ルネッサンス的社会ビジョンと、「わはははは!って笑えるオッサン」の凄い可能性。

はやいもので超久々の実家長期滞在も今日で終わりで、なんか嬉しいようなさみしいような気分です。

何日かブラブラ涼しい時間に散歩したりしたんですけど、そしたら高校時代の合唱部の先生にばったり道で会って、彼が今指導してるアマチュア合唱団の練習に二時間参加することになった・・・とか、どんな奇跡的確率やねん!みたいな体験もした。

16世紀のパレストリーナっていう作曲家の曲だったんだけど、凄い良かったなあ。

これ→  Sicut Cervus

ある意味「素朴」な時代の曲なんで、聞いて楽しい曲かどうかは、好みが分かれると思うんですが、「凄い演奏して楽しい曲」っていう感じで。

「ジョジョの奇妙な冒険」の荒木先生もイタリアルネッサンス芸術には凄い影響受けてるらしいですけど、そのジョジョが好きってだけじゃなくて、美術で言ったらミケランジェロ、音楽はパレストリーナとか、なんかとにかく「ルネッサンス」って凄い良いなあ!って思う自分を発見した。

なんかね、各パートが、凄い「勝手に自分のメロディを”謳歌”してる」んですよね。

無理に一個の音楽にしようとしてない。

でも、やってると、色んなところで掛け合いが発生してて、全体として見ても、それぞれ勝手にやってるようだけど、調和の取れた連動性が自然に生まれてくるんですよ。

やってると、自分が歌ってるメロディ的に「ここでぐわああああああっと来たいもんやな」と思うと、そういう「ここで音量膨らましていきたいなあ!」っていうのを、「となりのパートでも”となりのパート的な事情によって”同じように思って」るんですよね。

で、「主旋律と伴奏」的に「主役を盛り上げるためにみんな頑張る」って感じじゃなくて、「各人にそれぞれ内在する”自分自身を謳歌”したい欲求」みたいなのが、ある意味「バラバラのまま」なのに勝手に同期して刺激し合う流れの中で「ぐわあああああ」って湧いてくるんですよ。

そういう時に、指揮者が「ちょっと」だけでも刺激してやれば、熟した果実が落ちるように、泉が湧き出るように、自然に何か「ぐおおおおおおお」って来るものがあるんですよね。

ああいう・・・・どこにも「無理」がないし、「個人への制約」とかも一切ないのに、全体として「調和」が取れた「一体化した盛り上がり」があるっていうのは・・・・いや、ほんと「幸せ」ってこれだろって思います。



専門的には細かい例外はあろうと思うんですが、ルネッサンス以前の欧州の音楽は、基本「みんなで同じ旋律」っていう時代で、ルネッサンス以降は、だんだん今の音楽みたいに「主役と伴奏」みたいなのが分かれてくる感じなんですけどね。

この時代は、

「みんながそれぞれ主役!」

って感じがあってそれがいいんですよね。

こういう「ポリフォニー(色んな旋律が同時に流れる音楽)」って、この時代以降なくなったわけじゃなくて「対位法」として完成されて発展していくんだけど、ただ、個人的には、どんどん洗練されて完成されていった後世の、特にドイツ圏の作品よりも、「手法として完成される前」のイタリアルネッサンス期の作品の方が、凄く本能的な形でお互いが連動していて、演奏していて凄く「自然」な気持ちになるな・・・って思ったりします。

これ↓が歴史学的に本当かどうかは知らないけど、その時高校の先生いわく、

「この時代は理論が未整備だったから、ある意味適当に作ってあるんだけど、それによって”四捨五入されてない”ような本能的な連動も実現されてる気がする。聞き手を脅すような”演奏効果”のためじゃなくて純粋に音楽の喜びのためにあるようなコアの部分があると思う」

みたいなことを言ってて、それは「凄いわかります!」って思った。

ともあれ、高校時代はこういうのばっかやってたと言ってもいいぐらいだったんで、「本能」が目覚めるような気持ちだった。

こういう、

「バラバラに各人好きなことをしている、謳歌している」って感じでありながら、全体としても「調和」が取れてる

・・・・っていうのが、やっぱり自分が何か言論的な活動をするときに「目指したいビジョン」そのものだな・・・・って思ったんですよね。

これ、別に音楽だけじゃなくて、多分サッカーをやってる人とか、何をやってる人でも、自分にとっての「理想」というのを浮かべた時に、「そうだよな」っていう「原型」みたいなのが浮かぶ人が結構いるんじゃないかっていう「ビジョン」だと思うんですよね。

