか、そういうのを積極的に”露悪的”に開示することが、ほんとピッタリ同じような悩みを個人的に持っている人にとって意味があるという形のコンテンツだったので、「それ以外の生き方」についてちょっと批判的なことを言いがちだったなっていうのが最大の反省なんですよね。

大雑把に言うと「俺はてめーらみたいにつまんねえ普通の生き方なんてしねーよ!けっ!」的なことを言ってないと、自分の人生の前進力が足りなくなっちゃう状態だったというか(今では、どんな”普通”的人生の中にもその人なりの波乱万丈があるんだなってことが理解できるんで、その意味でも問題だったなと思うんですが)。

でも、本当に日本社会に大きな転換を起こして行こうと思うなら、「自分自身の人生を凄く個人主義的に一貫して組み上げる」ことと、もっと「(いわゆる)普通の生き方」をして日本社会の美しい節度感や秩序感を保ってくれている人たちとの「良さを活かしあう協業」に持っていくことと、「両方同時に」やらなくっちゃいけないわけなんで、だから「それをやってちゃいけない」ってことは薄々わかってるんだけど、でもそれを辞めたら押しつぶされちゃうんで、それをやらざるを得ない状態・・・・っていう感じだったですね。まあ、そこが、日本国内における「21世紀の薩長同盟(いっこ前の記事参照)」を難しくしている大きな障害になっているんですが。

例えば、なんで今の日本にはスティーブ・ジョブズみたいなリーダーが生まれないんだ?って言われた時に、「出る杭を打つ土壌だから仕方ない」的なことになってしまいがちじゃないですか。ジョブズみたいな型破りなヤツが生きていけない社会だから日本はダメなんだよ。みんな横並びの調整型でさぁーほんと嫌んなるよねー!もっとみんなガツガツと個人主義的に生きるようにしなくちゃね・・・・っていう議論。

でもね、そんなことできないですよね。なんでできないかというと、そういうのは「長所の裏側の短所を指摘しているだけっていうタイプの議論」だからなんですよ。要するに、日本から次々と次世代のスティーブ・ジョブズ(まさにあのタイプのリーダー)が生まれて来る”ほどまでに”日本人が個人主義的に「覚醒」してしまうと・・・・(そんなの不可能なようで、戦国時代のこととか考えると、日本人は”いざそういう時代になったら空気にあわせてそうなれるカメレオン的なところ”があると思います)・・・・今度は今の日本が保っている「長所」も崩壊してしまうからなんですよ。そういう「一周回ってくる論理」みたいなんがあるんですね。

だから要は、ジョブズみたいなのが何千人も出てきたらそれで物事がうまくいくなんてことはないんですよね。色んなタイプの人間が必要で、ジョブズ的な存在と、日本人の「辛抱強い現場」みたいなのがちゃんと「お互いの良さを発揮」できるように持っていかないと、ただ「日本社会なんてぶっ壊してしまえばいいんだ!」って吠えるだけでは本当の変化は起きてこないんですよ。

僕は就職した2002年にソニーの内定者ほぼ全員と会う機会が(マッキンゼーと国家官僚とソニーの内定者が集まる・・・というよくわからない異業種交流会的なもので)あったんですが、その時、いわゆる「ソニーらしさ」というと、まだ当時はスティーブ・ジョブズ的な?久夛良木氏的な?なんかそういう古武士風の豪傑的人物のイメージがあったんで、彼ら(ソニー内定者)がみんな凄く「今風にクールで身軽なデキル人風」だったのが凄く不満だったんですよね。ソニーがそれでいいのかよ!って思った。(お前関係ないだろって話なんですけど)

2000年前後あたりのソニーっていうのは、今からは考えられないくらい輝いてた憧れの会社ってところがあったんですが、まあそれ以降10年強、今はまあ・・・ねえ?うん、頑張って欲しいです僕は。なんかソニーには。

