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倉本圭造と文通しませんか?・・というお誘いについて。

今までやってたSNS形式の会員組織とは別に、倉本圭造と文通しませんか、っていうサービスを始めようと思っています。ここは、その狙いや経緯などが書かれたページです。ご希望の方はよく読んでからお申込みください。




過去の著作「21世紀の薩長同盟を結べ」でも「日本がアメリカに勝つ方法」でも触れてたんですが、僕は長年会員さんを募ってSNSを運営してたんですよね。

で、つい先日、そのSNSの運営代行業者さんが夜逃げ状態になっちゃってデータも顧客情報も吹き飛んでしまうし会費は振り込まれなくなるし・・・・って結構たいへんだったんですよ(実は夜逃げじゃなかった・・・ってことが後にわかるんですが)。

この業者さんは、ミクシィ的にベーシックなレンタルSNS機能に会費徴収機能がくっついていて、毎月振り込んでくれる・・・っていう機能が手軽にワンセットになっていて、ネットの小コミュニティ運営者の中では結構使っている人もいるサイトで。

でも、こういう「ネットでマネタイズ」って、こういう中間に入る存在がなんかの理由で飛んでしまうと、ありとあらゆることが消え去ってしまうな、怖いなーと思った次第です。すっごい仲よかった会員さんとの連絡手段すらなくなっていた的な。

まあ、こういう零細家内制手工業的なIT業者さんと、グーグル先生とかアマゾン先生とかを同列に語るべきではないかもしれませんが、でもああいうのの場合でも、彼らネット界の巨象さんから見るとこっちはアリンコみたいなものなので、ふとした気まぐれでちょっと足を動かされると(契約条件とか検索ロジックがちょっと変更になると)全然知らないうちに踏み潰されてしまうなんてこともあるかもしれないな・・・・と思ってしまった。

僕は本を出してから、「自分がやっていきたいこと」と「ネットでの”不特定多数の人”と果てしなく向き合い続けること」っていうことの間に結構ギャップを感じていて、後に述べるような色んな事情からどんどんSNSを縮小して「普通の経営コンサルタント業」にシフトしてたんで、今はこういう「ネットでマネタイズ」的なものに対する経済的な依存度がかなり低くなってたんで助かったんですけど。(むしろ呑気に、”これが潮時なのかな・・・”などと諦めモード入ってた)

ネットでは、今回の夜逃げ騒動で色々と「直撃的なダメージ」を受けた人がいて、会社の登録住所まで突撃しに行ったりとか、どこで調べたのか代表さんのご実家の電話番号を入手して御父上とお話された方とかが複数いたりとか、一つの事業をやるってことの周りにある「色んな人の人生の重み」的なものを感じる事態でありました。

そういう方からの情報で、ここでは書きませんがなぜ落ちてたかの原因までわかったりしたんですが、それがわかるまでは、ちょうどその会社が運営代行している全てのSNSが一斉に落ちた日が会費徴収の締め日の前日の夜だったんで「これは計画倒産か?」って僕は思ってたんですけど・・・「夜逃げするにしても律儀な夜逃げだな!」的な(笑)



ただ、なんでこの会社のサービスを使っていたのかというと、「この会社はこれを辞めなさそうだな」って思ったからなんですよね(ただし潰れるという理由以外では 笑)

最新の技術動向には疎いかもしれない。顧客対応もまあ、あんまり良いとは言えない。サイトのデザインセンスとかも・・・などと良くない部分をあげていくときりがないんですが、自分ひとり(多分)で独自のSNSソフトウェアを開発して、で、全部自分で運営までやって・・・っていう「感じ」が、好きだったんですよ。

これを始める前は、ある結構”大きな会社”がやってるサービスを使ってたんですが、大々的に募集かけてそれを信じて乗ったのに、物凄い短期間の告知でいきなりサービス終了したんですよ。

「あ、やっぱやーめた」

ってぐらいの感じだった。いやほんとに。

信じてそのサービスに乗ったら、色んな人の感情をそこに巻き込んでいくわけですけど、それに対する想像力が全然ない人達だな・・・・ってその時は凄く思ったんですよね。あ、やっぱ辞めます・・・って時の対応が。

別に辞めたっていいというか、あらゆる人の気持ちを裏切らないなんてことは無理だし余計に不幸だから、裏切ってくれてもいいんだけど、それにしたってね、もうちょっとなんかないのかよ!という「感じ」だった。

