大阪人の”ダメ人間化スパイラル脱却”の為に都構想実現を!

大阪都構想の住民投票が迫り、推進派・反対派の宣伝合戦がタケナワです。

それについて、「賛成派・反対派」の両方のカルチャーの事情を身を持って知ってる私なりに議論に役立つような視点が提供できそうなので書きます。

というのも、都構想を推進しているグループには、私が昔いたマッキンゼーというコンサルティング会社の人間がブレーンとして多く関わっていて、元直接の上司や、先輩などからたまに話を聞くことが過去にありました。今も私は経営コンサルタントだから彼らがやりたいことは内容としてわかります。

一方で、過去に私の本を出してくれたある編集者の人は、「都構想絶対反対派」の有名人のほとんど全員と次々と仕事をする人で、その結果私が出している本の読者の人をツイッターなどで見かけると、かなりの比率で「大阪都構想絶対反対」という人が多いです。

だから私は「2つの全く違うカルチャー」の交差点にいると言っていい。

そもそも、私はそのマッキンゼーに入ってから、その「グローバリズム風に啓蒙的過ぎる仕切り方」と「”右傾化”といったような単語で一概に否定されてしまうような人々の感情」との間のギャップをなんとかしないといけないという思いから、「その両者をシナジーする一貫した戦略」について一貫して模索を続けてきた人間なんですね。

そのプロセスの中では、その「社会的にキレイな形」の外側にも実際に入って行かねばならないという思いから、物凄くブラックかつ、詐欺一歩手前の浄水器の訪問販売会社に潜入していたこともありますし、物流倉庫の肉体労働をしていたこともありますし、ホストクラブや、時には新興宗教団体に潜入してフィールドワークをしていたこともあります。(なんでそんなアホなことをしようとしたのかは話すと長くなるので詳細はコチラをどうぞ。)

だから、「反対派」側のカルチャーの人の言うことは凄いわかるし、それこそ人生色々かけて「反対派のカルチャーの人たち」の言うことを理解し、活かそうとしてきた自負があるわけです。

ちなみに私は神戸出身で今は関西に住んでませんが、大阪は父親及び多くの親族の故郷で、マッキンゼーの後転職した船井総研という会社時代の職場であり、その当時の取引先が多くあり、当時交際していた女性の家に転がり込んで住んでいた街であり、さらに上記の「訪問販売」時代にはありとあらゆる大阪の下町の路地の奥まで入り込んで訪問販売してたぐらいの関わりはあります。

で、そういう人間なりに意見を述べたいんですが、全体としては

反対派の意見も理解できるところはあるが、ここは前進しといたほうがええで!

と言う話をしたいと思います。

目次は以下の通り。
1・反対派の議論は正直あまり説得力がないと思う。
2・”安定性維持”のための反対派の懸念はわかるが、動き出すことでその懸念も吸い上げられるようになる。
3・大阪人特有の「ダメ人間化スパイラル」脱却を!





1・反対派の議論は正直あまり説得力がないと思う。
例えば反対派のボス的存在?の京大大学院教授の藤井聡氏が書いた「7つの事実」というキャンペーンがあります。

これは反対派の方々の中ではかなりの頻度で引用される内容で、字面を読むとちょっと説得力ありそうなんですが、しかしよく考えてみるとかなりイチャモン的な内容なんですよね。

大きな改革をとりあえず一歩めから始めようという話に対して、「完全な理想像」をぶつけて論破したつもりになってる感じというかね。

「現状のシステム」を基準に「改革案」にケチをつけはじめたらいくらでもできるんですが、しかし「とりあえずこれから始めて、問題があるんならそれも全部取り入れて行ったらええやん」という発想でいかないと結局何もしないまま緩やかな衰退だけが続くことになるので。

例えば今回の投票が、「都構想」自体の実現の投票じゃないというのはそうなんですが、ちゃんと動き出したら、だんだん広範囲に広げていけばいいし、「東京の特別区にありがちな問題を避けられる”良い特別区”」を自前に考えて制定していけばいいし、名前だって都に変えたらいいだけの話なんでね。

他にも一個一個についてコメントしてもいいんですが、箕面市の倉田哲郎市長の書かれたこの記事が凄くまとまってるし、説得力があるように思いましたのでそちらをご参照いただければと思います。(特に4と5についての反論が、都構想推進者が持っている問題意識をちゃんと説明している良い内容だと思います)