ともあれ、そういうパワーダウンの原因に、そういう「古武士風の豪傑的人物」みたいなのがいなくなった・・・・小粒化した・・・っていうのは確かにあると思うんですよ。でも、「原因がそれだからといってコインを裏返すようにそれを解決できたりしない」んですよね。やっぱそうなっちゃったのにはそうなっちゃったなりの歴史的背景みたいなんがあるんで、「ジョブズみたいなヤツを育てなきゃ!」とか言ったって無理な話なんですよ。

色んな原因があると思うんですが、まあ例えばいわゆる昔と比べて色んな製品のネットワーク化が進んでるんで、一人の個人のオラオラ系腕力でガツンと全てを支配できる時代じゃなくなってきてるとかね。ジョブズとか、久夛良木さんとかのやり方が通用したのは、「その時代」だったから・・・的なところがあると思うんですよ。ある個人の「豪腕」で無理矢理全てをコントロールするようなあり方が通用しない時代になってきている。ジョブズはその「旧世代方式の最後のアダ花」的なところがあって、パソコンという概念ができたころからのスーパースター的伝説の人物としての「ご威光」を利用して活躍してたところがあるんで、今から誰かがジョブズ的存在に成りあがろうとしたら、どこの国でもみんなで寄ってたかって潰し合いになって、あそこまでの「豪腕」は実現できないと思うんですよね。「どの程度」というレベル感はあるにしろ、例えばフェイスブックのザッカーバーグ氏は、同じ豪腕でももっとスマートな部分があるし、さらにこれからの世代となると、「ジョブズ的人物を抑圧する圧力」っていうのはどんどん高まっていく流れだと思うんですよ。日本だけじゃなく世界的にもね。それは、ただの「嫉妬の問題」だけじゃなくて、個別製品の独立性・ユニーク性が、商品の本質がネットワーク化されることで「周りとの調和なしには成立しない」状況になってくるからなんですよね。

当時の内定者懇親会で、ちょっとだけ話した「今時のデキル人風」の男が、次世代のソニーのホープ的事業として「フェリカ」について熱く語ってたんですよね。で、当時の僕は、「ジョブズ的重厚長大な人物幻想」にとりつかれてたので、「なんか”次世代のホープ”にしては地味すぎる事業だな」的イメージがあったんですよ(すいません)。でも、今やおサイフケータイにイコカにトイカにスイカに・・・・って、日本社会の大きなインフラにまでなってるじゃないですか。まあ、その日本国内での圧倒的普及ぶりと海外普及の圧倒的な遅れ度合いが、なんつーか内弁慶的なイマイチ感があるんですけど、でも国内事業としてはソニーにとってこの10年の確かに大きな事業だったなと思う何かがある。

で、フェリカみたいなタイプの事業は、「豪腕」なだけではなかなか実現しないですよね。それこそ、今やダメ人間の代名詞的になった単語であるところの「調整型人材」が凄い必要じゃないですか。むっちゃたくさんステークホルダーがいるし、色んな立場を取りまとめて一つの方向に動かしていかないといけなくなる。色んな技術動向に詳しくないといけないし、アンテナ高く張って色んな各所の事情を理解して、常に柔軟に動いていけて・・・っていう人材が、しかも無数にたくさんいないといけない。ジョブズみたいに、気に食わないデザインの製品があがってきたら壁に投げつけて無茶苦茶罵倒するようなタイプじゃ実現できない(笑)グーグルみたいに、一つのサービスを自分たちのモジュール内だけ徹底的にガッチリ作りこんだら一気に世界支配できるとかいうサービスでもない。

そういう、今風に「デキル人」的な領域を大きくしていくと、昔風の、「豪腕なリーダー」が居づらくなるんですよね。それは仕方がないことだと思うんですよ。というか、「それは仕方ないとして、それでも大きなムーブメントを海外にも起こしていくにはどうしたらいいか」を考えないと、ただ「ジョブズみたいな人間をそだてなくては!」って言ってたって実現するはずないですからね(強烈な国家意識や学歴主義や財閥秩序をそのリーダーシップの源泉とする、韓国特にサムソンの単純な後追いが日本になかなかできない理由も同じことなんですよね)。

