電力問題の混乱が、せめて『21世紀の薩長同盟』へと日本人を追い込んでいく(ように持っていかなくちゃね)。
気づいたら半月近くもブログ更新してない・・・・困ったな。
一個前の記事に書いたように、結構自分自身の転換期だなと思ってるんですよね。次回作に向けて、思いっきり自分を変えていかなくちゃいけないなと思っている。
んで、中途半端に昔の延長で適当な文章を書くのは良くないなと感じていたりして。
近況報告的なことを言うと、次回作のために、この前までは、担当編集者さんの過去作品をずっと読んでたんですけど、今度はそのレーベルを一貫して手がけているブックデザイナーさんのインタビュー集なんかを読んでます。
そこまでせなあかんもんかね?と自分でも思うけど、やりたいんだから仕方ない。
書くべき内容については、もう打ち合わせが終わってて、章立てとかも出来てるんですけど。「ど真ん中を狙う新しい文体」をたちあげたいなと思っているところです。
・
関係ないようで関係ある話なんですが、僕は、「超長期には脱原発派&短期には、安全確認取れた原発の再稼働賛成派」なんですけど。
最近のテレビとか新聞とかだけ見てると、あまりに「脱原発に有利な情報以外シャットアウト」って感じで、フェアじゃないなあ・・・と思ってしまう。
まあ、今まで「推進派に有利な情報以外シャットアウト」状態だったみたいなもんなんだから、やり返してやるってことに何の躊躇もないぜ!!!ってことなのかもしれないけど。
再生可能エネの強力な推進にしても、原発代替発電の燃料費にしろ、それで老朽火力の再稼働をさせてることにしろ、あるいは電力不足の対策を講じなくちゃいけなくなることにしろ、凄いコスト増になることが予想されるはずなのに、それについて触れてるマスコミ情報がほとんどない・・・・のはやっぱ常軌を逸していて気持ち悪い。
一方で、原発関連のコストが原発止めてもこれだけかかる・・・・いかに原発が高コストなことか!!みたいな情報は、鬼の首を取ったように凄い大きな紙面になってたりして。(”既に作ってしまった原発のコスト”という観点で冷静な比較してる記事すらなかなか無い)
「これぐらいカネかかりますよ?あなたの電気代はこれだけあがりますよ?それでもやりますね?」
って言うんなら、それはそれでいいと思うんだけどさ。
それを言わずに(しかもほとんど”一切言わずに”というレベルで)、「経済優先の時代から、命の大切さを軸とした時代へ」みたいな超クールだね、カッコいいね!!みたいなことだけ言って、で、その「ムチャぶり」と「現実」との間のギャップは全部電力の安定供給の責任を負ってる人たちにおっかぶせてしまう・・・というのは、やっぱり人間として良くないと思う。
「どんな犠牲を払っても我々は進まなくてはならない」とか「本当に大事なことって何だろうか?ということを、一人ひとりが問いなおす時代なんだ」とか・・・・いやいや、そりゃそうですけれども!!!みたいなことを言っておいて、その現実的なフローは結局「巨悪」さんに丸投げ・・・っていうのは、やっぱ良くないと僕は思います。
しかもそういうこと言ってる人は、無条件に「”巨悪”な人たちを除く無数の無垢の市民たちは全員自分と同じ意見だ」みたいな感じの欺瞞を凄くナチュラルにゴリ押してくるのがね、なんか。
自分の道徳的満足のための行為を「現実レベルで吸収する苦労」を他人におっかぶせる形のサヨクな行為は誰のためにもならない・・・っていうことは、20世紀の歴史から人類が学ぶべき最大のレッスンだと僕は思うんですよね。
僕としては、「超長期には脱原発派」っていう僕のポジションだけ取ってみても、別にそれは全然合理的な発想というよりは、「やっぱり、使わずに済むならそれが一番だよな」っていう程度の、非常に「センチメンタルな心情サヨクだなあ俺は」って感じで恥じてる部分もあるわけなんで、あまりに「脱原発派」の人たちがゴリ押し的だと、自分の「超長期的には脱原発」ってポジションすら、引っ込めてしまいたくなってしまう。
まあ、現実的には、ある程度公選的な立場(政治家だけじゃなくて”一般消費者”に選ばれる立場も含む)の人は、この風潮を無視しては存在していられないって部分もあるんでしょうけど。
うまく、両者のメンツが立つように、最適なタイミングで、夏に無茶な節電とかしなくちゃいけなくなるような事態は避けられるように動いていって欲しいと思っています。
