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ナポレオンに対抗するロシア軍のようにグローバリズムに対抗する・・・べし。

と、いうわけで、前回記事の最後で予告したとおり、この4年半ほど、新規の会員さんを募ることもなく、公開ブログを書くこともなく、内輪でジックリジットリやってなくちゃいけなかった理由というか言い訳的な話なんですが。


過去のブログを読んでいると、政権交代前の自民党とか安倍総理とかにやたら幻想を持って応援してたな・・・っていうのが自分でも笑ってしまうぐらいなんですが。でも、当時は、そういうポジションでいることが必要だって凄く思ってたんですよね。

でも、民主党への政権交代が起きる直前ぐらい、僕がブログ辞めた後のことですけど、ほんと自民党にはほとほと幻滅したというか・・・・まあ、今の民主党政権が凄く良いと思ってるわけじゃなくて、予想どおりぐちゃぐちゃになっちゃってるとは思いますけど、だからといって「あの、政権交代直前期の自民党のグダグダさ」を考えると、結局どっちでも一緒じゃん?という感じが物凄くあります。もう、政治家に期待するのは辞めようと思ってしまった。

それにしても、自民党政権のころの民主党の「無責任言説っぷり」っていうのはほんとひどくて、「なんでも反対すりゃいいと思ってんじゃねーよ!」的な怒りを感じてたのは事実です。いざ民主党政権になって、「騙された!」的なことを言ってる人がマスコミ的立場の人にいたりしますけど、「こうなるのは、国会での討論やマニフェスト見てるだけでわかっただろ」って感じでしたしね。その人が、ただキャッチフレーズ的なことを考えもせずに叫んでいるのか、実質的な深みを理解した上で言葉を選んで話してるのかなんて、1分話したらわかることじゃないですか。要は、「国をどうしたいのか」じゃなくて、「敵側が言ってることは全部反対」っていうことしかやってないんだから、いざ「権力」を得る番になったらその逆をやるに決まってるってところがあるので。

でもね、こういうのって、政治家さん一人ひとりの責任かっていうと、そうでもないところもあるんですよね。僕自身がその場にいたってどうしようもできないだろうなっていう部分もあるんで、別に誰を責めたいわけじゃないんですよ。その場にいて、お互い「良心的」であろうとか、「実務的」であろうとか考えたら、派手な国会パフォーマンスの馬鹿馬鹿しさを自分でも馬鹿馬鹿しいと感じてしまって、結局活躍できずに消えていってしまったりするんでしょうしね。だから、みんな誰が悪いわけでもなく、なんとかしたいと思ってみんなやってるんだけど、「マットウな努力の方向」をやろうとすると埋もれてしまって消えちゃうので、幸薄い罵り合いに血走った目で参加してないと、そもそも政治家でいられなくなるってとこがあるんだと思うんですよ。

そういう意味では、別に何が良くなったわけでもないですけど、とりあえず中途半端に昔の延長じゃあいられなくなった・・・・という一点だけを取って見たときに、日本は民主党政権になってよかったと今は思っています。民主党政権が自民党政権と全然違う何か凄いパフォーマンス(見た目だけっていう日本語的な語感じゃなくて、本来的な”成果を出す”という意味において)ができる集団だというわけでは全然ないというか、単純な実務的な能力で言ったら素人臭い部分がやっぱりあるんだと思うんですが、「私たちは自民党とは違うんです!」という「意地」だけが存在してるような感じは、もう「後戻りできない。前に進むしか無い。でも、どうしたらいいのかはよくわからないからとりあえず派手なスローガン掲げとくしかない」みたいな状況に日本国を追い込んでいるので、あとはその「とにかく変革しなくてはという焦り」を、「適切な方向」に振り向けられるようにみんなの空気を持っていくだけでいい、という状況ではある。

