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「売れているものはすべて正しい」と思える自分であるために「プロとして何を言うべきでないか」を考えたい。

次回作の編集者さんの過去作品を大量に読んでいて思うのは、かなり「普段の自分の立場」からは「凄く逆」なことを言っているように見える人でも、「半分くらい」は凄く「そうだよなあ!!」ってなる部分が多いなっていうことで。

こういうのは、自分で本屋行って自分が読みたい本を買っていてもなかなかできない体験ですよね。

さっき読んでた本でも、前半に、哲学の話をしているところでは、「スゲー言いたいことわかるぜ」っていう感じだったんだけど、後半に経済の話始めたらあまりに自分の意見と違って驚いた・・・ってところがあって。

ケインズがいかに凄くて、今の経済学の主流がいかにダメで、今こそ公共投資をバンバンやらなくちゃいけなくて、それに反対するヤツは全員自分がカッコつけたいだけの中身のない議論をしているヤツなんだ・・・・みたいな感じだった。

で、でもね、そこはあんまり受け入れられないわけだけど、前半部分を読んでた時に、「いいこと言うなあ」って気持ちを「共感」できてた時のことは凄く大事にしたいな・・・と思ったんですよね。

その著者さんだけじゃなくて、普段その著者さんの本を読んでいる人にとって、僕の本って絶対役に立つし、新しい道が開けるものになってるはずだと思うし。

よく考えてみれば、僕の本の一番大事な部分を理解してもらうにあたって、別に読み手がケインジアンだろうと新自由主義者だろうとリフレ派だろうと、いっそ共産主義者だろうと、全然関係ないじゃないか・・・・っていう部分はあるんだよな。

普通の働き手が、自分の人生と自分の職業を改善して、しかもその「個人の改善」が、マクロに見た時の経済全体の新しい可能性に繋がるようなものでなくてはならない・・・・って言う時に、「読み手個人が取るべきアクション」と、「マクロに見た時の政策論」って、リンクしてるようであんまりリンクしてないからね。

まあ、もちろん、結局僕自身がどういう立場でいて、だからこそ、細部における方向性がこうであるべきだと考えているんだ・・・っていう、そういう「全体としての一貫性」があるのとないのとでは、のちのち全然違ってくるし、そういうところまで全部丸呑みに新書一冊にまとめさせてくれた星海社の柿内氏には凄く感謝してるんですけど。

ただ、そういう「論争が起きる部分」まで一緒くたに入っていると、「9割まで気持ちで理解しあえる人」に対して「1割部分の違いでケンカしてしまう」ところがあるのかな・・・・って思った。

もちろん、「論争」自体に意味がないわけじゃあ絶対ないので、次回作を「入り口」として入ってきてもらって、で、それをキッカケに「薩長同盟本」を読んでもらって、そのうち「論争」部分でも僕の言っていることを理解して欲しい・・・という意図はあるんですけど。

「論争がある部分」で、「薩長同盟本」的な方向であることは、やっぱりその内容がマクロに見た経済全体と自然に噛み合うためにどうしても必要なことだと思うし、そこの一点を受け入れてくれたら、あらゆる「対立に見えるもの」から「新しい連携」が生まれてくることになるだろうし。

でも、そういう狙いがあるからこそ、次の本は、「何を言わないか」が凄く大事だなあ・・・・と思っている。

「論争が起きる部分」を徹底カットして、「わかりあえる部分」だけを共有できるようなものにしたい。

そういう意味で、「商品としての優秀性」に徹底してこだわって作りたいと考えています。


ただね、「本来的な連携」が経済に巻き起こるまでは、ある程度「論争」面でも両方の派閥が必要なんだよね。

「本来的な連携の文化」が生まれるまでに、あんまりにも市場原理主義的にドライなシステムに移行してしまったらマズイことになるってのは一理あるし。

公共投資的なものへの批判が高まっても、移行期には「どうしても必要なことをちゃんと賢く政府投資していくべきだ」みたいな意見も必要だろうし。

あと、ある「リフレ派・国家主義者」の人の意見をこの前本屋さんでパラ見してて思ったのは、「市場主義」と「国という単位」っていうのがぶつかりあいながら両立していることで、ちゃんと「本当の意味で意味あること」と「価格メカニズム」を合致させようとする動きが可能になるんだ・・・っていうような意見ね。

そういう意味じゃ「国」っていう単位が「システム的には不合理」であるからこそ、その隙間を通じて「わかりやすい理屈が取りこぼしているもの」が現実世界に還流するようになってるんだ・・・っていうのはなるほどなあと思った。

その他にも、普段接することがない方向の議論を一貫して数十ページも読むと、色々と「この点は同意だなあ」っていう部分が結構ある。

「最後の1割の具体策」部分がかなり暴論に聞こえるんだけど、そこに至るプロセスには結構納得できるものもあったりして。

というか、もともと、「そういう人達の思い」を、「市場原理」に乗せるための現地現物的な探求の結果・・・てのが僕の本なんだから、僕が彼らの本を読んだら「結論は反対だけど気持ちはわかる」っていう風になるのが当然ちゃ当然なんだけど、その「当然さ」を身をもって体験しているというかね。