「冷徹な論理が通らない水戸黄門社会な日本だからダメだ」って言うのは簡単だけど、それはもう「日本人は日本人だからダメだ」って言うレベルで仕方がないことなんで、だからもうそれは覚悟した上で「あるべきところ」に「水戸黄門的解決」で持っていくしかないっていうか。
「三方一両損の大岡裁き」みたいな、各方面のメンツが立つ形で、できるだけ「無駄のない形」に落ち着いていけばいいなと思っています。
・
ただ、そういう話とは別に、次回作の出版オファーを受けてからの僕の傾向として、
「経済優先の時代から、命の大切さを軸とした時代へ」
みたいなこと言ってる人と、僕はもっと仲良くならなくちゃいけないなと思っているんですよね。
そこにある「気持ち」は物凄い共有できると感じる。
「数字だけ積み上がったって幸せになれないぜ」
みたいなのはね。
でも、もう一歩先へ進めて、
「数字だけ積み上げようとするのは、経済成長原理主義的に考えても非合理だぜ」
っていう風に持っていきたい。
っていうか、そういう風にしないとこれからの時代は何も現実的なムーブメントに繋がらないからね。
結局、「生きている生身の人間の奥底にあるニーズ」がちゃんと「経済の最前線」に乗るフローを分厚く稼働させていかないと、「本当に必要なもの」じゃなくて「とりあえず売りやすいもの」ばっかり市場に溢れる結果になるんで。
そしたら、そりゃ「力強い需要」なんて生まれないし、大雑把に言えばデフレにもなるぜって話なんで。
だから、「アンガージュマン」とか「ミヒャエル・エンデ」とか「実存主義」とか、なんかそのレベルで「個人の奥底」から湧いてくるものを、「市場」に載せていく・・・っていうことが物凄い大事なんだよ。
そういうフローを確実に生み出す経営実務上の配慮を社会全体で共有していくことが今一番必要なことなんですよね。
で、その「気持ち」だけを見たら、
「経済優先の時代から、命の大切さを軸とした時代へ」
て、「あれ?俺のメッセージじゃね?」って感じがしてくる(笑)
そういうメッセージを発している人たちは、とにかく「金融関係者とか電力会社とか全部を”巨悪”呼ばわり」してしまう形になってるんですけど。
「巨悪扱いせずに、良心を通すやり方があるぜ、カモナジョイナス!!」
みたいな”爽やかな”メッセージこそが、倉本圭造が発していくべきメッセージ・・・っていうか、そもそも「今までも一貫してやってきたこと」じゃないか?という気がしてきた。
むしろ、「無責任な左翼的心情」が暴走しないようにするためにこそ、「新しい最先端な左翼性(市場とちゃんと両立可能な)」を推進していかなくっちゃね!!!っていう風に持っていかなきゃと思うようになった。
ビートルズどころか、ピーターポールアンドマリーぐらいの確固とした気持ちでその「新しい21世紀の左翼性」の感情の軸を作っていかなくちゃみたいな(笑)
こういう「左翼性をまとめ上げる旗印」って、欧米だと、最新のものでもびっくりするほどアナクロというか、フランス革命時代から変わってない・・・・は言い過ぎにしても1960年代から何も変わってない・・・みたいなとこありますからね。
でも、日本には、形として明確にはなってなくても、「その先」がもともとナチュラルにはありますから、そこを新しい明確な旗印に再構成できたら物凄い「世界最先端な可能性」が生まれるんですよ。
ヒッピーくずれのスティーブ・ジョブズがあれだけの革新性を発揮したように、結局「規制緩和で競争させまくれば万事解決」っていうだけの世界観で、本当に「生命力溢れる新しい経済」が立ち上がったりしないですからね。
その「外側」にあるものを、「内側」に注入しなくちゃいけないんですよ。
その点において、「世界最先端の新しい可能性」を、今日本は手に入れられる手前に来てると言えます。前途は多少多難ですけどね。
なんせ、戦後日本のポップカルチャーっていうのは、究極的にはこの問題について、「本当の正義ってなんだろうか」みたいなことを、切実な問題として突き詰めて突き詰めてここまでやってきたんですよ。
ただ征服戦争に勝ったから無反省で良かった国とか、「被害者役」として誰かを糾弾していればよかった国とは、「自己反省の積み重ね」の密度と蓄積と切実さが全然違うってことを見せてやる!!!っていう領域がそこにはあるんですよ。
で、本当に持続可能な優位性を発揮できるコアコンピタンス(他者に真似できない優位性の核となるもの)っていうのは、それぐらい「自分たちだけに課せられた運命的問題」と向きあうことからしか生まれないんですよ。