星海社の柿内氏もそうなんですよね。「ヒットメイカー的実績のある編集者」って言ったら昔はかなり「型破りな古武士風人物」だったじゃないですか。角川春樹氏的な。でも、柿内氏は拍子抜けするほどそんなんじゃあないですからね。

ジュンク堂のサイト(神戸生まれなんで僕はジュンクファンです)にインタビューがありますけど

前編

後編

あんまり、「角川春樹とか見城徹氏みたいな(実際にお会いしたことはないんでイメージだけで言ってますけど)豪傑的編集者」って感じじゃないです。村上春樹氏の「1Q84」に出てきた無頼派みたいなのとも違う。もっと「自称普通の人」だし、ちょっと軽すぎて「編集者は重厚な存在感のある人であって欲しい」幻想からいうと失望されるようなタイプでもある。

でも、凄い各方面にアンテナ鋭くて、出版業界のどんなタイプの動向にも凄く詳しいし、打ち合わせで話してるときに「あの漫画知ってます?」「知らないです」って言ったら話を続けたまま凄いスピードでiPhone操作してその漫画の画像出してきて、「で、これなんですけど」的な感じなんですよね。(でも”今風にクール”な存在に対して常に何か憤慨してる熱血なところがあるのがちょっと”いわゆるデキル人”とは違う部分なんですが)

で、現代日本において、ある程度「組織人」として仕事をするには、そういうタイプである必要があるってことなんですよ。単純な「ジョブズタイプ礼賛」からは新しい展開が開かれない理由がそこにあるんですよね。



最近、「フリーエージェント社会」「雇われない生き方」がアメリカ発でブームだそうで、過去の僕のブログとかもそういう方向をガンガン出していこうとしていた部分があるわけですが、でも要は、「フリーエージェントvs組織人」ってなったらダメなんですよ。まあしかし、何度も言うとおり、フリーエージェント的に生きるとなると、常に社会の「なんだあいつ」的な目を(特に日本では)感じざるを得ない部分があるので、結構常に「吠えて」いないと自分が保てないようなところがあって、そこが難しいんですけどね。

で、「vs」から一歩進んで、「外注関係」的な?「自分はフリーエージェントとしてこのモジュールの機能・職分をキッチリ終わらせます。あとは知りません」みたいな感じ・・・・そういうのが「アメリカンなエージェント感」だと思うんですが、日本がこれから、「今風にデキル人的な組織の連携性」を実現したまま、「ジョブズ的なビジョナリーさ」を身につけて行くには、「お互いの良さをより深く活かしあうような関係」に持っていくことが必要だなと感じています。

つまり、「ある方向性を明確に出していけるようなタイプ」っていうのは、今の時代「完全な組織人」ではいられなくなりつつあるんですよね。組織にいると、もっと、「色んな色に柔軟に染まれるタイプ」であることが求められると思うんですよ。で、それに対抗する、「はみだし者の突破力」的なものも大事なんですが、そのやり方、結構ホリエモン氏あたりの事件で結構悶着になってしまったじゃないですか。グリーもモバゲーも、「日本の旧社会」との間に相当な軋轢を抱えていたりして。

恨み言を言いたいわけじゃないですが、日本社会の「主流派」の「非主流派」に対する無意識の抑圧力って言ったら相当非人間的なレベルであることが多いので、「アンチ古い日本」みたいなメッセージ性の勢力がどんどん大きくなってもらうことは必要なんですよ。そうじゃないと、「日本社会の主流派」っていうのは「それ以外」と手を組もうとか考えすらしないところがありますからね。でも、このまま永久に内紛し続けてても、日本経済が良くなっていくわけはないんで、その両者の発展的シナジーが凄く必要になってきてるはずなんですよね。

