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松坂&岩隈投手の不調に助け舟を出せる、「言論適正化システム」の構築を。

ちょっと回り道に見える余談から始めますけど、全体としては件名のような話をします。



もう一昨日ですけど、「アゴラ」への投稿、第二回も掲載されました。

第二回はこちら。

第一回はこちら。

で、第二回の方は転載されなかったみたいなんで、その仕組みはよくわからないんですが、第一回の方はブロゴスというアゴラのライバル的なサイトにも掲載されたんですよ。

そのブロゴスのコメント欄が、なんか結構ヒドイことも言われたりしてちょっと荒れ気味だったんですよね。

で、こういうコメントって、僕に対するコメントというよりは、例えばこの場合橋下改革に対してその人がどういうポジションでいるのか・・・・っていうのが反映されてるだけだと思うので、過剰に反応するのはお互いにとって良くないとは思うのですがね。

ちょっと気になったのが、その中に、「アゴラ」に投稿してたりしたら自分の評価下げるぜ・・・的な、「アゴラ」とか、そのボスである池田信夫氏への憎悪コメントが妙に多くてですね。

まあ、「ライバルサイト」であるというだけじゃなくて、ちょっとお互い仲悪い部分もあるのかなと思うんですが、でも、僕は池田信夫氏のことが結構好きなんですよね。

池田信夫氏っていうのは、「アゴラ」の主催者で、かなり攻撃的な論調で有名なブロガー&経済学者さんなんですが、無茶苦茶いわゆる「博覧強記」って感じで、凄いいっぱいあらゆる分野の本読んでるし、ちょっと極論すぎるし個人的には違う意見を持つことも多いものの、色々と「なるほど」と思うような視点を提供してくれるなあと思って、彼のブログは随分前から読んでるんですけど。

それが理由でアゴラに投稿しようとも思ったわけだし。

ただ、彼はかなり他人(特に不勉強な人・意見を異にする人)に対してヒドイ罵り方をするので有名で、そのへんが嫌われる理由なのかなと思うんですけどね。

でも、こういう人必要だと思うしね。

池田信夫氏に限らず、藤沢数希氏とか、こういう「経済・市場原理主義的なポジションから一貫した議論をする論客」さんって、今結構いるんですけど、その存在はやはり大事なファクターだと思うんですよね。

そういう人が、いわゆる「ブログ論壇」的な世界における「風潮の軸」を作っていることは、「なんでもありに無茶苦茶な世界」にならないために、結構大事なことなんですよ。

っていうと、ちょっと平等思想的な理想主義からすると良くないことを言ってるような気になりますけど、でもネット経由で色んな読者と直でつながる仕事をしてきた感覚から言うと、まったく野放図に「なんでもあり」な空間になると、相当陰謀論チックにヤバイ論調が幅を効かせたりするとこありますからね。

で、相当ヤバイ陰謀的な話だけじゃなくて、日銀にカネ刷らせまくれば全部解決じゃん!的なのまで含めると、ある程度「抑え」を効かせるような存在がいないと・・・・っていうのは確実にあるんですよ。

「なんでもありなブログ論壇」と、「一応シッカリ蓄積された客観知」的な世界を、ちゃんと繋いでくれる存在が必要で。

で、そういう存在は、ある程度は「抑圧的にならざるをえない」ところがあるんですよね。



ただ、そういう存在が、「生身の新しい可能性」を奪ってしまう可能性ってのもありますよね。

だから、そういうところは気をつけなくちゃいけないんですよね。

昨日テレビで、今年岩隈投手がメジャーで不調なのは、「数を沢山投げ込むことで調整してきたタイプ」だから、メジャーは投球練習数の制限が凄く厳しいので、いつもどおりの自分の肩の作り方ができてないからだ・・・・っていうような話をやってたそうで。(僕は見てないんですけど妻が見てた)

で、投込み数が少ない分、腕を鍛えるようなトレーニングとかを特別にやってみたりはしてるんだけど、うまくいってないとか。

これ、新書の中にも書きましたけど、松坂投手も同じことで苦しんでるそうなんですよね。

そういう時に、「適応力がないヤツはダメだなあ」ってなったらダメなんですよ。

っていうのは、その「投球数の制限という数値の作り方」が、「あんまり”本当の意味では”科学的じゃない」からなんですよね。

多分そういうのは、「平均コレコレ以上の数投げ込んだ場合、故障者入りすることが多い」的なデータが元になってるんですけどね。

でも、「投球数」って、「この筋肉をこの強さで何分間緊張させてください、はいどうぞ」みたいな「実験室的現象」とは、全然違う「奥行きと複雑さ」があるんですよね。

だから、自分がやりやすいように調整していって、フォームが固まってきて、全身の筋肉がうまく噛みあった理想状態で投げられている時の「一球」と、調整不足のまま登板しちゃって、でもなんとかしなくちゃいけないから無理に変なところに力を入れて投げている「一球」では、全然その「数字の中身」が違うわけで。

