ワクチン接種推進のために我々が考えるべきこと(反ワクチン派を無視しても集団免疫は可能である)
おかげさまで先週半ばに、ワクチンの一回目を接種できました。住んでいる自治体がやっている大規模接種なので、モデルナの方です。
副反応についてみんなが煽りまくっているので、個人的に物凄く緊張していたんですが、まず刺した針もそんなに痛くなかったですし、副反応も次の日にちょっと痛みがあった程度で済みました。
なんかこう、「ほっとした」というか、「拍子抜けした」というか、もちろん、危機感を煽ってくれたおかげで、ちゃんと前日の睡眠を確保しようとか、水分を沢山取ろうとか、そういう準備が出来たことが良かったのかもしれませんが、それにしても、今のような
「ワクチン打とうかどうしようか迷っている層」を全力で躊躇わせるような周知の仕方
は変えてもいいんじゃないかと思います。
今回はそのあたりの、「あるべき周知のトーン」はどうあるべきか?みたいなことを考えながら、「マジョリティ」と「マイノリティ」のあるべき関係性とか、科学というものとの向き合い方・・・みたいな話について考えてみます。
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1●「強い反ワクチン派」の人に無理やり打たなくても集団免疫は可能である。
そもそも、反ワクチン派の人はどれくらいいるのでしょうか。
この記事によると、
日本では「やや賛成」が51%、「強く賛成」が24%と、4人に3人が肯定的に答えていて、「やや反対」が20%、「強く反対」が5%だった。
だそうで、もともと日本人の75%は今回の新型コロナワクチン接種に前向きであることがわかります。これは伝統的に強固な反ワクチン派がいて、3人に1人は明確に「打ちたくない」と答えているアメリカに比べるとかなりマシな状況と言えます。
集団免疫に必要な接種率は諸説あって、というか変異株によって基本再生産数があがればそれだけ必要な接種率も変動してしまうので、確定的なことは言えないわけですが、
・「もともと賛成派」の75%の中での打ち漏らしを防ぐ
・「やや反対」の20%をできるだけ削っていって「ふと打ってもらう」ケースを増やす
をやりきれれば、「強く反対」の5%の人は放置していても、さすがになんとかなる数字ではないでしょうか。
つまり少なくとも当面の間は、
「強固な反ワクチン派」を必死に転向させるというよりも、「もともと賛成派」あるいは「やや反対」派を、いかに「なんとなく摂取しない」的な事にならないように誘導できるか・・・にかかっている
・・・ということですね。
私は経営コンサル業のかたわら、色んな個人と文通をしながら人生を考える仕事・・・というのもやっているんですが(興味ある方はこちら)、その文通相手で日本の大企業に努めているキャリアウーマンさんによると、
職場のお局さんが反ワクチン派で、まわりにも「やめときなよ〜」とか言ってたのに、職場接種の申し込みが始まったら空気に負けて打つことにしていて面白かった
と言っていて笑ってしまいました。
いわゆる「国籍ジョーク」で、アメリカ人に何かさせたいなら「それをしたら英雄になれます」と言うとよく、フランス人には「それをするな」と言えばよく、ドイツ人には「それをやることが規則です」と言えばよく、イギリス人には「それをやればあなたは紳士です」と言えばよく、日本人には「みんなやってますよ」と言えばいい・・・的な話がありますが、やはり日本人を動かすには「空気」が大事なのかもしれません。
「強固な反ワクチン派」を無理やり転向させようとすると、色々と副作用的に「さらに強固な反ワクチン派」になりかねない恐れもあるように思うんですね。
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2●「自分に限った場合の反ワクチン派」を悪魔化しないようにしよう
あなたのまわりに「反ワクチン派」はいますか?私はこれまで身の回りで数人出会いました。
先述した「文通の仕事」で繋がっている個人投資家の方からも「実は私は反ワクチンで・・・」とカミングアウトされて、その人は他の話題では物凄く理性的で洞察の鋭い人なので、結構私はびっくりしてしまいました。
で、実際に「反ワクチン」の人と何人か話してみて思うのですが、
・「自分に限った場合の反ワクチンの人」
と
・「他人が受けることも反対する反ワクチンの人。”反ワクチン運動”をする人」
はかなりトーンが違うというか、人のタイプとしても違うように思います。
「自分に限った場合」の人は結構インテリな人も多くて、色々と冷静に情報を得た上で、「自分のこだわり」としてリスク以上のメリットがないと感じているとか、とにかく余計なものを体に入れたくないとか、それぞれいろんな理由で自分自身は打ちたくないと思っている。
しかし、そのタイプの人の多くは、他人が打つのをわざわざ止めようとか、政府がやろうとしている施策を邪魔しよう・・・という人は多くないように思います。
友人のアメリカ人なんかは、反ワクチンについて持論を述べていた自分のユーチューブチャンネルをグーグルに停止されたりしたんですが、その事について真剣に怒ってるというよりむしろ面白がっていて、