バラバラで自由でありながら、調和も取れている。お互いを濃密に「読み合って」連動している。

みたいなのはね。



で、こういう「バラバラに謳歌してる」っていうのと、「全体がただのカオスじゃなくて一つの音楽になっている」っていうのを、社会・経済レベルで実現するにはどうしたらいいのか?っていう話になるとね。

前提段階として、「規制緩和」「自由市場」的なものが、必要になってくる部分はあるんですよ。ある種の人には直感に反するようなことを言うようですけどね。

「規制緩和」っていうのは、セセコマシイ叩き潰し合いを加速するためじゃなくて、「本来つながるべき繋がり」が、色んなボーダーを超えてガンガンつながっていくようにするためにあるんですよね。

時代の変化によって、「ある狭い範囲内だけで濃密な連携」だったものが、「より広範囲を巻き込んだあるべき連携」へと動いて行ってるわけですから。

本来「もうそこに存在する意義が失われた縁」みたいなのを固定化してしまって、やってる本人も「窮屈だなあ」と思いながらイデオロギー的な理由でそのままそこに居続ける・・・・みたいなのは、最大限右翼的に考えたってあんまり「国益」にもかなった話じゃないんですよ。

ただ、これね、大事なのは「あるべき連携」を模索することであって、「手段」にすぎなかったはずの「規制緩和」自体が「目的」になってきたらちょっとヤバイことになってくるんですよね。

なんか・・・人間、「バラバラになれさえすれば幸せになれる」ってわけじゃないからね。

「バラバラに自分の人生を”謳歌”しながら、全体として調和が取れてる」

って感じが幸せなんで。

今、ある程度「成功」した、あるいは「充実」して生きている人たちの大部分が、かなり必死に「俺はアタシは幸せなんだアピール」的なことをしなくちゃいけなくなってるのも、「調和感」から外れた「個人の自由」だけを追求すると、心の底が薄ら寒くなってくるからそういう感じが実際にはあるからなんだと思うんですよ。

でさ、これ「全体としての調和」っていうと、ちょっと価値観によっては「嫌ぁな」感じのことを言ってるように聞こえちゃうし、僕もちょっと言うの嫌なんですけど、でも、個人ベースでみると、

「全体としての調和」の方じゃなくて「謳歌」ってところが大事

なんですよ。

自分の人生の、自然な延長を思いっきり「謳歌」してたら、出会うべきタイミングで出会うべき人に出会っていって、それが相手の人生にとっても「謳歌」につながるタイミングで・・・・みたいなね。

で、「この二小節だけ掛け合い」したらまたギューンと離れていくみたいなね。いやほんと、ああいう音楽は「凄いやってて楽しい」んですけど。

「調和を取るために個人の自由を縛る」

っていうよりも、

「ミクロにミクロに見ていった時の、個人に内在するものの自然な延長」



「謳歌」

するように持っていったら、

「全体の調和」

の方は

「後からついてきた」

みたいにしたいし、そうじゃないと結局規制緩和なんか「やらない方がマシ」なことが多いってぐらいなんですよね。

で、「規制緩和や自由市場」は、

「個人」っていう最小単位が自分の人生を「謳歌」するための「手段」として必要

なんですよね。

でも、実際には、かなりその「謳歌する力」を限定する方向に限定する方向に動いてしまってる現実もあるんで、だからこそ揺籃期としての「共同体主義者の回りに成立している世界」は現時点で絶対必要なんですよ。



まあ、とはいえね、色々実際には難しくて。で、「規制緩和論」とかリバタリアン(自由至上主義者)みたいなのが現時点で歴史的に必要なのは、「広域的な連携」を取れた方が人類は「幸せ感」が”最終的には”増すんだけど、そういうのは「生活者実感」からは程遠いことが多いので、ある程度「極論を言う人」によって流れがドライブされることが暫定的に必要だからなんですよね。