例えて言うなら、

錆び付いて異音を発する自転車のチェーンと、完全に整備されたチェーンを一緒くたに扱って、自転車のチェーンっていうのは秒速何回転させると故障することが多いようだ・・・っていうデータを取って、それを無理やり全てにあてはめようとしているようなもの

なんですね。

数字を使ってれば科学的・・・ていうほど非科学的な発想はないわけなんで、だからその「投球数制限の数字」っていうのも、別に「全然科学的じゃない」んですよ。

ここで、


「アメリカは科学的・合理的にやるけど、日本のような根性論だって大事だよね」っていうような論法で対抗していくのは良くなくて、むしろ、「個人の適性を無視した一緒くたな数字の運用の方こそが”非科学的”だ」っていうような話に持っていかなくちゃいけない

んですよ。これからの日本は。

それができないと、国内では良くても国外では通用しなくなる・・・ってだけじゃなくて、国内で完結しているようなことですら、色々と「理屈」が縛るような世界になってきますからね。

それができないと、松坂・岩隈両投手の不調・・・・みたいなことが、経済のあらゆる分野、あらゆる現場で起きてくるんですよね。

「間違った理屈の運用」が、「現場の本当の適切な連携」を寸断してしまう不幸。

最近の日本のあらゆる不調の原因はここにあるんですよ。単純化すれば。



で、じゃあどうすればいいのか?って話になるとね。

もう、日本は、昔のように「自分たちの本能のままにやっていたから自然に世界の他の地域にはできなかったことができた」っていうパターンには戻れないんですよ。

子供の頃なら生活してるだけで言葉を覚えられたけど、大人になっちゃったから多少は意識的に勉強しなくっちゃいけないよね・・・っていうような世界があるんで。

だから、「理屈じゃねえんだよ!」で行くのは限界がある。

ならば、「理屈の運用」が、自分たちの本能を抑圧しないレベルまで物凄く上手くなるしかないんですよね。

この20年間の日本の不調っていうのは、大きく捉えれば、「理屈じゃねえんだよっていう人が多すぎた日本」に、「理屈は大事ですよっていうこと自体」を埋め込むためのプロセスだったんですよ。

そしたら、「本来暗黙的に成立していた最適連携」みたいなのが寸断されて、色々と問題でてきたよね・・・って話なんですけどね。

その流れの中では、ある程度「現場的最適性を抑圧するとしても、理屈原理主義で突き進む人」だって必要だったんですよね。言うこと全然聞かない日本人に「理屈さん」の言うことを聴かせる習慣をつけるためにはね。

というか、ある程度そういう無理をしないと、日本人に「理屈の通用性」を埋め込むなんてことは不可能だったんでね。

で、そのインストールがある程度終わった今だからこそ、今度は「理屈の運用の精緻化」の段階に入れるんですよ。

松坂&岩隈投手の「一番良いパフォーマンス」

が、ちゃんと

「メジャーリーグ的な世界」においても潰されずに「自然に発揮できる」ようにする

ための、

「一般論じゃない自分たちのための理屈」を作っていくべき時代

になってきてるんですよね。



コンサルを仕事にしてる人なら、多分誰しも思うことだと思うんですが、相手の会社のトップが相当な勇気のある人でない限り、

「今の風潮とは逆なんだけど本当にその会社の個別性が活きるであろう方策」

って、コンサルではなかなか推し進められないところがあります。

そういうのは、「トップの切実な生身の感覚」として「これが必要なんだ」っていう強い意志がないとできない。

結局、「本当にその会社の個別性が活きるであろう方策」みたいな、「本当にあるかどうかわからない」ようなものじゃなくて、「今の風潮」的に納得されやすいものを、ある程度カスタマイズして入れ込む・・・ようになりがちで。

でも、

本当に未来を切り開いていくのは、そういう「一般論の裏にある、自分(たち)にとっての個別解へのコミットメント」

なんですよね。

今は、「風潮」的なレベルの話は、基本的に「アメリカじゃこうなってるのになんであんたらそれできないの?あーあ、日本人って嫌だよねえ」って感じになっちゃってるんですよね。

でも、アメリカがアメリカ的な方法で成功していることの裏には、かなりの程度「アメリカだからできること」っていうのが含まれてるんで、ただ真似しようったってできないんですよ。

