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「イシューからはじめる」ための薩長同盟のあり方について。

新卒で入社した会社が、かなりその人の職業人生のキャラクターを決める的なことってよく言われているし、確かに結構そういう部分もあるなと思うんですが。

もちろん、そういうみんなが乗っかるエスカレータ的なものとは違うところからスタートした人の方が、色々大変だろうけど自由でもあるだろうし、逆に最初に入った会社があまりにダメダメなところだったからこそ奮起して今の自分があるとか、そういう色んな事情はあるんで、だから最初の会社に影響を受けるのが良いか悪いか、っていうのは一概には言えないと思いますが。

ともあれ、僕自身は凄く影響受けてるなーと思うところがあって、で、思い返してみるとですね。

マッキンゼーにいたころに、当時既にボス中のボスぐらいまで出世してた人にはあんまり知りあう機会がないまま辞めちゃったんですけど、よく一緒に時間を過ごすことが多かった中ボスぐらいまで出世してた人の中に、「うわーこれは天才やな」って思った人がいてですね。

それが、安宅和人さん(現ヤフーCOO室室長)なんですね。(あともう一人物凄く影響受けた人をあげるとすればツイッター日本支社代表のジェームス近藤さんなんですが・・・まあこれは全然違うタイプの人なんで別の機会に)

安宅さんは、内定者懇親会かなんかでちょっと話しただけの時から「これは凄い人やな!!」って思ってたんですよね。

後々、マッキンゼー東京オフィスのスター的成果を次々あげてる存在だっていうことを知ったんですけど、そんなの、「この人が成果出せてなかったらそれはマネジメントの方の問題だろ」って感じだったぐらい鮮烈だった。

で、外見上は僕は彼とは全然違うキャリアになってるんで、お前どこが彼の薫陶受けてるって言えんの?って感じなんですけど(笑)、でもかなり真剣に「俺は彼の弟子だぜ」ぐらいの気分があるんですよ。

なんか僕、この回の記事に書いた木南さんに対してもそうなんですが、グローバリズム的な立場の先輩の助言を、やたらとマジに捉えすぎてしまって、「なぜ?」を律儀に5回も繰り返したらやたら「そもそも論」の泥沼にはまりこんで、それを世の中の普通の仕事と再度噛み合わせるのに死ぬほど苦労するタイプみたいなんですよね。

だから全然外見上のキャリアは違うんだけど、でも、そういうプロセスをやっていて暗中模索の段階でも、根っこのとこでは、本質で言えば俺は安宅さんの直系の弟子みたいなもんだぜって思ってるところがあったんですよ。

いや、自称ですよ自称。

当時の彼は会う人会う人に、「答の出ない問題に”悩んで”るんじゃねえ!答の出る問題を選んでそれを”考えろ”!」って言いまくってたんですよね。

でも当時の僕は今悩んでおかんと僕の人生はマッキンゼーコンサルとしての優秀性だけに占領されてしまうんだから今切実に悩んどかんといかんのですよ・・・と思ってたんで、彼が直接話しかけてくるようなタイミングには逃げまくってたんですよ(笑)

でも、彼が別の人と話してる場所とかにはできるだけ居合わせて発言の全てを盗んでやろうとか思ってたんですよね。



で、最近(といっても結構前ですけど)、安宅さんが「イシューからはじめよ」っていう本を出されていて結構売れていて、それについての糸井重里さんとのネット上での対談が、つい昨日終わったんですけど。

ちなみにイシューっていうのは、「色々あるプロブレム(問題)のうちの、そこの白黒がどっちにケリがつくかによって、その後の全体が決定的な影響を受けるような類の最重要のもの」というような意味で、単純なイメージ的には、「一番大事な問題」がイシュー、「重要そうに見えても大したことない無数の問題たち」がプロブレムっていうことなんですけど。

だから、「イシューからはじめよ」っていうのは、問題が山積している中で、プロブレムたちをいくら突っつきまわしてたってダメで、本質的に最重要の、そこがどっちに倒れるかによって全体が決定的な影響を受けるようなところにマッシグラに取り組もうとしなくっちゃダメだ・・・・っていうメッセージなんですね。

で、そういう「イシュードリブン(プロブレムたちにかかわずらってないで、まっしぐらにイシューに突撃しろ)」な姿勢自身が、僕が彼から強力な薫陶を得て人生を歩んできたメインメッセージぐらいの感じだし、それに今回の対談の内容がね、「後輩的なポジションでいることの苦労話と大事さ」みたいのだったり、またはそのうちみんなすぐ忘れてしまうような一瞬のトレンドじゃなくて、千年単位の視野で見ると浮かび上がるような、イシューが大事だ・・・とかね。

まるで、僕の2つ前の記事(後輩的ポジションの時間の重要性)とか、1個前の記事(2千年 笑 レベルの視野でみた現今のあらゆる問題のイシューは何かという話)は、この対談を見てヒントを得て書いたんじゃないかってぐらいテーマが似てるんですけど、でも僕が書いてアップした方がちょっとだけタイミングがはやいんで、お互い全然参照せずにこういう感じになったんですよね。

そのへん、僕の彼へのリスペクトが結実したような「縁」というか「シンクロニシティ的なもの」を感じるなあと思ったんですけど。



でもね、日本社会において、彼みたいな存在の価値は、あんまり正当に理解されてるわけでもないなって思う部分があるんですよね。

僕、「イシューからはじめよ」の出版当時は気づかずにいて、で、去年の3・11以降に、色んな人のツイッターを読むため専用のツイッターアカウントを開設したんですけど、その時に誰かから誰かを回ってリツイートされてきた発言の中に、「kaz_ataka」さんの発言があって、「うわ、安宅さんやん!」って思って発見したんですよ。

で、結構興奮して本も読んだし、ブログも全部読んだんですけどね。

ブログも、いいなあ、さすがだなあって思って、自分とこの会員さんにもいくつかの友人にも「この人は凄い人なんやで」っつって薦め回ったんですけど。

でもね。


僕の中の、「カズ・アタカへのほとばしるようなリスペクト」に見合った反応が返ってきたことがない!!


