「北風と太陽」の「太陽作戦」
マッキンゼー時代に同じプロジェクトで働いたこともある先輩で、現・京大准教授の仙石慎太郎さんがリツイートしてた記事が面白かった。
だ、そうで。
いかにもアメリカンな、「組織の枠にとらわれず、必要だってなったら縦横無尽の連携をやってけばいいじゃん」系の発想なんですけどね。
リンク先の記事は、ただアメリカンなシステムを導入するってだけじゃなくて、それが日本でうまく行かない理由についてちゃんと現地現物に考えて、うまく行く方式を自前で作ろうとしてるところがいいなあ・・・と思った。
まあ、凄く確固とした知財システム(特許とかのこと)に守られた最先端技術的な話なんで、大分イメージは違うけれども、でも、僕が新書の中で出した例の、「普通の50代の技術職のオジサンが、一念発起して自分だけの技術事業を立ち上げていった話」に、「精神」の面では通じるものがあって興味深いと思った。
・
で。
こういうのが、本当に有効に機能しはじめて、アメリカが自分たちのために完全にフィットする発明として作り上げているベンチャー多産多死システムを凌駕していけるほどになるために必要なのも、結局やはり「雰囲気」とか「空気」を今後いかに作っていくかという部分なんだろうな・・・・と思いました。
先進的なシステムが導入されるまでには、「日本は遅れている。グローバリズムへ対応する新しい仕組みが必要だ」っていうモードで、関係者全員が発奮してることが必要だったんですけどね。
そうやって、「システムが実現するまで」に必要な文化のモードと、そこに「大域的な協力を呼び込むモード」の時に必要なモードは大分違うはずなんですよ。
ある意味、「なんかあいつらバタ臭くてムカつくよね」レベルのことで、日本社会の中から得られる「協力の熱量」の裾野の大きさがかなり変わってきたりする部分があるだろうと思う。
そのためにも、大域的に見た時に、こういう
「グローバリズム直輸入でもなく、旧来の惰性の延長でもなく」っていう場所でなんとか新しいことをやろうとしている「薩長同盟的な流れ」
に対して、やっぱり
広範囲の人がサポートしようじゃないか・・・っていう『気持ち』が大事
だなと思いますね。
そういう「空気」というか、「流れ」を作ること自体が大事だというか。
こういうのって、「楽天英語公用語化」「東大9月入学化」は是か非か的な議論が凄く盛り上がるのに比して、やっぱ凄く地味な印象になっちゃう部分あるんで。
でもさ、結局、本当に「日本人の思い」が毀損されない形でグローバリズムに載せられる方法が見つかるんであれば、別にひとつの国際企業が英語公用語化しようが東大が9月入学化しようが、それで「國體護持が危うくなる」なんてことはないはずですからね。
だから、そういう大枠の話が「是か非か」っていう話をやるよりは、「もしやるとしたら、日本人が自分たちの本来の良さをストレートに発揮できて、やればやるほど幸せになれるやり方ってのはどういうものか」っていうのを両派がそれぞれ考えることが大事ですよね。
「結婚したら幸せになれるか」を延々議論するんじゃなくて、「この結婚を幸せにするにはどうしたらいいか」をお互い考えることが大事だ・・・的な話で。
グローバリスト側はグローバリスト側の印籠を出して「モノドモ控えおろう!!」って言うだけで終わり、一方国内派は国内派で「ケッ、うっせーよ、ここは日本だ!!」みたいな感じの居直りを続ける・・・・というのでは、結局実質的な「どうすりゃいいのか」っていうことに、両側の切実な事情を持ち寄って相談するような本当の知恵を集めることができないですから。
どちら側から押し通すだけにもならないようにしなくちゃいけないんですよね。そうじゃないと、本当に「根付く」ことは難しいはずなんで。