「裏切ってしまう」こと自体は避けられないとしても、「裏切ってしまったな・・・悪かったな・・・今度やるときはそういう裏切りがないようにしよう」とかね、そういう感じで「その人の心の中に重みとして残っていく」ようなら、「未来に繋がるはず」だからまあいいかな、って思うんですけど。

全然そういう「重み」が受け渡されない感じだったんですよね。あ、やめます。バイバイ!って感じで。その後はもう自分とは「全然関係ない」って感じ。そしたら次何かやるにしても、全然その「反省」やら「思い」が活かされないから、どうせまた「なんか流行ってるし」程度で適当に手を出してはすぐに辞めちゃう・・・みたいなことになっちゃう予感がヒシヒシとする感じだったんですよね。

で、最近まで使っていた会社は、そのときに消滅寸前のSNSの内部データを自動スキャンして移し替えてくれるサービスを提供してくれて、かつ会費徴収機能もつけてくれて、「ああ、なんか、”この事業”に責任感を持ってる感じが伝わってくるなあ」と思ったんですよ。



なんか、

「日本企業にはアングロサクソン文化にはない、経営と顧客との関係の”長期的な一貫性”を大事にする文化がある」

みたいなこと、完全な真実であるかのようによく言われてますけど、ただこれって結構ケースバイケースだなあと最近良く思います。

ほんとこいつら一回売り切ったらその後どうなろうと知ったこっちゃねーって心底思ってる感じだな・・・・ってところが、最近の日本の会社の方に”むしろ多くある状況”になりつつある感じがする。

僕は結構な「愛国的動機」としか呼べないような理由から、電子書籍を読むのはソニーの「リーダーストア」を使っていて、既に買った書籍やら漫画やらがソニーのリーダーストアアカウントに溜まっていってはいるんですけど、正直これ明日にでもソニーは辞めるんじゃないか?と結構ビクビクしてます。

「いっぱい買ってくれたのに悪いけど、もう読めなくなっちゃうよ!ごめんね!(てへぺろ)」的な。

それに比べると、あんまり個人的には好きじゃない(が、あまりにサービスの完成度が高すぎて使ってしまっている)アマゾン先生とかは、そもそも「責任持てることしかしない」的なところがガッチリあるから、「まあ、辞めないだろうな」ってところがある。

グーグル先生のサービスに個人情報をやたら握られてる時代ですけど、でもまあ、別に俺テロリストじゃないし、機械的に読み取られるんならまあいいかなあ・・・それなりに方針持って扱ってくれるだろうし、そもそもこの人達これ辞めない感じがするし、これから一生のお付き合いと思えば・・・・っていう「信頼」的なものはやっぱりあるから、色んな人が大して騒がずに受け入れてるところがあると思うんですよ。

同じレベルの個人情報の精査を、日本の「大企業」さんがやるとなると・・・・「なんか凄い漏洩しそう」って思ってしまうのは、まあ偏見だとはいえちょっと「こういう偏見持たれるような状況」であること自体、なんかなんとかするべき現象である気がする。

で、辞めたっていいんですよ。将来性が本当にないんだったら色んな人を巻き込む前に辞めた方がむしろ良いぐらいで。でも辞めるときに、「こんだけの人を巻き込んで売って来たんだから、買ってくれたものに対して他社サービスに乗り換えが可能なように配慮する」って形で辞めるとかね。そういう態度ってやっぱ大事だと思うんですよね。そういう「一貫性」が「信頼」を生むわけですからね。全員を満足させるなんてことはできないからこそ、「その人の心の中の責任感」だけは果たしてくれればいいのに・・・って思う。

そういう、良い意味で「後先考える」部分で、日本人にとって一番「長所」になりえる部分なはずなんですよね。今は自分たちの行動力を奪う方向のマイナスの影響が出てしまいがちですけど。

ある意味、今は「後先考えるな!」って言いすぎてる部分もあるな・・・と。全くの引きこもりになるか、逆に「後先考えるな!そういうのはニッポンジンの悪いクセだ!」みたいな極端な煽りかどっちかみたいになっちゃってる。

良い意味での「後先考える」があるから「冒険」する時ダーン!って行けるってのもあるし、日本人はそういう方向で煽った方がむしろ骨太に冒険できる確率が高くなるはずなんですよね。