「はっはっは、この世の中フリースピーチ(言論の自由)なんてないね!!」
と冗談めかして言うものの、結構おとなしく今は自分がアラスカの僻地で電気もガスも来ていない土地に自分で建てた小屋に住む計画についての別のユーチューブチャンネルを素直に再開設していました。
彼を見ていて思うのですが、要するに「他人に指図されたくない」というか、「自分の人生は自分のものだと思っていたい」的なタイプの人がいるんですね。
彼のユーチューブチャンネル、売出し中なのでぜひ見てあげてほしいんですが(日本人の奥さんが適宜通訳してくれてますし風景や猫を見てるだけでもいい感じです)、こないだまで日本に住んでいたんですが、わざわざアメリカの、しかも冬は酷寒のアラスカ(出身地というわけでもない)に再移住して、電気もガスも来ていない「オフグリッド」の土地に自力で小屋を建てて住むとか、普通に考えたら何でそんなモノ好きなことするの?って感じじゃないですか。
まあ普通の日本人的感覚からするとかなりの「変人」だけど、この「反ワクチンの気持ち」は「僻地にオフグリッドキャビンを作って暮らしたい気持ち」と似たようなものだと想像すると、それぐらい他人と分離して自分の道を生きたいという気持ちがあるなら、ワクチンだって嫌だと思うのも仕方ないかな、という感じがしてきますよね。
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3●「自分に関してだけ反ワクチン派」を追い込みすぎないことも大事
で、このタイプの人は、他人がワクチンを摂取することを真剣に止めたりはしないんですが、もし社会が「ワクチンを打たなければ社会生活ができない」レベルに締め付けて行ったりすると、窮鼠猫を噛む的に「真剣な反対運動」に参加せざるを得なくなりますよね。
ワクチンパスポートがあれば社会全体の集団免疫達成よりも先に飲み屋で飲めます・・・という制度が検討されているそうですが、まあその程度ならいいでしょう。
空港などでの手続きが増える・・・という程度のコストは、「あえて接種しない」のならば甘受しろよ、という感じもする。医療従事者や老人介護関係者はさすがに摂取してくださいよ・・・という感じもする。
この辺は「ちょうど良さ」が大事な領域で、ワクチン接種率をあげる非常に有効な手段なので、一切「格差」を設けてはいけない・・・というのは潔癖すぎる感じがしますが、逆に「ワクチンを打った証明がないと本当にマトモに生活ができない」ぐらいに追い込んでしまうと、「自分だけについての反ワクチン派」ですら真剣に反対派に身を投じかねないのが注意すべき点だと思います。
人によっては「反ワクチン」な人間なんて頭がオカシイ人間ばっかりだ・・・とかそういう事を言ってしまいがちですけど、そういう感覚が行き過ぎると逆効果になるような施策にも繋がりかねないですよね。
もちろん、だからといって「政策的な誘導効果を”人権的配慮”のために一切やらない」ことになってしまうと、集団免疫達成を目指す焦りから反ワクチンの人への攻撃が余計に激化してしまう事も考えられるので、
「うまく差をつけて接種に誘導はするが、逃げ道は残しておく」
というラインで細部まで気を配っていくことが、結局はあらゆる人に無駄な強制感なく社会にとっての最善を目指す動きに持っていける塩梅になるはずです。
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4●他人にも反ワクチンを薦める人、特にその「運動の親玉たち」にどう対処するか
では、次に「単に自分は打ちたくない」レベルを超えた「反ワクチン運動」に参加する人たち、特にその「親玉」さんたちにどう対処するか・・・について考えてみましょう。
日本における反ワクチン派の中で有名なお医者さんのツイッターアカウントが停止された・・・という話が最近ありましたが、こういうアカウント停止などの措置についていろいろな意見があると思います。
個人的には、まあこの状況下では停止もやむないかな、と思ってはいます。なにしろそれによって結果として社会が支払うコストが莫大すぎるので・・・
ただ、そういう「モンスター医師」をどう扱うか・・・みたいな話で言うと、その「モンスター医師本人」の言っていることはちゃんと社会が協力して否定し、間違った言説が広がっていかないように抑止すること自体は大事なことだと思うわけですが、一方で、
「モンスター医師がモンスター医師になってしまう原因」的なところを、長期的に社会がなんとか吸い上げていけるようになることを考えるべきではないか
と思っています。
上記の、ツイッターを停止された医師は、もともと非常に理想主義的で、次々と新しい改善案を提示して日本の医療を変えていこうという志のあった人なのだ・・・というネットの噂を読んだことがあります。
しかし、そういう提案が受け入れられないことに嫌気がさして、まずはガン治療を全部否定するようになり、そして今は反ワクチンのボス的存在になってしまったのだとか。