目先の小ネタ的流行の取り入れ方の色合いをちょこっと変えてみた程度のものではダメなんですよ。
・
今年一年、電力問題を含めてあらゆる混乱は続くでしょうけど。
結局これは、「ただ数字だけ求める経済の風潮」という片側の極端が一方にあって、それが嫌だからといって「もう文明社会とか面倒くせえじゃん、全部リセットしちまえよ!!」っていうようなもう片方の極端が一方にあって、で、そこにある対立が「切実な問題」として表に出てくる運命にあるわけですけど。
どちらも、相手側を非難してるだけでは永久に無意味な平行線的論争が続くので。
しかし、その「無意味さ」の限界をこれでもかこれでもかと痛感させられていく・・・・という意味において、この困難にも意味がある・・・と思いたい・・・というか、そう思わないとやってられない感じだというか。
ただ、ここまで緊急的に切実な状況になるとは思ってなかったものの、大枠で言うとこういう危機を乗り越える新しい枠組みがないと人間は前に進めない・・・という問題意識で僕はこの10年やってきたんで。
どっちか片側だけじゃない、「両方取れるあり方」っていうのが、あるんだぜ・・・・という認識に、立つ人が一人ずつ増えていってくれればと思います。
「経済の現実を司る側」の人は、「反対側の人を説得する材料」として。「人間性の良心」代表の人は、「それを現実レベルで実現するための新しい世界観」として。
結局、その「薩長同盟的方向性」に広い範囲のコンセンサスが集まらない限り、日本はこのまま何も決められない、罵り合いだけしながらズルズル衰退することになりますよ。
「片側だけの論理」にしたほうが、「論理」自体はわかりやすくなってカッコ付けるのは簡単になるけど、「現実レベル」で実現しようとすればするほど「逆側の敵」が大きくなるようなビジョンを、本当に具現化するなんて不可能なんですよ。それこそヒトラー的な方向にいかない限り。
むしろ、「そもそもの発想」の時点で、「どちらか片側だけでない立脚点」ベースで、しかもちゃんと経済の現場的事情とも噛みあった配慮がなされたビジョンでやっていかなくちゃいけないんですよ。
それが、「21世紀の薩長同盟を結べ」なんですよね。
まずは出版社のサイトで試し読みからどうぞ。ブログ一回分程度の「はじめに」だけでも、「新しい方向性」の萌芽は感じてもらえると思います。
一個前の記事に書いたように、結構自分自身の転換期だなと思ってるんですよね。次回作に向けて、思いっきり自分を変えていかなくちゃいけないなと思っている。
んで、中途半端に昔の延長で適当な文章を書くのは良くないなと感じていたりして。
近況報告的なことを言うと、次回作のために、この前までは、担当編集者さんの過去作品をずっと読んでたんですけど、今度はそのレーベルを一貫して手がけているブックデザイナーさんのインタビュー集なんかを読んでます。
そこまでせなあかんもんかね?と自分でも思うけど、やりたいんだから仕方ない。
書くべき内容については、もう打ち合わせが終わってて、章立てとかも出来てるんですけど。「ど真ん中を狙う新しい文体」をたちあげたいなと思っているところです。
・
関係ないようで関係ある話なんですが、僕は、「超長期には脱原発派&短期には、安全確認取れた原発の再稼働賛成派」なんですけど。
最近のテレビとか新聞とかだけ見てると、あまりに「脱原発に有利な情報以外シャットアウト」って感じで、フェアじゃないなあ・・・と思ってしまう。
まあ、今まで「推進派に有利な情報以外シャットアウト」状態だったみたいなもんなんだから、やり返してやるってことに何の躊躇もないぜ!!!ってことなのかもしれないけど。
再生可能エネの強力な推進にしても、原発代替発電の燃料費にしろ、それで老朽火力の再稼働をさせてることにしろ、あるいは電力不足の対策を講じなくちゃいけなくなることにしろ、凄いコスト増になることが予想されるはずなのに、それについて触れてるマスコミ情報がほとんどない・・・・のはやっぱ常軌を逸していて気持ち悪い。
一方で、原発関連のコストが原発止めてもこれだけかかる・・・・いかに原発が高コストなことか!!みたいな情報は、鬼の首を取ったように凄い大きな紙面になってたりして。(”既に作ってしまった原発のコスト”という観点で冷静な比較してる記事すらなかなか無い)
「これぐらいカネかかりますよ?あなたの電気代はこれだけあがりますよ?それでもやりますね?」
って言うんなら、それはそれでいいと思うんだけどさ。