最近まで使ってたSNSの業者さんは、色々と世慣れない部分があるとこだったんですけど、そういう意味での「信頼感」は結構あるとこだったんですよね。

で、日本においては、そういう「世なれない頑固業者」的にミニマムにやってるところと、トヨタ的に「ガッッッチリ運営されている伝統的大企業」と、日本電産とか京セラとかみたいな中小企業のオヤジ文化の延長におけるカリスマ経営者・・・・がいるような会社、あと何代続く作り酒屋とか和菓子店とかで、ドラ息子がやばいことしてないところ・・・・そういう部分においては、

「日本企業にはアングロサクソン文化にはない、経営と顧客との関係の”長期的な一貫性”を大事にする文化がある」

と言って良い領域が世界に誇れるレベルであると思いますけど、それ以外のところでは逆にかなり

ほんとこいつら一回売り切ったらその後どうなろうと知ったこっちゃねーって心底思ってる感じだな

っていうところが凄い増殖しつつあるような気がする。しかも、「感じ悪い詐欺っぽい感じ」でそうなんじゃなくて、むしろ物凄くスマートに良い感じのい会社運営の感じ・・・で実質は「そう」だったりするから余計にタチが悪いというような。

それこそ「空気に流される」とか「事なかれ主義」とか「横並び体質」とか、そういう紋切り型の日本社会批判が「まさにこれのことか!」って感じになっちゃってる領域が増えてきている。

いやもちろん、「新時代」っぽい領域の中で日々努力されてる人たちの爽やかさの中に「あたらしい責任感」って生まれてると思うし、それを起点に日本は前に進むしかないと思ってるぐらいなんですけど、彼らの中に「良きもの」が満ちてきつつあるからこそ、どっちつかずの運営の間隙の中にある種の無責任さが溢れだしてしまって、日本社会を危機感から余計に萎縮させてしまっているところがあるような。

著作とかブログで繰り返して書いているように、その「断絶」を”せーの”で超えれたら、むしろ「あたらしい着地点」めがけてみんなでワイワイ向かえるのにな・・・・っていう状況にあるとも言える。



人間って、できれば無責任でいたい生き物ですから、それなりの相互検証的なシステムが社会に通用してないと、ほんとどこまでも無責任な生き方が蔓延しちゃうとこあるんですよね。

で、アメリカにはアメリカのやり方における「責任」の担保の仕方があって、日本には日本の「責任」の担保の仕方があったわけですけど、今はその両者が日本の中で主導権争いをする結果、そのどちら側にいる人も「相手側の責任感情なんて捨てちまえよ!」と煽る結果として物凄く「無責任な生き方をする集団」が産まれたり、逆に「どっちの要求も生真面目に果たそう」として潰されてしまう人が沢山出てきたり・・・という不幸があちこちにあって。

結局「あたらしい責任の担保の仕方」を日本は身に付けるしかなくて、個人や女性に対して抑圧的な「古いシステム」はどこかで脱ぎ捨てなくちゃいけないわけですけど、ただその方向に日本社会を「動かす」時に、「ある意味においては徹底的な責任感があるが、ある意味においては徹底的に無責任」な日本社会の「ある性質」が暴走してしまわないように「特有の配慮」が今必要とされてるんですよね。

「日本人なりに個人に責任感を持たせる体系」の崩壊を防ぎつつ、「新時代的に風通しのよいシステム」は入れ込んでいくような両面作戦

を意識的に対象化してガッチリやらないといけない。

「もっと攻めて行こうぜ!」って時に、「日本人はいつも内向きで守りに入るからダメだ」が枕詞に常に入るような「煽り方」では、結局「ほんの一部の人が騒ぐほどに、多くの日本人がどんどん心の中で冷めていく」悪循環は避けられない。

端的に言えば、

ブレーキがちゃんと効く自動車じゃないと自信を持ってアクセルが踏めないように、日本人なりの「責任感情」と「グローバリズム的なもの」を「両立させる作法」が普及することが、本当に日本が底堅い『攻めの気分』を共有するために大事なこと

なんですよね。

こういうのって一つの会社内でもそうだし、例えば社会全体で見ても、孫正義氏があれだけアグレッシブにレバレッジかけて攻めて行けるのは、「それ以外の日本社会」との役割分担があるから・・・・ってとこあるんですよね。他の日本社会がある程度「責任の連鎖」をちゃんと維持しているから、孫正義氏がかなりの銀行借入で勝負に出てもOKになる「余力」を生み出してるんですよ。

