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「すみません」と「ありがとう」の間。

この回のブログで、後輩キャラってものの重要性について話した時に、最後の部分で、「すみません」って案外良いよね、ガイジンから見たらなんか変だけど的なことを書いたんだけど。

なんか、あれからちょっと時間たってきて、やっぱ「ありがとう」の方がいいなあとか思ったりしてきた。

「ありがとうと、君に言われるとなんだか切ない」って宇多田ヒカルさんの歌があるけど。

あれ、「”愛してる”よりの”大好きだよ”の方が君らしいんじゃない?」って歌詞もあるし、なんかこう・・・・大雑把に言うと「欧米風の生活の仕切りと、その裏側にあるリアルな感情」の間の相互干渉が切ない人生の味・・・・って感じの歌なのかなと思うんですけど。

「愛してるvs大好き」「ありがとうvsすいません」

みたいな、そういう二分法的な文化のあり方ってのがある気がする。

いや、「すいません」とか言うと二人の愛を語るモードにはありえない感じになるけど、志村けん風に「いつもすまないねえ」「それは言わない約束だよお父つぁん」みたいな(笑)のを考えると、結構この「二分法的な感じ」がイメージできるんじゃないかと思うんだけど。




両者の違いって何なんだろうな?って思うと、まあ、戦後の自虐風思想的に言えば「甘え」の論理があるってことになるんだと思うんですよね。

「愛してる」や「ありがとう」には、「責任」があるけど、「大好き」や「すいません」には「責任」がない・・・・っていうのは一面的すぎる言い方だけど、そういう風に表現すること自体は可能なメカニズムはあると思う。

要するに、一種「明晰に言語化できる文脈」を前提としないと「愛してる」や「ありがとう」にはならないんだけど、「大好き」や「すいません」は、そのへん色々とウヤムヤにしたまま使えるんだよ的な話か。

で、こういう二分法的な問題がそこにあるってなったときに、常に「欧米風>>日本風」みたいな自虐風の理解をする(それは個人が確立していない甘えに過ぎない)っていうのか、それとも「日本人なんだから日本風だろーがコンチクショーめ!」ってなるのか、両極端になるのは良くないと思うんですよ。

どっちにも良い部分はあるはずだから使い分けるべきなんですよね。



で、他人との関係っていうのは、常に「明晰に言語化できる関係性」だけで理解できるわけじゃないからね。

だから、「フレームワーク的な思考でガシガシ経営分析していくと、思考の原料としての”悩んできた生身の蓄積”が減ってきて、”思考のための思考”みたいになっちゃう」っていうのと同種の問題はあるんですよ。

だからといって、どこにも折り目がつかないグダグダの密度感の中で生きてるのも息苦しいしね。

特に、今の時代、「誰の助けも借りないで自分だけの力だけで」っていう感じで生きていきづらい時代ですからね。

昔みたいに、たまの村の寄り合いの時だけ愛想よくしてさえすれば、自分の仕事は自分の田畑の中だけでモジュールが完全に独立していて、ただただその中で自分の本分を尽くせばいいって時代じゃないですから。

だから、「他人との関わり」がどうしても必要になってくるんだけど、それをね、「あらゆる他人との関係をちゃんと真心を込めて」って言い出すとほんと辛いんですよ。

日本人が、日本の中だけで、ていうか日本人の共有記憶の中にある「ムラ」の中の濃密な人間関係のレベルのスタンダード感で、「他人との真心的関係」を実現しようとする・・・・のを、この複雑に世界中が絡まりあった世界でやろうとしたらもうほんとしんどい。

いやマジで70億人全員に必死で気を使って生きないといけなくなったりする(笑)

戦後左翼風の平和運動ムーブメントが異様なほどナイーヴなのは、そのへんマジで「70億人に気を使って生きている」ところがあるんだと思うんですよね。

で、まあ、あれ自体はナイーヴすぎて問題だと思うんですが、その「性根や良し」と僕は思いたいというか、そういう「和を持って尊しとなす」みたいなの自体は良いなと思うんですけど。

でもね、それを「すみません・大好き」のレベルでやるってなったらちょっと無理があるじゃないですか。

「ありがとう・愛してる」の方は、それなりに文脈的に切断感があるからね。

「無形のどろどろした人間の本能のあらゆる問題を引き受けたり」してない。

「これをしてくれてありがとう。おしまい」だし、「あなたを愛している。あなた以外は愛してない。おしまい」でいいからね。

でも、「大好き・すいません」のレベルで70億人に気を遣うとかいうのは・・・・マジでヤバイ。精神的に破綻する道にまっしぐらだと思うんだよな。

だから、どっかで線引きをしないといけないんだけど。



でも、最初っから「愛してる・ありがとう」の世界だけで生きていると、シンプルに明晰だから、人生の前半においてかなりパッキリとした行動力のある人生を送れるんだけどさ。

