ビートルズとか、大江健三郎氏とかが沈殿している層まで響いて欲しい。

こんなことを言うと、どういう層の人にどういう反応があるのかよくわからないんですけど、最近ビートルズとか、大江健三郎とかにハマっている(笑)

・・・ってオッサンか!

いやでも、ほんとでも僕オッサンですわ。まだ33歳だけど。

特に、大江健三郎氏の本って、この年まで一冊も読んだことなかったんですよね。彼のパブリックコメントとかエッセイとかの、凄くもってまわった偽善風なイメージが凄い嫌で。

でも今、「性的人間」っていう短篇集を読み終わって、次「万延元年のフットボール」を読み始めたばっかりなんですが、「超凄いな!!」って感じが・・・・ていうか彼個人の公的イメージと本の内容のギャップにびっくりしてるってぐらいで。

どんな作家でも、「一番良い時」を超えると・・・っていうことが結構あると思うので、ひょっとすると他の作品まで読んで行ったら失望するのかもしれないけど、でも、「凄いな!!さすがノーベル賞やなー」みたいな(笑)、そういう気持ちになった。

こういうのは価値基準をどういうところに置くかによるけど、でも個人的には、過去に読んだどんな和洋の作家をも超えるような、圧倒的な「力量」を感じる・・・ってぐらい衝撃を受けている。

テーマ自体は今では結構よくある感じというか、ある個人(特に男)が生きていくにあたって、どうしても世の中に合わせきれないもの、「余ってしまってるもの」を抱えている存在が、色々な煩悶の結果最後には暴走する!!!という感じなんですけど。

その「追い詰められ方」が、本当にシリアスっぽい感じだというか・・・そのパターンが変奏されて色んなバリエーションが生まれていった後世の作品の(村上春樹作品や、ジョジョに出てくる吉良吉影みたいなのも含む)多彩さがもたらした示唆てのも結構あるとは思うんですけど、それの「大元の流れ」を作ったようなシリアスさみたいなんが凄いなあ・・・と思った。

後の世代のものに比べてバリエーションに欠けるけど、「切実さ」が凄くあるような気がする。テーマ設定のフォーカス度合いが超強烈で、「その一点にしか興味がない」というような一貫性があって、それが凄い迫力を生んでいるような。

いや、僕は全然こういう文学とか詳しくないので、別にそういうのは大江健三郎の専売特許じゃなくてさらに大元の凄いヤツがいるんだよ・・・って話なのかもしれないけど。

なんにせよ、僕の人生は、

「彼らの世代の左翼の夢」と、「大日本帝國の一番良い部分的な夢」を、「資本主義最前線」に全部一緒くたに再生させようとするムーブメント

っていう、わけわからんテーマでやってきているんで。

だからこそ、右左のどちらに関しても、「あなたたちとは違うんです」的な自己規定を常に確かめ確かめやってきたようなところがあるわけなんでね。

だから、大江健三郎なんて絶対読まねえ!!ぐらいの気持ちがあったんだけど。

今、自分の本が出せたりして、で、やっぱ、別にそこから先進歩しないと言ってるわけじゃないけど、「それの延長」として自然に引き寄せられる流れ以上の人生はもう自分には無理だな・・・っていうことが、ヒシヒシと感じられるようになってきたりすると。

最後には痛ましい事件を起こした左の人とか、戦前にヒドイことをした右の人・・・に対して、結構「やさしくなれる自分(ナニサマやねんという言い方ではあるが 笑)」を発見したりする。

それが良いことだったとまでは言わないけど、でも、「日常を日常として生きる人」の余ってる思いを引き受けてどこかで吐き出すべき存在になっちゃう人っていうのはどうしても必要になるし、その存在が「馬鹿馬鹿しさ」をさらけ出していることによって、「日常を日常として生きる人の安定性」も保たれる部分があるので。

だから、まあ、誰かが無茶苦茶悪かったとかじゃなくて、人間集団をトータルに見て、あの時期にはああなってしまったんだな・・・と総括するしかないな・・・という気持ちにはなる。

というか、まだ人生の前半段階程度ではあるけど、本を出すまでに自分ができたこと・できなかったこと・・・を冷静にフェアに考えてみると、まあ後追い的に冷静な批評はできても、当時の世相の中に自分がポツンと一人参加できたとしても、何らか流れを変えるようなことは決してできなかっただろうな・・・ってヒシヒシと感じる部分があるんで。

