ギリシャ戦のような”ビミョー”な試合の打開策は?
ワールドカップ期間中に、「サッカーという文化と日本の未来」についての色んな角度の分析を連載としてネットに書いているんですが(第1回・第2回)、今回のテーマは「いわゆる”スター選手”vsデータ分析思想」です。
・
20日朝に行われたワールドカップ一次予選、日本対ギリシャの試合は、「ビミョー」な試合でしたね。
決勝トーナメント進出を目指して起死回生にかける日本代表は、高いボール支配率を保ち、常時攻めてるっちゃー攻めてるんだけど・・・いやなんかこう・・・・ねえ?あんまり入る気がしないっつーか・・・
と思っている間に終わってしまい、その日の色んなテレビ局の色んなニュースでは色んなキャスターや色んなコメンテーターが色んな感想を述べていたんですけど、みんな判で押したように一様に「うううううん」的な唸り声から入る感じで。
残念だった!けどなんか・・・いや、失点はしなかったんだし、ボール支配率も高かったし、自分たちのサッカーができた・・・と言っていいのか?いやしかしね・・・なんかこう・・・・「ビミョー」な不完全燃焼感が・・・・
前回の記事で、サッカー日本代表は、
・冷静ではあるけど仲間同士でナアナアにまとまってしまって消極的にボールを回しつつ、全然シュートが打てない
・・・・みたいな不甲斐ない試合になるか、あるいは
・全力でアドレナリン(興奮・闘争心のホルモン)を出しまくって攻撃し、たまに物凄く良い形が出せて得点できるが、その後どこかで緊張が続かなくなって、気持ちが切れたところでボコボコにされる
の二択になりがちだ・・・という話をしましたが、まさにその「前者」に近い試合だったように思います。そりゃ、一時期の一番悪い感じよりはかなり「攻撃的」でしたけど、どうもね・・・なんかね・・・・
ギリシャはもともとかなり防御的なチームなんだし、アドレナリン過剰でもいいから「後者」のようになって、多少の失点のリスクを犯してでも、「自分たちの目指すサッカー」がちゃんと実現できたほうがまだ良かったんじゃないか・・・・などというのは後付けの外野の身勝手な要望かもしれませんが、しかし、最後になる可能性が高くなってしまったコロンビア戦では、結果うんぬんよりちゃんと「日本のサッカーはこうだ」というスタイルを見せてほしいと思います。
「次に繋がる」と言う意味では、「日本はワールドカップ本番でも、こういう点の獲り方ができるんだ!」っていうような「会心のゴール」をみんなの共有記憶として持てればそれが一番良い(ゴールシーンはその後日本のテレビにおいて4年間ありとあらゆる場所で繰り返し放送されますからね)し、それを目指して捨て身でチャレンジしていくときにこそ、ひょっとすると奇跡の勝利&決勝トーナメント出場への道も開くでしょうからね。
・
でも、どうしたらそれができるんでしょうか?
そこに、「スター選手vs詳細なデータ分析の矛盾」という、今回のテーマがあるのです。
というのも、結構ずっとボールを支配しているのに、どうも入る気がしない・・・っていう状況というのは、ある意味「ボールを支配しすぎてる」可能性があるからです。
つまり、千変万化するお互いの勢いのぶつかり合いとは関係なく「ボール支配率」自体を数値目標化して高めると、その「支配の仕方」からある種の「真実的なもの」が抜け落ちてくることがあるんですね。
いわゆる「手段に過ぎないものが目的になっちゃう」という現象です。
最近はサッカーのデータ分析が物凄く精緻になってきていて、ある時間帯に選手が平均的にどの位置にいたとか、その間のパス回しの経路・回数・成功率・・・など、驚くほどのデータが得られます。
でも、問題は、これを「分析ツール」として使う以上に単純に「目的化」してしまうと、あまり良くない結果をもたらしてしまうってことなんですよね。
というのは、ある時間帯において相手チームがほとんどボールを支配していて、しかもかなり自陣に攻めこまれていて、相手がボールを自由にまわしているように見えても、防御側の選手としては良い感じに集中して対応できていて、地味にシュートコースを未然に消したり、確実にマークをしていたりしている・・・という状況は、データ的に「こちらがボールをほとんど支配して攻め込みまくってる時間帯」よりも
「実は安全」
である可能性がかなりあります。
そして、そういう「攻めあぐねている」時間は攻めている相手チーム本人たちからしてみれば結構「嫌な時間」なんですよね。行くぞ!行くぞ!行くぞ!と思って次々とやってるのに、なかなか「やってやった!」という感覚に辿りつけないとだんだん疲労してきますし、それを続けていればどんな人間でも緊張の糸が切れる瞬間はやってきます。
で、本当に「迫力ある攻撃」っていうのは、90分間常に自分たちの「良い形」を出さなくちゃ・・・・って常に100%の力で押し込んでいるときよりも、むしろ「相手が乗ってきてる」時には無理して逆らわずにある程度柳のようにかわしておいて、それが引いて行く時に「よっしゃチャンス!」とばかりに味方の感情的なものまで爆発的に動員することで実現することが多いんですよね。