それを言わずに(しかもほとんど”一切言わずに”というレベルで)、「経済優先の時代から、命の大切さを軸とした時代へ」みたいな超クールだね、カッコいいね!!みたいなことだけ言って、で、その「ムチャぶり」と「現実」との間のギャップは全部電力の安定供給の責任を負ってる人たちにおっかぶせてしまう・・・というのは、やっぱり人間として良くないと思う。
「どんな犠牲を払っても我々は進まなくてはならない」とか「本当に大事なことって何だろうか?ということを、一人ひとりが問いなおす時代なんだ」とか・・・・いやいや、そりゃそうですけれども!!!みたいなことを言っておいて、その現実的なフローは結局「巨悪」さんに丸投げ・・・っていうのは、やっぱ良くないと僕は思います。
しかもそういうこと言ってる人は、無条件に「”巨悪”な人たちを除く無数の無垢の市民たちは全員自分と同じ意見だ」みたいな感じの欺瞞を凄くナチュラルにゴリ押してくるのがね、なんか。
自分の道徳的満足のための行為を「現実レベルで吸収する苦労」を他人におっかぶせる形のサヨクな行為は誰のためにもならない・・・っていうことは、20世紀の歴史から人類が学ぶべき最大のレッスンだと僕は思うんですよね。
僕としては、「超長期には脱原発派」っていう僕のポジションだけ取ってみても、別にそれは全然合理的な発想というよりは、「やっぱり、使わずに済むならそれが一番だよな」っていう程度の、非常に「センチメンタルな心情サヨクだなあ俺は」って感じで恥じてる部分もあるわけなんで、あまりに「脱原発派」の人たちがゴリ押し的だと、自分の「超長期的には脱原発」ってポジションすら、引っ込めてしまいたくなってしまう。
まあ、現実的には、ある程度公選的な立場(政治家だけじゃなくて”一般消費者”に選ばれる立場も含む)の人は、この風潮を無視しては存在していられないって部分もあるんでしょうけど。
うまく、両者のメンツが立つように、最適なタイミングで、夏に無茶な節電とかしなくちゃいけなくなるような事態は避けられるように動いていって欲しいと思っています。
「冷徹な論理が通らない水戸黄門社会な日本だからダメだ」って言うのは簡単だけど、それはもう「日本人は日本人だからダメだ」って言うレベルで仕方がないことなんで、だからもうそれは覚悟した上で「あるべきところ」に「水戸黄門的解決」で持っていくしかないっていうか。
「三方一両損の大岡裁き」みたいな、各方面のメンツが立つ形で、できるだけ「無駄のない形」に落ち着いていけばいいなと思っています。
・
ただ、そういう話とは別に、次回作の出版オファーを受けてからの僕の傾向として、
「経済優先の時代から、命の大切さを軸とした時代へ」
みたいなこと言ってる人と、僕はもっと仲良くならなくちゃいけないなと思っているんですよね。
そこにある「気持ち」は物凄い共有できると感じる。
「数字だけ積み上がったって幸せになれないぜ」
みたいなのはね。
でも、もう一歩先へ進めて、
「数字だけ積み上げようとするのは、経済成長原理主義的に考えても非合理だぜ」
っていう風に持っていきたい。
っていうか、そういう風にしないとこれからの時代は何も現実的なムーブメントに繋がらないからね。
結局、「生きている生身の人間の奥底にあるニーズ」がちゃんと「経済の最前線」に乗るフローを分厚く稼働させていかないと、「本当に必要なもの」じゃなくて「とりあえず売りやすいもの」ばっかり市場に溢れる結果になるんで。
そしたら、そりゃ「力強い需要」なんて生まれないし、大雑把に言えばデフレにもなるぜって話なんで。
だから、「アンガージュマン」とか「ミヒャエル・エンデ」とか「実存主義」とか、なんかそのレベルで「個人の奥底」から湧いてくるものを、「市場」に載せていく・・・っていうことが物凄い大事なんだよ。
そういうフローを確実に生み出す経営実務上の配慮を社会全体で共有していくことが今一番必要なことなんですよね。
で、その「気持ち」だけを見たら、
「経済優先の時代から、命の大切さを軸とした時代へ」
て、「あれ?俺のメッセージじゃね?」って感じがしてくる(笑)
そういうメッセージを発している人たちは、とにかく「金融関係者とか電力会社とか全部を”巨悪”呼ばわり」してしまう形になってるんですけど。
「巨悪扱いせずに、良心を通すやり方があるぜ、カモナジョイナス!!」
みたいな”爽やかな”メッセージこそが、倉本圭造が発していくべきメッセージ・・・っていうか、そもそも「今までも一貫してやってきたこと」じゃないか?という気がしてきた。
