アゴラ投稿の続き・・・「長州が可哀想ではないか」から開ける世界。
アゴラに投稿しました。
そのあたり、ただ単に「言ってる内容を批判」するだけじゃなくて、老練な合気道家のような振る舞いのモードを、日本の「言論空間」において形成していかなくちゃいけないはずなんですよ。
この記事はアゴラの文章の続きです。先に上記リンクのアゴラの記事をどうぞ。
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なんか、前回の記事では、結構「急進的な脱原発派」の、「無責任さ」をかなり批判するようなことを書いたんですけど、それからしばらくして、そういう批判をしているだけじゃ本当に日本を変える力にはならないし、そもそもちょっとフェアじゃないな・・・って思うようになったんですよね。
ちょっと話はズレる部分もあるんですが、最近新しくSNSケイゾーネットに入ってくれた人に、「グラミン銀行のユヌス氏の大ファンです!」っていう人がいて、凄くびっくりしたってのもあります。
ユヌス氏みたいな方向性と、僕のやっていることを、「同列なもの」として感じて、で、SNSにまで入ってくれたっていうのがなんか。
「よりよい世界にしたいという強い志は同じだと思います」って言われたら、うーん、そうか・・・みたいな(笑)
自分は全然違うと思っていたし、今でも違うとは思ってるんだけど、でも、ある種の読み手からすると一緒なのかもしれないな・・・みたいな驚きがあってですね。
ちょっと自分の立場を、深く考えなおしてしまわないとな、シニカルさがちょっとでもあるような立場は良くないな・・・・って思うようになった。(グラミン銀行が非現実的だとか思ってるわけではないです)
なんか、今の世の中「動機の純粋さが必ずしも良い結果に繋がらない」ってことが多すぎて「動機の純粋さ」自体まで不当に貶めてる部分があるのかな・・・っていう風に思ったりして。
自分自身としてはかなり「純粋な動機」でやってる部分もあることでも、「いーや、全然違うよ!!全然純粋な動機とかじゃないよ!!たまたまこうこうこういう理由でこうなったからやってるだけで、ぜんっぜん純粋な動機とかでやってるんじゃないよ!!」ってアピールしまくってる人とか、結構いるような・・・・っていうか少なくとも僕自身には結構そういう部分があるなって思ったんですよね。
年始に、「コブクロは苦手だけど馬場俊英が好き」っていう小ネタブログを書いた(これ長いし脱線しまくってるけど個人的にはお気に入りなんで良かったらどうぞ)っていう時みたいな、「”純粋さ”っていうものに”ケッ”と思いたい自分」がいて、それが良くないな・・・っていう風に反省した。
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で、だから「純粋だから良いって思ってんじゃねえぞコラァ!!」って言って、「現実性を厳しくチェック」すること自体は凄い凄い大事なんですけどね。
それ”だけ”で終わったらほんと、何にもならないじゃないか!って部分もあるんですよね。
だから、「暴走する行動家」と「冷静な批評家」っていう比較をした時に、前者がダメで後者が良い・・・っていう風に単純化するのは良くないな・・・っていう風に思うようになった。
「暴走する行動家」にアラがあるのは当然なんで、でも、「行動」してる人をうまく利用しないと「冷静な論評」自体も決して具現化しないですからね。
最近「反・急進的脱原発派」の人にはかなり評判が悪い、ある環境学者さんの、震災直後ぐらいの記事を読んだら、案外凄い冷静だな・・・って思ったんですよね。
無理やりな部分はほとんどなくて、できる範囲で一歩一歩脱原発していければいいですよね・・・っていうトーンだった。(まあところどころ挑戦的だったけど)
でも、その連載が続いていって後半になると、かなり怪しくなってくるっていうか(笑)、色々と別ソースで事実関係が否定されてしまうようなちょっと上げ底なビジョンも増えるし、断言すべきでない部分も断言調になってくるし、色々と「仮想敵」が出来てきてその人達の責任にしはじめるし・・・・ってな感じで。
で、まあその結果が現状の混乱状態・・・ってところはあると思うんですよ。
ただ、でも、そうなってしまう責任を、すべてその人のせいにするというのは、ちょっと誰のためにもならないな・・・って思ったんですよね。
一番最初の「冷静な筆致の部分」ならわかりあえるはずだったのに?ってところがある。
特に日本では、「現状の惰性」の力が物凄く物凄く強いので、本当に変革しようと思ったら、多少は無理やりでも熱量を発散する存在が必要になってくるんで。
「冷静な態度」を持っていた人でも、そのままでは何もできないから先鋭化してくる。先鋭化してくる過程で現実に合わない部分も出てくる。だからそれは修正しなくてはならない。
が、
「そうなってしまった彼の苦境」をわかってやることが道を開く
んじゃないか?