つまり、ずっと「100%」を目指すよりも、相手が勢いづいている時にはある程度流し気味にしながら大事なところだけ押さえる・・・というようにしておいて、イケル!となった時に「これが俺たちの、120%だァッ!」って感じで攻撃できるようになることが、日本代表がさらに「上」を目指すときに必要なことなんですよ。
日本代表の攻撃に「より一歩先の迫力」が生まれるには、もっと頑張れ!気合だ!根性が足りんぞ!という方向で焚きつけるよりは、むしろある意味で「手の抜きどころ」について冷静な「オン・オフ」ができるようになることを目指すべきなんだと私は考えています。
(そういう柔軟性はどうしたら実現できて、そしてその問題の根本原因となっている「日本社会ここ20年」の「意識高すぎるマネジメントスタイルの欠陥」とはなにか・・・・というのは、結構好評だった前回の記事で詳述したのでぜひお読みいただければと思います。)
・
で、それに加えてさらにこの問題を突き詰めてみると、そういう「流れの変化」的なものに敏感で、その振幅を自らのプレー(純粋なプレーだけでなく色んなコミュニケーションも含めて)で増幅し、ほんの種火にすぎなかったものを爆発的に燃え広がらせて「結果」につなげることができる存在が、「スター選手」ってヤツなんですよね。
たまたまそういうテーマで、今回のワールドカップに合わせてナイキ社がアニメCMを作っているんですがこれがなかなかなんですよ。
ある科学者が、決してリスクを犯さない完璧なクローン選手たちを導入して、今のスター選手たちは失業してしまうんだけど、そんなんじゃつまらないよな!って言うんで「スター選手vsクローン選手」の再決戦が行われ、そして・・・・という話です。5分半弱なんでよっぽどお忙しい方以外は見て損はないと思います。
まあ、「物凄くありがちでベタなストーリー」っちゃそうなんですけど、でも動画の後半になるとすごく「応援したい!」気持ちになる良いアニメだと思います。(ここ一番の重要なシーンでプレッシャーに弱いと色んな人に言われているクリスチャーノ・ロナウドさんがあんなに重大なシーンで活躍できるかどうかは・・・・)
コートジボワール戦でドログバ選手が入ってから、明らかに彼らの空気は一変し、日本側のミスまで増えて手が付けられなくなってしまった・・・という「印象」は多くの人が持っていると思います。
で、それが「データ」から読み取れるかというと・・・まあ超絶天才データマイナーさん(たまにいるんですよアートと名付けられるほどの分析家がね)ならいざしらず、むしろ普通の”データが好きな人”っていうのは「性格的にそれを否定したいからデータが好き」ってところがあるぐらいなんですよね(笑)
私のこの連載を第1回、第2回と読んでいただいた方はお分かりになる通り、私もそういう「データ分析」はもっと進むべきだし、それが日本サッカーにとって「サッカーを”野球的”な競技として理解し、強くなっていく」ための必須ツールである・・・というぐらいに思ってはいるんですよ。
ただ、「データ分析で出てくる数字が”手段”でなく”目的化”する」のは良くないし、それは物凄く注意しておかないとそうなっていくよね・・・という危機感は持っています。
特に、「短所是正的にデータを使う」と、どんどんせせこましいプレイになっていくんですよね。結果として「目的化してしまった特定の指標の数字の向上に熱を入れるほど、それ自体で疲弊してしまって、いざ攻めきるべき時にアクセルがガツンと入らない」みたいなことになりがちです。
で、「クリエイティビティがないデータ分析」をやると、「短所是正」しかできないんですよ。しかも「見た感じ物凄く説得力ある形で出てくる」んで、その全能感にデータ分析者も酔っちゃうし、それを言われた選手の方も酔っちゃうところがあるんですよね。
「そうか!そこを改善すればいいのか!」
ってなりやすい。でも、そのデータで得られた「指標」が本当にクリティカルなものなのかどうか、というのは、どれだけ懐疑的に検証してもしすぎることはないです。
大まじめにデータと向き合うと、「凹みを埋める」ことばかりしたくなるんですが、「凹み」はある種の生命的な真実として必要な「余裕」であったりして、それが「凸」の山をもっと高めるために大事な間であったりするわけなんで。で、サッカーっていうのは「凸の山」が「閾値」を超えないと(つまりゴールしないと)どんだけ「良い形」ができたって意味ないですからね。
でもデータを突きつけられると「凹みを埋めること」ばっかり目的化しがちですよね?気をつけましょうね。
昔、ロナウドという名フォワードがいて、戦術がないと批判された監督が「私の戦術はロナウドだ」と豪語した逸話が有名なんですが、彼は特にキャリア後期なんかは全然ディフェンスに参加しなくて、「キノコ狩りでもやってるんだろう」などと批判されるぐらいでしたが、しかしいわゆる”ゴールへの嗅覚”は抜群の存在でした。