もちろん、国内の一番”先進的”なメンバーと、国外のプレイヤーとの縦横無尽の連携・・・っていうだけでも十分意味があると思いますけど(特にこういう知財でシッカリ守られている分野においては)、でもそれだけだと、最高でも「アメリカになんとか対抗できるようになった」っていう後追い以上にはなれないんで。
より広く深い共鳴を、日本社会に起こしていければ、「他の国にはできないこと」に繋がりますからね。
特に、リンク先の記事みたいな「知財システム」が完全にガッチリ成立してる分野だけじゃなくて、もっと色んな不定形な問題が生起する分野では、やっぱり「国内の深い部分」とガッチリ噛みあうように持っていかないといけなくなるんで。
日本には、端的にわかりやすいシステムから「こぼれ落ちる部分」が超多いんで、だからそういう「こぼれ落ちる部分」が少ないスマートな国と同じことを同じようにやろうとしても、ハンデが凄いあるんですよ。余計な荷物を凄い抱えてることになるんで。どうしても鈍重になる部分はある。
だから、「荷物が少ない国に対抗する仕組み」を作り上げつつ、「荷物が多い国だからできること」っていう発想を、徐々に突き詰めていくことが必要なんですよね。
でも、そういうのもやっぱよっぽど「空気の追い風」がないとできないでしょうから、一歩ずつできることから始めていって、そこに「みんなの気持ち」を共鳴させていくことが大事になってくると思うんですが。
・
「荷物が多い国ならでは」ってことで一つ思うのは、ただ「追い立てるだけ」じゃなくて、研究者側の内発的なモチベーションを、自然に活かす形に持っていくにはどうしたらいいのか?っていうのを、アメリカ以上にちゃんときめ細かく考えてあげることが日本の場合は大事だと思うんですよ。
ちょっとでも追い立てられるとネコソギ嫌になるタイプが多い国なんで。「内発的な自然な流れ」をどうやって「システム側から救いあげられるか」が大事と思う。
で、現状のちょっとダラダラした惰性のシステムは、そういう「内発的動機」を「荒っぽいシステム」から守るため「だけ」に存在していると言ってよくて、でもだからといってそれが「内発的動機」を凄くちゃんと後押しできてるかっていうと、全然そんなことないですからね。
みんな実際には嫌気がさしてること多いけど、なんかアメリカンなものよりは気楽だからとりあえず選択してるって感じなんで。
だから、
「古いシステムを批判する」よりも、「古いシステムよりもグローバリズムに適合している」のはもちろんのこと、「古いシステムよりも個人の研究者の内発的動機にもちゃんと合致している」っていうデザインを目指していく
のが、
童話「北風と太陽」の「太陽作戦」
みたいな感じで良いんじゃないかと思います。
そういう時に、僕の本で書いたような「PQ的大道楽のモード」を「個人の側」から起こしていって、システムは「使いたい人が使いたいと思った時に、使える状態にしておく」っていう趣旨に持っていくという、「ハサミ打ち」の形にしていけたらいいなと思っています。
・
ただ、本の中にも書いたけど、結局ある程度は一回「グローバリズム側」を押し通す流れがある範囲までは具体化しないと、「本当に良い部分を」っていう模索も始められなかった部分はあるんですよ。
「壊すべきものを壊す」までは、「罵り合ってるだけじゃダメだよね」っていう雰囲気になりすぎると良くない部分もあるんで。
一個前の記事で書いたように、
という感じで、「対立を煽る言葉」と、「実質的な解決策を模索する言葉」が、徐々に同期していくように、日本全体を持っていかねばなるまいなと思っています。
で、ある程度のところまでまとまってくれば、「どちら側の人の感情」も、うまく吸い寄せられる起点になるはずなんですよね。
グローバリスト側からすれば、「自分たちが、アメリカ直輸入じゃなくゼロから考えてきた仕組みが、ついにワークしはじめたぞ!!!」っていう興奮が得られるし。
「国内派」からすれば、「これからの日の丸●●業はこれやで!!」みたいな(笑)そういう興奮が得られると思うし。
・