って思ったんですよね。
ある意味「生贄に捧げられて燃料にされた」って部分もあるわけですからね。
で、最近その人は、多少冷静さを取り戻したような発言をして、「急進的脱原発派ムラ(笑)」の中で「裏切りだ!!」みたいな感じになったりしてるのを見たんですけど。
だからね、要するに「暴走している長州藩」の中の「比較的冷静な人」っていう人たちの、「彼ら本来の方向性を発揮できる段取り」を、みんなで考えてあげるべきタイミングなんじゃないかと思うんですよね。
そこで「豹変」することが、「急進的脱原発派ムラ」の内側で叩かれるのは仕方ないとしても、「外側」からはかなり強力にサポートしてやらないといけないんじゃないか・・・と思う。
いや、そりゃ多少は苦々しい思いがあるとは思うんですけどね。あんな無責任なヤツをなんで擁護せなアカンねんみたいな感じで。
でもさ、何度も言うけど、「彼も被害者」ってとこあるわけじゃないですか。
で、彼が生贄に捧げられて集めてきた熱量を使って、「やるべき変革」を起こしていこうとするならば、そこには「敬意」が払われるべきだと僕は思う・・・というか、思うようになったんですよね。
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司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」の中で、薩長同盟がついに成立するシーンで、状況が整っても「薩摩藩側」からそれを言い出さないがために破断になりかけるシーンがあるんですよ。
で、「今自分たちから言い出すことはプライドが許さない。そんなことするぐらいなら破談にして滅亡するまで戦う」って長州藩側が言う(大停電させてでも・・・的なことを言っている人たちはこういう状態になってると言えると思う)のに対して、坂本竜馬が珍しく怒り心頭に発して、
「長州とか薩摩とか、そんな小さな妄想からまだ覚めないのか。我々土佐の人間が奔走してきたのは、そして死んできたのは、そんな小さな妄想のためではないぞ、”日本”のためではないか!」
的なことを叫ぶシーンも感動的なんだけど、その後薩摩藩邸にかけこんでただ一言、
『長州が、かわいそうではないか!!!』
っていうシーンがね、物凄い感動的なんですよ。学生時代に読んでマジで「そうか!!」って思った。
日本において本当に何らか大きな変革が動くときには、この台詞(的な発想)が絶対どこかで必要になるんだな!!って思ったんですよね。
いや、司馬遼太郎について熱く語るなんて、ちょっと日本の知識人(笑)失格みたいなとこありますけど、でも感動する部分なんだから仕方ない。いやマジで。
っていうかね、エンタメとして完成しているということの凄さについてあんまり斜に構えたこと言うのは良くないと思うよ僕は。うん。
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日本において、何らか志向性を持った改革を志すとね、凄い孤独になるじゃないですか。
もう周りのみんなから結構ヒドイ扱い受けるんですよね。
で、今の時代は昔と違って、「グローバリストムラ」みたいなんがあるんで、そこに入ってネオリベラルというかリバタリアンというか市場原理主義というか・・・みたいなことを言っているだけだとまだそれほど孤独にはならずに済むんですけどね。
ただ、そこにいるだけだと「一般論」の域を出ないことが多いんで、そこを出て、「個別のワンテーマ」に対して、明確な方向性を自分で立ち上げよう・・・・ってなってくると、ほんとマジで孤独になるんですよ。
「グローバリストムラ」にも、「現状の惰性日本ムラ」にもどちらからも疎外されちゃう孤独っていうかね。
で、そういう時期を長く過ごしたらね、そりゃ無理な先鋭化もするわ・・・ってところがあるじゃないですか。