2003年に当時「銀河系軍団」と呼ばれたレアルマドリードが来日し、FC東京と対戦した試合をテレビで見たのをいまだに覚えているんですが、すでにかなり太っていてお腹も出ていて、なんというかずっと結構かったるそうな動きをしてるのに、いざゴールに絡むとなると劇的な動きをするロナウドは抜群に印象的で、最後の方に彼が強烈なシュートでゴールした時には、なんかFC東京の選手も、アナウンサーも解説者も、スタジアムのファンも、「なんか良いもの見れたなあ」的にポワーーンと幸福そうな顔をしていたのが記憶に焼き付いています。
でも、今の時代にいたら、「一試合に走った距離」とかなんとかそういうデータでガンガンやり玉にあげられて、真っ先に排除されてしまっているでしょう。
で、じゃあロナウドも同じぐらい走れば良かったんじゃん甘えんな・・・というのは難しい問題で、それぞれ個性ってものがありますからね。ほんとうに彼にムチを振るって無理やり走り回らせたとしても、それでかつ同じだけの「得点能力」が維持できたかどうかは疑わしいと私は思っています。(彼が走り回ったとしてそれがチームのディフェンスに本当にどれだけ役に立ったのかも・・・・)
別に、フォワードは走らなくても良いことにしよう、というわけではないんですよ。守備だってできたほうがいいに決まっています。しかし、ありとあらゆる能力を数値化していくと、人間は「凹み」の是正でアタマがいっぱいになりがちなんですよね。
数字が出てきたらついついランキング作りたくなるしね。で、全選手中下から何番目とかだったら、やっぱりそこを攻撃したくなってきちゃいますからね。そんなランキングを突きつけられると、よっぽどぶっ飛んだメンタリティの選手以外は、本人も「これじゃやっぱダメなのかな俺・・・」って思い始めるしね。
もっと細かく、「この選手は左サイドの少し深い位置でボールを受けてそこから攻撃の起点になるのが得意だが、最前線で飛び出してボールを受けるのは苦手」とかね、選手によって細かい個性っていうのはいくらでもあるんですが、それがデータとして炙りだされてきたとしても、そこで「凹みの是正」に向かうのか、「凸の山を高める」方向に行くのかで全然違ってくるんですよね。チームスポーツなんですから、「凹」は他の選手の「凸」で埋めればいんですからね。
何度も言うようですが、データ分析をして、事実を深く掴んでいくこと自体は大事なんですよ。特に色んな「直感的な思い込み」を裏切るような「お、案外こうだな」的な傾向を掴んで、そこから対策を考えていこう・・・とかはね。
例えば特に、相手の行動パターンを何パターンか抽出して、それに対策を考えておく・・・などという時に、直感的にやってると「一番印象的なもの」への対策以外にアタマが回らない時がありますからね。そういう、「MECE感(もれなくだぶりなくという意味のビジネス用語)」を提示することで当事者の「視野狭窄」を是正する・・・っていう使い方は物凄く効果があります。
整理して「ヤバくなると予想される5パターン」みたいに事前の意識共有ができれば、選手としても試合中の混乱の中でも「あ、これあのパターンだ、ヤバい!」的なスイッチが入って、ちゃんとフォーカスの定まった対処ができたりしますからね。
そういう使い方は「データ」が一番生きる「使い方」になります。「指標が目的化」することなく、データは「良い質問」をするための原料となっていて、その「対策」を考えるプロセスの中で生身の知見を十二分に活かしていくための「手段」になっている限りはね。
サッカーの「データ化」はまだはじまったばかりですから、これから結構「数字の暴走」的な事例は増える時期なんだとは思いますが、そのへん賢く使っていきたいですよね。逆説的なようですが、「データのダメな使い方が暴走しないような手立て」があることが、「データの本当の力」を具体的な人間集団の中で引き出していくための必須の要件だったりするんですよね。
・
で、また「サッカーの話」から、「経済・経営・政治・その他人間社会全般の話」に戻っていくわけですが、「”手段”にすぎない数値指標が”目的化”する悲劇」って今の世の中掃いて捨てるほどありますよね。
最近、アメリカ人の元経営コンサルタントが書いた「申し訳ない、御社を潰したのは私です」という本がちょっとした話題なんですが、この本は、ここ20〜30年ぐらい「経営」の世界で「数値管理」があらゆるところで進展した中で、それが「手段が目的になった」結果いろんな問題を巻き起こしていることを、物凄くわかりやすい事例を沢山あげて論証している本です。
アメリカ系の「コンサルティングファーム」の内幕的には、非常に”目に浮かぶ”ような「あるある」的不幸な事例がまとまっていて、逆に「じゃあどうすればいいのか」という視点も充実していて、あと個人的には作者の人柄とユーモアが凄く好感持てる感じで、とにかくかなりオススメの本なんですよ。(余談ですが著者のカレン・フェランさんは息子さんが二人いる女性で、どうも娘でなく息子さんがいるお母さんというのは、特有の”侠気”によって今の時代風潮的に”一番足りないもの”を明確に意識して提示してくれつつある人が多いように思います。理由はよくわかりませんが)
で、この本以外にも、前回の記事の一番大事なメッセージとしてお伝えしたとおり、今アメリカでは色んな方向で「グローバリズム的なものの行き過ぎの是正」を目指す本が話題になっていて、