んですよ。


「へー、この人がそんな凄い人なんですか?へー、ふーん」


ぐらいの感じなんですよね毎回。

「イシューよりはじめよ」のアマゾンレビューでもね、この人は凄い!ってなってる人と、「イケ好かないアタマでっかち野郎じゃないのこいつ?」みたいなレビューとね、凄い両極端になってるんですよね。

で、カズ・アタカが凄い人じゃなくてだぁーれぇーがぁー「凄い人」やと言うねん!と僕としては小一時間問い詰めたい気持ちもあるんですが、でも、

「日本社会においてはそういう風に見えてしまう

事情ってのも確かにあるなあと思う。

そこに、一種の「21世紀の薩長同盟」的なものを難しくする根本的「イシュー」があるなあと思うんで、それについて書いてみようと思ったんですけど。



これ(クリックしたら拡大します)↓、新書に入れ込むチャート(図のこと)なんですけど。一枚目が右側、二枚目が左側の見開きで見るようになってます。まあ、上下でもいいんだけど。





これ、本の中では、ちゃんと文章で説明してある部分の図示として出てくるんで、単体としては説明不足な部分もあると思うんですが、でもわかる人にはわかってもらえる明快さになってるんじゃないかと思うんですけどね。(ちなみにこれ、チャラい小ネタ的雰囲気を匂わせつつ、カズ・アタカ方式に、平面上の二軸の広がりがちゃんとMECE的になってて、かつその軸感を保持したまま2コマめに行くロジカルな対応関係になるように構成されてるんだぜぇ!・・・ってダカラドーダコーダ言ウワケデハナインデスガネ)

このブログにおいて何度も語ってきた「薩長同盟的関係」っていうのは、「知性場vs現場派」っていうくくりだけで「対立関係」になったままだと決して解決しないんですよね。

「現場的な密度感の中における人の和的な感覚」を生きている「薩摩藩的」人間と、「概念的思考優先の個人主義者である長州藩的人間」の対立って言った時に、大事なのは「薩摩藩VS長州藩」的な対立構図から、

「両端を切り離して真ん中に集まる」

ような連動性に持っていくことが大事なんですよ。

「知性派」の集団の中には、「オベンキョウだけできたバカ」と「良心的知性派」がごっちゃになって存在していて、「共同体の現場側」には、「バカ殿様」と「現場の良心」さんがごっちゃになって存在していて、で、お互いの「本来の味方」ではない「組み合わせ」で結託してしまってるんですよね(一枚目の図)。

これを、「二枚目の図」の組み合わせに持っていかないといけないんですよ。

でもね、これが難しいんですよね。

「良心的知性さん」には、「現場の良心さん」の良さって凄い理解できる感性があるんだけど、彼らの立ち居振る舞いのあり方自体が、「現場の良心さん」からは胡散臭く見えたりね。

で、結局、「現場側」から見ると、「オベンキョウだけはできたバカ」も「良心的知性」さんも、一緒くたに「敵!」ってなりがちだし、「知性側」からすると、「バカ殿様」憎しがゆえに、「現場の良心さん」自体もネコソギに「敵!」ってなっちゃいがちなんですよ。

こういうのはね、アメリカではあんまり問題にならないんですよね。彼らは「知性側」だけで「最後」までガシガシ押しこんで行って一色で塗りつぶしちゃえるからね。

でもそういうゴリ押しな存在感は、彼らが世界中に「IQ的デジタルなシステム」を無理やりにでも通用させて「70億人がバラバラになってしまわないためのとりあえずの共通了解」を作ってしまうという、そういう「特異な使命」ゆえに一過性の特殊な事情として実現しているケースなんですよね。

で、いずれ「システム全体が引き返しようのないほど全人類に行き渡った」時代になったら、今度ははその「システム自体が取りこぼしたリアリティ」が逆襲してくるんで、アメリカですら徐々にそれだけを押し切ることは出来にくくなってくるし、日本ならなおさら難しくなってくる(既にもともと凄く難しい)んですよ。

日本では特に、図の「左側の勢力(知性派)」だけで右側を「完全に支配」することはできなくて、ちゃんと「薩長同盟的関係」を取り結ばないと、「自分たちの本当に良い部分」を、「グローバリズム世界で通用する形」に持っていくことができないんですね。

そこを繋ぐ「ロングパス」の技術に社会全体で習熟していくことが、日本経済のダラダラとした没落を逆流するための、最重要の「イシュー」なんですよ。



でね。

その時に、この「4キャラクターを選り分ける」ってのが大事なステップになるんですが、図の右側の、「薩摩藩側・共同体側」の、「バカ殿様」と「現場の良心さん」は、一目瞭然っぽいとこあるんですよね。

いやまあ、細かく見ていくと、「嘘臭い流行から組織の密度感を守るためにあえてバカになっている」という、「バカ殿様的に見える存在の一周回ってくる存在意義」とかもあるんですけど、左側の「知性派の2キャラクター」に比べるとわかりやすいんですよ。

でも、左側の「知性派」を見分けるのは、まあわかる人には一目瞭然なんですけど、実際には結構難しいことが多いんですよね。

「彼らの世界」の実情をよく知らない「右側の世界」だけで生きてこられた人には、左側の「知性派」の人間はとにかく全員「一緒くたに全部嫌なやつそうに見える」からね(笑)

そこが難しい。

で、もし「薩摩藩側・共同体側」の人生をあなたが歩んでおられるとしたらね、できるだけ、「知性派全体を敵視する」んじゃなくて、「知性派の人たちの中の良心」を、「より分けていく」っていう風に動いた方がいいんですよ。