エルピーダメモリの破綻問題とか、それにまつわる官僚組織とか護送船団方式的な問題とか、まあそういうのに対して、一応厳しく批判しておくことは大事なんですけど。なんせ彼らは批判されなくなったらとことん調子乗りますからね(笑)
ただ大事なのは、日本国民の、ある程度サイレントマジョリティ的な人が、そういう「日の丸半導体」みたいなストーリーに酔いたいと思っているという『切実なニーズ』に目を向けることではなかろうかと思う。
で、そういう「気持ち」は馬鹿にしたもんでもなくて、そういう「気持ち」があるから、広い範囲の人心の安定と日常生活における現場的優秀性が保たれているという「儀式的価値」みたいのもあるからね。
でもそれが、「全然意味ないところでやってる」と、ほんと次々公的資金が浪費されるだけに終わるんで。
このリンク先の記事のような、
「ちゃんとやる意味ありそうな部分」を、グローバリスト側の日本人が現地現物に詰めて行ったところ
に、
「日の丸●●事業」的な、そういう「感情を巻き込む流れ」を起こしていくことができれば、エルピーダみたいなことを「しなくちゃいけなくなる空気の流れ」自体が消えて行くはず
で。
日本において「現場的優秀性」を消さない形で、「大域的な合理性」を効かせて行くには、そこがイシュー(最重要の課題)だと私は思っています。
要は、「お役所」とは関係ないところに、日本人好みの「公(おおやけ)」的な義憤を発揮させられるようなムーブメントが確実に生まれてくれば、「お役所」に対して過剰な権力を与える流れは根っこの方から枯れてくるだろうってことです。
その流れを、「結構マジな読者にも、普通の関西人のおばちゃんにも読んでもらえる形で」書くことによって、広範囲に起こしていくキッカケにできるんじゃないかと思って書いたのが、
「21世紀の薩長同盟を結べ(出版社のサイトで試し読みができます)」
なんですよ。
そういう「空気レベルのこと」にアクセスしようとするのは、やっぱ「現場最先端で頑張っておられる人」にはかなり難しいと思うけれども、でも実際にはそこが一番「ラストワンマイル(最後の一歩)」的に、最終成果の大きさに決定的に関わってくる部分だと思うんですよね。
特に日本においては、アメリカみたいに「客観的に整備された知性」に対する共有された信頼感がシッカリ確定してない部分があるんで、そこの「空気の醸成」がうまくいかないと、とにかく現場が孤立無援の中でただただ頑張る・・・・ってことになりがちなんで。
そこに「新しい公(おおやけ)感」が空気として成立してないから、日本社会に通用する印籠が「国と官僚」しかなくて、だからこその現状の色々の齟齬があるんだと思うんですよね。
そこを繋ぎたい。
っていうかそのためにやってきたのが、友人たち全員に「なにやってんの(笑)」って言われまくったような、謎の10年間の探求生活だったと思うし。
この記事に書いたように、「最前線の切実な問題をサポートするための売文家でありたい。」と改めて思った記事でした。
製薬企業の「オープンイノベーション」について。
オープンイノベーションっていうのは、
“オープン・イノベーション”は、当時、ハーバード・ビジネス・スクールの助教授だったHenry Chesbroughが、著書『Open Innovation: The New Imperative for Creating and Profiting from Technology (HBS Press, 2003)』で提唱した新しいビジネス戦略だ。従来の“クローズド・イノベーション”では、自分の会社1社だけで、アイデアを創出し、材料を調達して、研究開発し、その後商品化して市場に出し、上がった利益でまた新製品や新技術を開発するといったサイクルを回す、“自前主義”だった。これに対し、“オープン・イノベーション”は、ほかの組織の優秀な人材と協働し、外部の研究開発を利用する。