今後、その「古い共同体」と「アンチ古い共同体」との争いがヒートアップし続けて、「どっちにも進めない」的な袋小路の閉塞感が誰にとっても「馬鹿馬鹿しく」見えるほどの臨界点に達した時に、その両者をうまくシナジーしていかなきゃいけないよね・・・という「考えてみれば当たり前の風潮」がやっと力を持つ時代になると思います。

そういう時にやっと、「社会の”普通”という圧力」を振り切るほどに「個人主義」で生きようとする個人主義者(”長州藩士”的存在)と、「日本社会の優秀な組織力」(”薩摩藩士”的な存在)との「良さを活かしあう連携」をしていこうとする『21世紀の薩長同盟』が実現する時代が来るんですよね。

日本社会っていうのは、あんまり頭で考えてるようで考えてないので、「個人主義者VS集団主義者」みたいな論争的関係を辞めて、「お互いのこういうところを活かしましょう」という「具体的な案件」が立ち上がってくれば、あんまり怨恨を感じずに「まあ、済んだことはもうええやんか」ってなれる良さがあるはずなんで。

で、フリーエージェント的に生きる個人主義者や、あとは金融やコンサル関係などの「グローバリズムの手先」的な存在が持っている「明確な方向性を求める志向」と、「日本社会の現場の連携力の一番良い部分」が、「お互いを潰しあうことなく連携」する流れが生まれれば、ソニーがフェリカを国内で育ててきたような、この10年の「良い部分」を、グローバルサイズに大きく展開していける可能性が生まれるはずです。

要は、「お互いの一番の長所」を活かしあえてなくて罵り合ってるから閉塞感を感じることになってるんですよね。でも、「今の時代のデキル人」が日本の組織に満ちていることで、属人的な「親方」じゃなくて「ある概念的ビジョン」に対して、みんなで共有して突っつきまわして柔軟に動いていける力を日本はこの10年で得ているんだと思います。

色んなところにジョブズがいるってことは、「俺のところはアドビフラッシュは使わせねえ」とか「俺の目が黒いうちはマックにHDMIは接続させねえ」とかね、そういう障壁が社会のあちこちにあるってことなんですよ。でも、ジョブズ的存在をよってたかって10年かけて引きずり下ろしまくった日本では、そんな面倒くさいこと言うヤツは組織にいられないですからね。

だからこそ、どこにも明確なリーダーシップが生まれなくなってしまっているわけですが、逆に考えると、「ジョブズ的なボス」がいなくても、「こういう感じのビジョンってどう?」っていう流れが自然に共有されていけば、「いいねえ!やろうぜ。」的にスムーズに自然に社会全体で連携していける強みを培ってきているってことでもあります。

そういう「21世紀の薩長同盟」に持っていく実務的なプロセスについて、来年2月刊の書籍では詳述してあるので、ご期待ください。

一方で、過去のブログは、そういう意味で「日本社会の普通」の「アウトサイダー」になってしまっている人達の存在をまずは自分の世界観の中に抱き込んでいかなくちゃという使命感的なものがあって、「職場に縛られない自由な働き方」だとか、「今働けていない存在の本来的必要性」だとか、いわゆる「キッチリした日本の職場の良心」の側を代表される方にとっては多少受け入れられない部分もあろうかと思います。(そういう方はむしろあまり無理して読まれない方が良いと思われます・・・こちらのブログの記事で、僕の活動の”真意”の方をご理解いただければと思います。)

しかし、とりあえずまずはそうやって「日本の普通」の外側に出る志向性を結晶化させることができてからじゃないとできなかったこともあるんだな、という「寛容なご理解」をいただけるのであれば、なかなか面白いことを言ってる部分もあると思うので、ぜひご覧いただければと思います。

特に、僕の経歴の中の、「普通じゃない部分」・・・ホストクラブとかカルト宗教団体とかちょっとアヤシイ訪問販売会社への潜入とかね、そういう部分を、ちゃんと「咀嚼」しきるために必要だったんだなと今は思ってますね。