そしたら、自分の味方だと思ってた隣に座ってる「バカ殿様」がね、ああ、味方じゃなかったんだな!って気づけるようになるしね。

色んなところで誤魔化し誤魔化しやっていく必要がなくなるんで、組織的にも凄く風通しが良くなって働きやすくなるはずなんですよ。



安宅さんのこのブログ記事に出てくる奴みたいな、ほんと「オベンキョウだけだな」って人も確かに「知性派ぶってる人」の中にはいるんですよね。

でもこういうのは、「知性派ムーブメントの中のバカ殿様」的な使命があるから現状そうなってしまってることが必要だっていう部分もあるんですよ。

つまり、あまりに「現地現物に対する謙虚な自己批判能力」が高い存在ばっかりだと、ムーブメント全体がコワゴワしか前に進まなくなるんで、「共同体の存在感が物凄く確実だった時代」に、「とりあえずシステムを行き渡らせる」ことができないですからね。

だから、時代のアダ花的に、そういう「オベンキョウだけはできたバカ」がある程度の範囲内でのさばる時代がないと、ちゃんとシステム自体を社会に行き渡らせることが出来なかった事情があるんですよね。

つまりは「共同体側の人間」の、「知性っていうものへの無理解」の度合いの分だけ、「オベンキョウだけできたバカ」がのさばっておくことが必要・・・っていうような因果があるんですね。

で、それはそれで仕方がなかったと思うんですよ。というか我々は結局「起きていることはすべて正しい」で行くしかないわけだしね。

でも、今後、そういう「システム全体の通用性」がある程度以上に確実なものとして成立してくると、「共同体側の自然な連携」が寸断されて本来的な力が出てこなくなってしまっているという問題はあるものの、一方で、そういう「オベンキョウだけはできたバカ」をのさばらせておかなくてはならないインセンティブも消えてくるからね。

だから、これから、「選別」が進んでいって、「知性派」の中から「本当の知性の良心」を体現するような人を、「日本企業の現場の良心」とガッチリ噛みあわせていく「21世紀の薩長同盟」が次々実現していけば、日本社会は世界最先端の「新しい連携」のモードを手に入れられるってわけです。

それに、現状は色んな事情から、「オベンキョウだけはできたバカ」的な仕事しかできてない人も、それは結局「右側(薩摩藩側・共同体側・現場側)」の人からの誤解や偏見が強すぎるから、無理やりにでもそうやって「左側(知性側・グローバリズム側)」から押し込んでしまわなくっちゃいけなくなってるだけで、「本来このままでいいはずはないんだけどな?」って思ってる人はかなりいるはずなんですよね。



そういうわけなんで、だから、「良心的知性派」の実例としてのカズ・アタカがどう凄いんかという話を切々と語ってみたいんですけど。

さっきの図にね、左上の「オベンキョウだけはできたバカ」のキャラクターの台詞に、そこに「ふぅー・・・で、恐れ多くも学生時代偏差値80、センター試験満点のボクに、君は何か意見するとでも言うのかね?」って書いたんですけど。

これはね、そういう風に書いておけば「いわゆるああいうキャラだな」っていうのが明確になるんで書いたんですけど、案外マジでセンターで満点取ったりする人って、世間的印象とは逆に「良心的知性派」に入る確率凄い高い感じなんですよね。

なんか、「やっぱ、勉強だけできたってアカンよなあ」とか慨嘆調に適当なこと言うだけなら誰でもできるんですけど、ちゃんとグローバリズムシステムの「運用者」としての優秀性を確保したまま、かつリアリティの本質への目配りもできてて、とりゃー!!って一本釣りできたりする人はね、かなり「勉強もできる」というか、「勉強ぐらいできて当然、その先だろ問題は?」っていうタイプが多いんですよね。



例えばね、安宅さんの最新のブログ記事に、今年の箱根駅伝の話が載ってるんですけど。

今年の箱根に感動した!!ってなってからのね、反応が全然違うんですよね普通の人と。

ふと思いついて、戦前からの箱根駅伝の総合タイム推移みたいなのをエクセルにスパーンと出して、で、時系列に戦前戦後90年弱を並べたときに、「カクッ」と有意な差が出てる時には何があったんだろうか?みたいな話を始めるんですよ。(このエクセル図の目盛りの取り方とかも、人間の直感にとって適切な響き方をするようにする安宅流の”最適な配慮”があるんですけどちょっと余談すぎるんで省略)

で、この作業自体はそれほど難しい作業じゃないし、この作業自体がそれほど凄いインパクトがあるわけでもないんですよ。

でもね、僕とかがこれしようと思ったら、まず久々にコーヒー入れて飲んで天井眺めて気合いれて、よっしゃやるぜ!ってなって結構時間かけてやっとできる感じなんですけど(笑)

彼の場合、箱根駅伝見て、「おお!感動した」ってなったら、次の瞬間ちょちょっとネット検索してエクセルいじったら、もうリンク先の折れ線グラフが出てきて、で、それベースに議論開始しようぜ!って感じなんですよ。

もちろん、こういう余興的なんじゃなくてマジなコンサルプロジェクトでも、あらゆる既にある統計に詳しいし、実際実験的なデータを取るにしてもそのセットアップが迅速かつ神業なんで、凄いスピードでこういう「キーチャート」ができてくるんですよね。

いやほんと、そのへんの単純作業のクオリテイ(特にスピード感)からして既にマジカルなんですよ。

で、こういう「カクッっとなってる部分」をいくつかに厳選した状態で、「現場の良心さん」みたいなところに持って行くと、「ああ、そこのカクッっていうのは・・・」みたいに一気にフォーカスの定まった話ができるんですよ。



でね、そういうのを、やるぞおお!!ってなって半日かけたらできるっていうのと、ふと思い立ったら十数分でできるっていうのとでは、意味が全然違うんですよね。

ブラインドタッチができなくて指一本でキーボード叩いてたらなかなか書く文章に集中できないみたいなのと一緒でね、こういうのが無意識レベルでスルスルッとできるぐらい勉強できる人は、脳の容量がそれに取られないんで、その「先」に容量を使えるんですよね。

いやもちろん、「そういうタイプが多い」ってだけの話で、ほんと「リアリティ=デジタルな教科書的答えのこと」みたいな感覚で、テストで点取るのだけが得意でしたみたいなのもいるにはいるんですけど。