いわゆる「成果主義」的なものは余計に社員のやる気を損なっているので、もっと平等な分配を目指した方が良いという本
成功するには外交的でないといけないように思えるが、他人の話をよく聞いてちゃんとじっくり考える内向的な人間の力を引き出す方が本当の成果に繋がるという本
など、日本人的本能からすると「で・す・よ・ね?なんか俺ら昔からずっとそう思ってたんだけど!」というような本が次々とベストセラーになっています。
これは我々日本人にとって千載一遇のチャンスなんですよ。
でもアメリカっていうのは
「あたらしいアイデアが示され、それがアイデアとしてちゃんと評価されること」+「物凄く先端的な事例で物凄く理想的にそれが実現されること」
までは世界一フレキシブルなんですが、その「アイデアレベルでの個々人の自由さ」を実現するために「社会がバラバラに」なりすぎているので、その「先」において、前回の記事で私が書いたような「ギャル&ヤンキー社員さんの存在感まで巻き込んだような”みんな”レベルの浸透」は決してできないジレンマを抱えているんですよね。
だからこそ、「アメリカが考えだすこれからの理想像」っていうのを、「日本が物凄く深いレベルで実現するぞ!」ていうふうな組み合わせに持っていけさえすれば、これからの日本は「自分たちの本当の素の良さ」を発揮していくだけで「世界最先端の普遍的希望」に繋がる・・・という幸福な戦略が取れる可能性があるんですよ。
そういう組み合わせが誰の目にも明らかなぐらい明確な「図式」として共有できれば、今のありとあらゆる国内対立(例えば排外主義的なムーブメントなども)は、その「大本の火種」から消していけるようになるでしょう。無駄な喧嘩してないで、「共通ゴール」を定義できるようにみんなで頑張りましょうね。
・
過去20年間に、あまりにデジタルすぎるグローバリズムが世界中を席巻していったのは、とりあえず人類全体に共有のシステムを一個持とう・・という意味ではやっぱり意味があったんですよ。本質的な意義がないと、「この世界を影で操る強欲なユダヤ人どもの陰謀」だけではここまで進まないですよねやっぱり。
その「普及プロセス」の中では、多少は「ゴリ押し」で現場的な生身の知性を抑圧する部分があったとしても、とりあえず一回は押し切っちゃうことが必要だったんですよね。
でも今やもう抜き差しならないレベルでIT技術と金融システムが世界を緊密につないでる時代ですから、「その先」へ行こう!というふうに人類は動き出してるんですよね。
「システム」「データ分析主義」「グローバリズム」・・・的なものを「全拒否」にせず、「発明者が驚くぐらい精緻に操れるようになるスキル」を磨いていくレースが、これから始まるんですよ。
それは過去20年の間、アメリカやシンガポールや韓国みたいに「グローバリズムにハマりきった国」にも、北朝鮮とかみたいに「グローバリズム全拒否の国」にもできないことなんですよね。どれだけ批判されても「どっちつかず」を続けてた国にしかできないんですよ。
ありますよねぇそういう国が?”抵抗勢力さん”が非常に頼もしくてどうも「グローバリズムの中にハマり切る」こともできず、「ズルズルと混乱だけを続けてきた鈍重で決断力のない終わった国」だと思われてきた東洋の島国が?
『でも、だからこそ』、っていう世界が目の前には広がっているんですよ。
自動車の大量生産方式を考えたのはアメリカ人ですけど、世界で一番精緻にそれを使いこなせるようになったのは日本人です。
よね?じゃあ、
グローバリズム的システムを考えたのはアメリカ人ですけど、世界で一番精緻にそれを使いこなせるようになったのは日本人です。
ってなれないわけないですよね?
・
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今後もワールドカップの期間を通じて、「サッカーという文化」と政治・経済その他におけるグローバリズムの関わり、そしてそこにおける日本と日本サッカーの取るべき戦略・・・というようなテーマの連載をネット上でやりたいと思っています。(この連載の次回の記事はこちら)
投稿は不定期なので、更新情報は、ツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々チェックしていただければと思います。
ちなみに、この話はすでに私の著書「21世紀の薩長同盟を結べ」の中で1章を割いて詳述したものを、今回のワールドカップの話題を織り交ぜながら書きなおしていく試みなので、ご興味があればそちらをお読みいただければと思います。(この記事における”両者”の存在を幕末の薩摩藩と長州藩の連携に例えて、その性格や考え方が大きく違う2つの勢力の間の”薩長同盟”の成立が、現代の日本においてもあたらしい持続的な発展への鍵となる・・・という趣旨の本です)
倉本圭造
経営コンサルタント・経済思想家
公式ウェブサイト→http://www.how-to-beat-the-usa.com/
ツイッター→@keizokuramoto
面白かった!というあなたはこちらから100円投げ銭することもできます!