当時の僕としては、「日本社会の本当のリアリティ」を知るにはそういう領域に飛び込んで、「ルポとかじゃなくてその一員として体験すること」が必須不可欠なんだと思って次々やってたことなんですけど、で、その甲斐あって、確かに色んな物事が通り一遍でなく複眼的に深く見れるようになったし、それは今のブログや来年2月に出す新書の凄くコアな部分を支えてくれているなあと思ってはいるんですがね。

しかしその分、なんか簡単に世の中的に通りの良い意見表明にまとめることができなくなっちゃってたところがあるんですよね。体験の中にあまりにイレギュラーなことが多すぎて。そこが結構精神的に辛い部分があったというか、周りの人が普通に使ってる「一般的な考え方」に、いちいち全部「ほんとにそうなのか?」みたいなことをグルグルグルグル考えちゃうようになっちゃってて。

そういう「苦労」というか、「模索そのもの」みたいなのが濃密にそのままゴロッと残ってる感じなんで、もしそういうのに興味がある方は、ぜひ読んで、何か感じていただければと思います。既にちゃんと方向性をピッタリ定めて、基本的にポリティカリー・コレクトなこと(政治的に問題が起きないような配慮がなされたこと)しか書かない予定の本ブログや新書などとは違う発見があろうかと思います。

それでは今回はこのへんで。

次回は、過去のブログを閉鎖してから4年半もの間、公開的活動を停止してまで準備をする必要がなぜあったのか、その意図などについてお話したいと思います。

長文をここまでお読みいただいてありがとうございました。



後日追記

既に本は出版されてします。

星海社のサイトで「はじめに」部分を試し読みしていただけると、私がどうしても伝えたいことが、「トータルなイメージ」としてご理解いただけるかと思います。

「はじめに」部分はすぐに読める分量なので、ぜひリンク先へどうぞ。

このブログの人気の投稿

経産省若手資料はそんなにダメか?褒めときゃいいじゃん。

書籍の執筆でアタマが沸き立っていて、箸休めに軽いブログを書きたいので書きます。



ネットで話題の、経産省の若手有志による、

国内外の社会構造の変化を把握するとともに、中長期的な政策の軸となる考え方を検討し、 世の中に広く問いかけることを目指すプロジェクト

っていうのがあって、このリンクからパワーポイント資料が読めるんですが。

数日前にリンクを見つけてパラパラ読んだ時には、「いいなあこれ、頑張って欲しいねえ」と思ったし、ネットでも高評価な人が多かったんですが、なんかそれから日がたつうちに色んな人が

・全く新しくない
・具体的な政策への落とし込みが足りない
・データ分析が雑

などとクサしまくってるのを見てて、いやーそんなにダメかねえ??いいじゃん!と思ったのでそれについて書きたいです。

「ダメかどうか」もさることながら、「最高とは言えなくてもとりあえず褒めときゃいいじゃん」的な話でもあります。

いや、批判は批判で内容的にはゴモットモではあるんですが、あまりにそういうのが盛り上がっちゃって、この資料に対してちょっとでも高評価をするのは知的人間として恥ずかしい・・・ぐらいの空気になってきてるのがちょっとどうかと思うんですよ。

そもそも役所が懇談会的にインテリ集めてとりまとめた資料で、総花的にならずに一方向的なストーリーがあって、ある程度こういう「何言ってるかちゃんとわかる」資料ってそんなに多くないですし、だからこそ「うるさ型」の人たちがクサし始める前の段階では結構ネットで「いいじゃん!」的空気が巻き起こったりもしたわけですよね。

単純に言って、役所発のペーパーで、その「いいじゃん!」モードが小規模でも巻き起こったりした時点でそりゃ奇跡と言って良くて、そりゃ批判は結構だが、じゃあどっかに「超絶凄い官僚さんの集団」がいるわけじゃないんだから、今の日本の官僚さんたちに、官僚の役割の中でできることは頑張ってもらうしかないわけで、だからあんまりクサすばっかりなのもどうかと思うわけですよ。