で、僕があの時期から公開ブログその他を停止したっていうのも、まずは一回そういうところまで行かなくちゃいけないな・・・・と思ったってことなんですよね。

僕は世代的にまだ30代前半なので、例えば戦後すぐの時代からの日本における右と左の対立のリアリティとかをね、頭ではわかってたけど体感としては全然わかってなかったなって思ったんですよ。当時の僕の目からは、民主党って「ほんと意味のない批判というかイチャモンみたいなことしか言わない人たち」っていう印象だったんですが、それに凄くフィーバー的な人気が高まっていってる状況とか、マスコミ関係の人がみんなで民主党をもりたてていって、「自民党を倒しさえすればバラ色の未来がやってくる」ように感じてた?ようなところが凄く謎で。でも、こういうのは理性的判断というよりは、昔から存在していた大きな感情的ネジレが今まさに噴出してきているんで、一回全部出しきってしまわないと、前に進めない問題なんだろうな・・・っていうことは凄くヒシヒシと伝わった。

でもそういうのって、「暴走する左翼性だけが問題」なように見えて、フェアに中立的に見るとするならば、「変わり行く世界の現実に対応できていない、日本社会の深い部分の保守性の余りに強固なこと」が、「暴走してでも何か変革しなくちゃ」というエネルギーに繋がってるっていう部分があるんで、だからどっちもどっちなんですよね。どっちが悪いわけでもないなと。

ともあれ、「行くところまで行かなくちゃいけないな」と思ったんですよ。で、それは、最初の目論見としては、「自民党政権が崩壊する直前にまで行ったら、これはやばすぎるってなって何らかの自浄作用が働くだろう」ぐらいに思ってたんですが、ほんと最後の方の自民党は死ぬほどグダグダでしたからね。なんだよてめーら!ってあの時ばかりは思った。あれだけ「責任政党」をカッコ付けて標榜してた人たちなのに、いざ危機になってもただ内輪もめしてるだけで、ほんとカッコ悪かった。左翼政党が内輪もめするのって、それが当然みたいな感じだから「まあ、そういうこともあるよね。それぐらいのエネルギーを導入しないと前に進めないってこともあるだろうし、その本来的機能からして否定できないもんがあるよな」っていう部分もなくはないんですが(それでいいとまでは言わないですけど)、ほんとね、繰り返してしまいますけど自民党政権の最後にはほとほと失望したよ。

で、その「行くところまで行かなくちゃいけないな」は、当初は「自民党政権が崩壊寸前になったら揺り戻されるかも?」だったのが、「民主党政権があまりにもグダグダであることが露見したら揺り戻されるかも?」に変わり、で、より大きな問題として「リーマンショックでグローバリズム的な世界秩序の危機が来たら揺り戻されるかも?」になり、「震災の影響で(以下同文)」、「欧州の国債問題がさらに危機になったら(以下同文)」って感じで(笑)

なんか、2009年年初あたりに、「今年こそ公開活動再開するぜ!」的なブログ更新したのに、さらにそこから2年音沙汰なかったという(笑)

あの時、何を思って「今年こそ!」って思ったかすらもう覚えていないぐらいなんですが、それぐらい「今こそ!」「あれ?」「あれ?」って感じで、ダラダラここまで来ちゃったんですよね。まるで、世界は滅亡するっていう予言を毎年言ってるカルト宗教の教祖みたいな感じで(笑)会員さんに「3年の倉本だ!前言撤回に定評のある倉本圭造だ!」ってよく言われてたし(漫画スラムダンクにそういうような台詞があるんですよ)。

だからね、全てを見通してなんか着実に準備してたって感じじゃ全然ないんですよ。「ジョジョの奇妙な冒険」の台詞で言うなら、「これも計算のうちかジョジョ!?」「あたりまえだぜッ!このジョジョは何からなにまで計算づくだぜーーッ!(ほんとは違うけどカーズが悔しがるならこう言ってやるぜ、ケッ!)」ってぐらいの感じで。

ただ、物凄く大きく見た時に、グローバリズム的な、「人間の理性を信頼して全てを統治していこうとするようなムーブメント」は、「その世界観の限界」までは勢いづいてどこまでも進むものだと思うんですよね。共産主義しかり、ナポレオンのロシア遠征しかり。やっぱ人間、わけわからない事情で無理矢理納得させられる世界に住んでいるよりは、透明性の高い理屈で構築された社会で、ちゃんとフェアに扱われて生きることを深い部分では望んでいるところがあるんで、ある程度のところまで勢いづいた「理性を信頼するムーブメント」っていうのは、まず一回「行くところまで行かなくちゃいけないな」で受け入れるしかないんですよ。

