「ヒステリックな負けず嫌いさ」を卒業したい。

(なんかちょっと気持ちの整理のための独白調なことが書きたいので書きます。最初はオタクな話題から入るけど、そのうち一般的な話になると思います。)

「ジョジョの奇妙な冒険」のカプコンが出してる格闘ゲームがあるんですよ。

僕が大学生ぐらいの時にゲーセンで出て、僕は凄い好きだったんですけど。

でも、下手なんですよ。好きで結構やってたんだけど、全然うまくならない。僕の家には子供の頃ファミコンがなかったんで、マジなゲームキッズ育ちの人と比べると、なんかもう根底的に才能がないところがあってですね。

でも、たまーに勝てるっていうのが、楽しいなあ・・・っていうところもあって。

ほとんど勝てないから、たまに勝てたらそれが凄い記憶に残るみたいな。

大学時代に、京都の、白川通今出川から西に坂を下った北側にあった小さなゲーセンで深夜、同じ京大生っぽい男と対戦して、僕は「ジョセフ」っていうキャラクターを当時は使っていたんですが、「飛び込んでから何発か当てた後キャンセル・ハーミットウェブで吸い込んで波紋のビート!」っていう、僕としては成功させるのが結構シビアな連続技で、負けかけてたんだけど最後に逆転してチャカを使ってる相手に勝てた・・・・ってのを今だに覚えてるぐらいで。(その後その男はバン!とゲーム台を叩いて帰っていった 笑)

でもね、ゲーセンだと、お金かかるじゃないですか。大学時代とかそんなにお金沢山持ってたわけでもないしね。

だから、「負けたくないなあ」ってずっと思ってたし、できれば対戦もしたくないみたいなところがあって。


で、実は数週間ぐらい前にね、そのカプコンのジョジョ格闘ゲームが、プレイステーション・ネットワークで配信されたんですよ。PS3でプレイできる。

なんか・・・もうそういう年でもないだろ・・・・という自己ツッコミはありつつ、ダウンロードしちゃってね。で、毎日30分ずつぐらいやってるんですけど。

これでもね、CPU相手のストーリーモードという、連続してストーリー通りに戦っていく設定のヤツとかではね、ちゃんと最後まで行けるぐらいのレベルではあるんですよ。

でも、ネットワークを通じて対戦ができるんですけど、それだと全然勝てないの。全国にいる他のプレイヤーと、ネット通じて対戦できるんだけど。

たまにユーチューブとかに上がってるプレイ動画とかはレベル高すぎですけど、それに比べると、今ネット対戦で出会うプレイヤーはそれほど「無茶凄い」ってわけじゃないと思うんですけどね、でも全然勝てないんですよ。

でも、たまーに、勝てる。その「たまーに」勝てるのが凄い嬉しいなあ・・・と思ったりして。人生であんまりしたことなかったガッツポーズしちゃったりする。

まあだからといって必死に練習して技の精度をあげよう・・・とかまでは思えないんですけどね。

ただね、この「負けるのが嫌じゃない」どころか、ちょっと「負けるのが嬉しい」ぐらいの感覚があるのが、凄い自分的に面白いなあと思ってるんですよ。


僕は子供の頃物凄い負けず嫌いだったんですよね。

家族でやってるボードゲームとかでも負けたら泣くぐらいの(笑)

で、それ以降、結構色んな状況で、「負けたくないからそもそもやらない」とかね、そういう選択をしがちな生き方をしてきたなあと思わないでもない。

なんか、ボードゲームで負けたら自分の人生が崩壊するんじゃないかぐらいの、「負け」に対する恐怖心があったみたいなところがあって。

でもそんな人生ツライですからね。しかしツライけどやめられないみたいなところがあったわけなんで。

ただ、最近になって多少の心の余裕が持てるようになってきて、で、たまたまその時期にダウンロードしたゲームで負けまくって、で、それがなんか、「いいなあ」って思う自分がいたりするのが、なんか、いいなあと思ってるんですよ。

どこが?うーん、よくわからない。


関係ないようで、関係あるかもしれない話をすると、ウチの母親は、結構ヒステリックな部分があったんですよね。僕が子供の頃は。

凄い早い時期に、「リトミック」っていう、まあ「自由な音楽的表現力を伸ばす」的な発想の教育法に着目して、自宅で近所の子供相手にピアノとリトミックを教えてたんですけど。