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20日朝に行われたワールドカップ一次予選、日本対ギリシャの試合は、「ビミョー」な試合でしたね。
決勝トーナメント進出を目指して起死回生にかける日本代表は、高いボール支配率を保ち、常時攻めてるっちゃー攻めてるんだけど・・・いやなんかこう・・・・ねえ?あんまり入る気がしないっつーか・・・
と思っている間に終わってしまい、その日の色んなテレビ局の色んなニュースでは色んなキャスターや色んなコメンテーターが色んな感想を述べていたんですけど、みんな判で押したように一様に「うううううん」的な唸り声から入る感じで。
残念だった!けどなんか・・・いや、失点はしなかったんだし、ボール支配率も高かったし、自分たちのサッカーができた・・・と言っていいのか?いやしかしね・・・なんかこう・・・・「ビミョー」な不完全燃焼感が・・・・
前回の記事で、サッカー日本代表は、
・冷静ではあるけど仲間同士でナアナアにまとまってしまって消極的にボールを回しつつ、全然シュートが打てない
・・・・みたいな不甲斐ない試合になるか、あるいは
・全力でアドレナリン(興奮・闘争心のホルモン)を出しまくって攻撃し、たまに物凄く良い形が出せて得点できるが、その後どこかで緊張が続かなくなって、気持ちが切れたところでボコボコにされる
の二択になりがちだ・・・という話をしましたが、まさにその「前者」に近い試合だったように思います。そりゃ、一時期の一番悪い感じよりはかなり「攻撃的」でしたけど、どうもね・・・なんかね・・・・
ギリシャはもともとかなり防御的なチームなんだし、アドレナリン過剰でもいいから「後者」のようになって、多少の失点のリスクを犯してでも、「自分たちの目指すサッカー」がちゃんと実現できたほうがまだ良かったんじゃないか・・・・などというのは後付けの外野の身勝手な要望かもしれませんが、しかし、最後になる可能性が高くなってしまったコロンビア戦では、結果うんぬんよりちゃんと「日本のサッカーはこうだ」というスタイルを見せてほしいと思います。
「次に繋がる」と言う意味では、「日本はワールドカップ本番でも、こういう点の獲り方ができるんだ!」っていうような「会心のゴール」をみんなの共有記憶として持てればそれが一番良い(ゴールシーンはその後日本のテレビにおいて4年間ありとあらゆる場所で繰り返し放送されますからね)し、それを目指して捨て身でチャレンジしていくときにこそ、ひょっとすると奇跡の勝利&決勝トーナメント出場への道も開くでしょうからね。
・
でも、どうしたらそれができるんでしょうか?
そこに、「スター選手vs詳細なデータ分析の矛盾」という、今回のテーマがあるのです。
というのも、結構ずっとボールを支配しているのに、どうも入る気がしない・・・っていう状況というのは、ある意味「ボールを支配しすぎてる」可能性があるからです。
つまり、千変万化するお互いの勢いのぶつかり合いとは関係なく「ボール支配率」自体を数値目標化して高めると、その「支配の仕方」からある種の「真実的なもの」が抜け落ちてくることがあるんですね。
いわゆる「手段に過ぎないものが目的になっちゃう」という現象です。
最近はサッカーのデータ分析が物凄く精緻になってきていて、ある時間帯に選手が平均的にどの位置にいたとか、その間のパス回しの経路・回数・成功率・・・など、驚くほどのデータが得られます。
でも、問題は、これを「分析ツール」として使う以上に単純に「目的化」してしまうと、あまり良くない結果をもたらしてしまうってことなんですよね。
というのは、ある時間帯において相手チームがほとんどボールを支配していて、しかもかなり自陣に攻めこまれていて、相手がボールを自由にまわしているように見えても、防御側の選手としては良い感じに集中して対応できていて、地味にシュートコースを未然に消したり、確実にマークをしていたりしている・・・という状況は、データ的に「こちらがボールをほとんど支配して攻め込みまくってる時間帯」よりも
「実は安全」
である可能性がかなりあります。
そして、そういう「攻めあぐねている」時間は攻めている相手チーム本人たちからしてみれば結構「嫌な時間」なんですよね。行くぞ!行くぞ!行くぞ!と思って次々とやってるのに、なかなか「やってやった!」という感覚に辿りつけないとだんだん疲労してきますし、それを続けていればどんな人間でも緊張の糸が切れる瞬間はやってきます。
で、本当に「迫力ある攻撃」っていうのは、90分間常に自分たちの「良い形」を出さなくちゃ・・・・って常に100%の力で押し込んでいるときよりも、むしろ「相手が乗ってきてる」時には無理して逆らわずにある程度柳のようにかわしておいて、それが引いて行く時に「よっしゃチャンス!」とばかりに味方の感情的なものまで爆発的に動員することで実現することが多いんですよね。
つまり、ずっと「100%」を目指すよりも、相手が勢いづいている時にはある程度流し気味にしながら大事なところだけ押さえる・・・というようにしておいて、イケル!となった時に「これが俺たちの、120%だァッ!」って感じで攻撃できるようになることが、日本代表がさらに「上」を目指すときに必要なことなんですよ。
