オリンピックとダークナイト・ライジング、「共有できる物語」が『補完』する世界。
オリンピック、子供の頃は全然興味なかったけど、この年になって凄い楽しいなあと思うようになりました。
競泳の男子のリレーで銀メダル取った選手のうち、北島康介選手以外の3人が、北島さんには内緒で
「康介さんをメダルなしの手ぶらで日本に返すわけにはいかねーだろ」
って言ってたって話には、なんかほんとグッと来たな。なんか。
どこが、とは言えないんですが、自分の心の一番弱い部分にグサッと来た感じだった。なんか泣けた。
似たような話題として、内村航平選手が不調に苦しんだ後、団体決勝の跳馬で会心の演技をして笑顔を見せた時に、ツイッターとか2chで
「やっと笑ってくれた!」
って言ってる人が沢山いたのが面白かった。
なんか・・・彼がふさぎこんでると、こっちも暗くなっちゃう的なね。
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なんかこの例にかぎらず、今年のオリンピックって、「チームワーク」とか「日本のため」とかが、「あまり無理ない感じ」でストレートに出てきている感じがしていて、それが凄く良いなあと思っているんですよ。
ちょっと前までは、いつでも「国のためか?個人のためか?論争」みたいなのがずっとある感じだったじゃないですか。
僕が子供の頃ぐらいのオリンピックの時には一番そういう感じだったと思うんですよね。
多分、もっと前の、東京オリンピックとかね、東洋の魔女とかね、そういう時代は、もっと「密着」してて、「負けたら帰ってくるな、死ね!」ぐらいの世界があったんだと思うんですよ。
で、それに対する「反省」としての、「個人が楽しむのがオリンピックで、妙にナショナリスティックなこと言うのはダサい、因習的な考え方」みたいな方向に一時期行ってたんだと思うんですけど。
そういう「風潮」自体は結構今でもあるんだと思うんだけど、そういう風潮の中にありつつも逆に選手たちの方から自発的に「日本のため」とか「チームワーク」とか言う感じの発言が増えているのが、なんかいいなあと思うんですよね。
個人の方だって、結局「自分の成功をみんなが喜んでくれたら嬉しい」はずだしね。「抑圧的なのが嫌だからといってバラバラすぎる社会も嫌」っていう世界があるわけですから。
そこの間に、適切なバランスが生まれて来ている感じがあって、それがとても良いなあと思う。
それによってパフォーマンスが減退してしまうんじゃなくて、むしろ強化される流れがあってそこが良い。
もちろん、物凄く個人主義的な力の発揮の仕方をしている人が、過渡期的に力を発揮できなくなっている流れみたいなのも同時に存在してるのかもしれないけれども。
ただ、内村選手の活躍の仕方とかを見ていると、「個人として活躍」してるんだけど、それを「みんなが盛り立てたいと自然に思っている」っていう形での、「新しい個人の活躍の仕方」っていうのも見えてきてる感じがするしね。
「抑圧的でない集団の力」「個人を活かすための集団の力」みたいな方向が見えてきているのは、日本にとってあらゆる意味で大事なことだと思う。
それを、経済レベルでもちゃんと具現化できるようになれば、それは日本にとって良いだけじゃなくて、グローバリズムを新しい段階に引き上げる希望になるよ。
「こういうチームワークの文化」を培うためにこそ、日本はこの20年間迷いに迷い、悩みに悩んできたんだな・・・・って言える世界にしたいですね。
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関係ないようで関係ある話なんですが、話題のバットマン映画最新作、「ダークナイト・ライジング」見てきたんですが、僕は結構好きな感じでした。「牢獄」や「継承」がテーマなところが、ジョジョ第6部みたいだった。
深刻なネタバレにならない程度に(そういうの神経質な人は読まないほうがいいかも?)書きますけど、世界のどこか僻地にある、巨大な穴の底にある牢獄が出てくるんですよね。
で、その穴の底の牢獄からは、上向くと空が見えてるの。で、断崖絶壁をよじ登りきったら、脱獄できることになってる・・・のかな?