なんつーか、そういう「開明的教育理念」と、「ムチャクチャ厳しい日本の家で育った自分の地」が全然統合されてなくて、その混乱をそのまま子供にぶつけまくってたところがあってですね。

で、左翼風の「開明的教育理念」っていうのは、一歩間違うと、本当に「教育を受ける側のため」というよりは、「教育する側の、”押し付けたい欲求”の発露」になりがちなところがあるじゃないですか。

その人の人生の欲求不満を、代理で果たせと託される・・・・みたいな構造になりがちで。

ある意味において、物凄い「鋳型にはめる」みたいなことが巧妙に隠蔽された形式になってるところがあったりして。

この前、秋葉原事件の加藤智大氏の本についてのブログを書いたんですが、あの本読んでて、「母親が物凄い教条主義的で怖いな」って思ったんですよね。

で、見た感じは全然違うけど、自分の母親に似てるなあ・・・・って思ったところがあったんですよ。

まあでも、実際にウチの母親を知ってる人がこれを読んでも、全然そうは思わないと思うんですけどね。特に今は凄い安定してる人格になってるし、僕が子供の頃にあったヒステリックな部分は消え去っているところがあるので。

それに、子供の頃も、その「見た目」や「やってること」は、加藤氏の母親とは違ってたと思うんですが、根っこのところにある「かくあらねばならない」的な強烈な何かが似てるっていうか。


でね、「異常な負けず嫌い」で、自己防衛のために色々と自分の行動を制限したりとかね、そういう感じと、この「ヒステリックな部分がある母親」って、なんか因果関係がある気がするんですよ。

それを、なんとか断ち切るというか、「卒業」したいなあ・・・って思ってるんですよね。最近特に。

で、一日30分、ジョジョの格ゲーでネット対戦して、負けたり負けたり負けたり負けたり負けたり勝ったりする・・・・っていうのは、僕にとって凄いセラピー的効果が感じられるなあ・・・って思ってるんですよ。

やったことないけど、麻雀の楽しみってそういうところがあるんじゃないかと思うんですけどね。勝ったり負けたりする・・・・のが楽しい・・・みたいな。

それは、自分が子供の頃に母親がヒステリックになってまで「伝えた何か」に対して、まあ、「宿題を片付けた感」が最近出てきたということかもしれない。

ある意味、自分がやっている仕事のすべてが、その「ヒステリックさに対する解決策」として形作られてるなあってことも感じるしね。

もう、お願いですからコレで成仏してください的なところがある(笑)


勿論、子供時代に自分が受け取った、そういう「根本的な発想」は凄く今の自分を形作ってくれているし、それには感謝してるんですけどね。

ただ、そういう「左翼風の開明的教育理念」みたいなのから、その「根底的な良さ」は消さない形で、でも無闇に「教条的」な部分は抜き取っていくような、そういう立ち位置を模索したいな・・・・というのは、子供の頃から本能的にはずっと思っていてですね。

このブログや本でずっと模索しているような、「ど真ん中」に集まる感じっていうのは、どっちがわにもある「無駄に教条的な部分」を排除して、「実質的な本当の自由」みたいなのを社会に行き渡らせたいなと思っているからやってることなんだと思うんですよね。

で、その「純個人的なテーマ」と、「職業」が一致するところまで来れたんで、もう後はその「仕事」で晴らしていくから勘弁してください、と思おうとしているのかもしれない。

それに、僕のこの「純個人的なテーマ」が、事実として「職業として成立」してしまっているということは、こういう「悩みの構図」にハマりこんでいる人は、今の日本に凄く沢山いるってことなんじゃないか・・・とも思っている。

なんか、社会とか経済とか経営について文章を書いているわけなんだけど、その裏にある「純個人的な魂のパターン」みたいな部分で「解決」してから「語り」に入らないと、結局「同じ問題の拡大再生産」になってしまうんじゃないか・・・っていうようなことを最近よく考えます。


僕は、「乗ってくる」と物凄い分量の文章が書けるタイプ・・・・だと自分では思っていたんですけど、最近は全然そうでもなくなっちゃってるなあと思ってます。

色んな作家さんが、「一日に原稿用紙X枚書く」みたいなことをエッセイで言ってたら、そのたび字数計算して、「俺ならもっと書けるんじゃないか?」って思ったりしてたんですけど。