2・”安定性維持”のための反対派の懸念はわかるが、動き出すことでその懸念も吸い上げられるようになる。
で、「反対派」に対して私が一応理解できるのは、「反対派の言ってる内容」ではなくて、「橋下氏的なもの」がこのまま前進していった時に社会の安定性が保てるのかどうか?っていう部分なんですよね。言ってる「内容」はともかくその「危機感の表出」という意味では理解できる。

実際、橋下氏が府政・市政を担うようになってから、「改革」を行ったいくつかの領域で直撃的な影響を受けた人の中には、ほとんど「憎悪」というレベルでの反対を唱えている人がいますし、そういう人たちの反論のうちの”かなりの部分の”意見は傾聴に価すると思います。

そりゃ過去の改革の中には「失敗」も結構あっただろうと思います。

要するに「全体的なガバナンスを利かそうとする動き」が「現場的な安定性を損なってしまう作用」というジレンマは常にあるからですね。

まさに「そういう問題意識」ゆえに、冒頭に書いたような私の「色んな人になんでそんなアホなことを?と言われ続けた模索」はあったわけなので、その問題意識は物凄くわかる。

で、この問題について色々と探求してきた私から、「反対派側の懸念」を共有しているあなたにお伝えしたいことは、


むしろまず一歩動き出すことでその懸念も吸い上げられるようになる。


ってことです。

逆に言うと、どっかで前に進み始めないと永遠に”改革派”は余計に過激にならざるを得ない構造があるんですよ。←これ、凄い凄い大事なことね。

例えば反対派の論調の中に、「それは都構想でなくてもできる」という文言が多くあって、その辺が例えば「都構想による財政削減効果の算出」の時に全然違う数字になることに繋がって来るんですが。

で、まあ「都構想でなくてもできる」のは理屈としてはそうなんですが、それを誰がやるんだ?っていう話があるんですよね。

とりあえず維新がある程度の支持率を得ていて、まとまった方向性が示されている時にやらないと、絶対誰もできないですからね。

だから、「橋下氏の改革が荒っぽいものにならざるを得なかった」責任は、「反対派」の一部にもあるっていう発想が必要なんですよ。なぜなら、「改革のエネルギー」は「橋下氏周辺のエゴ」ではなくて「普段の”見せかけの安定”の裏側で本当は存在している無理」が人の形を取って噴出しているだけという性質があるからです。

セクショナリズムが横行して、全員が自分の身の回りのことだけを見ていて、その「身の回り」についたら凄い責任感もあるけど全体で見ると連携が全然なくて、その結果として末端にヒドイ不幸がシワ寄せされる・・・っていうのが「日本人のよくある過ち」ですよね。(先の大戦の反省を本当にやるならまさにその問題をどうするかを考えないといけません)

その「大きな連携を取ろうとする動き」に対して誰も協力しないでいると、「連携を取ろうとする動き」は、荒っぽくなっても前進せざるを得なくなる。

だから逆に、「やるぞ」という方向で固まれば、「じゃあどうやるか」の中に「反対派の懸念」も入れ込める情勢になるんですよね。

で、「構図」的には実は似たような問題を抱えている大塚家具のお家騒動問題について書いた記事↓
大塚家具問題は『ナウシカ方式』で解決しよう!
でも書きましたが、これは例えば「5年前」ならできなかったことなんですよ。

5年前なら、まだ世界全体の情勢的に、「アメリカの一極支配」が強くあったから、「市場原理主義者」的な経済評論家とかコンサルタントは、「現場的なもの」を抑圧しすぎる方向に暴走しがちだった。

その時期には、やはり「アンチ市場主義」的なものの中の原理主義的な人たちにも意味があった。

が、世界情勢が「アメリカvsイスラム国」的な多極化時代に入って、「どっちが完全に正しいわけでもない世界の空気」が強まってきている中で、今の日本は「その次の理想」を描ける理想的ポジションにいるんですよ。

その結果、例えば最近デーヴィッド・アトキンソン氏という元ゴールドマン・サックスのイギリス人金融マンが、小西美術工藝社という日本の伝統工芸の会社を再生させた話などがフィーチャーされるようになってきている。

アトキンソン氏は、小西美術工藝社の社長になってから、文化財の質に関わらないコストを徹底してカットした上で、果てしなく年功序列で上がっていく職人の給料を高齢層の部分である程度抑制した分、若手職人を全員正社員として登用、技術の継承にも力を入れ、また国内の文化財の修復には中国産でなく日本産の漆を使うべきだという運動を起こして実現させたり・・・と、八面六臂の大活躍をされています。