だからね、逆に、その「残り香」を生きておられる方が、僕の本を読むことで、その「失望」も、「新しい世代」に繋ぐ方策が生まれつつあるんだ・・・というように感じてくれたら嬉しいな・・・と思っている。

というかそういう狙いで書いてたけど、その「実感」が深まってきてるというような。

なんか、そういう「広い範囲の、過去に生きた人への鎮魂」になるように書いたつもりなんでね。

そういう「目的」と、ちゃんとマッキンゼーの先輩が「経済の現場最前線的な問題意識」として読んでもらっても意味を感じてもらえるように・・・っていうのと、「両方を実現」するために凄い苦心してるんで。

そういう「色んな目的を同時に」ってなると、やっぱほんと見た感じ、「何の本?」ってなっちゃってる部分もあるんで、だから時間はかかるとは思うんですけどね。

ただ、当時、「当事者」だった人たち同士の間の怨恨っていうのは、やっぱり根深く変奏され続けてしまうものだとは思うんですけど、その間にちゃんと割って入って、ちゃんとその当時の問題意識を引き継ぐ形で一冊の本にまとめあげた、かなり下の世代の僕みたいなのが介在すると。

案外、積年の恨みが溶けて、「20世紀的な紋切り型の罵り合い」を超えた、「現地現物からの現実的問題への創意工夫の結集」が、広い範囲に起こせるようになっていくんじゃないか・・・と期待している。

はっきりいって、そのレベルのことから解決しないと、日本がこの先良くなってったりしないからね。

アメリカンに単純化したシステムの導入自体は凄い大事で必要でこれからもやっていかなくちゃいけないことですけど、それに「みんなで納得」して、「深いところの本音の価値観」ごとそれに乗っかっていくように持っていかないとね。

日本は「荷物が多い国」なんで、「荷物が軽い国」と同じことやってるだけじゃ絶対ダメなんですよ。「荷物の多さ」が、「どこにもない独自の価値」に変わるように一貫した戦略を持って動いていかないと。

後追いのコピーが時代の流れを変えるなんてことはないからね。

だからこそ、そういう「人間集団の根底部分のワダカマリの歴史」に対するレクイエム的なことが、今の時代のイシュー(最重要の決定的課題)だと思うので。

なんとか、したいなあ・・・と思ってここまで来たけど、大江健三郎とか読んでると、あの時代の人に対する「リアルな共感」っていうか、「同じ目線」っていうか、そういう感覚が得られて嬉しい。

自分の父親の謎の行動の、奥底にあるものに触れられるような喜びというか。


似た感じで、ビートルズって、良いとは思うけど、なんかちょっと・・・・呑気すぎる感じが物足りないって気持ちになること多かったんだけど。

オアシスやコールドプレイ聴いてる時のような、「バシッとカッコつけてくれる部分」がない、凄いノホホーンと思ったことただ言ってるみたいなんが、なんか、無防備すぎて苦手・・・みたいなところが。

でも、その無防備さって、今考えると凄く貴重だな・・・と思ったりする。

今の時代に、「無防備さ」を実現しようとすると、なんか、「僕は素朴で無害で純朴な人間ですよぉおおおお」って感じになっちゃいがちじゃない?

そういうのとは違う、「どーんと無防備」って感じって、憧れるなあ・・・と思う部分がある。

例えば、「I don't want to spoil the party」っていうちょっとマイナーな曲とか、かなりなんということもない歌詞っちゃ歌詞なんだけど、でも凄いノホホンとしてて、しかも変に狙って素朴風にした感じでもないし、凄くいいなあ!と思って延々リピートしたりしてた(笑)

色々なことが難しくないと思われていた呑気な時代の音。

まあ、それは呑気すぎましたよね・・・っていう歴史の審判だったわけだけどさ。

その後色々あって、人間もちょっとは賢くなってるし、逆に「そこを乗り越えない限り、人間の大域的な連携力はどんどん寸断されていくので、経済だって環境だって解決するわけないよね」っていう時代になってるんで。

だから、もう一回、ある種の「呑気なほどに本質的なところ」と「現場最前線的な問題」を直結させる一貫した視点が必要な時代なんでね。




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