むしろ、「無責任な左翼的心情」が暴走しないようにするためにこそ、「新しい最先端な左翼性(市場とちゃんと両立可能な)」を推進していかなくっちゃね!!!っていう風に持っていかなきゃと思うようになった。
ビートルズどころか、ピーターポールアンドマリーぐらいの確固とした気持ちでその「新しい21世紀の左翼性」の感情の軸を作っていかなくちゃみたいな(笑)
こういう「左翼性をまとめ上げる旗印」って、欧米だと、最新のものでもびっくりするほどアナクロというか、フランス革命時代から変わってない・・・・は言い過ぎにしても1960年代から何も変わってない・・・みたいなとこありますからね。
でも、日本には、形として明確にはなってなくても、「その先」がもともとナチュラルにはありますから、そこを新しい明確な旗印に再構成できたら物凄い「世界最先端な可能性」が生まれるんですよ。
ヒッピーくずれのスティーブ・ジョブズがあれだけの革新性を発揮したように、結局「規制緩和で競争させまくれば万事解決」っていうだけの世界観で、本当に「生命力溢れる新しい経済」が立ち上がったりしないですからね。
その「外側」にあるものを、「内側」に注入しなくちゃいけないんですよ。
その点において、「世界最先端の新しい可能性」を、今日本は手に入れられる手前に来てると言えます。前途は多少多難ですけどね。
なんせ、戦後日本のポップカルチャーっていうのは、究極的にはこの問題について、「本当の正義ってなんだろうか」みたいなことを、切実な問題として突き詰めて突き詰めてここまでやってきたんですよ。
ただ征服戦争に勝ったから無反省で良かった国とか、「被害者役」として誰かを糾弾していればよかった国とは、「自己反省の積み重ね」の密度と蓄積と切実さが全然違うってことを見せてやる!!!っていう領域がそこにはあるんですよ。
で、本当に持続可能な優位性を発揮できるコアコンピタンス(他者に真似できない優位性の核となるもの)っていうのは、それぐらい「自分たちだけに課せられた運命的問題」と向きあうことからしか生まれないんですよ。
目先の小ネタ的流行の取り入れ方の色合いをちょこっと変えてみた程度のものではダメなんですよ。
・
今年一年、電力問題を含めてあらゆる混乱は続くでしょうけど。
結局これは、「ただ数字だけ求める経済の風潮」という片側の極端が一方にあって、それが嫌だからといって「もう文明社会とか面倒くせえじゃん、全部リセットしちまえよ!!」っていうようなもう片方の極端が一方にあって、で、そこにある対立が「切実な問題」として表に出てくる運命にあるわけですけど。
どちらも、相手側を非難してるだけでは永久に無意味な平行線的論争が続くので。
しかし、その「無意味さ」の限界をこれでもかこれでもかと痛感させられていく・・・・という意味において、この困難にも意味がある・・・と思いたい・・・というか、そう思わないとやってられない感じだというか。
ただ、ここまで緊急的に切実な状況になるとは思ってなかったものの、大枠で言うとこういう危機を乗り越える新しい枠組みがないと人間は前に進めない・・・という問題意識で僕はこの10年やってきたんで。
どっちか片側だけじゃない、「両方取れるあり方」っていうのが、あるんだぜ・・・・という認識に、立つ人が一人ずつ増えていってくれればと思います。
「経済の現実を司る側」の人は、「反対側の人を説得する材料」として。「人間性の良心」代表の人は、「それを現実レベルで実現するための新しい世界観」として。
結局、その「薩長同盟的方向性」に広い範囲のコンセンサスが集まらない限り、日本はこのまま何も決められない、罵り合いだけしながらズルズル衰退することになりますよ。
「片側だけの論理」にしたほうが、「論理」自体はわかりやすくなってカッコ付けるのは簡単になるけど、「現実レベル」で実現しようとすればするほど「逆側の敵」が大きくなるようなビジョンを、本当に具現化するなんて不可能なんですよ。それこそヒトラー的な方向にいかない限り。
むしろ、「そもそもの発想」の時点で、「どちらか片側だけでない立脚点」ベースで、しかもちゃんと経済の現場的事情とも噛みあった配慮がなされたビジョンでやっていかなくちゃいけないんですよ。
それが、「21世紀の薩長同盟を結べ」なんですよね。
まずは出版社のサイトで試し読みからどうぞ。ブログ一回分程度の「はじめに」だけでも、「新しい方向性」の萌芽は感じてもらえると思います。