でも、そういうタイプは、そもそも「このデータを取ってきてこう並べて分析したら意味あるもんになるはずだ」っていう感覚をバシッと明確に持つこと自体ができないんで、与えられた課題はこなせても、上の安宅さんのやつみたいのにはならないんですよね。

こういうのも、「デジタルなIQ的概念処理」と「その向こうの”物自体”的な本当のリアリティ」との間を往復できる知性が、いわゆる「デジタルなIQ的処理領域」だけに終わらない、フィジカル・フィロソフィシャル・パーソナルな領域に浸透する「PQ的知性」の一種なんですよね。



で、そういう人はね、意識の明晰性が凄く細やかなんですよ。


ボンヤリしたナマのリアルなものを、”ちゃんとそのまま情報量を毀損せずに丸呑みに”に受け取って、しかもそれをグローバルに通用する客観的な形式に転換する力が物凄くある


んですよね。

僕がマッキンゼーにいたころ座ってたブースは、3人部屋で真ん中が当初空席で、向こう側にこの前カンブリア宮殿に出てた加藤智治さんがいらっしゃったんですけど、安宅さんは当時色んな後輩に次々声かけてまわるんが趣味みたいな感じだったんで、加藤さんとちょっと話ししてたのを、僕は横で聞いてたんですけどね。

さっきも言ったように、直接話すと怖いんで、こういう第3者的に盗み聞きできるときには超聞き耳たててたんですよ(笑)

で、安宅さんは話しながら、話やめずに話し続けたままその空席のアーロンチェア(何項目も調節機能があるオフィス専用の椅子)の設定を適当にいじってたんですけどね。

話し終わって出て行ったら、アーロンチェアが全然違う形になってたんですよ。完全にカスタマイズされてて、座ってみたら僕の席のとは全然違う椅子みたいになってた。

こういうのって、大げさに言えば「多変量解析的問題」じゃないですか。

新幹線の椅子とかなら、リクライニングを何度にするかっていうだけの一変数ですけど、アーロンチェアみたいに何箇所も色々いじれるようになってると、「あの項目をこっちに振っておきながら、こっちの項目をこの程度にしておいて、で次にこの項目をこのへんにしておけば・・・」みたいな調節が必要になってくる。

僕みたいに大づかみなことはできるけど緻密さにかける人間からすると、アーロンチェアの設定なんてちょっと手に余るところがあって、デフォルトの設定に自分自身の体を無理やりあわせる(笑)みたいに座ってたんですけど。

彼が出てったあと、彼が雑談しながら設定した椅子に座ってみたら、「おお!全然違うわ!!」って感じだったんですよね。

もちろん、彼の体格(かなり巨漢だったはず・・・あれ?イメージに騙されてるかな?)を前提として設定されてるんで、そのままじゃ僕は使えなかったんですけど。

なんか、「ぼんやり」した曖昧な状態のものを、カコーンと分節化してクリアーな形に展開して、「客観的にグローバルに通用する形式」に転換する能力が超高い感じなんですよ。

で、そういう人じゃないと、「オベンキョウだけできてもねえ!!」って皮肉を言うだけに終わらない、「グローバルなシステムの最前線」を、「柔軟に運用」して、「本当のリアリティ」を一本釣りするみたいなことはできづらいんですよね。

まあ、できないわけじゃないんですけど、そういうタイプがせっかくいるんだから、社会全体でもっとガンガン使い倒すべきなんですよ。

やっぱね、本当に知的な仕事をやるには、一個前の記事で書いたとおり、「現行のあらゆるシステムなんて、人類にとって最善仮説にすぎないということがちゃんと理解できてるレベルにまで本当の意味で知的な人」が分厚く必要なんですよ。

つまり、

「勉強する内容」を、「どこかの誰かエラい人が言ってること」として「ははああ」って受け取ってるレベル


じゃなくて、


「それを創りだした人々」の目線を共有して理解してる人が必要


なんですよ。

そうじゃないと、「知性のシステム的運用」にあたって、「大事に遵守するべきポイント」と、「無視して突っ走るべきポイント」を完全に判別して、アクセル踏むべきところでダーン!!とアクセル踏んだり、慎重なスピードで進むべきところを選んで安全運転したり・・・っていうことができないんですよね。

そのレベルになるとはじめて、


「現行のシステムの延長で、さらに生身の人間をガチガチに縛ってしまう」(長州藩側から薩摩藩側を支配してしまう)


ようなのじゃなくなるような、


「現行のシステムが取りこぼしている本当のリアリティ」を、「システム内部」に一本釣りする(薩長同盟的関係を取り結ぶ)


ことができるようになるんですよ。

それが「知性」ってものの最良の利用法だし、っていうかそこまで到達してないような「知性」なんて「知性」と名付けるにも値しないものなんですよ。(ただ、システム全体が崩壊せずに人類社会の中に保持されるには、その番人として、原理主義的な”グローバリズムの威を借る狐”さんたちにも存在意義はあるんですけどね)



で、例えばの実例として、安宅さんがやったプロジェクトで、日本人ならほぼみんな知ってる(名前知ってなくてもたいてい一回は消費したことはある)大ヒット商品みたいなんがあるんですけど、高校時代の友人が、その商品の大ファンだったんですよね。(もちろん、安宅さんのことなんかは知らずにその商品のファンになってたんですけど)

いつもそれ買ってるから、「どこがええの?」ってその友達に聞いたらね、


「え?なんか・・・・うーん、ちょうどええねん


って言ったんですよ。これって簡単なようで凄いことなんですよね。

マッキンゼーには、守秘義務があるからあんまり詳しい話は他プロジェクトの同僚にも明かせないんですけど、全社(日本だけじゃなくて世界中のオフィスを含む)のイントラネット上に知見を集めた事例集みたいなのを共有する仕組みはあって、色々と具体的なことはボヤかした上でのそのプロジェクトの記録があったんですよね。