でも、「理性的に構築された世界観」っていうのは常に「リアリティそのもの」からは大分手前の大雑把さしかない(それでも人間もだんだん歴史とともに賢くなってきてるんで大分マシにはなってきてますが)ものなんで、だからどこかで無理が溜まっていって、逆向きに暴発を始める瞬間はやってくるはずなんですよね。

民主党政権のスローガンに含まれている「無理」は、一回政権取らせて好き放題やらせることによってしか現れてこない。グローバリズムに含まれている「無理」は、グローバリズムに一回全部を支配させて世界中をそれで動かしてみることによってしか現れてこない。ユーロの(以下同文)。

でもね、民主党政権的なものにしろ、グローバリズムにしろユーロにしろ、「理屈が大雑把すぎて現実から遊離してる」としても、その中に良いものが全然ないわけではないというか、むしろ「凄く高い理想的なもの」が含まれてるのは確かなんですよね。で、人間は、ペースはともあれその「よきもの」に向かって進むしかない宿命を持って生きてるんですよ。

「平均的に90点は取れるが100点は決して取れない世界観」で行くのか、「平均点は30点に落ち込むが、うまく行けば100点取れる世界観」で行くのか、っていうのは人間社会を統治するにあたって難しい問題で、大抵は前者を取っておくべきだと思うんですが、どっかのタイミングで色々の感情的盛り上がりが高まってきてしまうと、後者を取らざるを得なくなる。で、後者を取るならば、「どうせやるなら100点を取るしか無い」んですよ。もう一つ間違えば全てがヤバいことになるハイリスクハイリターンの道を進むと決めたなら、そして進みだしてしまったなら、もう「あっちのローリスクローリターンの道の方が良かったなあ」とか言ってても仕方がない。あらゆる全力を投入して、リスク取っただけの「ハイリターン」を取りに行くしかないんですよね。そうしないと、あらゆる点で破滅的なことになってしまうんで。

で、どうやったら「ハイリターン」に行けるかっていうと、「行くところまで行くしかない」の「行くところまで行った」時に必要な方策を、いざ「その時」になったらスパッと「こんなこともあろうかと」的にキッパリまとめて出せるように、「あらかじめ先に準備しておく」ことだなと思ったんですよね。人間の過去の歴史においては、その「両者の勢力の均衡点」に達したところでたまたま権力持ったヤツが、そいつの単純な思い込みで大して準備してない方策をゴリ押しするんで、凄く破滅的な「リスク」の方が発現しがちだったところがあるんで。

だから、その「行くところまで行く流れ」という権力闘争的なものとは関係ないところで、いざ「薩長同盟的世界観」が実現する気運になってきた時に、「完成品」として提示できる「具体的な戦略」を先に誰かが作っておくことが大事なんですよ。でも、こういうのって、よっぽど意識的に用意していかないと難しいんですよね。

どうせ民主党政権になって、グローバリズムに対する何らかのチェック機能も一切なしにして行くところまで行ったら、その「理性的世界観」が取りこぼしているものが世界のあらゆるところで反発を起こして、どっちにも進めない閉塞感とか暴発寸前の危機的状況とか、そういうのになるに決まってるんですよね。そこまではいい。でも、その時に、「どっちでもないところに正解があるに決まってるじゃん」っていうのは、ある程度理性的な人なら当然そう思うことなんですが、しかし「どっちでもない本当の正解」なんてものをちゃんと準備するのってほんと難しいんですよ。

これ、さっき「政治家さんが悪いわけでもない」って書いたのと同じことで、だから「どっちか片方だけ」の論理に乗っかって相手を批判しているほうが基本的に「カッコイイし熱意があるし勢いもあるように見える」からなんですよね。だから、「両方の良い部分を」的な・・・・「薩長同盟」的なことを言い出すのは、物凄く「タイミング」がキモになってくるんですよ。