だから、孫正義氏が良いとか悪いとか、だから日本社会の古い体質はダメだとか、そういう話じゃないんですよね。もっと「トータルに見て”攻め気”と”守り気”がバランスするように持っていかないといけない」んですよ。

色んな「選択と集中」を断行して利益出せるようになった日本の大企業とかでも、今は「攻め気と守り気」がバランスしてるから良いんですけど、さらにアグレッシブな方向性を続けた時に「自分たちの強みのコア」が崩壊しないようにするには、やっぱり今「改革して成功させたグループ」の力だけではないバランスを常に再生し続けることが必要になってくるんですよね。



で、そういう「内部からの転換」を起こすには、「100%アンチ新しい世界」な人と「100%アンチ古い日本社会」な人が罵り合ってるだけじゃあ結局物事が進まないんですよね。進んだとしても凄く上滑りしたものになってしまったり、特殊事例的にほんの一部だけの例外的成功みたいになっちゃう。

そういう「極論」を言える立場にある人って、やっぱ日本社会だと相当に特殊に守られた地位にあるからできている部分でもあるので。(もちろんその地位を努力して得ているわけですからその人が悪いわけじゃないんですが)

「どっちの言いたいこともわかるなあ・・・・でも自分の人生は、なんかどうもどっちにもキッパリ割り切れないなあ・・・・」

っていう「普通の日本人たち」の無数の「問題意識」が共鳴するように持っていかないと、日本社会の本当の「転換」は訪れない。「右だ!左だ!」の両極端のわかりやすい旗印を排除して、「真ん中を進もうぜみんな!」ってなれないといけない「タイミング」が今なんで。

日によって「古い日本ぶっ壊せ!」って気分になったり、かといって「グローバリズム的にデジタルすぎることしか言わないヤツはムカつく!」ってなったりする・・・・その「どんどん変わって行っちゃう生身の日常感」の中で、「まあ、このへんがええんちゃうかな」っていうあたりの領域での価値観共有が必要なんですよね。

「21世紀の薩長同盟を結べ」や「日本がアメリカに勝つ方法」で述べてきたように、僕のSNSはその「両側の極論的なわかりやすさ」に自分の人生を入れ込めない人の、「あたらしい価値観共有」からなら、「ど真ん中の転換」は起こせるはずだ・・・っていう意志でやってたんですよね。

でもこの・・・・やってるうちに、それを「SNS」でやることの限界みたいなものも感じてたんですよね。



僕の「本」は、トータルに「色んな立場の人」に届いてる実感があるんですよ。グローバル資本主義最前線のプロフェッショナル的存在の人から、ザ・現場っぽい立ち位置の働き手の人から、元毛沢東主義者の革命家まで・・・ファンレター貰ってる人もなかなかいないだろうと思うしね。

まあ今のとこ売れてる数が少ないのがタマに傷ですけど、でもただ売れたらいいっていうやり方はしてないんで、「分断された世界にあたらしい調和をもたらす届き方」をちゃんと精査しながら一歩ずつ進んでいかないといけないと思ってるんですが。

で、その「読者」さんと僕が「個人」として関係を取り結んでいく分には、僕がそれぞれの「相手」に対してパーソナルに対応していきつつ、本に書いたような「全体的な世界観」との間を毎回取り結んでいけばいいので、それはまあできる。

でもその「個人の読者さん」がひとつのSNSに集まろうとすると・・・・良くないことが起きるんですよ。

もうちょっと具体的に言うと、本に書いたような「大企業の中でのあたらしい事業を模索したいと思ってる人」とか、「個人事業としてあたらしい可能性を切り開きたい」ていう人とか、常にバンバン挑戦していくことが生きがいの営業ウーマンさんとか・・・・っていう人、あるいは元左翼革命家で、その良心を失わないようなあたらしい方向性を模索してるって人とか・・・・っていう「アッパーな価値観」の人と、子供との日常を楽しみつつ世界の色んなことに興味を持っているママさんとか、親との関係が子供のころ色々と難しかった分単純には前向きになれずに放浪を続けている人とか、夫婦で徹底したヒッピー的理想を追求していきたいと思っている人とか、リストカットとかしちゃいそうな不安定さを抱えつつ恋に悩む若い女の子とか・・・っていう「アッパー”ではない”」方向性を持っている人たちとの間が、凄く「微妙な感じ」になってくるんですよね。