そういう「極論言う人」がいないと、人間は異物と共存するのがちょっと嫌って気持ちは常にあるんで、どこかでいきなり「人種差別的なファシズム政権」みたいのにギューンと戻っちゃう部分があるんですよ。

だから、「極論すぎるぐらいのものが現状必要とされてる事情」みたいのもあるんですよね。

でも、今は「人間の自然な連携」自体が寸断されすぎて、「リアルな幸せ感」がだんだん摩滅してきてますからね。

グローバリズム自体に対する反感みたいなのも静かに溜まってきている中で、でも引き返すわけにもいかない・・・ってなった時に。

その「怨念」が、「全てぶっ壊しちゃいたい!」という方向でまとまって暴走しないように・・・っていうタイミングで、むしろその「システムに、ナマの豊かさをくりこんでいく、内側から食い破っていく」形で、グローバリズムを否定しない中で、

「全体の調和」

を生み出していく・・・・っていうのが、今の日本の目の前の課題だし、それさえできりゃあなんも心配いらない、マジで日本は世界の希望になれるぜ、って世界なわけですよ。いつも言ってるとおりね。

だからね、「規制緩和的自由市場信奉者」もね、「アンチグローバリズムの共同体主義者」もね、最終形としたら、結局「ルネッサンス音楽みたいな理想」「バラバラに人生を謳歌しているようで調和も取れてる」っていう理想を目指しているんですよね。

で、本当に「自由にしたところにあるべき連携を生み出す」には、「共同体主義者の遺産」が絶対必要だし、「共同体主義者」だけでは、狭い範囲に人々の本来的可能性を縛り付けてしまうので、全体としての規模感が一気に縮小して、「恵まれた存在」と「それ以外」が強烈に分離してしまうからね。

だから、片方だけじゃダメなんすよ。

そういう「共同体主義者」を「薩摩藩士」とたとえ、「個人主義者のリバタリアン」を「長州藩士」とたとえ、その両者の「現実的連携を模索」しなくちゃね・・・・っていうのが「21世紀の薩長同盟を結べ」なんですよね。

プロフィール欄や自己紹介ブログを読んでもらったらわかるとおり、その本作るためにやってきた「準備」の苦労たるや相当なものなんで、ぜひお読みいただければと思っています。



ところで、昨日久しぶりに三宮のジュンク堂とかぶらついてて、色んな「共同体主義者」な人の本を買ってきたんですよね。

どんどん沈む日本を、それでも愛せますか?by内田樹氏&高橋源一郎氏

藻谷浩介さん、経済成長がなければ、僕たちは幸せになれないのでしょうか?by藻谷浩介氏&山崎亮氏

なんか、両方とも、そもそも「タイトル」が受け入れられない感じなんだけどね(笑)

でも実際に読んでみると、最初はかなり理性的に漸進的な脱原発派だった人が、ある程度「売れるための無茶な先鋭化」に巻き込まれるうちに、変な陰謀論とかに巻き込まれてオカシクなっちゃう・・・・みたいな構図と、かなり似てるものがあるような気がした。

両者とも、別に「経済発展がいらない」とも思ってない。ただ「中身がない経済発展じゃダメだろ」と言ってる。数字だけ積み上がっても幸せになれないし、数字だけ積み上がるような経済発展なんか、ちょっとした状況変化で崩壊するようなバブルに過ぎないんだから・・・っていうことを言ってる。

でも、それを商品としてパッケージするとなると、なんかこう「アンチ経済成長」みたいになっちゃうのが、なんかなあ・・・・と思った。



ただ、なんでパッケージにするときに「アンチ成長主義」になっちゃうかというと、それは「共同体主義者の現段階で描く理想」っていうのが、「一部の特権的立場にいる人だけに現時点では可能なものにすぎない」っていうことを、彼らも本能的にわかっているからじゃないかと思いますね。

内田氏が自宅圏道場を建てたときの話、「ぼくの住まい論」てのも読んだんですけど、その話とか、あと 藻谷浩介氏と山崎亮氏の本で事例として展開されてるような「経済」がすごい良いなあってのは超同意なんですね。