だから当面、維新志士と新選組が辻斬りしあってるみたいな「血の犠牲」が積み重なることは「必要なこと」だというかね。で、それが続いて続いて続いて続いて、「京の町が血で染まる」ころにならないと、「あ、罵り合ってるだけやったらあかんのやな」っていう方向に「みんなの感情」を持っていくことはできないんでね。

そういう「タイミング」は必ずやってくるという確信だけはあったんですよね。日本国内における政治問題にしろ、世界全体の経済的な問題にしろ、「グローバリズム側、理性を信仰する側」と「旧来の共同体のリアリティ」との間のぶつかり合いは、ロシアに攻め入る”啓蒙された新しい世界を宣教すべき正義の”ナポレオン軍みたいなものなんで、シベリアの奥地までは後退して後退して調子づかせて無茶苦茶やらせることが必要だなと思ったんですよ。

一応歴史とか興味ない方のための豆知識ですけど、ナポレオン軍がロシアに攻めいった時、ロシア軍はただ東に撤退してっただけだったんですよね。場合によっては自分の国土に火を放ってもぬけの殻にしてまで後退した。で、そういう時ってやっぱ「理屈の側」に立ってる方が強いんですよ。

でも、奥地まで誘い込んでおいて、「冬将軍さま(ただのロシアの寒い冬のこと)」がやってきたら、今度は「啓蒙された透明性の高い世界」で生まれ育った甘いフランス軍などは、欧州辺境の雪深い世界で育ったロシア軍の前になすすべもないわけですよね。

で、グローバリズムに対して日本が独自の価値を出していくには、「この戦略しかない」っていうのは、4年半前の時点で凄く明確に感じてたことだったんですよね。

というわけで、「その時」まで、一回「経済」や「言論」の最前線から、一回「隠れて」しまうことが必要だなと。これは「撤退」ではない、「戦略的転進」だなと(笑)



マッキンゼーの先輩に、株式会社リサイクルワン創業者の木南陽介さんっていう人がいるんですよね。で、その人も神戸出身で、同じ公立中学校出身なんですよ。その後、高校、大学、マッキンゼーまで同じ経歴っていう凄く珍しい縁で。

東京生まれ東京育ちで有名私立中高出身とかなら、東京でそういう知り合いに会うのって普通にありえることだと思うんですが、僕は地方の、しかも普通の公立中学出身なんで、東京で初めてお会いした時びっくりしたんですよね。「え?木南さん長峰なんですか?しかも神戸高校?え?実家は●●通?僕●●●町ですよ!」みたいな。

ともあれ、そういう縁で、もう8年ぐらい前かな?正月に実家帰った時に、阪急六甲駅前のトップシックスというローカルなバーで、お話させていただいたことがあるんですよね。

その時に、「10年後に世界を席巻しているビジネスは、もう既に始まっている」って言われて凄い衝撃を受けたんですよね。彼は、京大在学中から学生ベンチャーを(天下一品の初代ウェブサイトを作ってたとか・・・いや、餃子の王将だったかな?)やってた人で、マッキンゼーを経て、誰も「環境ビジネス」とか言い出してない時代に環境系のベンチャーを立ち上げて着々と大きくしてきた人ですからね。

なんか、「波」があるじゃないですか。世の中には。で、「一つの大きな波」があったら、それはどこかで終わるんですよね。で、その「大きな波」が終わるよりも”かなり”前に、既に「次の波」は始まってるんですよ。で、その「次の波」の最先端を捉えようと思ったら、「今の大きな波」に乗ってる人全員から「あいつはもう終わった存在」と思われるぐらいじゃないとダメだ・・・的な話を聴いて、凄いなるほどと思ったんですよね。