で、僕個人として、僕がやっていくべきことからすると、「後者」を切り捨てたらダメなんですよ。これはもう絶対。

普通の人にはなぜ僕がここまでこだわるのかわからんこと多いし、自分でも完璧にはわかりきってないんだけど、ここを手放さないまま展開していかないと全ての自分の活動に意味なくなるんだ!てすごい思うポイントがここにあるんですよね。

そこを切らずにいれば、いずれ失われたみんな感の再生の起点になっていくはず・・・というか。

場を「特権化」していくと『成果』は出せるんですけど、どんどん「普通の人の普通の感じ」との分断が大きくなって、結局マクロに見るとどんどんスカスカなものになっちゃう矛盾っていうのをなんとかしないといけない時代なんですよね。

しかしまあ、それは僕自身の仕事として死活問題だとはいえ、ここに重大な問題があって、SNS形式にすることで結果としてそういう配慮をすることを「参加者全員」に押し付けてしまうと、「アッパー系」の人からすると凄い息苦しい場所になるんですよね。

結局、「倉本さんはダメ人間にアマすぎる!」的な捨て台詞をはいて離れて行ってしまう人がいたりして。(まあ確かに、一時期には”ダメ人間すぎる”って人まで切り捨てずにいたので・・・)

ダメ人間、ていう人ばっかりじゃない。むしろ世の中の深い安定感を支える大事な人たちで、変に『意識高すぎる』人より本当の意味での問題意識があったりするんだ、というのが自分の見解なんだけど。

しかしそうはいっても、やっぱり「事業として経済的に成立するあたらしいチャレンジについて考えよう!」っていうときにはある程度「テンション高く前向き(それはつまり”切り捨てているものがある”ということでもある)」であることが必要ですから、でもSNS形式だと、どんどん「そうじゃない方向」へ引っ張られて行っちゃうんですよね。で、「僕とその人」だけの関係なら成立するはずのコミュニケーションも成立しないままで、結局フェードアウトしてしまったりする。

人間、色々な「役割分担」がありますから、いつまでもそういう「みんな感」に押しつぶされてる人ばっかりだったら社会はダメになりますからね。むしろ僕がその間に入って、「普通の人の領域」と「最先端へのチャレンジ」の間を取り持つパイプになるべきなんじゃないか?とか思いつつ、やり方がわからずズルズルと来てしまったところがあり。



なんで、本出すまでの初期メンバーでできてた「意味あること」が本出してからあんまりできなくなってたんで、一週間ほどSNSが落ちてた時に、もう良い機会だし、SNSは限界かな・・・って思ったんですよね。

で、代わりに、「倉本圭造と文通しませんか」ってサービスにしようかと今は考えています。

それなら、過去の著作に書いたような「初期のSNS」ではできていたような「集団の中の個人をエンパワーする」関係性を、SNS形式ではうまく関係を築けなかったアッパーな価値観で生きている人たちの中にも作り出せるんじゃないか・・・というような。

実際、僕は会員さんとの関係について色んな形式を試してきたんですけど、結局本に書いたような一番「成果」っぽいものにつながっていたのは初期に「文通形式」でやってた時だったな・・・・っていう風にも思いますし。

値段は、月額12600円(税込)にしようと思っています。(税抜き価格が割り切れないじゃないか・・・という指摘をわざわざくださった人がいるんですが、将来税率上がっても決済システムはいじれないので、今後変わらない総額表示をしておいて申告時に端数はこちらで処理します)

これって、ネット的に自動化されてテコの原理が効くサービスの価格とするとちょっと高い感じしますけど、でも文通って一個一個オーダーメイドですからね。

逆に経営コンサルタントのフィーみたいなのと比べると唖然とする安さ・・・っていう風にも言える。

自分としても、この値段でずっとできる自信もあんまりないです。

ひょっとするとほんのちょっとの人数が入っただけで仕事量的に無理!ってなるかもしれないし、どこかで募集停止したり、どこかでやっぱり無理ですってやめちゃうかもしれない。その時はご了承ください。

まあいつかは必ずそうなってしまいそうではありつつ、僕は尋常ならざる筆まめ人間なんで、普通の人よりはかなりの「人数」を引き受けられるんじゃないかと思ってはいるんですけど。