ただの今までの惰性もダメだけど、「中途半端な取り入れ方」するのもダメなんですよね。

もちろん、「今成功している存在」を分析するのは大事なんですが、その時に、「簡単には真似できない自分たちのサガ」の部分を、同じぐらい真剣に吟味することが大事で。

「日本はアメリカとこう違うからダメなんだ論壇」ばっかりじゃダメなんですよ。

「アメリカみたいになれない理由」の方を、ちゃんと個別的に吟味して、で、「日本にもできるやり方」を自前に考えていくように持って行かないとね。

つまり、「松坂&岩隈投手が、数を投げ込んで調整できる”理屈”」を「風潮」として生み出せないといけない。

「グローバリズム的一般論の威を借る狐」から、「現地現物の日本の事情を適切に汲み上げられる個別的プロフェッショナル」への転換が必要なんですよね。

ただ、そういう「現地現物の事情を適切に汲み上げる」っていうのと、「ただの惰性の現状追認」って、かなり紙一重ですよね。

いや、それが生み出されるプロセス自体はもう全く違うというか、一緒にしたらほんと失礼ってぐらい前者の方が高度に難しい作業なんですけど。

ただ、「見た目」がちょっと似てしまう部分もある。

だからその両者をちゃんと選り分けるために、ある時期までは、

「グローバリズム的一般論の威を借る狐」vs「けっ、ここは日本なんだよ、黙ってろ!」

みたいな罵り合いを続けていることが必要なんですよ。

そういう対立構図を維持しながら日本人全体で経験を積んでいって、「現地現物の日本の事情を適切に汲み上げられる個別的技術」を培っていかなくちゃいけない。

でも、そろそろ次に行けるタイミングですからね。

「概念先行の知性派個人主義者の”長州藩士”的日本人」と、「集団的密度感の中に生きる現地現物主義の”薩摩藩士”的日本人」との間の、「21世紀の薩長同盟」が実現される日も近い。



で、それはどうやって実現するのか?っていうとね。

基本的に「理屈側から迎えに行く」しかないんですよ。

「けっ、理屈じゃねーんだよ!!」的な方向では、決して辿りつけない。

だから、例えば池田信夫氏みたいな人は凄く必要なんですよね。

社会のなかで、しっかり「客観知的に認証された知識」の延長を敷衍化していこうっていう存在はね。

アメリカみたいに、一線の学問的研究者が実務もやっちゃうような世界には、日本はなかなかなれないんですよね。それは、社会の末端まで理屈で押し通してしまう構造をしているアメリカと日本の違いなんですが、それは「日本の現場的優秀性」を支えている構造でもあるんで、単純にアメリカみたいにはできない。

だから、現場と学問の間を、繋ごうと真剣に活動する存在が必要になるし、そういう人が、「生兵法的な一般論に対する抑え」になるのは悪いことじゃないんですよ。

例えば、経済学とか、生兵法的に聞きかじりな知識で極論を言ってると、かなり「現実を抑圧」する部分があるけれども、でも、「最先端的な研究」は常に「現実の複雑さ」を吸収して進化していきますからね。

だから、「生兵法的な一般論的理屈」よりは、「ある程度真剣な知性派」の通用性が高いことは大事なことなんですよ。

でも、そういう人だって、「理屈」である以上、「現地現物のリアリティ」を、何らかの形で抑圧してしまうことは当然あるわけですけどね。

それが、今後「適正化」されるような状況に、なっていけばいいんですよ。

その時に、「池田信夫氏」と「アンチ池田信夫派」との間の摩擦っていうのは、凄く大事な役割を果たすんですよね。



ここ最近、「ブログ論壇」的な世界では、「古い日本の共同体」を批判するよりも、「現実から遊離した古い左翼主義者」を批判する方向に動いているところがあると思うんですけど。

そういう流れは非常に良い希望の萌芽なんですよ。

それはいずれブーメラン的に、「グローバリズムの威を借る狐」に対しても、「グローバリズム側にいることを批判する」んじゃなくて、「現実から遊離した一般論しか言わない」ことを批判される流れに転換されていくからね。

つまり、今の日本のネット言論は、「どちら側の人間か」から、「どれだけ実効性のあることが言えるか」っていう評価軸に、少しずつ変わってきつつあるんですよ。

古いマスコミの惰性的な、「右か左か」「日本伝統主義者かグローバリストか」っていう分断から、「いったいどうしたらいいのか」っていう基準へのシフト

が静かに起きつつある。

日本のネット界の、「お互いの論法をチェックする機能」って凄い厳しいものがあるから、一度そういう「薩長同盟的なムーブメント」が起き始めたら、今度は一斉に「それ以外の論調」への攻撃力が発揮されて、一気に進んでいくはずなんですよね。