で、あと公開ブログを停止したころに、荒木飛呂彦氏のジョジョの奇妙な冒険第7部「スティール・ボール・ラン」をウルトラジャンプで毎月読んでいてですね、それに、「相手に自分を捨てさせることによって主導権を握ってしまう特殊能力」を持った敵が出てきたんですよね。な、なに言ってるかわからねーと思うが僕も何回読んでもよくわからない話なんですが、でも「雰囲気」は凄く伝わったんですよ。漫画で人生決めるなよって感じですけど、でもジョジョは僕にとっての一種のバイブルなんでね。(あとは、わかる人だけにわかる話で言うなら、「田中芳樹氏の銀河英雄伝説」の、「帝国に攻め込んで同盟が大敗した後のトリューニヒトのようなタイミング」で世にでないといけないなって思ったってことなんですが。)

つまり、「今の時代の価値観」から見て、「ダメな領域」っていうか、「既にあいつは終わってしまったヤツだな」っていう領域にあえて入っていってそこで我慢していると、「世の中の普通」から見てこちら側が「ブラックボックス」みたいになるんですよね。死角に入っちゃうっていうか。で、そういう存在に一回ならないと、「ジセダイの新しい波」が来た時に全力をそこに載せていくことはできないんだなって思ったんですよ。

ジョジョの奇妙な冒険ファンにだけわかる話で言うなら、「ディオに肉薄するための承太郎の作戦のように」「ペッシと戦うブチャラティのように」、


「だから見せつけるしかないんだ!!グローバリズムの悪い側面を倒すには!こいつら以上の『覚悟』があることを!!こいつら自身に見せつけるしかねえッ!!!

(中略)

今何もしないってのが・・・・オレの・・・・『覚悟』だ・・・・!!


的なことが必要だなと思ったんですよ。

ある種、「言論家」として活動していると、日々生起する「今の時代の波」に対して、それなりのポジションをとり続けないといけないんですよね。で、その問題自体が多少馬鹿馬鹿しいものでも、その馬鹿馬鹿しさにどんどん引き寄せられざるを得ない。結果、そのパラダイムと「共犯関係」になってしまうんで、いざ「パラダイムごと転換」が来る時代になった時に、全体重を一方向にガツーンとかけてそれに乗っていくことができなくなるんですよ。

僕は、グローバリズム自体には人類の輝ける未来が潜んでいると思ってるんですが、そのためには、その「システムが取りこぼす個別的リアリティの本当に良い部分を、ちゃんとシステム上に救い上げるメカニズムが有効に機能してこそ」だと思うんですよね。でも、そもそものシステム自体を地球全体に行き渡らせてしまうには、無理押しだろうとゴリ押しだろうとまずゼロ年代全部を使ってでもやってしまわなくてはいけなかったと思うんですよ。

でも、その「無理をしてでも押し通してまず普及させたシステム」の「運用法」をどこまでも精緻化していって、「本当にみんなのためになるシステム」に転換していくのが、これから2010年代なんですよね。というか、そうしていくしか人類の未来はないと思うってことなんですが。

だから、「グローバリズムvsアンチグローバリズム」じゃなくて「グローバリズムのシステムをどううまく使えるようになろうか」っていうチャレンジに、本当はみんなで取り掛からないといけない時代なんですよ。でもさっき言ったような理由で、そういう「薩長同盟的なポジション」を一体的に主張していくのは、「どちらかだけ」のポジションを取って相手を非難しているよりも「派手さ」に劣る部分があるんで、だからこそ、「タイミング」を完全に整えることが必要だったんですよね。

もちろん、そうやって「一回引きこもる」っていうことは、一回日本という国にしろ世界にしろを、「ただムチャクチャになっていくのを黙認する」ってことでもあるんで、ちょっと「倫理的にどうなんだ?」っていうことは考えないでもなかったんですけどね。「私心なかりしか」みたいなことは結構考えたりして。

でも、実際問題として、当時も今も僕は無名の一コンサルタント兼経済思想家にすぎないんで、当時の僕が何か吠えたからってどうなるわけでもないじゃないですか。

で、結局、自分の行動に、「左翼的良心」があるかって言ったら100%イエス。「愛国心」があるかって言ったら、(まあ自分なりの定義のであって、右翼さんからすると良くないものも含まれてるかもしれないが)100%イエス。で、3つめに、これを落とさないことがこれからの時代大事だと思うんですが、いざそういう風な「危機的状況」において独自の戦略や思想を提供できたら結構儲かると思うんで、撤退によって一時的に家計的に厳しい状況になっても、妻と自分の生活という「生活者レベルのこと」で言っても合理性があるな・・・・って思ったんですよね。