僕が目指している方向性として実現したいコンセプトとしては、「会いにいけるアイドル」ならぬ「話しにいける思想家」的なところがあって、他の仕事が忙しくなってっても「集団の中の個」と直でつながる仕事はなんとか続けていきたいと思ってるんですよね。

とはいえ、あんま苦労感の大きくない価格と感じる人だけが入って下さい。あんま人数増えても困るタイプのサービスですからね。

ある種のアッパーな価値観で生きてる人にとってはたいした額ではないとこもあるけどね。実際、この価格はチラシが入ってた近所の中学生向け学習塾の週一コマの月額費用を参考にしてるんですけど、週二コマだったり高校生だったらもっと高いみたいだし。

文通の守秘義務は厳守します。あなたとの話を他ですることはあるにしても、個人として特定できないように配慮して話すことにします。

さっきも書いたけど、本の中に例示した人生変えた事例、みたいのは大抵文通からだから、あなたが望めばそういう方向に向かえるはずです。本に書いたように、組織の矛盾を全否定でなく粘り強く変えて行ける活躍をしてほしい。アメリカ的均一化がどんどん進んでしまう世界における、本当のダイバシティへの扉を開いて欲しいというか。

まあもっと気楽な文通だってやりたいと思いますんで、別に恋の悩みを話したい女の子だって、単なる雑談相手が欲しいオジサンだって歓迎ですよ。逆に物凄い大上段に思想っぽいこととか集団的自衛権がどうこうとかを議論したい人だってお相手させていただきます。

要するに、「真面目な雑談が変な競争心なくできる友達」がいたら、次々と物事をこなすだけの日常を俯瞰して冷静に見れるはずなのになあ、てことです。色々経験していて視野が広くて利害関係のない立場から話をちゃんと聞いてくれて、何かの鋳型にハメるようなことをせずに時に優しく背中を押してくれるタイプの友達(←自分で言うなよですけど、まあだいたいそういう存在であることは得意なタイプだと思います)がね。

というのも、今日本で一番エンパワーされるべきなのは、「集団」の中にベッタリはまりこんでる人でもなければ、「集団」の外側で「集団」を強烈に敵視して生きている人でもないですからね。

「集団と分離した強烈な個人」の意見に毎日触れながら「そうだな!」と頷きつつ、「集団」の中に生きていて、かつその「日本人の集団の良さ」の可能性も深く感じていて・・・・って板挟みになってる人が、その両者を調和するための「一貫した行動」を起こそうとしなくちゃいけない時代なんですよね。

で、そういう人がいてこそ、「強烈に集団から分断された個」として生きている人達も、「集団の中に完全に調和している人たち」も、その「本来の可能性」を発揮できるようになるわけですから。

「21世紀の薩長同盟を結べ」では、そういう「両者」を幕末の薩摩藩と長州藩に例えましたけど、だから要するにその両者を結びつける「坂本龍馬的存在」こそが、今日本に無数に生まれなくちゃいけないし、一貫してエンパワーされなくちゃいけない状況なんですよ。

でもそういう「坂本龍馬的存在」って、今ほんと一貫してやっていくには凄い「生命的な孤独」を引き受けないといけないですからね。「どっちか」から「どっちか」を全否定するポジションが大勢を占めてる中で、「どっちから見ても裏切り者」的な位置を、内的に一貫して生きていかないといけないわけなんで。

自分の人生に「一貫した熱さ」を維持しつつ、それが「日本人の集団が悪い」っていうような一方的な攻撃性として噴出してしまわないように、周囲との調和の中で「受肉」させていく道を行くには、その間の「孤独」の吐き出し場所が必要で。単純にどっちかの側についてどっちかを非難する『仲間たち』との連帯するよりもっと本格的な生命的孤独、みたいなもんがありますからね。

そのへんの、「孤独」を引き受けていければいいなあと思っています。まあ、あんまり「コンサル」的に噛みこんでいかない方がいいと思っていて、むしろ「状況をお互いわかりあえる友達」がいたら、安定して一貫した動きをしていけるよね・・・・っていうような「サービス」っていうかね。

どこかのタイミングで持ちきれなくなって募集停止したり、それどころか既にある関係もやめちゃうかもしれないけど、できるだけそういう「出会い」を増やしていきたいんですよね。