限界ある個人の中で全て完結しようと思うと、やっぱり色々アラも出てくるだろう・・・・っていう部分もあるじゃないですか。
そういう人をね、その「言っていることの内容としての冷静な完成度」だけで評価するのはフェアじゃないと思うんですよね。だからといって無茶苦茶を言っていても良いってわけじゃないですけど。
だからこそね、彼らが無理な自説にこだわることなく柔軟に現実に対応しながら前に進めるように、「多少の弱みを見せてもOKなぐらいの度量」を見せてやるのが、広い意味で「薩摩藩側」にいる人間の責任じゃないかと思うんですよね。
『長州が、かわいそうではないか!!!』
って部分が、やっぱあると思うんですよ。
例えば、あれだけ評判悪かった電力会社の地域独占も解消する流れにはなったわけじゃないですか。規制緩和論者にとっては積年の願いぐらいの感じですよね。
それを成し遂げたのは、「辻斬りを繰り返した維新志士」や「暴走した長州藩」の存在感ゆえなんですよね。
やはりこの点は、「冷静な論評を続けていた人」の力では全然ない。
やはりこの点は、「冷静な論評を続けていた人」の力では全然ない。
でも、その「具体策」においては、相当に冷静に、「本当の現実」に突き詰めて考えていかないといけない。
なんせ、NTTが扱ってるのは「重さのない情報」だけど、電力って「物凄く”重さ”がある対象」ですからね。いや物理学的な「重さ」じゃないけど・・・比喩的に言って。
ブロードバンド回線がベストエフォート方式でたまによくわからん理由で切れちゃったりするけどルーター再起動したら治るよね・・・っていうような品質でもいいんですよ全然。それでガンガン安くなれば。でも電力はそうはいかないですからね。
アゴラで、過去に一番印象に残った記事がこれなんですけどね。いかに電力会社の「安定供給へのコダワリ」が凄くて、それが社員の「本能レベル」まで染み付いているのか・・・っていう記事。
で、根性論みたいに聞こえるかもしれないけど、でも、「このレベルの責任感」がないと安定供給とかできないんですよ。
で、「先鋭化した論客」はね、こういう「日本の集団の強さの源泉」みたいなのと凄く対立してしまうんですよね。水と油みたいなもんなんで、ヒドイことを言い合ってしまう。
電力自由化をどの形で行うにしろ、上記のアゴラ記事のような部分を「ナメてる」と、絶対うまくいかないんですよ。新しいスキームにするならするで、そのスキームが「仏作って魂入れず」にならないようにしなくちゃいけないんでね。
そういう「責任感」を現場の人に持たせる「仕組み」みたいなものがあるから「日本の現場」に安定性や優秀性が生まれるんであって、それは放っておいてもタダでいくらでも手に入るようなものじゃないんですよ。
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だからこそ。
だからこそね。
「変革の端緒を開いた熱量を集めた存在」に対して「敬意」を払わなくちゃいけない。
彼らが、「泳ぎ続けるのをやめたら死んでしまうマグロ」のように暴走的に他者批判を繰り返していくことによって、「停電となったら食べかけのラーメンもそのままに現場にかけつける東電社員」みたいな力を「敵」にしてしまうことがないように。
そうやって、「集まってきた熱量」が、適切に「本当に現実的に可能な方策」に落とし込めるように誘導していかないと。
そのあたり、ただ単に「言ってる内容を批判」するだけじゃなくて、老練な合気道家のような振る舞いのモードを、日本の「言論空間」において形成していかなくちゃいけないはずなんですよ。
この、「薩長同盟的信頼関係」が、途絶したままだと、どんどん「絵空事」的なものを無理やり実現して破滅に近づいていくのが日本なんですよ。既にちょっとその気配もありますけど。