配慮しながら「全体最適」的なガバナンスを通すことで、むしろ「現場的な強み」がちゃんと活かせる構造を生み出すような結びつきが生まれてきている。

「ゴーサイン」がちゃんと出るまでは、お互い絶対譲れないから、改革派も荒っぽくやってしまう部分が出ていたんですよ。

でもちゃんと「前に進むぞ」と決めることで、「あたらしい着地点」へと”より丁寧に動いていく”ことが可能になるんですね。

大事なことやからもう一回言うとくでぇ↓

ちゃんと「前に進むぞ」と決めることで、「あたらしい着地点」へと”より丁寧に動いていく”ことが可能になる


で、一歩ずつ「あたらしい均衡点」が歴史的に近づいてきてる結果、5年前は「市場原理主義的なこと言う人」の方がちょっとイタイ感じだったんですが、最近は「アンチ市場」なことを原理主義的に言う人がだんだん「イタイ人」になって来ているところはあると思います。

金持ち老人の道楽としての「清貧思想の押し付け」とかね。あるいは「じゃあ物凄い巨大な土建国家にするってこと?」っていうようなビジョンとか。

アンチ市場主義者の”懸念自体”は正当なものなんですが、だからといってその先にある「未来」に希望はないですからね。だから「前に進む決断」が公的になされるまでは、永遠に「改革派が過激にならざるを得ない構造」があるんですよ。

だからこそ、とりあえず「前に進むこと」だけは決めた方がいいんですよね。

こういう全体的な世界の流れの中での「今後の日本が取るべきユニークな方向性」という話については、ぜひ私の近著↓
「アメリカの時代」の終焉に生まれ変わる日本 (幻冬舎ルネッサンス新書):
をお読みいただければと思います。


3・大阪人特有の「ダメ人間化スパイラル」脱却を!
で、もうちょっと大きな話をするとですね。

私の母親は、都構想賛成派らしいです(ただし神戸市民なので投票権はない)。その理由は、

だって、”都”が東京だけのモンやなんてずるいやん!


だそうで(笑)

そんな理由かよ!って感じですけど、でもこれ結構大事なことやと思います。

と、言うのも前述したように私は大阪に住んで大阪の会社で働いて大阪の色んな会社と仕事をして、さらには大阪の下町の路地の奥の奥まで訪問販売で中に入ってって色んな人と直に接してきた経験から言うんですが、今の大阪人の負け犬根性というか「ダメ人間化スパイラル」はほんと良くない感じなんですよ。

でも、昔はそうじゃなかったはずなんですよね。今の「大阪イメージ」と、本来の「大阪イメージ」は随分違ってきてしまっている。

「誇りある実質主義の商都大阪人」として頑張ろうぜ!じゃなくて、どんどん「競い合ってダメ人間ぶることで自分たち自身をも傷つける競争」みたいになってしまってるんですよ。

ブランド品を買った時に、大阪の人間は「いかに安く買ったかを自慢しあう」という話がありますが、そんな感じで大阪には特有の「どれだけ正直に生きてるか競争」をする巨大な磁場が働いてるんですよね。

で、それは「嘘くさい虚飾を廃する商都大阪の誇り」みたいなものだったはずで、良い方向に回り始めたら「次はこんなんやったろ!どや!東京には敗けへんでぇ!」的な好循環になるはずのものなんですよ。

でもね、これが今は、「真剣に働いてなんかやろうとするより、公務員にでもなってオイシイ位置占めといたら何もせんでもこんだけ貰えんねんでぇ!なんか頑張ってるアイツとかアホちゃうか?」的な方向での大競争みたいな雰囲気になってるんですよね。

以下の絵みたいな感じで(クリックで拡大します)、この「ダメ人間スパイラル」を「商都大阪のプライドスパイラル」に転換しないと、日本第二の都市が国の補助なしでは財政的にやっていけないというような状況は絶対いつまでも続けられないですからね。
f:id:toyonaga-san:20150513053225p:plain
「既得権益をぶっ壊せ」的な定形表現は私はあまり好きじゃないんですが、しかし大阪に関して言うと、今は「マットウな商売」の方向じゃなくて「いかにウマい汁が吸えるかレース」的な方向に向いてるエネルギーが強すぎるので、どこかでショック療法が必要だと思います。