つまり、「日本じゃ昔からこうなんだから黙ってろ!!」的なのも、「アメリカじゃこうなのに日本はホント駄目だよねえ・・・あーあ」的なのも、両方居場所を失っていくんですよ。

そうなったら、本当の「現場」にいる人や、その周囲にいるコンサル的な立場の人から発信される知見と、池田信夫氏のように「アクティブな学者」さんとの間、そしてもっとアカデミックな方向で専門的な研究をしている人との間に、適切な連携関係が生まれてくるんですよね。

その時、アメリカみたいに「上(知性側)から下(現場側)にガツンと押し通すような連携」じゃなくて、お互い猛烈に空気を読み合って最適な連携をする、優秀なサッカーチームみたいな連動性が実現するんですよ。



一緒くたに投球数を厳しく制限してしまうような「アメリカレベルの大雑把な客観知」が、「取りこぼしている本当のリアリティ」っていうのは、世界中にあるし、アメリカの中にもあるんですよね。

私は前者を「IQレベルのこと」と呼んで、後者のフィジカル・フィロソフィシャル・パーソナルな領域まで含んだ”取りこぼしたものも含む知性”を「PQレベルのこと」って呼んでるんですけど。

「IQレベルの知性」をとりあえずの共通了解として世界中で共有するってことは人類にとって凄く大事なことだし、その必要性ゆえにアメリカのある程度の傍若無人が世界的に「黙認」されてるところがあるわけですけどね。

でも、それが「取りこぼしたリアリティ」の暴発っていうのは、北朝鮮にしろイスラムテロにしろ海賊にしろ、とにかく色んなところで噴出してくるし、そもそも現在の人類の不幸のすべての源泉みたいなものになってしまってるわけでね。

だから、世界は、その


「IQレベルのシステム」と、「現地現物の本当のリアリティ」を繋ぐ「PQレベルの洞察を生み出して共有するシステム」を切実に必要としてる

んですよね。

そして、「日本という国」自身が、今後”それそのもの”になっていくんですよ。

「大雑把なIQ的客観知のシステム」と、「現地現物的リアリティ」の間を、無矛盾に接続する「PQ的知性の生成メカニズム」が、近いうちに日本に現出してくる・・・というか日本人1億数千万人の日常のあらゆるインタラクションが、総体として”それ(PQ的知性の生成メカニズム)そのもの”になるんですよね。

そういう風に動かしていきたい。

日本において知性派であるということは、アメリカでいるように「客観知レベルで言いっぱなし」にはできない、ノイズが大量に入ってくるってことですからね。

でも、それを「短所」と捉えずに、「だからこそできることは?」っていう風に動いていけば。

ある意味において「反知性主義的な集団的日本人」とのインタラクションで鍛えられることで、「IQレベルの知性」が、「PQレベルの洞察」に進化していくんですよ。

で、1億数千万人が、「一つのテーマ」を突っつき回しはじめた時の密度感って言ったら物凄いものがありますからね。

だから、徐々に「日本の言論空間」の「競争条件」を変化させていくことが大事なんですよね。

「市場的言論適正化システム」

っていうか。

日本人の内輪で突っつき回す密度感が、「アメリカレベル・IQレベル」の「言いっぱなしの言説」を、「土着レベルのリアリティ」と調和させて適切な落とし所を発見する「PQ的洞察生成マシーン」としての価値を持つことでグローバル世界と接続されるんですよ。

そのためには、「伝統主義者」にしろ「グローバリスト」にしろ、どっちも、「本当の個別性への配慮」がないようなのは淘汰されるような空間に変えていくことが必要で。

そしたら、松坂&岩隈投手が、ちゃんと「自分の一番やりやすいやり方」で活動できるような、

「アメリカレベルで通用する明晰さ」を持った「自前の理屈」が形成される

ようになる。そういうものが次々生まれるような「言論環境」が生まれるっていうか。

そうすれば、「現場レベルの本質」と、コンサル的な立場の人、その外側にいる「論客」的な立場の人、そしてその外側にいる学者的な立場にいる人・・・が、ちゃんとシームレスに問題を共有して、

本当に実効性のある行動

を、次々とツーカーな響きあいのなかで起こしていける時代になるんですよ。

それが、「21世紀の薩長同盟を結べ(出版社のサイトで試し読みができます)」なんですよね。

そういう状況に持っていくための準備として、他の「シンプルにグローバリズムを受け入れきることで成功した国」のような身軽さは捨てる・・・っていうコストをここ20年間払ってきたわけですから。

その投資が芽を結んできたら一人勝ちができる時代が来ますよ。

もうちょっと。もうちょっと、「時代の空気」を変えていけば、あるところでギャーンと全てが噛みあい始めますからね。

みんなで「21世紀の薩長同盟」を実現しましょう!