今のSNSのグダグダさを嫌って出て行ってしまった人たちとも、再度関係が持てたらいいなと思ってる部分もあります。





と、言うわけで、文通サービスの申し込みは、ペイパル(以下の購読ボタンから)でのクレジットカードによる支払いをお願いします。




(登録されたメールアドレスにこちらからご挨拶メールを送りますので、そこから始めましょう。数日たっても連絡ない場合は、私のホームページのコンタクト欄からご連絡ください。解約はペイパルのページからいつでもできます。申込日を区切りに自動で月額更新されますが、解約時の日割りで返金とかはしないので、ご了承ください。)



ところで実は、あれだけ顔出しを嫌がっていながら(倉本さんは”文章は”超イケメンなのに実物見るとガッカリする・・・・って昔ネットで言われたことがあってショックで・・・笑)、先日テレビに出てしまったんですよね。

で、僕は結構「しゃべろうと思えばしゃべれる人間」だと自分では思ってたんですけど、何か言うとすぐ百万人単位で伝わっちゃうテレビの場でマイクを向けられてみると、ほんと全然しゃべれなくてショックだったんですよ。(優秀なスタッフさんの好意的な編集で、オンエアは結構”凄い落ち着いてるなー”って感想貰ったぐらいだったんですが)

でもそれは「そういう話をすることの準備」が全然足りないからで、その「準備」を今後やってけば可能性もあるな、って思ったんですよね。

「百万人単位」にまとめるとうまく乗らないような個人レベルから引き寄せられる話を、今後ちゃんと「大きな物語」と接続していくことをしっかりやっていけば、いずれ「百万人単位」にも届く「あたらしい物語・メッセージ」も発することができるようになるな・・・っていうような予感も感じたんですよね。

共有できる「大きな物語」を拒否して「個人」と「個人」でナアナアに結びついてしまうんじゃなくて、「大きな物語」的なものを諦めずに、「個人」と向き合っていく作業を積み重ねていけば、「あたらしい大きな物語」をみんなで「共有」できるようになるはずだな・・・と思ったというか。

「アメリカ」と「アンチ・アメリカ」が中東や東欧やアフリカで噴出し、東アジアには特有の主導権争いでキナ臭くなってる時代だからこそ、「ナマの個」と「大きな物語」を、中間集団の看板を中抜きして直結していくような動きが絶対どこかに必要ですからね。

その「時代の要請」を常にちゃんと考えながら、その中での「あなた」との出会いを一個ずつ大事にしていけたらいいなと思っています。

とりあえず、「集団と個人の合間」でどっちも諦めきれずに日々「うーん」と思って生きておられる”現代の坂本龍馬予備軍”のあなたとの出会いを楽しみにしていますよ。

老若男女、そして”あらゆる立場”のあなたとのね。


倉本圭造
経営コンサルタント・経済思想家
公式ウェブサイト→http://www.how-to-beat-the-usa.com/
ツイッター→@keizokuramoto

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今更ですけど自己紹介を・・・その1.副題『原生林のような豊かでタフな経済を目指して』

このページはよほど倉本圭造に興味がある人のためのありえないほど長い自己紹介エッセイなので、サクッとコイツ誰なんだ?ってことが知りたい場合は、私のホームページの「Who?」欄をお読みください。(向こうにしかないコンテンツもありますし、とりあえずコンパクトに全体像がご理解いただけると思うので、かなりご興味を持ってくださっている方も、先に向こうをお読みいただけるとご理解しやすいように思います。その後以下の”長文”へと戻ってきていただければと)







最近出版の依頼を下さった人がいて、”出版社の女性社長さん兼編集者”としてギョーカイでは結構有名な人らしいんですが、「21世紀の薩長同盟を結べ」本体を読むまで、プロフィール欄を読んでも「???」って感じだったと言われたんですよね。

その「???」になったっていう文章は、本の著者プロフィール欄に記載されているコレなんですが。

1978年神戸市生まれ。兵庫県立神戸高校、京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感、その探求を単身スタートさせる。まずは「今を生きる日本人の全体像」を過不足なく体験として知るため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、時にはカルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働くフィールドワークを実行後、船井総研を経て独立。「個人の人生戦略コンサルティング」の中で、当初は誰もに不可能と言われたエコ系技術新事業創成や、ニートの社会再参加、元会社員の独立自営初年黒字事業化など、幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。星海社新書より『21世紀の薩長同盟を結べ』発売中です。
で、「なるほど、意味わからない・・・かもしれないな」と思ったんで、それについて、一度まとめた文章を書いておいたほうがいいのかな・・・と思って、これから書きます。

