Netflix版「新聞記者」は不誠実な「左翼の内輪ウケ映画」でしかない事が「モリカケの実態」を知ればわかる。
東京新聞の望月衣塑子記者をモデルにした映画を動画配信サービスNetflixがリメイクした連続ドラマ、『新聞記者』が好評を得ているようです。公開後、Netflixの視聴ランキングでもずっとだいたい1位から3位程度に食い込んでいるのを見かけます。 一方で このドラマに対していわゆる「文春砲」が一昨日炸裂し、制作にあたってのプロデューサー氏や望月氏の姿勢に疑問が呈されている ようです。 あっさりした記述で終わっているウェブ記事版でなく文春本誌を読むと、自殺した官僚赤木氏の遺族から、「これでは森友学園の塚本幼稚園とやっていることが同じではないか」と怒りを感じたと告発されており、読んでいてちょっと胸が痛くなる感じではありました。 ただ、こういう事実と近いドキュメンタリー風の映画やドラマを撮る時に、実際の関係者との関係がこじれてしまうことは良くあることで、(文春記事細部の「ちょっとそれは遺族からすれば・・・」という点はともかく)、「決裂してしまうこと」自体はどうしようもないことであると考えざるを得ない時もあるかと私個人は思います。 重要なのは「決裂してしまっても、それでも世に問う価値がこのプロジェクトにはあるのだ」と製作者陣が本当に胸を張れるものになっているのか 、という点ではないかと。 一時はわかってもらえないかもしれないし、傷つけてしまう事もあるかもしれないが、それでも今これをつくる社会的な意義があるし、それは長期的にはちゃんとわかってもらえるはずだという意志を持って作品を作る・・・というのなら、それはそれで否定できないと思う。 しかし!です。 ここ以降に載せる記事は、「文春砲」が 出る前に ファインダーズというウェブメディアに出した記事なのですが、その 「文春砲の内容」的なものを抜きにしても、本当にこのドラマは「誠実さ」があるものになっているのかどうか、私としては疑問を感じているという内容 です。 遺族と決裂してしまったことだけで「絶対悪」とは言いたくないが、 本当にこのドラマは「この問題を解決しよう」という誠実さによって作られているのか?それとも単に「自分たちの正義」に引きこもる「センセーショナリズムという現代社会の”もうひとつの権力”の横暴」にすぎないものなのか? そこのところについて、製作者やこのドラマの熱心な支持者の方は一度考えてみられるといいと思います。 以下の