で、当然英語なんですけど、僕は「Kazto Ataka」の名前で上がってるその事例集は全部読んでたんで、その記録も読んだんですけど。


「え?なんか・・・・うーん、ちょうどええねん


っていうのをね、全権を握った大ボス的職人の個人がソムリエ的な直感ベースでやって実現したんならまあ普通ですけど、安宅さんの場合、他社のも含めたその分野の現行の全商品を、完全にロジカルな二軸にマッピングした中で、その「ど真ん中」が開いてる!!っていう分析の結果そこに飛び込ませてるんですよね。

そういうマッピングって、今の時代乱用されまくってて、胡散臭いものの代名詞みたいになってるんですけど(笑)、そういうのから、


「え?なんか・・・・うーん、ちょうどええねん


っていう商品(しかも記録的な大ヒットといえるほどの広範囲の反応を引き出せるようなもの)が出てくることってまずないですよね。

そうやって頭脳先行なだけでやっちゃうと、なんか凄い「奇をてらったなあ」っていう、バランスを欠いた一発ものの商品が出てくることが多いじゃないですか。

そういう、


今の時代「胡散臭いものの代名詞」みたいになってきちゃっているアレコレの「知的なツール」の、「本当の価値」を出せる人っていうのがいる


んですよ。

理屈だけじゃなく、現場的実感だけじゃなく、両方をグルグル行ったり来たりしながら、最後の最後でズバーンって一本にまとめあげるような知性ってのがあるんですよね。

でね、そういう人たちの価値を、どうやってもっと広範囲に活かせるようになるかっていうのが、日本経済に新しい連携を生み出す「21世紀の薩長同盟」における、「実践面」における「イシュー」なんですよね。



「薩摩藩側・現場側・旧来の共同体側」にいる人にとったらね、そういう「胡散臭い言葉遣い」をする奴は、全員ネコソギにムカつくと思うんですけど。

でもね、そうやって「全拒否」にしてると、そういう人たちは絶対いなくならないんですよね。ただ批判しててもいなくならない。

なぜなら、そういうムーブメントは、「その中に巨大なダイヤが眠ってるということはわかってる大量の土砂」みたいなものだからです。

それは邪魔だし悪臭を放ってるだろうけれども、中に巨大なダイヤが眠ってるってことがわかってたら、ネコソギ廃棄するわけにもいかないじゃないですか。

だから、その「土砂の山」から、「ダイヤを掘り出す」作業をしないと、その「土砂」は永遠に邪魔になり続けるんですよね。

それが、「共同体側・現場側・薩摩藩側」にいる人にとっての「21世紀の薩長同盟」において実務面での必須なプロセスなんですよね。



まあ、その具体的なプロセスについては、2月24日に出る新書をご期待いただきたいし、内容についてもこのブログとかでちょっとずつでも開示していきたいと思ってるんですけど。

ただ、大づかみに言った話として、「彼らを信頼」しない限り活路は開けないんですよね。

日本における「知性」っていうのは歴史的に常に難しい問題があるんですが、でも方針としては、「信頼して任せる」度合いが増えれば増えるほど、彼らは力を発揮するんですよ。

日露戦争当時の参謀秋山真之(世界史上の軍人で最上級に凄い才能扱いされている、日本海海戦の奇跡的勝利を演出した参謀)みたいになるか、太平洋戦争当時の牟田口廉也(世界史上の軍人で最上級に悪名高い、補給を軽視してインパール作戦で大量の兵士を餓死させながら芸者遊びをしていた有名人)みたいになるかの分水嶺は、社会全体がその存在を、「信頼」して任せる度合いの大きさにかかってるんですよね。

なんでかっていうと、秋山真之みたいに、その当時の教科書的正統な海軍理論だけじゃなくて、戦国時代の海賊の兵法書まで全部読んで、自分自身の実体験とも合わせて全部グチャグチャに発酵させてオリジナルなものに結晶化させるみたいなのはね、「スキが多い」んですよね。

そのプロセスの間は、「教科書的に正統なものを丸暗記しててスラスラ言えるやつ」の影に隠れてしまう。

隠れてしまうと、今の時代最前線に立ち続けるために必要な「優秀性のアピール」ができなくなるんで、退場させられてしまうか、それか「現実そのものとの連関」を真剣に考え尽くすことなく、「教科書的なことをゴリ押しする存在」でいるしかなくなってくるんですよ。

で、安宅さんみたいなタイプはね、常に「反論にオープン」だし、現実の細部とぶつかるたびにスイスイ自分の自説を訂正していって、最終解に辿り着こうとする姿勢があるんでね、ある意味不安定な部分があるんですよね。

牟田口廉也風の「オベンキョウだけはできたバカ」の方が、見た感じは弁説爽やかで寸分スキのない(机上では)発言をしたりするんですよ。

で、そういうのに日本人は騙されがちで、安宅さんみたいなのの良さを理解しづらいんですよね。

だから、「良心的知性」が、ちゃんと「本当の力を発揮する」には、彼らへの「信頼」が大事なんですよ。

で、任せるとなったら、とりあえず任せちゃうみたいなのが大事で。

そこが「VS」的な対立関係になっててね、「お手並み拝見と行かせてもらおうじゃねえかよう」的な雰囲気で始まるコンサルプロジェクトが、本当に「両者にとって意味あること」に繋がる可能性は低いんですよ。

そういう風に「現場側・共同体側・薩摩藩側」から圧力かけられると、「知性派側・長州藩側・グローバリズム側」からしたら、「良いとこ見せる」ためだけに、「グローバリズムの威を借る狐」的なことをして、「短所是正」的方向の結論に持っていかざるを得ないんですよね。

そうじゃなくて、薩摩藩側の「本質的な長所」を伸ばすような結論に持っていくには、まず「任せると決めたんなら任せてみる」っていうぐらいの度量が必要なんですよ。

そうじゃないと、「すでにあるグローバリズム的な事例を押し付ける」だけにならない、「本当の良さを引き出す」方向の関係にならないんですよね。



昔は、国家官僚がそういう役だったんだと思うんですけど、でも、今そういうタイプの人材が必ずしも官僚にならないし、かつ官僚システムだけがすべてを把握しきれるほど単純な経済ではないところが難しいんですよね。