確かに、オープン・イノベーションでは、ステークホルダー(利害関係者)の役割分担、市場化までのプロセス、開発費の負担、知的財産権(知財)などの調整は複雑になるといった面もあるが、新しいアイデアやリソース、技術を効率よく利用でき、1社が抱える失敗のリスクが軽減されるメリットがある。だが、それ以上に重要なのが、かかわった企業や機関が互いに発展し、“新しい大きな価値”の創造につながる可能性が高いことだ。長引く不況の下、新製品が売れにくく、また商品寿命が短くなっている昨今、オープン・イノベーションはビジネスのキーワードとして注目されている。
だ、そうで。
いかにもアメリカンな、「組織の枠にとらわれず、必要だってなったら縦横無尽の連携をやってけばいいじゃん」系の発想なんですけどね。
リンク先の記事は、ただアメリカンなシステムを導入するってだけじゃなくて、それが日本でうまく行かない理由についてちゃんと現地現物に考えて、うまく行く方式を自前で作ろうとしてるところがいいなあ・・・と思った。
まあ、凄く確固とした知財システム(特許とかのこと)に守られた最先端技術的な話なんで、大分イメージは違うけれども、でも、僕が新書の中で出した例の、「普通の50代の技術職のオジサンが、一念発起して自分だけの技術事業を立ち上げていった話」に、「精神」の面では通じるものがあって興味深いと思った。
・
で。
こういうのが、本当に有効に機能しはじめて、アメリカが自分たちのために完全にフィットする発明として作り上げているベンチャー多産多死システムを凌駕していけるほどになるために必要なのも、結局やはり「雰囲気」とか「空気」を今後いかに作っていくかという部分なんだろうな・・・・と思いました。
先進的なシステムが導入されるまでには、「日本は遅れている。グローバリズムへ対応する新しい仕組みが必要だ」っていうモードで、関係者全員が発奮してることが必要だったんですけどね。
そうやって、「システムが実現するまで」に必要な文化のモードと、そこに「大域的な協力を呼び込むモード」の時に必要なモードは大分違うはずなんですよ。
ある意味、「なんかあいつらバタ臭くてムカつくよね」レベルのことで、日本社会の中から得られる「協力の熱量」の裾野の大きさがかなり変わってきたりする部分があるだろうと思う。
そのためにも、大域的に見た時に、こういう
「グローバリズム直輸入でもなく、旧来の惰性の延長でもなく」っていう場所でなんとか新しいことをやろうとしている「薩長同盟的な流れ」
に対して、やっぱり
広範囲の人がサポートしようじゃないか・・・っていう『気持ち』が大事
だなと思いますね。
そういう「空気」というか、「流れ」を作ること自体が大事だというか。
こういうのって、「楽天英語公用語化」「東大9月入学化」は是か非か的な議論が凄く盛り上がるのに比して、やっぱ凄く地味な印象になっちゃう部分あるんで。
でもさ、結局、本当に「日本人の思い」が毀損されない形でグローバリズムに載せられる方法が見つかるんであれば、別にひとつの国際企業が英語公用語化しようが東大が9月入学化しようが、それで「國體護持が危うくなる」なんてことはないはずですからね。
だから、そういう大枠の話が「是か非か」っていう話をやるよりは、「もしやるとしたら、日本人が自分たちの本来の良さをストレートに発揮できて、やればやるほど幸せになれるやり方ってのはどういうものか」っていうのを両派がそれぞれ考えることが大事ですよね。
「結婚したら幸せになれるか」を延々議論するんじゃなくて、「この結婚を幸せにするにはどうしたらいいか」をお互い考えることが大事だ・・・的な話で。
グローバリスト側はグローバリスト側の印籠を出して「モノドモ控えおろう!!」って言うだけで終わり、一方国内派は国内派で「ケッ、うっせーよ、ここは日本だ!!」みたいな感じの居直りを続ける・・・・というのでは、結局実質的な「どうすりゃいいのか」っていうことに、両側の切実な事情を持ち寄って相談するような本当の知恵を集めることができないですから。