あとは、やっぱ単純にね、「今の時代の普通」とは違うところに独自路線を立ち上げるって、男なら(笑)憧れるじゃないですか。やってみてぇなーみたいな。僕、木南さんの話聞きながら凄い嫉妬してましたからね。彼はその時代にすでに、「環境なんて事業になるわけない」と言われていた時代からずっと続けていた環境の事業があって、「君は君の波を見つけないといけないんだよ」とか言われたらマジ嫉妬するじゃないですか。ええー俺そんなん見つけられるんかな?ええなー先にそんなん見つけられてええなーみたいになってた。カッケーなこの人!って思って、わざわざ遠回りして彼の家まで話し続けながら着いていって、別れてから深夜に山登って灘区丸山公園で夜景見て、叫びそうになったけど叫ぶのは自粛して悶々として帰ってきた・・・・のを覚えていますし。なんか、「俺の人生これでいいのか?」的な悩みをつきつけられたような感じがした。

まあでもこういうの、やったから偉いとか、やってないやつはダメだとか、そんなことは全然ない、ただの「役割分担」だと今は思いますけどね。「普通の生き方」にだって、それがやっぱり社会の基本じゃないと全てが崩壊してしまうっていう大きな使命があるわけですし。「次の普通の萌芽」を先に準備する「役割」の人も、「今の時代の普通」を問題なく回すことが「役割」の人もいるってだけの話で、本質的にどっちが偉いとかカッコイイとかは、本来全然ないんだと今は思うんですけど。

でもね、この「一回世の中から自分を捨てさせるモード」って、もしあなたが「自分だけの何か」をこの世の中に打ち込んでやろうと思うときには、特にアメリカンに世の中(特に日本社会)と「VS」にならずに、うまく調和させながら自分だけのビジョンを通していくときには、結構良いヒントになると思いますよ。「捨てさせる」って言っても、本当に完全に捨てられると生きていけなくなるんで、そのへん両睨みの調整を常にやり続けるデリケートな時期が続きますけど。

「新書」の中で、「ありえないと言われた新規事業」とかをいくつか会員さんの人生の中で立ち上げた事例が出てくるんですけど、それらは全てこの「ナポレオンに対抗するロシア軍方式」のモードで実現したことですし、そのプロセスを「ワザ」として定着させることが、これからの時代の日本において「個人主義者の可能性」と「日本人の集団の一番良い部分」が、発展的にシナジーする「21世紀の薩長同盟」に持っていくための「実務的なキモ」になってくるんですよね。

ご期待ください。



ともあれ、こういう、「僕と日本社会」との間の関係性は、まさに「日本とグローバリズム世界」との関係と同じですからね。これからの日本はいいですよ。希望が持てますよ。

なんせ、過去10年に「日本経済がダメな理由」とあげられてたようなことは、アメリカでも欧州でも「同じことだったじゃん」ってなってきてますからね。その分、「苦しんでただけのこと」は日本社会の中に着実に蓄積してるはずなんですよ。

さきほどの木南さんの話のように、「過去10年に、ダメさの典型のように扱われていた日本経済」の中には、むしろ「過去10年光があたってた世界」にいた国にはできなかった「蓄積」ができてるはずなんですよね。

「過去10年のルール」にとっては、身軽になった方がいいから切り捨ててしまえばいいのになんでできないの?って言われ続けたのに、でも「日本人としてこれは譲れないんじゃないの?」と悩み続けてきた矛盾・・・・・その「矛盾」っていうのは、日本人なら誰しも日常の中で常に感じていた問題なんですよ。