でも、過去にそこを登り切れた人間は一人しかいない・・・・っていうような、まあそういう話だったんですけど。
主人公のバットマンは映画の真ん中あたりでその牢獄に入れられちゃうんだけど、ゴッサムシティーの滅亡を止めるために、なんとか脱獄しなくちゃいけない!ってなって絶壁登りに挑戦するんですよ。
で、沢山いる囚人たちが、バットマンがよじ登っているのを見上げながらワイワイ言ってて、その国の言葉だから最初は何言ってるのかわからなかったんだけど、最後バットマンがついに脱獄に成功するときに、その囚人たちが
「応援してくれてる」
ってことを知るんだよね。
話としては、「成功した理由」は、「命綱をつけない」ことによって可能となった、「死の恐怖を知っているからこその登り方」みたいな、「飛天御剣流天翔龍閃」みたいな(笑)東洋風の理由づけをされてたんだけど。
見てた僕は、その囚人たちが「応援してくれてる」ってことが凄く意外でびっくりで、むしろそっちの部分に感動して「いい話だなあ」と思ったんだよな。
もう一生そこを出られない囚人からしてみれば、穴を抜けだそうとして挑戦できるだけの力を持ってる存在っていうのは、まあ色々と羨ましい、妬むような、「引きずり下ろしてやりたい」と思うような部分があるものかな?っていうような、ヤサグレた心性が自分の中にあったんだな(笑)
だから、みんな「やれるもんならやってみろ」って言う感じではやしているけど、落ちて死んだらむしろ大喜び・・・みたいな感じになるのが普通かな?みたいに思ってたんだけど。
でも、そこで「登る(ライジングの題はここから来てるみたい)」ことを「みんな結構真剣に応援してる」って感じが、いいなあと思ったんですよね。
なんか、ある意味「本当に一生そこから出られないと覚悟した存在」ならば、そういう「応援したい気持ち」が湧いてきたりもするのかな?とも思った。
これ「牢獄」の話で言うとヒドイ話に聞こえるけど、「自分の人生に真剣である」「自分がやるべき仕事に集中できている」というような意味で言うと、色んな人が「自分の本分」を具現化できていると実感できている社会においては、「他人を引きずり下ろしたい嫉妬」は消えていくんだと言えるかもしれない。
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ともあれ、こうやって「ある人の成功をみんなで応援できる」って、凄く大事なことだと思うんですよ。
そうやって、「みんなのための個人の成功」を大きく実現できないと、経済としても全体のパイがどんどん縮小して誰も幸せになれないみたいなことになるからね。
だから、「みんなの思い」を引き受ける形での「個人の成功」っていうのを、大きなムーブメントとして共有できるような、そういう「風潮」って物凄い大事なんだよね。
経済についての、経済学的な分析は、それ自体は結構有効な示唆を与えてくれるんだけど、その言説のトーン自体がこの「風潮を生み出す力」をメチャクチャにしちゃうので、一部のエッジが効いた個人が成功することはあっても全体の規模はどんどん縮小気味になっちゃうんですよね。
自己紹介の三連記事でも書いたとおり、そこの部分を克服した「原生林のような豊かさ」を経済にもたらすにはどうしたらいいか?ってのが僕の積年のテーマなんで。
それは、「システムの運用において、いかにシステム以前の”ナマの豊かさ”を繰り込むことができるか?」みたいな話でもあるんですよ。
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今回のバットマンシリーズのもう一つのテーマは、「ルールの中でただルールに従っている存在」と「ルールを破ってでも正義を行おうとする熱い存在」との矛盾みたいなのなんですよね。
アメリカ人だって、「グローバリズム的にキチキチにシステム化された社会構成」に対しては、みんな嫌だと思ってるんですよ。それを「補完する存在」を求めている。
でも、こういう「義賊」とか「任侠」的な発想って、難しいですよね。
キチキチなシステムの暴走を防ぐようなことをしたいと思っていて、それができる存在がいても、結局その存在を「押しつぶして」しまいがちだからね。
「みんなこのシステムに従っているのになんでお前は」
っていう方向の嫉妬の気持ちが暴走しちゃうと、結局みんながみんな「我慢合戦」みたいになってしまう。
国単位みたいな大きな話で見ても、会社単位で見ても、一つの部署、一つのチーム単位で見ても、結局みんなが
「文句言われないようにする・批判されないようにするための努力」
ばっかりやって、
「みんなで協力して、すっげぇーことやってやろうぜ!」
みたいな方向の努力は全然しないみたいになると、やっぱ全体として人間の集団から産出される価値がどんどん小さくなっちゃうんで、そりゃ経済だってうまく行くわけないっすよって話になるんだよな。
そのために、「他人の成功を喜び合う形」「みんなで創発しあいながら伸びていける形」に持っていくことが必要で、そこに「共有できる物語」が必要になってくるんだよね。
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最近、もう「論争」は辞めたいと、何回目やねんってぐらい何度も思っていたことを再度思っているんですよ。
「論争」に勝っても物事は変わらない。「風潮」を変えないと。「対立する相手を論破」するんじゃなくて「協力してどまんなかの理想に動かしていく」ような言説が必要な時代ですからね。
ただ、「やることが決まってるスポーツ」とは違って、経済においてそれが実現するためには、「大域的に考えて決断する機能」と「チームワーク的な空気」との間を取り持つ特別な工夫が必要だからね。
そのへんが、次の課題って感じだと思います。今書いている本もそうだし、「21世紀の薩長同盟を結べ」っていうのは、そこの解決を目指す本なんだよな。
今回のオリンピックの日本の活躍が、そういう「転換」が、経済分野においても大きく進むキッカケになってくれたらいいなと思っています。
日本の「個人」と「集団」の間に、新しい「調和」をもたらす「共有できる物語」の力をね。