どちら側から押し通すだけにもならないようにしなくちゃいけないんですよね。そうじゃないと、本当に「根付く」ことは難しいはずなんで。
もちろん、国内の一番”先進的”なメンバーと、国外のプレイヤーとの縦横無尽の連携・・・っていうだけでも十分意味があると思いますけど(特にこういう知財でシッカリ守られている分野においては)、でもそれだけだと、最高でも「アメリカになんとか対抗できるようになった」っていう後追い以上にはなれないんで。
より広く深い共鳴を、日本社会に起こしていければ、「他の国にはできないこと」に繋がりますからね。
特に、リンク先の記事みたいな「知財システム」が完全にガッチリ成立してる分野だけじゃなくて、もっと色んな不定形な問題が生起する分野では、やっぱり「国内の深い部分」とガッチリ噛みあうように持っていかないといけなくなるんで。
日本には、端的にわかりやすいシステムから「こぼれ落ちる部分」が超多いんで、だからそういう「こぼれ落ちる部分」が少ないスマートな国と同じことを同じようにやろうとしても、ハンデが凄いあるんですよ。余計な荷物を凄い抱えてることになるんで。どうしても鈍重になる部分はある。
だから、「荷物が少ない国に対抗する仕組み」を作り上げつつ、「荷物が多い国だからできること」っていう発想を、徐々に突き詰めていくことが必要なんですよね。
でも、そういうのもやっぱよっぽど「空気の追い風」がないとできないでしょうから、一歩ずつできることから始めていって、そこに「みんなの気持ち」を共鳴させていくことが大事になってくると思うんですが。
・
「荷物が多い国ならでは」ってことで一つ思うのは、ただ「追い立てるだけ」じゃなくて、研究者側の内発的なモチベーションを、自然に活かす形に持っていくにはどうしたらいいのか?っていうのを、アメリカ以上にちゃんときめ細かく考えてあげることが日本の場合は大事だと思うんですよ。
ちょっとでも追い立てられるとネコソギ嫌になるタイプが多い国なんで。「内発的な自然な流れ」をどうやって「システム側から救いあげられるか」が大事と思う。
で、現状のちょっとダラダラした惰性のシステムは、そういう「内発的動機」を「荒っぽいシステム」から守るため「だけ」に存在していると言ってよくて、でもだからといってそれが「内発的動機」を凄くちゃんと後押しできてるかっていうと、全然そんなことないですからね。
みんな実際には嫌気がさしてること多いけど、なんかアメリカンなものよりは気楽だからとりあえず選択してるって感じなんで。
だから、
「古いシステムを批判する」よりも、「古いシステムよりもグローバリズムに適合している」のはもちろんのこと、「古いシステムよりも個人の研究者の内発的動機にもちゃんと合致している」っていうデザインを目指していく
のが、
童話「北風と太陽」の「太陽作戦」
みたいな感じで良いんじゃないかと思います。
そういう時に、僕の本で書いたような「PQ的大道楽のモード」を「個人の側」から起こしていって、システムは「使いたい人が使いたいと思った時に、使える状態にしておく」っていう趣旨に持っていくという、「ハサミ打ち」の形にしていけたらいいなと思っています。
・
ただ、本の中にも書いたけど、結局ある程度は一回「グローバリズム側」を押し通す流れがある範囲までは具体化しないと、「本当に良い部分を」っていう模索も始められなかった部分はあるんですよ。
「壊すべきものを壊す」までは、「罵り合ってるだけじゃダメだよね」っていう雰囲気になりすぎると良くない部分もあるんで。
一個前の記事で書いたように、
床に置いてある本を、一回持ち上げてクルッと回してもう一回床に置く・・・というような流れと一緒で。
「クルッ」の後半になったら、もう「一回持ち上げて回転させるまでの段階」の時に「必要だった力の加え方」は全部不要になりますから。