日本代表の攻撃に「より一歩先の迫力」が生まれるには、もっと頑張れ!気合だ!根性が足りんぞ!という方向で焚きつけるよりは、むしろある意味で「手の抜きどころ」について冷静な「オン・オフ」ができるようになることを目指すべきなんだと私は考えています。
(そういう柔軟性はどうしたら実現できて、そしてその問題の根本原因となっている「日本社会ここ20年」の「意識高すぎるマネジメントスタイルの欠陥」とはなにか・・・・というのは、結構好評だった前回の記事で詳述したのでぜひお読みいただければと思います。)
・
で、それに加えてさらにこの問題を突き詰めてみると、そういう「流れの変化」的なものに敏感で、その振幅を自らのプレー(純粋なプレーだけでなく色んなコミュニケーションも含めて)で増幅し、ほんの種火にすぎなかったものを爆発的に燃え広がらせて「結果」につなげることができる存在が、「スター選手」ってヤツなんですよね。
たまたまそういうテーマで、今回のワールドカップに合わせてナイキ社がアニメCMを作っているんですがこれがなかなかなんですよ。
ある科学者が、決してリスクを犯さない完璧なクローン選手たちを導入して、今のスター選手たちは失業してしまうんだけど、そんなんじゃつまらないよな!って言うんで「スター選手vsクローン選手」の再決戦が行われ、そして・・・・という話です。5分半弱なんでよっぽどお忙しい方以外は見て損はないと思います。
まあ、「物凄くありがちでベタなストーリー」っちゃそうなんですけど、でも動画の後半になるとすごく「応援したい!」気持ちになる良いアニメだと思います。(ここ一番の重要なシーンでプレッシャーに弱いと色んな人に言われているクリスチャーノ・ロナウドさんがあんなに重大なシーンで活躍できるかどうかは・・・・)
コートジボワール戦でドログバ選手が入ってから、明らかに彼らの空気は一変し、日本側のミスまで増えて手が付けられなくなってしまった・・・という「印象」は多くの人が持っていると思います。
で、それが「データ」から読み取れるかというと・・・まあ超絶天才データマイナーさん(たまにいるんですよアートと名付けられるほどの分析家がね)ならいざしらず、むしろ普通の”データが好きな人”っていうのは「性格的にそれを否定したいからデータが好き」ってところがあるぐらいなんですよね(笑)
私のこの連載を第1回、第2回と読んでいただいた方はお分かりになる通り、私もそういう「データ分析」はもっと進むべきだし、それが日本サッカーにとって「サッカーを”野球的”な競技として理解し、強くなっていく」ための必須ツールである・・・というぐらいに思ってはいるんですよ。
ただ、「データ分析で出てくる数字が”手段”でなく”目的化”する」のは良くないし、それは物凄く注意しておかないとそうなっていくよね・・・という危機感は持っています。
特に、「短所是正的にデータを使う」と、どんどんせせこましいプレイになっていくんですよね。結果として「目的化してしまった特定の指標の数字の向上に熱を入れるほど、それ自体で疲弊してしまって、いざ攻めきるべき時にアクセルがガツンと入らない」みたいなことになりがちです。
で、「クリエイティビティがないデータ分析」をやると、「短所是正」しかできないんですよ。しかも「見た感じ物凄く説得力ある形で出てくる」んで、その全能感にデータ分析者も酔っちゃうし、それを言われた選手の方も酔っちゃうところがあるんですよね。
「そうか!そこを改善すればいいのか!」
ってなりやすい。でも、そのデータで得られた「指標」が本当にクリティカルなものなのかどうか、というのは、どれだけ懐疑的に検証してもしすぎることはないです。
大まじめにデータと向き合うと、「凹みを埋める」ことばかりしたくなるんですが、「凹み」はある種の生命的な真実として必要な「余裕」であったりして、それが「凸」の山をもっと高めるために大事な間であったりするわけなんで。で、サッカーっていうのは「凸の山」が「閾値」を超えないと(つまりゴールしないと)どんだけ「良い形」ができたって意味ないですからね。
でもデータを突きつけられると「凹みを埋めること」ばっかり目的化しがちですよね?気をつけましょうね。
昔、ロナウドという名フォワードがいて、戦術がないと批判された監督が「私の戦術はロナウドだ」と豪語した逸話が有名なんですが、彼は特にキャリア後期なんかは全然ディフェンスに参加しなくて、「キノコ狩りでもやってるんだろう」などと批判されるぐらいでしたが、しかしいわゆる”ゴールへの嗅覚”は抜群の存在でした。
2003年に当時「銀河系軍団」と呼ばれたレアルマドリードが来日し、FC東京と対戦した試合をテレビで見たのをいまだに覚えているんですが、すでにかなり太っていてお腹も出ていて、なんというかずっと結構かったるそうな動きをしてるのに、いざゴールに絡むとなると劇的な動きをするロナウドは抜群に印象的で、最後の方に彼が強烈なシュートでゴールした時には、なんかFC東京の選手も、アナウンサーも解説者も、スタジアムのファンも、「なんか良いもの見れたなあ」的にポワーーンと幸福そうな顔をしていたのが記憶に焼き付いています。