「モンスターがモンスターになってしまう前の状態」というのがあったはずなんですね。
他にも、コロナ禍がはじまってから、「日本の対策担当者のやっていることを全部否定して逆を言う」言論でワイドショーなどに持て囃され、一方で現場のお医者さんクラスタから総スカンになっている”K氏”がいますね(彼は反ワクチンではありませんが)。
実は、彼がコロナ前に書いた「日本の医者の数は政策的に低く抑えられすぎており、特に関東圏において何かあれば医療逼迫するのは避けられない」という趣旨の提言本は、たまたま読んだのですが物凄く勉強になりました。
しかし、そういう「提案型の理想主義者で、中でも個人主義的で寝技のような根回しが苦手な人物」の言い分をうまく吸い上げられない日本社会の問題というものがまずあって、そういう人が「平時」に必死に提案したことを受け入れてもらえていないという怨念が蓄積されている結果、いざこういう大きな問題が生まれたときに「モンスター」として出現し、具体的な政策議論を混乱させる原因となってしまっているのではないでしょうか。
「日本医師会の既得権があって、いろいろな問題が起きているのだ」という指摘は最近も色々とされていますが、逆にその既得権ゆえに保たれている日本の医師の必死の働きによって、ギリギリのところで日本の医療はアメリカみたいに貧乏人と金持ちで受ける医療が全然違うというような事態にはなっていない事情とかもあって、なかなか単に「既得権を攻撃する」だけでは変化が難しそうです。
今のままだと本当に、コロナ禍が去ったらまた結局「完全に今の延長」の制度のままになってしまいそうですが、そうしないためには、K氏のような提案者の意見をちゃんと吸い上げつつ、現実的な社会の事情とすり合わせて最適な姿を模索する・・・そういう「機能」がどこかに必要でしょう。
私は、中央官僚システムを、ある種抜本的に強化して、K氏のような提案を、ただ否定するでもなく、一緒になって「●●をぶっ壊せ!」式の既得権叩きムーブメントにしたてるでもなく、冷静に制度の細部を設計して日本社会の事情と新しい考え方をすり合わせられるようなセンターとしての機能をもたせるべきだと思っています。
今は官僚システムに余力がなさすぎて、K氏的な人物の提案をうまく吸い上げられず、「完全に無視して大雑把に現状維持」してしまうか、「取り入れるのはいいが大雑把に●●をぶっ壊せ式の暴論で改革する」結果としてどこかにシワ寄せが行くだけで終わり社会に呪詛の声が満ち溢れる・・・の二択みたいになってしまいがちですよね。
「K氏がモンスターにならずに済む」ような、平時の「提案を吸い上げてちゃんとすり合わせて実行するセンター」を、日本社会のどこかが持てるようになることが、「反ワクチン運動の親玉になってしまったモンスター」たちをちゃんと抑止していく一方で、「彼らの魂の鎮魂」のために大事なことだと私は考えています。
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5●「人々の主体性」を「エビデンス」で抑圧していないか?
最後に、より根本的な話を考えると、「科学」とか、「医療システム」とか、あるいは「あらゆることにエビデンスを求める姿勢」が、普通に生きている人の主体性を奪いすぎている問題が、こういう反ワクチンのときとかに噴出しているのではないか?という感覚が私にはいつもあります。
「パンデミック状況下におけるワクチン」の問題は、できる限り「少なくともこれについてはとにかくエビデンスベースで科学の言うことを聞いてほしい」状況であるわけですが、なんだか今の世の中は、別に科学とかエビデンスが本来そこまで必要のないようなところで、「生きている個人」に無理やり言うことを聞かせすぎている・・・構造ってあるんじゃないでしょうか。
たとえば、昨日たまたま読んだ記事ですけど、「食べられなくなったら点滴とかで無理やり延命しないでほしい。私は住み慣れた家で枯れるように死にたいのだ」というような事を言う高齢者は結構いるんですが、なかなか色んな理屈がついて本人の望みどおりにはならない現状があったりしますよね。
そういう「医療システム」が「生きている人の気持ち」に対して抑圧的になりがちで、「無理してでも健康に生きなくてはならない」的なプレッシャーを与えすぎていることが、「けっ、てやんでー、うっせーんだよバーロー」的な反発として溜まっていて、それが反ワクチンに繋がったりしていないでしょうか。
もっと「そのへんは好きにさせてやれよ」的な領域をもっと意識的に残しておくことの重要性について、もう少し現代社会は考えてもいいかな、といつも思っています。
また、さらにもっと根本的な話なんですが、たとえば、日本の製造業の現場の「知性」って超凄いところがあって、私のクライアントの話は守秘義務的にできないので公開されているトヨタの話をしますけど、この記事によると、コロナ禍で急遽医療用ガウンを急遽製造することになった雨合羽メーカーに、トヨタの生産技術者が指導にいって一緒に製造工程を見直した結果、
一日500着が限度だったのが、なんと一日5万着も作れるようになった!!