でも「共同体主義者」が、身の回りに「凄く良い経済」を成立させられてるのは、それだけの「幸運」が先にあるからなんですが、それは今どんどん消えていく中での「最後のかがり火」みたいな形で「特権的に付与」されてるものなんですよね。

だからこそ、そこに成立しているものを、より広く展開して「規模感を消さずに実質の豊かさもくりこんでいく」には、特別な算段が必要になってくるんですよ。

詳しくは「21世紀の薩長同盟を結べ」をお読みいただきたいんですけど、このブログでも何回も言っているとおり、「デイリーなサクサクした決断システム」と、「超長期的な骨太の志向を時間かけてまとめる流れ」を、「交通整理」して両立させることが必要になってくるんですよね。

そこがぶつかりあってるママだと、結局「中身読んだら最後の理想は一緒じゃね?」っていう両者が延々と罵り合ってるだけになるんでね。

実際の「経済運営」から「深い認識」が次々と排除されていって、「とにかく規制緩和して競争すりゃなんでもよくなるんだ」的なまでに原理化した人間しか関与できなくなっちゃったりする。

で、逆側に、「共同体主義者」よりもさらに先鋭化した「ザ・右翼」みたいな言論が盛り上がってしまうみたいなことになるんですよね。

それでは良くない。

だから、「完全な極論的理想」を「論争」段階でぶつけ合うんじゃなくて、この記事で書いたような、「暫定的な大枠の決断と、漸進的な理想の実現」っていう「ど真ん中の流れ」に、「両側の参加者」を引き寄せてくる動かし方が必要になってくるんですよ。


まさに、「21世紀の薩長同盟を結べ」が必要な時代なんですよね。




ところで僕、内田氏の本は今まであんまり多くは読んだことなかったんですけど、実際読むと、僕と「凄い似たこと言ってるな」って部分も多いですね。例によって最後の1割ぐらいの結論が毎回逆を向くって感じなんですが。

細かい言葉づかいとかエピソード選びとかがやたら似てるなーと思った。いや向こうの方が現時点じゃ圧倒的に有名なんで、「似てる」っていう言葉の使い方が逆かもしれないですけど。

高橋氏との対談本、ロッキング・オン社から出てて、渋谷陽一さんと3人対談みたいになってるんですよね。

で、最近は読んでないけど一時期ロッキング・オンジャパン毎号読んでたってぐらいなんで、凄い「雰囲気」が良かった。

吉井和哉氏と渋谷陽一氏が対談してるときみたいな、「わははははははは!」とか大笑したりするあの感じって、僕は無条件に「いいなあ」と思っちゃうタイプなんで。

「呵呵大笑」って奴ですね。古い言葉ですけど。

この前ブログに書いたけど、今回、彼の道場に会いにいくとか行かないとか、担当編集者の人につないでもらったりしたときに思ったのは、「こういうオッサンがいるっていいなあ」的なことだったんですよね。

なんか、

「あんた間違ってるぞ!」って「言わせてくれるオッサン」がいるって幸せなことだなあ

・・・と思った。

で、「わはははは!」になるにしろ、「なんだとてめー!」になるにしろ、後腐れない感じになれる余地がある感じがあるのがいい・・・・みたいな。

「理論側」の人はこうはいかないですからね。どこまでも議論することが必要になる。

でも、「共同体側」の人は、「オッサン結構好きだけど、言ってることは古いぜ」って「言わせてもらえる」ってとこあるなあ・・・って思って、それがすごい新鮮だった。

こういうのって、良い意味の一種の「甘えあい」「支えあい」だと思うんですよね。相互依存っていうか。

自分の父親は、結構「理論派側の人間」で、完璧でありたい人だから、彼の存在を否定しないように、包含するように自分の立場を立ちあげていこう・・・・って思うと、すごい色々と気を遣う部分もあったりしてたんですけど。

でも、内田氏的な「共同体主義者のオッサン」って、「オッサン言いたいことわかるけど古ぃぜ!」って「言わせてもらえる」的な・・・・なんかそういう存在感があって、そこがすごい自分にとって「新しかった」っていうかね。

「言って」も、「論戦」になることなく、かつ「否定しきっちゃう」こともなく、「わははは!うっせー俺はこうなんだ!!」みたいに

”開き直ってくれるありがたさ”