そうすると、だんだん他人との関係が・・・・薄くなってきて、どうも自分一人だけ突っ走ってるみたいな感じになるんだよな。

で、そういう人って、「明快な論理」だけで突っ走る人生が一段落すると、今度は逆に物凄く慈善的というか、歯の浮くような?とまでは言い過ぎだけど、妙にロマンティスト的なことを言い出したりするんだけどね。

なんか、ゲイツ夫妻とその財団みたいな感じというか・・・・自分がやるだけならいいんだけど、世界中の金持ちに同じようなことしろって迫ってくるあの感じ。

ああいうのを見ていると、「最初の段階」で、「自分の人生のモジュールを区切って」しまう以前の段階を、もうちょっとジックリと結晶化させるようにやっていけば、もうちょっと「自然な広がり」が実現できるようになるんじゃないか・・・・と思わないでもない。

まあ、アメリカじゃそんな迂遠なことやってられないんだろうけど、日本ならまだそういうことが可能な余地があるはずで、そこを徹底活用することが日本「ならではの良さ」っていうのを追求していくときに鍵になるんですよ。



要するに、人生の前半と後半では、ゲームのルールが違うっていうか、活躍できる性質が違うんだよね。

単純に言うと、人生の前半においては「割り切りが良ければ良いほど強い」んですよ。

単純明快に行動し、悩まずに考え、次々と「明確に目に見える成果」を積み上げていけばいい。

でも、そのムーブメントがある程度以上に大きくなってくると、「自分自身の肉体」が「ガッと掌握できる範囲」を超えてくるんだよね。

そうすると、なんかこう・・・・バタフライエフェクト(小さな初期条件の違いが、色んな複雑な相互影響の蓄積の結果、物凄く大きな結果の違いになってあらわれるようなメカニズムのこと)的なものが凄く効いてくるんですよ。

「単純明快に行動したときに捨てたような他人への配慮」的なのが、より広範囲に、特にマスコミ的な規模にまでなってきた時には凄く効いてくる。

もちろん、だからといって一生ただただ悩み続けてなんにも答えが出せずに終わるっていうのもどうかと思うんで、どこかでちゃんと「明確で明晰なパッケージ」に結晶化できるように持っていくべきだと思うんですけど。

それに、やっぱ人間得意不得意があるんだし、パッパッパッパッっていう行動力こそが自分の信条っていう人は、その特性を活かしていくのが天の配剤としての最適だと思うしね。

そういう「まず成功するタイプ」と「時間かけて結晶化するタイプ」が、ちゃんと、このブログで何回も言ってきた「アメフトのロングパス的連携」ができるようにならなきゃいけないんで、だからどっちの役割も当然必要なんですけど。



アメリカ的にシステム化された世界が、世界を明晰化していくと、「ありがとうと言われるとなんだか切ない」の間にある、「本来つながれる感情の連携」を、全部その「荒い網目」に捨象しちゃう中で、「将来バタフライエフェクト的に効いてくる広域な連携の喚起力」みたいなのが失われてくるんだよな。

アメリカンロックがだんだん何十年に一回は行き止まりになって、そのたびにブリティッシュ・インベイジョン的に英国ロックからの「注入」が必要になるのはそのへんの事情で。

明晰に明晰に明晰にやっていくと、「本来なんとなく繋がっていた連携性」みたいなのが途絶してくるんで、それを無理やり回復するとなると、かなり「わざとらしい社会運動」的なものになりがちで。

なんか・・・もうちょっと、イメージ的に言うと「NPOより松下幸之助的な感じ」っていうような解決策があるはずなんですよ。

もちろん、この記事で書いたように、「システム的なもの」とぶつかり合う「西郷隆盛的存在」が今後成立しなくなるように、過去のご本人と同じ形での松下幸之助も成立しない時代なんですけど。

「システム自体」を徹底的に高度に運用して、「システム自体が松下幸之助」みたいになるようにしなきゃなんですよね。



とはいえ、ゲイツ夫妻を批判してるわけじゃなくて、現状はあれが最高の理想ってのはわかってるんですけど、そうじゃない、「そもそも」のスタート時点が違うやり方があるはずなんですよ。

つまり、「ゲイツ夫妻」が成功していくプロセスの中に、「普通の人」をかなり「限定的な役割」に押し込めてしまうようなメカニズムが内包されているから、結局最後はああいう「無理やりな慈善活動」に帰着しなくちゃいけなくなって、世界中に貧困が巻き起こる(欧米が進出するまではその地域なりの静謐な安定があったはずの地域に)・・・・っていうメカニズムがあるんでね。

なんか、最初のボタンを掛け違ったまま超高速で下までボタンを止めちゃって、あとで余ったボタンをなんとかするのに物凄く大仰な論理を持ち出すことが必要になる・・・・みたいな齟齬があるんですよ。

そもそも根本的に「そうじゃない連携」をトータルに考えないと、部分的な成功事例をいくつ追っていっても、社会全体で「湧くが如き生命力」は実現できないだろう・・・・っていうのが、まあ、ほんと「わけわからん探求生活」を日本社会のあちこちで続ける中で、イレギュラーなことに触れまくった結果僕が最終的にたどり着いた結論なんですよ。