今は「クルッ」の手前ぐらいだと思うので、「そろそろ安定させていこう」という動きと、「これを回転させきってやるぞ!」という動きが、バラバラに共存しながらだんだん同期していくタイミングなのかなと思っています。
という感じで、「対立を煽る言葉」と、「実質的な解決策を模索する言葉」が、徐々に同期していくように、日本全体を持っていかねばなるまいなと思っています。
で、ある程度のところまでまとまってくれば、「どちら側の人の感情」も、うまく吸い寄せられる起点になるはずなんですよね。
グローバリスト側からすれば、「自分たちが、アメリカ直輸入じゃなくゼロから考えてきた仕組みが、ついにワークしはじめたぞ!!!」っていう興奮が得られるし。
「国内派」からすれば、「これからの日の丸●●業はこれやで!!」みたいな(笑)そういう興奮が得られると思うし。
・
エルピーダメモリの破綻問題とか、それにまつわる官僚組織とか護送船団方式的な問題とか、まあそういうのに対して、一応厳しく批判しておくことは大事なんですけど。なんせ彼らは批判されなくなったらとことん調子乗りますからね(笑)
ただ大事なのは、日本国民の、ある程度サイレントマジョリティ的な人が、そういう「日の丸半導体」みたいなストーリーに酔いたいと思っているという『切実なニーズ』に目を向けることではなかろうかと思う。
で、そういう「気持ち」は馬鹿にしたもんでもなくて、そういう「気持ち」があるから、広い範囲の人心の安定と日常生活における現場的優秀性が保たれているという「儀式的価値」みたいのもあるからね。
でもそれが、「全然意味ないところでやってる」と、ほんと次々公的資金が浪費されるだけに終わるんで。
このリンク先の記事のような、
「ちゃんとやる意味ありそうな部分」を、グローバリスト側の日本人が現地現物に詰めて行ったところ
に、
「日の丸●●事業」的な、そういう「感情を巻き込む流れ」を起こしていくことができれば、エルピーダみたいなことを「しなくちゃいけなくなる空気の流れ」自体が消えて行くはず
で。
日本において「現場的優秀性」を消さない形で、「大域的な合理性」を効かせて行くには、そこがイシュー(最重要の課題)だと私は思っています。
要は、「お役所」とは関係ないところに、日本人好みの「公(おおやけ)」的な義憤を発揮させられるようなムーブメントが確実に生まれてくれば、「お役所」に対して過剰な権力を与える流れは根っこの方から枯れてくるだろうってことです。
その流れを、「結構マジな読者にも、普通の関西人のおばちゃんにも読んでもらえる形で」書くことによって、広範囲に起こしていくキッカケにできるんじゃないかと思って書いたのが、
「21世紀の薩長同盟を結べ(出版社のサイトで試し読みができます)」
なんですよ。
そういう「空気レベルのこと」にアクセスしようとするのは、やっぱ「現場最先端で頑張っておられる人」にはかなり難しいと思うけれども、でも実際にはそこが一番「ラストワンマイル(最後の一歩)」的に、最終成果の大きさに決定的に関わってくる部分だと思うんですよね。
特に日本においては、アメリカみたいに「客観的に整備された知性」に対する共有された信頼感がシッカリ確定してない部分があるんで、そこの「空気の醸成」がうまくいかないと、とにかく現場が孤立無援の中でただただ頑張る・・・・ってことになりがちなんで。
そこに「新しい公(おおやけ)感」が空気として成立してないから、日本社会に通用する印籠が「国と官僚」しかなくて、だからこその現状の色々の齟齬があるんだと思うんですよね。
そこを繋ぎたい。
っていうかそのためにやってきたのが、友人たち全員に「なにやってんの(笑)」って言われまくったような、謎の10年間の探求生活だったと思うし。
この記事に書いたように、「最前線の切実な問題をサポートするための売文家でありたい。」と改めて思った記事でした。