でも、「暴走してる人たちだけの責任」かっていうとそうじゃなくて、「適切に彼らの孤独をサポートしてあげられない”みんな”の側の問題」でもあるんじゃないか。
「あーあ、愚民どもは嫌だねぇーー」
的なことを言ってるだけの人と、
「困った方向に暴走しちゃってる人」
は、ある意味
光と影
っていうかね。
どっちがエラいわけでもない
な・・・って思うんですよね。
でも、「暴走してる人たちだけの責任」かっていうとそうじゃなくて、「適切に彼らの孤独をサポートしてあげられない”みんな”の側の問題」でもあるんじゃないか。
「あーあ、愚民どもは嫌だねぇーー」
的なことを言ってるだけの人と、
「困った方向に暴走しちゃってる人」
は、ある意味
光と影
っていうかね。
どっちがエラいわけでもない
な・・・って思うんですよね。
やっぱり、「冷静な批評家役」の人は、「突っ走ろうとする人たち」を「批判」するのと同じぐらい熱心に、「彼らがそうなってしまっている原因」の方を溶かしてやれるように持っていかなくちゃいけないはずなんですよ。
特に日本においては。
特に日本においては。
『長州が、かわいそうではないか!!!』
っていう台詞を思い出しながらね。
それができたら、「今、ある意味非現実的な方向に突き進んでしまっているエネルギー」を、「現実的に有効な政策」に、徐々に徐々に振り向けていくことが可能なんですよね。
もちろん、そのためには、「現実的に有効な政策」を、「みんなの気持ち」と直結させるような考え方、方向性、表現方法・・・・が必要になってくるわけですけど。
「暴走する存在の非現実性を指摘する」以上に、むしろ「彼らの気持ちを吸い寄せられるだけのビジョン」を考えることに、我々は今全力を尽くすべきなんですよね。
そういう方向性について、拙著「21世紀の薩長同盟を結べ」では広範囲な経営的現実と思想的問題をクロスオーバーさせて統合的に書いてあるので。
ぜひ、読者お一人お一人のご自身のビジョンを、「合気道的に薩長同盟を実現するプラン」のヒントにしていただければと思います。
出版社のサイトで、ブログ一回分程度の「試し読み」をされるだけでも、方向性が掴んでいただけると思います。
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ある意味、ここにあるネジレは、「日本」の問題というよりは、「客観的に認証された知性」っていうシステムと、「本当の現実」との間の真実的に存在するギャップに日本人が律儀に翻弄されている結果とも言えるんですよね。
そのへん、「本当のリアリティ」はある程度無視して「システム側」だけで押し通してしまえる欧米諸国のようにスマートにはいけない我々ではありますが、「それがゆえの長所」を沢山享受しながら活躍してる国でもあるんだから、この問題からは逃げられない。
でも、この20年間何もできずにズルズル泥沼にはまってたからこそ、今これだけ「問題の核心」に迫れているとも言えるんですよ。
過去20年間うまく行ってた国には決してできない新しい「結集軸」を日本の中に成立させられるか・・・・それは、今後「長州藩的存在」が追い込まれていった時に、「薩長同盟」的ムーブメントに転換できるかどうかにかかってるんですよ。
それが、「太平洋戦争パターンや戦後左翼過激派パターン」に陥るのか、「明治維新パターン」に転換できるのか・・・・その分水嶺がこの1年ですよ。
みなさん、冷静に、しかし希望を持って対処していきましょう。その転換さえできたら日本は世界の最先端っすよ。
「客観知的システム側だけで末端まで押し通してしまっている国」なんかには絶対できない「大域的合理性と現場的密度感が両立する素晴らしい可能性」がそこには生まれますからね。