で、資料の内容なんですが、たしかに「どこにもない新奇性」とか、「具体的な政策へ落とし込みきった提案」とかは弱いかもしれないが、この資料は1つの「ストーリーの提示」を目標としてるわけですよね。

いわゆる「高齢者に属する人」にも、資産や健康面でかなり余裕がある人もいるんだから、一概に「高齢者サマ扱い」で終わ…

今更ですけど自己紹介を・・・その1.副題『原生林のような豊かでタフな経済を目指して』

このページはよほど倉本圭造に興味がある人のためのありえないほど長い自己紹介エッセイなので、サクッとコイツ誰なんだ?ってことが知りたい場合は、私のホームページの「Who?」欄をお読みください。(向こうにしかないコンテンツもありますし、とりあえずコンパクトに全体像がご理解いただけると思うので、かなりご興味を持ってくださっている方も、先に向こうをお読みいただけるとご理解しやすいように思います。その後以下の”長文”へと戻ってきていただければと)







最近出版の依頼を下さった人がいて、”出版社の女性社長さん兼編集者”としてギョーカイでは結構有名な人らしいんですが、「21世紀の薩長同盟を結べ」本体を読むまで、プロフィール欄を読んでも「???」って感じだったと言われたんですよね。

その「???」になったっていう文章は、本の著者プロフィール欄に記載されているコレなんですが。

1978年神戸市生まれ。兵庫県立神戸高校、京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感、その探求を単身スタートさせる。まずは「今を生きる日本人の全体像」を過不足なく体験として知るため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、時にはカルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働くフィールドワークを実行後、船井総研を経て独立。「個人の人生戦略コンサルティング」の中で、当初は誰もに不可能と言われたエコ系技術新事業創成や、ニートの社会再参加、元会社員の独立自営初年黒字事業化など、幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。星海社新書より『21世紀の薩長同盟を結べ』発売中です。
で、「なるほど、意味わからない・・・かもしれないな」と思ったんで、それについて、一度まとめた文章を書いておいたほうがいいのかな・・・と思って、これから書きます。

日本から老害を一掃して残業を減らす唯一の方法

なんか挑戦的なタイトルになってしまいましたが、ただ最近「老害」っているんだよなァ〜と物凄く実感することがあって、その詳細をそのままは言えませんがそのやるせない思いをより広くて皆様と共有できるテーマとして昇華して書いてみたいと思っているんですが。

あなたは、「老害」って言葉、キライですか?好きですか?

私は最近まであまり好きではなかったです。老害扱いされてる人にも、うまく使ってあげればそれなりの価値やら色々あるんだぜ・・・と言いたい気持ちが結構あって。

ただ、そんなこと言ってると「老害さん本人」が「自分の老害性」を一切意識せずにノウノウと暮らし続ける反面、困ったことにその「老害さん」は権力持ってたりするのでその集団全体の適切な運営がどんどん滞り、直接的には「ヤル気のある若手」さんが、そして結果的には「その組織の人全員」が非常に困った状況にみんなで追い込まれていくことになってしまう。

物凄く大枠での言い方をすると、過去20年にわたる日本の苦境はこの「老害さんをどう扱うか」について、思い切りの良い諸外国のように何のテライもマヨイもなくボコボコに権力を奪って放逐していくような思い切ったマネジメントができなかったから・・・と言ってしまっても悪くないかもしれません。

ただね。現状の日本は、老害さんたちを腫れ物に触るように扱って捨てずにいたので、社会全体が「トランプvs反トランプ」みたいにどこまで行っても平行線な対立に落ち込んだり、スラム街がどこまでも悲惨なスラムになっていくようなことは避けられたり・・・というプラス面もあったんだろうとは思います。アメリカに比べたらまだ貧富の格差もまあマシなレベルに留まっている。

つまり、なぜ日本が「老害さん」たちを諸外国のようにはボコボコに斬ってしまえないかというと、「その老害さんが代表しているものの中に自分たちの良さの根幹も混ざっている」からだと言えるでしょう。