ってのがあるなーと思った。

そうなっていてくれないと困るんだよな。

前も書いたけど、「薩長同盟的ポジション」が大きく育って行く時に、過渡期的に「バランスが崩れ」ないように、「共同体側」の人に、「武士も食わねど」をちゃんとやり通してもらいながら漸進的に移行していくことが必要になるわけなんで。

何度も書いてる高校時代の失敗以来ね、やっぱこういう「父性的存在」をうっとおしいからといってネコソギにすると、社会の安定とか密度感とか、とにかく凄いコストを後から支払わされるな・・・・ってのが僕には染み付いてるんですよね。

だから、「アンチ・今の体制」みたいなのじゃなくて、「今の体制を”包含”する新しい視座」を立ち上げて、それに巻き込んでいくようにしないと、日本はどんどんジリ貧にしかならない・・・・ってずっと思ってやってきたんですけど。

でもさ、これをやり抜くってことは、色んな「おじさん」を「包含する視座」を模索しつつ「否定しすぎないように気を遣う」みたいなことを全方位的にやり続けるってことなんで、ほとほと疲れ果ててた部分もあるんですよね。

もういっそ、単純な「アンチ●●」に戻ってやりたいと何度思ったことか・・・みたいな。そしたら簡単に「単純明快な売れる言説」にまとめられるようになるしね。

でも、内田氏とか高橋源一郎氏とか渋谷陽一氏みたいな、

「わははははは!」っていうオッサン

がいると、「オッサン古いぞ!」って「言わせてもらえる」っていうね、そういうのがいいなあ!と思った。

それによって、だんだんこっちとしても、「自分の立論の一貫性を損なわずに、かつあんまり角が立たないような形で」主張していけるようになって来てる気がする。

でさ、僕みたいな人間が「オッサン言いたいことスゲーわかるけど古いぞ!」って言って、彼らが「わはははは!」って言うのって、「彼らの方にとっても必要なこと・楽になれること」じゃないかと思うんだよな。勝手なことを言うようだが。

彼らだって、徐々に世の中の状況的に「全方位的な義理の完全さ」を求められるようになってくるわけで、それによってだんだん窮屈にもなるし、タイトルが「沈む日本を・・・・」的になってくるのだってその「窮屈さ」が原因と言えるわけなんで。

潜在的に本当の意味で凄い彼らに気を使って立論してきた僕みたいな存在に、「オッサン古いぜ!」って言われて「わはははは!」って言う役割って、彼らにとっても有意義な「広がり」をもたらすんじゃないかな・・・・と思ってます。

今の「オッサン」は昔と違って、常に「下の世代に対してどういう立場でいればいいのか」を物凄く悩んでると思うしね。自分自身が「理由なき反抗」をしてきた世代だけど、視野が広がってそれなりに調和をもたらす役割もしなくちゃいけないし・・・・でもなあ・・・みたいな不安定さを常に抱えてるので。

まあ、彼ら本人だけの問題じゃなくてね、今までも、結構ああいう世代の人で僕の活動に参加してくれてる人もいて(技術新事業を立ち上げたエンジニアのおじさんも、ちょっと下だけどその世代だし)、でも僕の中で彼らとの関係・・・・って物凄い神経使う部分だったんですよね。

否定しすぎてもいけないだろうし、でも徐々に方向転換して欲しいし・・・みたいなところで。

そういうところに、

「あ、言っちゃっていいんだ、”言わせてもらうという甘え方”をさせてもらおう」

みたいな感じが持てて良かったと思っています。

でもさ、内田氏と高橋氏の対談本、「戦後レジームが終わった後の、新しい視座が絶対必要」で、今の時代にマルクスがいたら絶対それでも右肩上がり幻想を捨てない新しいパースペクティブを出してくるんじゃないの?みたいなこと最初から最後までずっと言ってるんだよな。

内田先生、もしこのブログを読まれてたら、お忙しいとは思いますが既に多分二冊献本されてる「21世紀の薩長同盟を結べ」を本棚から発掘して、書評ブログ書いてくださいよ!

「This is it!!!」

だと僕は思ってますよ。

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