でも、甘かったね。

特に8月9月ぐらいになってから、凄く「パーソナルな部分」と「本を書く仕事」が密接になってきて、で、どんどんスピードが出せなくなってきた。

なんか、まあ本当に「文字を書いていく時間」だけで見ると結構速い方かもしれないんですけど、ある程度の分量を形にすると、そのあと「心身がそこまで付いてくる」のに結構時間がかかるなあ・・・と思っていて。

「内容」レベルで言うなら、もう構想は凄いできあがってて、あとは書くだけだろ・・・って感じなんだけど、「出した分起きるべき心身の変化」がそれに追いつかない・・・みたいになって、ある程度ゴッソリ出してから、次の「ゴッソリ」までやたら時間がかかる。

「そんな非生産的な人間じゃダメだ」って前は思ってたんですけど、最近開き直りつつある部分もあります。

それをする「余力」が環境として与えられているならば、それを使い切ることが自分の責任だろうみたいな自己納得で(笑)

でも、そこで、純粋に「パーソナルなもの」が、「社会経済の話」とリンクして、自分の中で自然に昇華していくような、そういうプロセスにしたいと思うし、そういう風に作ることによって、日本に対して自分が一番「良い影響」を与える仕事ができるんじゃないかと感じている。


欧米由来のものっていうのは、どうしても「ロゴス」でできている分「教条的」になりがちで。

彼らは「それ」だけを考えてりゃいいので問題ないんですが、日本とかみたいに「地の密度感ある現実」を生きながら、さらに「ロゴス的な一貫性」も全部求められたりすると、板挟みで凄いヒドイ目にあうわけなんで。

でも、そういう「逃げ場のない状況」の中で、全ての「教条的なもの」をドロドロに溶かしてしまって、「すべての個人が実質レベルで気楽に生きられるように」する転換が、そろそろ今の日本で起きてもいいころだと思うんですよね。

っていう風に↑捉えると、子供の頃、母親のヒステリックさに怯えながら生きていた時の「純個人的な感覚」が、「それそのもの」として社会的な問題の核心になっているように思えてくる。

必要なのは、「グローバリズム的システムのバージョンアップ」っていうかね。「現実を抑圧するシステム」ではない、常に「本当の現実が内側に繰り込まれ続けるシステム」への転換みたいな。

そういうのが進むにはどうしたらいいか?っていう本を書いてる(実際にはこんな哲学風の話じゃなくてもっと日常感のあるテーマで書いてるんですが、その位置づけをメタに言うとするとっていう意味において)んですけど。

それは、やろうとすればするほど、自分の「純粋にパーソナル」な領域に何かを掘り起こしていくプロセスが伴っている気がする。

縦に深く入っていくような、仕事の仕方になっていて、それは結構自分的に喜びがあります。意味あることをやっている(はずだ)みたいな。

その結果できたものが、全然受け入れられなかったらどうしよう?みたいな懸念がたまに頭をかすめるんですけど、まあ、その時はその時だしね。


で、そういう「純粋にパーソナルな領域」と「職業的な作業」が同一線上に入っていくと、「無駄に負けず嫌い」になってた精神が、生まれて始めての安らぎみたいなのを発見しつつあるように思うんですよ。

ジョジョの格ゲーで負けるのが快感ってだけじゃなくて。

例えば昔は、色んな「論客さん」とか、色んな「本」に対して、心の中ですぐに自分で「反論」してたところがあったんですよね。

その人と自分がどう違っていて、こういう点でこっちの方が正しい!!みたいな(笑)

でも最近はそういうことをしなくても良くなってきた部分があって、「色々おもしろいこと考える人が世の中にはいますなあ~」みたいな(笑)、なんかそういう呑気さが漂ってきていて、これも自分的には結構嬉しい。

そうやって何かをまとめる仕事をする人が、今どこかに必要だと思うし。どうやら自分はそれをやる流れになっているみたいだし。みたいな。

「純粋に私的」だけど、しかし「社会・経済の話」でもある・・・・みたいな構築の仕方をするために、「色んな立場の人の苦労を一緒になって味わってみる」みたいなことを今まで自分はやってきたのかなあ・・・と思っています。

そうやってきた「準備」があるからできることは何か?っていうのをちゃんと突き詰めて、形にしたいです。

でもなんつーか、ほんとちょっとずつしか進まないのが自分でも歯がゆいんですけど、頑張ります。はい。

このブログの人気の投稿

ザッカーバーグのハーバード卒業式スピーチが感動的だったので日本語訳した。

Phaさん的ニートと天才は紙一重。どう使うかは社会の責任。

経産省若手資料はそんなにダメか?褒めときゃいいじゃん。