『逃げ恥』が教える「自分らしく生きる」の本当の意味

あけましておめでとうございます。昨年の私は普段の仕事的にはそれなりに一歩ずつ経験積んで進歩してこれた感あるんですが、いかんせん本出したりネットに上げた文章が広く読まれて・・・という方向での活動としてはなんだか何もやってないも等しいような印象になりそうで、正直ちょっと焦ってもいます。

ただ今は、焦って本やブログを書いても、よくある「右や左の紋切り型」にしかならない難しい状況に世界がどんどんなっていくなあと感じていて、そうじゃなくて「個別の事例」と仕事で向かいあう中から立ち上がってくる何かを信じて積んでいきたい気分だというか・・・ま、もうこの歳になると自分はマイペースにしか生きていけない人間だってところは骨身にしみてわかっているので(笑)、相変わらずそういうペースで今後もやっていきますので見捨てないでたまに気にかけてやって下さい。

ちなみに、ブログ再移転しました。ブックマークされてる方は変更をお願いします。

新ブログトップページ↓
http://keizokuramoto.blogspot.jp



で、久しぶりのブログ更新、しかもブログ移転一回目・・・がテレビドラマの話題ってなんてミーハーなって感じもしますが、2016年最大の(たぶん)ヒット作となった『逃げ恥』が超よかったので、年末だしそれについて書きます。

全体的に言って、「自分らしく生きる」っていう現代的に超超超言い古されたことについて、ちゃんと一歩ずつ考えて一歩ずつ実現していかなくちゃね!っていう気持ちになったところが凄く良いドラマだったと思ってます。夫婦で見てて毎週二回は泣いてました。

このブログはそういう方向で、

・『逃げ恥』のどこにこんな感動するのかって話
と、
・それはある種「運命へのニーチェ的向き合い方」なんじゃないかって話(より正確には”一連の実存主義哲学”)
と、
・「他人の人生を生きないで、自分の個別性(自分らしさ)を生きること」っていう「言い古されたこと」を私達が本当にちゃんとやりきるにはどうしたいいのか?
というような話に広がっていく予定です。

日本から老害を一掃して残業を減らす唯一の方法

なんか挑戦的なタイトルになってしまいましたが、ただ最近「老害」っているんだよなァ〜と物凄く実感することがあって、その詳細をそのままは言えませんがそのやるせない思いをより広くて皆様と共有できるテーマとして昇華して書いてみたいと思っているんですが。

あなたは、「老害」って言葉、キライですか?好きですか?

私は最近まであまり好きではなかったです。老害扱いされてる人にも、うまく使ってあげればそれなりの価値やら色々あるんだぜ・・・と言いたい気持ちが結構あって。

ただ、そんなこと言ってると「老害さん本人」が「自分の老害性」を一切意識せずにノウノウと暮らし続ける反面、困ったことにその「老害さん」は権力持ってたりするのでその集団全体の適切な運営がどんどん滞り、直接的には「ヤル気のある若手」さんが、そして結果的には「その組織の人全員」が非常に困った状況にみんなで追い込まれていくことになってしまう。

物凄く大枠での言い方をすると、過去20年にわたる日本の苦境はこの「老害さんをどう扱うか」について、思い切りの良い諸外国のように何のテライもマヨイもなくボコボコに権力を奪って放逐していくような思い切ったマネジメントができなかったから・・・と言ってしまっても悪くないかもしれません。

ただね。現状の日本は、老害さんたちを腫れ物に触るように扱って捨てずにいたので、社会全体が「トランプvs反トランプ」みたいにどこまで行っても平行線な対立に落ち込んだり、スラム街がどこまでも悲惨なスラムになっていくようなことは避けられたり・・・というプラス面もあったんだろうとは思います。アメリカに比べたらまだ貧富の格差もまあマシなレベルに留まっている。

つまり、なぜ日本が「老害さん」たちを諸外国のようにはボコボコに斬ってしまえないかというと、「その老害さんが代表しているものの中に自分たちの良さの根幹も混ざっている」からだと言えるでしょう。