で、官僚システムの権限を減らそうっていうのはみんな言ってるし、僕の世代なら国家官僚本人ですら結構そう思ってる部分あると思うんですけど。

なんでそれが進まないかっていうと、こういう「本当の知性」「良心的知性」が活躍できる「場」が、そういうところにしかまだ無いからなんですよね。

ちゃんと、ある程度「長い話」も許容できるレベルで話が通じて、それで共同体側の「本当に良い部分」を、「グローバリズム的システム」にまでつなげていこうと持っていける優秀さも維持している、そういう「両取り」ができるだけの「場」が無いんですよまだあんまり。

日露戦争当時のような、「参謀への信頼感」がなくなってきて、みんな教科書的なことをただ言う以上のことはできないような状況に、日本人全員が追い込んでしまってるんですよね。

で、そういう圧力が高まれば高まるほど、秋山真之じゃなくて牟田口廉也しか出世できない世界になってくるんですよ。

あるいは、秋山真之になれる素質自体は色んな人にあるんだけど、結局最前線に居続けるには牟田口廉也のフリを必死にやることが必要になってしまっていて、それでなんとか「出世できる優秀性アピールのためのアピール」をし続けなくちゃいけなくなったりして。

まあ、そういう風になっちゃってること自体は仕方がないことなんで、それ自体はまあ、「そういうものだ」ってことにしてね、あえて、内輪で共有了解を濃密に作っていって、


「日本の良さを本当に出すなら、グローバルじゃあこうだけど、日本ならこうだよね!!」


っていう、「特有の連携」を創りだす薩長同盟の文化が発達しないとダメなんですよね。

そこには、この回のブログで書いたような、「アメフトのロングパス的な連携」が必要なんですよ。

そうやって、今の時代金融関係やコンサル関係、ビジネススクール的な文化の場所や、一部のベンチャー的な場所、そしていわゆる「良い会社」のサラリーマンなんかに共有されてきている


「新しい経営の文化」(良心的知性)


がね、ちゃんと


「日本社会の現場の良心」


に対して


「アメフト風の、一本釣り的な超ロングパス」


をバンバン通せるようになるかどうか。

それが実現したら、国家官僚の権限もガンガン削減できるようになるし、国のサインであらゆる事業を乱発する必要もなくなるから、国債の問題もいずれ収束するんですよ。

その関係が実現すれば、世代間の対立を煽り続けることもなくなるし、ベンチャー的気風の会社VS経団連風の会社とかね、そういう無意味な対立も、シナジー的連携に持っていけるようになるしね。



具体的にはね、「遊軍的」な、「個人主義的な」動きをしているプレイヤーと、「集団」で生きているプレイヤー同士を、「別個の文化」として両立できるような社会になるといいんですよね。

一個前の記事で書いたような、「両者の文化におけるスター的存在」の「文化の違い」を乗り越えることが大事だっていうか。

で、お互いがね、お互いの良さを発揮していくにあたって、「集団で生きていくためにはこういう素質が必要」だとして、その素質を「個人主義者としてのキャリア」を持ってる人にも求めて言ったらギクシャクするじゃないですか。

逆もそうで(現状はこっちの方が多いか)、個人主義者的なキャリアを生きている人が、集団の中で生きていく人たちのことを結構酷い言葉で罵っていると(そうでもしてないと日本じゃ自分を保ちにくいっていう事情はあるにせよ)、「理想的な連携」が実現しづらいですよね。

で、個人主義者として、遊軍的な立場でプロジェクト単位で仕事をする存在と、「集団の密度感」を維持するための存在との間が、お互いの差異を尊重しあって、「理想的な連携」をするような文化が発達するといいんですよね。

いわゆる、「ボスが業者に仕事を振って”あげる”」的な古い日本風の関係でもなく、「完全にモジュールが切り分けられた四角い仕事の範囲内だけをプロとしてやります」みたいな、アメリカンな連携でもなくね。

より、「個人主義者の側」が、「集団側の事情」もかなり深くわかって長期的関係を結んで行くなかで、「意味あること」をやっていくっていうような仕事の流れがね、できていくといいんですよね。

例えば船井総研のコンサルの基本っていうのは、まあプロジェクト単位のもあるんですけど多くの場合は、「月次支援」と言って、月に一回とか二回会社に出向いて、何でも屋さん的になんでも相談に乗るし一緒にやっていくみたいなスタイルなんですよね。

で、あんまり「ワンテーマのプロジェクト!」って感じで区切ってしまわないで、月1回茶飲み話(形式としてはですよ)に来るっていう程度の仕切り方の方が、「意味あることだけを言う」ことができたりするんですよ。

「金払ってもらってるだけの価値あることしましたよねアピール」みたいなのが、少なくなればなるほど、意味のある連携ができるようになったりするんですよね。

そういう「契約スタイル」の問題も含めてね、薩長同盟的関係が、「スムーズにいくにはどういうのがいいのか」っていうのを、みんなで考えるべきなんですよね。

安宅さんみたいな種類の才能は、いくらヤフーが柔軟な会社とはいえ、ちょっと一会社のCOO的課題にずううっと取り組むとするとちょっと間尺に合わないところがあるんじゃないかと思うし。

まあ今どんな仕事されてるかよく存じ上げないですけど、ツイッターとかブログの文体の端々に、マッキンゼーにいた時ほど「充実してる!」ていう感じがないんで、多少迷っておられる部分もあるかと思うんですけどね。

でも、一会社で言っても、結構「遊軍的権限」を与えて彼みたいな人間を動かしていけば、意味ある成果につながっていくことも多いと思いますしね。

そういう「その人それぞれの能力のタイプ」を明確に見た上で、適材適所的な、「良い意味での特別扱い」っていうのを次々できるようになったら、今みたいに、「年功序列で社内だけのスキルを磨いてる日本の会社なんかはグローバル時代に絶対対応できないのである」的な全否定の言葉か、それとも消極的かつ惰性的な現状の追認か、どっちかしか無い・・・みたいな状況を打破できると思うしね。