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書籍の執筆でアタマが沸き立っていて、箸休めに軽いブログを書きたいので書きます。



ネットで話題の、経産省の若手有志による、

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っていうのがあって、このリンクからパワーポイント資料が読めるんですが。

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で、資料の内容なんですが、たしかに「どこにもない新奇性」とか、「具体的な政策へ落とし込みきった提案」とかは弱いかもしれないが、この資料は1つの「ストーリーの提示」を目標としてるわけですよね。

いわゆる「高齢者に属する人」にも、資産や健康面でかなり余裕がある人もいるんだから、一概に「高齢者サマ扱い」で終わ…

今更ですけど自己紹介を・・・その1.副題『原生林のような豊かでタフな経済を目指して』

このページはよほど倉本圭造に興味がある人のためのありえないほど長い自己紹介エッセイなので、サクッとコイツ誰なんだ?ってことが知りたい場合は、私のホームページの「Who?」欄をお読みください。(向こうにしかないコンテンツもありますし、とりあえずコンパクトに全体像がご理解いただけると思うので、かなりご興味を持ってくださっている方も、先に向こうをお読みいただけるとご理解しやすいように思います。その後以下の”長文”へと戻ってきていただければと)







最近出版の依頼を下さった人がいて、”出版社の女性社長さん兼編集者”としてギョーカイでは結構有名な人らしいんですが、「21世紀の薩長同盟を結べ」本体を読むまで、プロフィール欄を読んでも「???」って感じだったと言われたんですよね。

その「???」になったっていう文章は、本の著者プロフィール欄に記載されているコレなんですが。

1978年神戸市生まれ。兵庫県立神戸高校、京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感、その探求を単身スタートさせる。まずは「今を生きる日本人の全体像」を過不足なく体験として知るため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、時にはカルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働くフィールドワークを実行後、船井総研を経て独立。「個人の人生戦略コンサルティング」の中で、当初は誰もに不可能と言われたエコ系技術新事業創成や、ニートの社会再参加、元会社員の独立自営初年黒字事業化など、幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。星海社新書より『21世紀の薩長同盟を結べ』発売中です。
で、「なるほど、意味わからない・・・かもしれないな」と思ったんで、それについて、一度まとめた文章を書いておいたほうがいいのかな・・・と思って、これから書きます。

日本から老害を一掃して残業を減らす唯一の方法

なんか挑戦的なタイトルになってしまいましたが、ただ最近「老害」っているんだよなァ〜と物凄く実感することがあって、その詳細をそのままは言えませんがそのやるせない思いをより広くて皆様と共有できるテーマとして昇華して書いてみたいと思っているんですが。

あなたは、「老害」って言葉、キライですか?好きですか?

私は最近まであまり好きではなかったです。老害扱いされてる人にも、うまく使ってあげればそれなりの価値やら色々あるんだぜ・・・と言いたい気持ちが結構あって。

ただ、そんなこと言ってると「老害さん本人」が「自分の老害性」を一切意識せずにノウノウと暮らし続ける反面、困ったことにその「老害さん」は権力持ってたりするのでその集団全体の適切な運営がどんどん滞り、直接的には「ヤル気のある若手」さんが、そして結果的には「その組織の人全員」が非常に困った状況にみんなで追い込まれていくことになってしまう。

物凄く大枠での言い方をすると、過去20年にわたる日本の苦境はこの「老害さんをどう扱うか」について、思い切りの良い諸外国のように何のテライもマヨイもなくボコボコに権力を奪って放逐していくような思い切ったマネジメントができなかったから・・・と言ってしまっても悪くないかもしれません。

ただね。現状の日本は、老害さんたちを腫れ物に触るように扱って捨てずにいたので、社会全体が「トランプvs反トランプ」みたいにどこまで行っても平行線な対立に落ち込んだり、スラム街がどこまでも悲惨なスラムになっていくようなことは避けられたり・・・というプラス面もあったんだろうとは思います。アメリカに比べたらまだ貧富の格差もまあマシなレベルに留まっている。

つまり、なぜ日本が「老害さん」たちを諸外国のようにはボコボコに斬ってしまえないかというと、「その老害さんが代表しているものの中に自分たちの良さの根幹も混ざっている」からだと言えるでしょう。