でも、今の時代にいたら、「一試合に走った距離」とかなんとかそういうデータでガンガンやり玉にあげられて、真っ先に排除されてしまっているでしょう。
で、じゃあロナウドも同じぐらい走れば良かったんじゃん甘えんな・・・というのは難しい問題で、それぞれ個性ってものがありますからね。ほんとうに彼にムチを振るって無理やり走り回らせたとしても、それでかつ同じだけの「得点能力」が維持できたかどうかは疑わしいと私は思っています。(彼が走り回ったとしてそれがチームのディフェンスに本当にどれだけ役に立ったのかも・・・・)
別に、フォワードは走らなくても良いことにしよう、というわけではないんですよ。守備だってできたほうがいいに決まっています。しかし、ありとあらゆる能力を数値化していくと、人間は「凹み」の是正でアタマがいっぱいになりがちなんですよね。
数字が出てきたらついついランキング作りたくなるしね。で、全選手中下から何番目とかだったら、やっぱりそこを攻撃したくなってきちゃいますからね。そんなランキングを突きつけられると、よっぽどぶっ飛んだメンタリティの選手以外は、本人も「これじゃやっぱダメなのかな俺・・・」って思い始めるしね。
もっと細かく、「この選手は左サイドの少し深い位置でボールを受けてそこから攻撃の起点になるのが得意だが、最前線で飛び出してボールを受けるのは苦手」とかね、選手によって細かい個性っていうのはいくらでもあるんですが、それがデータとして炙りだされてきたとしても、そこで「凹みの是正」に向かうのか、「凸の山を高める」方向に行くのかで全然違ってくるんですよね。チームスポーツなんですから、「凹」は他の選手の「凸」で埋めればいんですからね。
何度も言うようですが、データ分析をして、事実を深く掴んでいくこと自体は大事なんですよ。特に色んな「直感的な思い込み」を裏切るような「お、案外こうだな」的な傾向を掴んで、そこから対策を考えていこう・・・とかはね。
例えば特に、相手の行動パターンを何パターンか抽出して、それに対策を考えておく・・・などという時に、直感的にやってると「一番印象的なもの」への対策以外にアタマが回らない時がありますからね。そういう、「MECE感(もれなくだぶりなくという意味のビジネス用語)」を提示することで当事者の「視野狭窄」を是正する・・・っていう使い方は物凄く効果があります。
整理して「ヤバくなると予想される5パターン」みたいに事前の意識共有ができれば、選手としても試合中の混乱の中でも「あ、これあのパターンだ、ヤバい!」的なスイッチが入って、ちゃんとフォーカスの定まった対処ができたりしますからね。
そういう使い方は「データ」が一番生きる「使い方」になります。「指標が目的化」することなく、データは「良い質問」をするための原料となっていて、その「対策」を考えるプロセスの中で生身の知見を十二分に活かしていくための「手段」になっている限りはね。
サッカーの「データ化」はまだはじまったばかりですから、これから結構「数字の暴走」的な事例は増える時期なんだとは思いますが、そのへん賢く使っていきたいですよね。逆説的なようですが、「データのダメな使い方が暴走しないような手立て」があることが、「データの本当の力」を具体的な人間集団の中で引き出していくための必須の要件だったりするんですよね。
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で、また「サッカーの話」から、「経済・経営・政治・その他人間社会全般の話」に戻っていくわけですが、「”手段”にすぎない数値指標が”目的化”する悲劇」って今の世の中掃いて捨てるほどありますよね。
最近、アメリカ人の元経営コンサルタントが書いた「申し訳ない、御社を潰したのは私です」という本がちょっとした話題なんですが、この本は、ここ20〜30年ぐらい「経営」の世界で「数値管理」があらゆるところで進展した中で、それが「手段が目的になった」結果いろんな問題を巻き起こしていることを、物凄くわかりやすい事例を沢山あげて論証している本です。
アメリカ系の「コンサルティングファーム」の内幕的には、非常に”目に浮かぶ”ような「あるある」的不幸な事例がまとまっていて、逆に「じゃあどうすればいいのか」という視点も充実していて、あと個人的には作者の人柄とユーモアが凄く好感持てる感じで、とにかくかなりオススメの本なんですよ。(余談ですが著者のカレン・フェランさんは息子さんが二人いる女性で、どうも娘でなく息子さんがいるお母さんというのは、特有の”侠気”によって今の時代風潮的に”一番足りないもの”を明確に意識して提示してくれつつある人が多いように思います。理由はよくわかりませんが)
で、この本以外にも、前回の記事の一番大事なメッセージとしてお伝えしたとおり、今アメリカでは色んな方向で「グローバリズム的なものの行き過ぎの是正」を目指す本が話題になっていて、
いわゆる「成果主義」的なものは余計に社員のやる気を損なっているので、もっと平等な分配を目指した方が良いという本