最後に、ちょっと小ネタなんですが、安宅さんのブログの、震災の後のこういう記事とかね、「純粋な日本人的感覚」からすると、一番「頭でっかちの嫌なやつ」風の響き方がする文章だよなって思うんですよね。

なんか、「フレームワーク的なもの」っていうかね。

さっきの箱根駅伝のキーチャートでもそうなんですが、「それ自体」には単体では価値がないんですよねやっぱりね。

で、安宅さんみたいな人が、こういう能力だけを持っていても意味がないんですよねそれ単体では。

ただ、このフレームワーク的なものとか、キーチャート的なものをね、「現場の良心の塊」みたいな人と出会わせたら凄い化学反応が起きるんですよ。

フレームワークっていうのは、「生身の問題に悩んできた蓄積」が、かなりある人に対してしか意味がないんですよね。

なんか、空っぽの空欄をいくつも提示されて、ウンウンうなってなんとか言葉だけ埋めるみたいにやっても意味ないんで。

でも、「本当に現場的課題に生身でぶつかりまくってきた人」=「現場の良心さん」と出会うとね。


「あ、そういえば、今まで自分が考えてきてたのは、このマスのことばっかりで、次のマスのこと考えたこともなかったわ!」


とかね。


「そう思ってこの次のマスのこと考えてみると、そういえば・・・って感じでザクザクとやらなアカンことが湧いてくるな!」


とかね。

そういう風に「意味」を持つものなんですよね。

だからこそ、こういう「知性派の良心さん」を、一箇所に留め置くような、「古い共同体的な集団のシステム」の中に飼い殺しにすると良くないんですよね。

なんか、特定の場所に長居させて、サクサク切っていけばいくほど、「悩んできた生身の蓄積」が足りなくなってくるんですよ。「原料」が足りなくなってきて、なんか抽象的で枠組みだけのものしか出てこなくなってくるんですよ。

でも、そういう人に多少「遊軍的」ポジションを与えて、次々と本質的なレベルから何かを問い直す仕事をさせてみたらいいんですよね。

そしたら色んな場所にいる、「現場の良心さん」の「煮詰まり切って弾ける直前になった問題意識」をね、次々引き上げて新しいブレイクスルーに転換していくことができるんですよね。

だから、


「安宅さんみたいなタイプ」の「使い方」にみんなで習熟


していけば、


薩長同盟的関係もガンガン進むし、全く新しい知見が次々と「日本人ならではの集団的密度感」を損なうことなく実現していくし、結果として、国のサインで全部やる必要もなくなるし、国家官僚にやたら権力を与えておく必要もなくなる


んですよ。

だからこそ、これがイシューなんですよ!!!



彼の本に、「答えが出ない問題を悩むのは犬の道。人間なら答え出る問題を考えろ」って書いてあって、それに対して「著者本人ですら、最初は犬の道を行ったからこそ今があるんだろ」っていうレビューがあって、それ僕も凄いそう思うんですよね。

さっきも言いましたけど、僕、マッキンゼーにいたころに、彼が直接話しかけてきたら逃げまくってましたからね(笑)

いやいや、先に悩まないとイカンのやって!って思ってたんで。

マッキンゼーを「卒業」してからアルムナイパーティ(同窓会)で会っても、数人で話してるところにチョロッと参加して話を聞いたりはするけど、決して一対一では話さないようにしてたし(笑)

同じ、壁にアタマぶつけるんでもね、何回も何回も一箇所にアタマぶつけるのは、無駄なようで無駄じゃないんですね。

何回もそれやってると、毎回のぶつかり方によって音が違うな?とかね、そういうのに気づき始めるんでね。

で、そうやって痛い目に合わないと、「ただ同じ壁にぶつかっていること」っていう「デジタルには全く同じものと理解されるもの」の奥底にある「それぞれ全然違う現象の差」に気づかないですからね。

でも、本当にアタマぶつけまくってるだけでもダメなんですよね。

その「アタマぶつけまくった体験」が臨界点に達した時に、安宅さんみたいな人に出会って、フレームワーク的なものをぶつけられると、「ああ!!!アレとコレは似てるけど全然違っていて、アレの方を選ばないとイカンかったんか!」って気づくんですよ。

だからね、日本人は8割ぐらい、「集団側」で「犬の道」を行っている方がいいと思うんですよね。

そういう人たちが思う存分安心して「犬の道」を歩んで日本的密度感を研鑽していけるような、雇用制度とか人材育成システムとかを整備していくのは戦略的に意味があると思うんですよ。比較的安定的な雇用関係や組織風土を維持しておくこととかによってね。

でも、その「薩摩藩側」の良さを発揮するためにこそ、安宅さんみたいな「バリバリにトップ中のトップな知性派の良心」をね、「薩摩藩的システム」に飼い殺すことなく、「遊軍的に広範囲に」力を発揮してもらえるようなポジションに持っていくことが必要なんですよね。

彼らの能力に適合する問題を、モジュールとして区切って次々そういう人のところに持ち込むべきなんですよ。で、ガンガンそればっかやらせたらいいんですよね。

日本の集団の密度を保つための集団主義的な組織運営をね、まるごとグローバリズム的に合わせるのとか不可能なんですよ。終身雇用が全廃になって、あらゆる会社が外資系みたいになったら全てうまく行くとかそんなはずはないんですよ。

そういう無理矢理なちゃぶ台返し的なんじゃなくてね、現地現物からの発想で、ワンテーマ・ワンイシュー的に、「こういう機能は外に切りだしちゃえばいいよね」っていうようなことを考えていけばいいんですよね。

で、その「外」っていうのも、完全に分離したコンサル会社にするだけじゃなくて、もっと「状況を深く理解してくれてるけど、普段は別行動」っていうぐらいのレベルの距離感のやつを工夫していけばいいんですよね。