そうです。生産量100倍。すごすぎるやろ・・・
そもそもクルマ以外の生産に関わったことが今までほとんどなかった人たちなはずなのにこんなことができるというのは、ほとんど「マジカル」なレベルの知性だと思うし、普段やってる業種でもないのにこんな改善ができるような人は、世界中どこに行っても引く手あまたの超優秀人材と言っていいと思います。
ただ、似た感じの私のクライアント企業の社員の例を考えてみると、たぶんこのトヨタの生産技術者の人は、ひょっとすると大卒でもない可能性もあると思うんですね。
高卒だったり、高専卒だったりするかもしれない。中卒ということもひょっとするとありえなくもない。
なんというか、13歳で飛び級で大学を出て物理学の論文を書く能力も「知性」だし、今まで扱ったことがない分野の製造現場にフラッと来たら生産量を100倍にできる能力も「知性」であって、この2つを「等価に尊重」できるのが本来的な社会のあるべき姿だと思うのですが。
なんというか、欧米的社会システムは、「知性」という言葉の通用範囲が狭すぎるというか、前者の「13歳で物理の論文」だけが「知性」であり、後者の「知らない分野でも生産量を100倍にできる」の方は「知性」に値しない扱いになってしまいがちですよね。
この点は、最近話題のマイケル・サンデルの本「能力主義は正義か」においても厳しく批判されていて、アカデミズムの内側にしか「知性」がないと思っていて、現場的なスキルを磨く機会に投資する額が少なすぎるのがアメリカ社会の大問題だ・・・と指摘されています。
欧米社会ではAIが浸透するとこういう現場的な作業能力は「一切必要なくなってしまう」という悲観的な予測が多いんですけど、ただ、個人的に製造業のクライアントを見ていて思うのは、そう簡単な話じゃないな、と思うんですね。
確かに、「一つの部品を次々と手作業で組み付ける能力」自体は不要になるかもしれないけど、「生産量を100倍に工夫する能力」はむしろもっと必要になるというか。
たとえば、3Dプリンターが進歩すれば工場作業員なんていらなくなる・・・とかよく言われているんですが、しかしコストの面とか色々あって、大事なのは「日進月歩のプリンタ技術をちゃんと見極めて、それの適切な使い方をする判断力」の方だな・・・というように私は思っています。
なんかネットニュースでは、「3Dプリンタでコレを作りました!凄い時代ですね!」みたいなニュースは結構流れるんですが、よく読むと結局「3Dプリンタで作りやすい部分だけ作っていて、あとは人手で完成させて」いたりするんですよね。
だからこそ、「新しくできた製造技術をどう活用して、どの工程に使うのか」の判断が、製造技術が日進月歩だからこそ実地に常に物凄く必要とされ続けるんですよね。
「この時間とコストなら、まあまだ今までのこのやり方の方がいいよね」
「お、ここまで進歩したのなら、この工程には取り入れたら全体としてコストも必要時間も下がるな」
こういう判断力↑は最後まで必要とされるので、結局「アカデミズムとは違うタイプの現場の知」の存在を活かす分野は、少なくともドラえもん級に自分で何でも考えて動けるロボット(AI)ができるまでは残り続けると思います。
今の欧米由来の社会は、そういう「現場レベルでの工夫の余地」まで、「非常に大雑把なレベルの科学知」が押しつぶしてしまっているのではないか・・・というのは私の中で常に問題意識としてあって、「反ワクチン」につながる怨念の源泉は、そこにあるのだと思っています。
「反ワクチン言論」への対処・・・っていうのは、新型コロナにおいても、そして地球温暖化時代には次々と「次のパンデミック」も起こり得る状況の中で、世界中で非常に重要な課題になっています。
そこを、「現場的知性を無視し、大雑把な”エビデンス”を、それが本来必要ない、不適切なレベルにまで社会のあちこちで押し付ける欧米型社会の歪み」的な観点から、より広いタイプの人間の知性への「敬意」の払い方・・・という点を、日本文化の美点として考えてみるべきタイミングなのではないでしょうか。
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今回記事はここまでです。
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