でも、そこで「単純に割りきりよくできなかったタイプの我々だからこそできること」っていうのが、「21世紀の薩長同盟」ってことになりますからね。

だから、これから、日本には良い時代が来ると私は思ってますよ。まさに「過去10年うまくいかなかった理由」こそが、「これからの成長の原資」になるんですからね。

そのために、「こんなこともあろうかと」的に先取りして準備をしておいた本を、来年2月に出しますんでご期待ください。

引きこもっている間に、一部の会員さんたちと密に準備をして、色々な事例を積み重ねてきていますし、ただの「思想的空論」というよりは、「実務的・具体的な変革のステップ」と呼べるものになっていると思います。出版と同時に、新規会員の募集を停止していた会員制のシステムも新しい形で再開したいと思っているので、その点もご期待ください。

今回も長文をここまでお読みいただいてありがとうございました。

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経産省若手資料はそんなにダメか?褒めときゃいいじゃん。

書籍の執筆でアタマが沸き立っていて、箸休めに軽いブログを書きたいので書きます。



ネットで話題の、経産省の若手有志による、

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っていうのがあって、このリンクからパワーポイント資料が読めるんですが。

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最近出版の依頼を下さった人がいて、”出版社の女性社長さん兼編集者”としてギョーカイでは結構有名な人らしいんですが、「21世紀の薩長同盟を結べ」本体を読むまで、プロフィール欄を読んでも「???」って感じだったと言われたんですよね。

その「???」になったっていう文章は、本の著者プロフィール欄に記載されているコレなんですが。

1978年神戸市生まれ。兵庫県立神戸高校、京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感、その探求を単身スタートさせる。まずは「今を生きる日本人の全体像」を過不足なく体験として知るため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、時にはカルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働くフィールドワークを実行後、船井総研を経て独立。「個人の人生戦略コンサルティング」の中で、当初は誰もに不可能と言われたエコ系技術新事業創成や、ニートの社会再参加、元会社員の独立自営初年黒字事業化など、幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。星海社新書より『21世紀の薩長同盟を結べ』発売中です。
で、「なるほど、意味わからない・・・かもしれないな」と思ったんで、それについて、一度まとめた文章を書いておいたほうがいいのかな・・・と思って、これから書きます。

日本から老害を一掃して残業を減らす唯一の方法

なんか挑戦的なタイトルになってしまいましたが、ただ最近「老害」っているんだよなァ〜と物凄く実感することがあって、その詳細をそのままは言えませんがそのやるせない思いをより広くて皆様と共有できるテーマとして昇華して書いてみたいと思っているんですが。

あなたは、「老害」って言葉、キライですか?好きですか?

私は最近まであまり好きではなかったです。老害扱いされてる人にも、うまく使ってあげればそれなりの価値やら色々あるんだぜ・・・と言いたい気持ちが結構あって。

ただ、そんなこと言ってると「老害さん本人」が「自分の老害性」を一切意識せずにノウノウと暮らし続ける反面、困ったことにその「老害さん」は権力持ってたりするのでその集団全体の適切な運営がどんどん滞り、直接的には「ヤル気のある若手」さんが、そして結果的には「その組織の人全員」が非常に困った状況にみんなで追い込まれていくことになってしまう。

物凄く大枠での言い方をすると、過去20年にわたる日本の苦境はこの「老害さんをどう扱うか」について、思い切りの良い諸外国のように何のテライもマヨイもなくボコボコに権力を奪って放逐していくような思い切ったマネジメントができなかったから・・・と言ってしまっても悪くないかもしれません。

ただね。現状の日本は、老害さんたちを腫れ物に触るように扱って捨てずにいたので、社会全体が「トランプvs反トランプ」みたいにどこまで行っても平行線な対立に落ち込んだり、スラム街がどこまでも悲惨なスラムになっていくようなことは避けられたり・・・というプラス面もあったんだろうとは思います。アメリカに比べたらまだ貧富の格差もまあマシなレベルに留まっている。

つまり、なぜ日本が「老害さん」たちを諸外国のようにはボコボコに斬ってしまえないかというと、「その老害さんが代表しているものの中に自分たちの良さの根幹も混ざっている」からだと言えるでしょう。