コンサルかもしれないし、社外取締役かもしれないし、投資家的なポジションかもしれないし、社内の遊軍的な役職を作るんでもいいんですけど。

そういうのと、常に「現地現物」から考えていくべきなんですよ。「グローバリズム流か日本流か」みたいな空虚な一般論をずっと戦わせてないでね。

その連携の文化を自前で作ることこそが、現代日本の最重要の「イシュー」なんですよ(しつこい)。

そこが、「お互いの違いを認め合う連携」にならずに、「なんで自分たちみたいにならないの?」って言い合ってるだけみたいなのが、今の日本の「どっちにも進めない袋小路の閉塞感」の根本原因なんですよね。

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今更ですけど自己紹介を・・・その1.副題『原生林のような豊かでタフな経済を目指して』

このページはよほど倉本圭造に興味がある人のためのありえないほど長い自己紹介エッセイなので、サクッとコイツ誰なんだ?ってことが知りたい場合は、私のホームページの「Who?」欄をお読みください。(向こうにしかないコンテンツもありますし、とりあえずコンパクトに全体像がご理解いただけると思うので、かなりご興味を持ってくださっている方も、先に向こうをお読みいただけるとご理解しやすいように思います。その後以下の”長文”へと戻ってきていただければと)







最近出版の依頼を下さった人がいて、”出版社の女性社長さん兼編集者”としてギョーカイでは結構有名な人らしいんですが、「21世紀の薩長同盟を結べ」本体を読むまで、プロフィール欄を読んでも「???」って感じだったと言われたんですよね。

その「???」になったっていう文章は、本の著者プロフィール欄に記載されているコレなんですが。

1978年神戸市生まれ。兵庫県立神戸高校、京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感、その探求を単身スタートさせる。まずは「今を生きる日本人の全体像」を過不足なく体験として知るため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、時にはカルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働くフィールドワークを実行後、船井総研を経て独立。「個人の人生戦略コンサルティング」の中で、当初は誰もに不可能と言われたエコ系技術新事業創成や、ニートの社会再参加、元会社員の独立自営初年黒字事業化など、幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。星海社新書より『21世紀の薩長同盟を結べ』発売中です。
で、「なるほど、意味わからない・・・かもしれないな」と思ったんで、それについて、一度まとめた文章を書いておいたほうがいいのかな・・・と思って、これから書きます。

『逃げ恥』が教える「自分らしく生きる」の本当の意味

あけましておめでとうございます。昨年の私は普段の仕事的にはそれなりに一歩ずつ経験積んで進歩してこれた感あるんですが、いかんせん本出したりネットに上げた文章が広く読まれて・・・という方向での活動としてはなんだか何もやってないも等しいような印象になりそうで、正直ちょっと焦ってもいます。

ただ今は、焦って本やブログを書いても、よくある「右や左の紋切り型」にしかならない難しい状況に世界がどんどんなっていくなあと感じていて、そうじゃなくて「個別の事例」と仕事で向かいあう中から立ち上がってくる何かを信じて積んでいきたい気分だというか・・・ま、もうこの歳になると自分はマイペースにしか生きていけない人間だってところは骨身にしみてわかっているので(笑)、相変わらずそういうペースで今後もやっていきますので見捨てないでたまに気にかけてやって下さい。

ちなみに、ブログ再移転しました。ブックマークされてる方は変更をお願いします。

新ブログトップページ↓
http://keizokuramoto.blogspot.jp



で、久しぶりのブログ更新、しかもブログ移転一回目・・・がテレビドラマの話題ってなんてミーハーなって感じもしますが、2016年最大の(たぶん)ヒット作となった『逃げ恥』が超よかったので、年末だしそれについて書きます。

全体的に言って、「自分らしく生きる」っていう現代的に超超超言い古されたことについて、ちゃんと一歩ずつ考えて一歩ずつ実現していかなくちゃね!っていう気持ちになったところが凄く良いドラマだったと思ってます。夫婦で見てて毎週二回は泣いてました。

このブログはそういう方向で、

・『逃げ恥』のどこにこんな感動するのかって話
と、
・それはある種「運命へのニーチェ的向き合い方」なんじゃないかって話(より正確には”一連の実存主義哲学”)
と、
・「他人の人生を生きないで、自分の個別性(自分らしさ)を生きること」っていう「言い古されたこと」を私達が本当にちゃんとやりきるにはどうしたいいのか?
というような話に広がっていく予定です。

日本から老害を一掃して残業を減らす唯一の方法

なんか挑戦的なタイトルになってしまいましたが、ただ最近「老害」っているんだよなァ〜と物凄く実感することがあって、その詳細をそのままは言えませんがそのやるせない思いをより広くて皆様と共有できるテーマとして昇華して書いてみたいと思っているんですが。

あなたは、「老害」って言葉、キライですか?好きですか?

私は最近まであまり好きではなかったです。老害扱いされてる人にも、うまく使ってあげればそれなりの価値やら色々あるんだぜ・・・と言いたい気持ちが結構あって。

ただ、そんなこと言ってると「老害さん本人」が「自分の老害性」を一切意識せずにノウノウと暮らし続ける反面、困ったことにその「老害さん」は権力持ってたりするのでその集団全体の適切な運営がどんどん滞り、直接的には「ヤル気のある若手」さんが、そして結果的には「その組織の人全員」が非常に困った状況にみんなで追い込まれていくことになってしまう。

物凄く大枠での言い方をすると、過去20年にわたる日本の苦境はこの「老害さんをどう扱うか」について、思い切りの良い諸外国のように何のテライもマヨイもなくボコボコに権力を奪って放逐していくような思い切ったマネジメントができなかったから・・・と言ってしまっても悪くないかもしれません。

ただね。現状の日本は、老害さんたちを腫れ物に触るように扱って捨てずにいたので、社会全体が「トランプvs反トランプ」みたいにどこまで行っても平行線な対立に落ち込んだり、スラム街がどこまでも悲惨なスラムになっていくようなことは避けられたり・・・というプラス面もあったんだろうとは思います。アメリカに比べたらまだ貧富の格差もまあマシなレベルに留まっている。

つまり、なぜ日本が「老害さん」たちを諸外国のようにはボコボコに斬ってしまえないかというと、「その老害さんが代表しているものの中に自分たちの良さの根幹も混ざっている」からだと言えるでしょう。