都構想に否定的な人はいわゆる「インテリで良識的」な人だと思うんですが、世の中にはそういう「インテリで良識的」な人の想像もできないほど自分のことしか考えてない人がいますからね。そういうモラルハザードを超える方向での回転は、どっかで起こしていかないといけないんですよ。そのことは、「維新の都構想」は反対する・・・というあなたも、「あなたのバージョンの理想」を考えるにあたって、ぜひ一度忘れないでいて欲しい点なんですよね。

・最後に
大阪は魅力ある街です。

このゴールデンウィークに妻と大阪旅行に行ったんですが、大阪の街(特にミナミ)に降り立つと、自分の中の関西弁回路がやたら活性化して、お好み焼き屋さんに並んでる時に隣のオッサンと雑談したり、会計してる時に店員のお姉さんと雑談したり・・・って自然になってしまうぐらいの「場の力」があります。

あべのハルカス内のホテルに泊まったんですが、日本一の巨大ビルからちょっと歩いたら釜ヶ崎のドヤ街や「ザ・大阪庶民の街」である新世界という状況が凄く新鮮でした。

実際、「新世界」なんて昔はちょっと私のような神戸出身のオシャレ関西人には訪れるのが躊躇されるような場所でしたけど、今はある程度観光地化が進んで(でも同時に昭和情緒的な町並みも消えずに残っているバランスがあって)、「ディズニーランドにいる間はオッサンでもミッキーの耳付けて歩ける」的な意味で、「新世界にいる時はみんなで昭和情緒にひたれる」的なテーマパーク的魅力が溢れていました。

こういう時に「ドヤ街的な世界」vs「ハルカス的なもの」的な”対立構図”に取ってしまうのは、そもそも大阪本来のもんではないはずです。

むしろ、「東京ではしらへんけど、大阪じゃあそんなもんは通りまへんでぇ」的に「市場原理主義」の中から「嘘クサイ部分」だけを取り除いて、末端までシームレスに行き届かせられる力が大阪にはあると私は考えています。

新世界の商店街のオッサンたちも、やはりそうやって「大きな資本の流れ」の近傍にいることで、多くの人間が物好きにも「ザ・大阪のオッサン」を見たくて集まって来てくれることで「プライドを持って演じてる」良循環があるんですよね。

打ち捨てられたスラム一歩手前になったら「ダメ人間化競争」をやって自分で自分を傷つけてたオッサンたちが、ある程度「資本の論理」がちゃんと作用することで近所にあっちこっちからの観光客が来るようになって、商店街を自転車で通り抜ける時に、「ちりんちりーん、通るでぇ」と”口で”言いながら優雅に通り抜けて見せるダンディズムを発揮する方向に「競争心」を持てるような流れを生み出せるかどうか。

めちゃ極端な「市場原理主義」vs「アンチ市場主義」に分断されがちな世界において、実際に「市場主義」を「生身のレベル」でちゃんと受け止めて再生していくような力を、大阪は持っているはずです。

別の視点から言うと、東京は大きいですし、首都としての役割から常に日本全体との関係における無数の調整過程が必要なので、不自由さも当然ある。

一方で、大阪はそういう「国全体との調整過程」は必要ないし、しかしそこそこの国ぐらいの規模感がある(関西全体で連携すれば韓国ぐらいの規模感はある)わけですから、「いちいち東京にお伺いを立てないで済む身軽さゆえの独自施策」を始めるサイクルができたら、むしろ「グローバル経済の中に大阪アリ」という風になっていける可能性があります。

今、橋下氏的なものが「嫌い」な人・・・例えば人文系の学問関係者とか芸術関係者とかの「即物的でない」世界を重視してる人・・・から見ると、橋下氏やその周りにいる人達は「人間的に許せない」感じがするのかもしれません。

が、大阪・関西全体での「攻めの姿勢」が生まれて経済が好転することは、必ず人文系の学問や芸能関係にとっても最終的には良い影響がありますよ。イタリアルネッサンスはメディチ家が産むわけですからね。

それに、「本当に絶望的な貧困」に陥りつつある人達を救う原資も、全体としての統一的な行動による発展の結果でしか、やっぱり得られないですからね。

世界で最初に先物取引を発明した商都の復活を、私は遠くから願っています。

とりあえず、都構想やってみなはれ、やらなわからしまへんでぇ。



それではまた、次の記事でお会いしましょう。ブログ更新は不定期なのでツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々チェックしていただければと思います。

倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
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