成功するには外交的でないといけないように思えるが、他人の話をよく聞いてちゃんとじっくり考える内向的な人間の力を引き出す方が本当の成果に繋がるという本
など、日本人的本能からすると「で・す・よ・ね?なんか俺ら昔からずっとそう思ってたんだけど!」というような本が次々とベストセラーになっています。
これは我々日本人にとって千載一遇のチャンスなんですよ。
でもアメリカっていうのは
「あたらしいアイデアが示され、それがアイデアとしてちゃんと評価されること」+「物凄く先端的な事例で物凄く理想的にそれが実現されること」
までは世界一フレキシブルなんですが、その「アイデアレベルでの個々人の自由さ」を実現するために「社会がバラバラに」なりすぎているので、その「先」において、前回の記事で私が書いたような「ギャル&ヤンキー社員さんの存在感まで巻き込んだような”みんな”レベルの浸透」は決してできないジレンマを抱えているんですよね。
だからこそ、「アメリカが考えだすこれからの理想像」っていうのを、「日本が物凄く深いレベルで実現するぞ!」ていうふうな組み合わせに持っていけさえすれば、これからの日本は「自分たちの本当の素の良さ」を発揮していくだけで「世界最先端の普遍的希望」に繋がる・・・という幸福な戦略が取れる可能性があるんですよ。
そういう組み合わせが誰の目にも明らかなぐらい明確な「図式」として共有できれば、今のありとあらゆる国内対立(例えば排外主義的なムーブメントなども)は、その「大本の火種」から消していけるようになるでしょう。無駄な喧嘩してないで、「共通ゴール」を定義できるようにみんなで頑張りましょうね。
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過去20年間に、あまりにデジタルすぎるグローバリズムが世界中を席巻していったのは、とりあえず人類全体に共有のシステムを一個持とう・・という意味ではやっぱり意味があったんですよ。本質的な意義がないと、「この世界を影で操る強欲なユダヤ人どもの陰謀」だけではここまで進まないですよねやっぱり。
その「普及プロセス」の中では、多少は「ゴリ押し」で現場的な生身の知性を抑圧する部分があったとしても、とりあえず一回は押し切っちゃうことが必要だったんですよね。
でも今やもう抜き差しならないレベルでIT技術と金融システムが世界を緊密につないでる時代ですから、「その先」へ行こう!というふうに人類は動き出してるんですよね。
「システム」「データ分析主義」「グローバリズム」・・・的なものを「全拒否」にせず、「発明者が驚くぐらい精緻に操れるようになるスキル」を磨いていくレースが、これから始まるんですよ。
それは過去20年の間、アメリカやシンガポールや韓国みたいに「グローバリズムにハマりきった国」にも、北朝鮮とかみたいに「グローバリズム全拒否の国」にもできないことなんですよね。どれだけ批判されても「どっちつかず」を続けてた国にしかできないんですよ。
ありますよねぇそういう国が?”抵抗勢力さん”が非常に頼もしくてどうも「グローバリズムの中にハマり切る」こともできず、「ズルズルと混乱だけを続けてきた鈍重で決断力のない終わった国」だと思われてきた東洋の島国が?
『でも、だからこそ』、っていう世界が目の前には広がっているんですよ。
自動車の大量生産方式を考えたのはアメリカ人ですけど、世界で一番精緻にそれを使いこなせるようになったのは日本人です。
よね?じゃあ、
グローバリズム的システムを考えたのはアメリカ人ですけど、世界で一番精緻にそれを使いこなせるようになったのは日本人です。
ってなれないわけないですよね?
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今後もワールドカップの期間を通じて、「サッカーという文化」と政治・経済その他におけるグローバリズムの関わり、そしてそこにおける日本と日本サッカーの取るべき戦略・・・というようなテーマの連載をネット上でやりたいと思っています。(この連載の次回の記事はこちら)
投稿は不定期なので、更新情報は、ツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々チェックしていただければと思います。
ちなみに、この話はすでに私の著書「21世紀の薩長同盟を結べ」の中で1章を割いて詳述したものを、今回のワールドカップの話題を織り交ぜながら書きなおしていく試みなので、ご興味があればそちらをお読みいただければと思います。(この記事における”両者”の存在を幕末の薩摩藩と長州藩の連携に例えて、その性格や考え方が大きく違う2つの勢力の間の”薩長同盟”の成立が、現代の日本においてもあたらしい持続的な発展への鍵となる・・・という趣旨の本です)
倉本圭造
経営コンサルタント・経済思想家
公式ウェブサイト→http://www.how-to-beat-the-usa.com/
ツイッター→@keizokuramoto
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