でね、だから、やっぱり「二段階のモード」ってのが大事で。

とりあえず「すいません・大好きです」の世界で、「密度感のあるドロドロの世界」を生きておくんだと。

でも、最終的に「愛してる・ありがとう」の明晰な世界に到達するんだ・・・・そこに行くまでに、「リアルなどろどろさをできるだけ毀損しないように結晶化させるんだ」っていうような、そういう、このブログで何度も説明してきたような「PQ的大道楽のモード」が大事なんですよね。

で、そうすることで、「システムが世界を覆うこと」と、「システムが取りこぼすリアリティをシステム内部に入れ込む特別の装置が強力に働いていること」の「両輪」が実現するんですよ。



「すいません」じゃなくて「ありがとう」って言える・・・・気分になってきたのは、僕が「後輩生活中」に受け取った「ご恩」の分を、ちゃんと世界に「グローバリズム的にちゃんと成立する明晰な商品」として再度「お返しする目処が立った」からなのかもしれないなと思った。

「すいません」で積み重なってきた、「悪いなあ。いつかこれをなんとかお返しせねば」っていうような思いが、ちゃんと「これでお返しできます!この形でお返しさせてください!」って胸を張って言える段階に来たということなのかもしれないなと思ったりして。

だから、過去に色々ご指導をたまわったり、ご迷惑をおかけした日本社会のあちこちにおられる方々に対しては、これからは、「すいません」じゃなくて「ありがとう」って言うことにしようと決めた。

ありがとうございました。





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国内外の社会構造の変化を把握するとともに、中長期的な政策の軸となる考え方を検討し、 世の中に広く問いかけることを目指すプロジェクト

っていうのがあって、このリンクからパワーポイント資料が読めるんですが。

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最近出版の依頼を下さった人がいて、”出版社の女性社長さん兼編集者”としてギョーカイでは結構有名な人らしいんですが、「21世紀の薩長同盟を結べ」本体を読むまで、プロフィール欄を読んでも「???」って感じだったと言われたんですよね。

その「???」になったっていう文章は、本の著者プロフィール欄に記載されているコレなんですが。

1978年神戸市生まれ。兵庫県立神戸高校、京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感、その探求を単身スタートさせる。まずは「今を生きる日本人の全体像」を過不足なく体験として知るため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、時にはカルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働くフィールドワークを実行後、船井総研を経て独立。「個人の人生戦略コンサルティング」の中で、当初は誰もに不可能と言われたエコ系技術新事業創成や、ニートの社会再参加、元会社員の独立自営初年黒字事業化など、幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。星海社新書より『21世紀の薩長同盟を結べ』発売中です。
で、「なるほど、意味わからない・・・かもしれないな」と思ったんで、それについて、一度まとめた文章を書いておいたほうがいいのかな・・・と思って、これから書きます。

日本から老害を一掃して残業を減らす唯一の方法

なんか挑戦的なタイトルになってしまいましたが、ただ最近「老害」っているんだよなァ〜と物凄く実感することがあって、その詳細をそのままは言えませんがそのやるせない思いをより広くて皆様と共有できるテーマとして昇華して書いてみたいと思っているんですが。

あなたは、「老害」って言葉、キライですか?好きですか?

私は最近まであまり好きではなかったです。老害扱いされてる人にも、うまく使ってあげればそれなりの価値やら色々あるんだぜ・・・と言いたい気持ちが結構あって。

ただ、そんなこと言ってると「老害さん本人」が「自分の老害性」を一切意識せずにノウノウと暮らし続ける反面、困ったことにその「老害さん」は権力持ってたりするのでその集団全体の適切な運営がどんどん滞り、直接的には「ヤル気のある若手」さんが、そして結果的には「その組織の人全員」が非常に困った状況にみんなで追い込まれていくことになってしまう。

物凄く大枠での言い方をすると、過去20年にわたる日本の苦境はこの「老害さんをどう扱うか」について、思い切りの良い諸外国のように何のテライもマヨイもなくボコボコに権力を奪って放逐していくような思い切ったマネジメントができなかったから・・・と言ってしまっても悪くないかもしれません。

ただね。現状の日本は、老害さんたちを腫れ物に触るように扱って捨てずにいたので、社会全体が「トランプvs反トランプ」みたいにどこまで行っても平行線な対立に落ち込んだり、スラム街がどこまでも悲惨なスラムになっていくようなことは避けられたり・・・というプラス面もあったんだろうとは思います。アメリカに比べたらまだ貧富の格差もまあマシなレベルに留まっている。

つまり、なぜ日本が「老害さん」たちを諸外国のようにはボコボコに斬ってしまえないかというと、「その老害さんが代表しているものの中に自分たちの良さの根幹も混ざっている」からだと言えるでしょう。