で、その「当然わかりあえるはずの部分」を、ちゃんと火種としてうまく燃え広がらせていくような動きに真剣にならなくちゃいけないんだな・・・という気持ちになってきている。


で、じゃあ、「どういう派閥の人にもわかってもらえる部分」って何かな?って考えるとね。

結局、「本当のリアリティから逃げたシステム的なものに安住する姿勢」に対する「怒り」なのかな・・・って思った。

「レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン」みたいな。

「公共投資重視の護送船団方式」に対するマーケット主義者の怒りも。

あと、「グローバルなシステムの中で”うまいこと”やってるだけでカネ儲けてるけど、トータルに人間存在を見た時に、誰の幸せにも貢献してないヤツ」に対する「アンチ・マーケット主義者の怒り」も。

どっちも、本当は同じものなんじゃないかと思いたい。

要するに、「本当のリアリティ」ベースで、「意味あること」に満ちた世界にしたいんだけど、ただ「人間社会の惰性でそうなってしまってること」の延長で、「誰のためにもなってないことで自分の利益だけ追求している」奴らがいるのが許せない・・・という気持ちね。

そういう「本当のリアリティへの冒涜」っていうか、そこれそ「レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン」的なものっていうか、そういう「純粋な部分」でいえば、「立場が180度違う人同士」でも共有できるものなんじゃないかと思う。

そこのところを純粋にパッケージ化できれば、

1「自分らしさ主義」的な左翼シンパ(ミヒャエル・エンデとかいいよね!っていうような)
2やっぱり、日本人なんだから日本らしさ、日本ならではの良さを大事にしたいよね!というような気持ち・・・さらにもっと右翼的な感情も含めて
3「グローバリズム競争の中で勝ち残るタフネスが必要だ!!」っていう人たちの「タフネス欲求」

のそれぞれのみなさんにとって、「個別具体的なレベル」において「だよね!!」っていう共感の軸になるようなものにできるんじゃないかと・・・今そう思っている。

それぞれお互いを取ってみたら永久にわかりあえないかもしれないが、「共有できる部分」はちゃんとあるよね!っていうようなものができるんじゃないか。

で、「論争」になってしまっている部分は、一種その「気持ちのスレ違い」の「影」として生まれてしまっているので、「気持ち」の部分で「こうやっていこうぜ」っていう共有軸ができたら、「論争」部分は、是々非々に時々の合理性に則って進めていくことが可能になると思うしね。


で、だからこそ、そういう「商品」を作っていくにあたって、「今売れているもの」に対する「敬意」を真剣に持っていくことが大事だなあと感じています。

「まあ、ああいうのも良いですよねえ」的な、大人の作法として口だけ言ってるみたいなんじゃなくて、マジで「心の底から尊敬」しなくちゃいけないな・・・と思っている。

AKBとか、アプリゲームとか。とにかくすべて。

彼らは「消費者が求めている形」をちゃんと具現化することができている。

悔しいけれども今の自分にはできていない。

そこをなんとかしなくちゃいけないな・・・と凄く思っている。

彼らは、ある意味「自己承認欲求」的なね、そういう「今の時代一番欲しいとみんなが思っているもの」を提供していることにかけて凄く徹底してるしね。

微に入り細に入り、ユーザビリティ的なものをキッチリ作りこんでいくってことも凄い徹底してるし。

で、そういう「今売れているものへの尊敬」を持って作ろうとするってことと、論争を生まないような「一番純粋な部分」だけを抽出するように動いていくっていうことは、かなり「同じ気持ち」なんじゃないかと思う。

いや、いつでも誰にとっても「同じ」になるかどうかは知らないが、少なくとも先に「薩長同盟本」を出させていただいて、さらに「他の選択肢を捨ててそこに飛び込む」こと自体のリスクを真剣に取っていっている今の自分にとっては、幸福にも一致している・・・って感じになるんじゃないか?と思っている。

少なくとも「うまくやれば一致させていけるはずだ」ぐらいではあるんじゃないか。

そういう、「純粋なもの」を作りたい。

そういう「パッケージング」に集中するっていうことは、「経営コンサルの片手間言論活動」ではなかなかできないことだと思うし、わざわざ「思想家」っていう今時耳慣れないポジションに自分を持っていったことの価値が発揮できる分野だと思うし。

そこの「純粋な中心」部分に「新しい言説パターン」が供給できれば、「論争」自体はもっとスムーズに行くと思うんだよな。

「論争」の世界において僕と意見が同じ人たちが持っている苛立ちとかを、僕も共有してはいるし、そこがもっとスムーズに動けばいいのに・・・とは思っているんですけど。

でも、そういうのを言論活動の場で出していくのは、「不要な舞台裏まで見せている」的な意味で「プロ失格」なのかもしれないな・・・と思った。

自分に与えられた「役割」に対して、もっと「純粋」でありたい。

今、そう思いながら次回作の準備をしています。


とはいえ、見た目やパッケージングはともかく、「薩長同盟本」も、実際に星海社のサイトで「はじめに」だけでも試し読みしてもらえたら、そういう「立場を超えた共有可能性」に対して良いセン行ってると思うんだよね。

だからね、ブログの更新は多少減っていくでしょうから、過去ブログや、「薩長同盟本」、まだお読みでない方は、ぜひどうぞ。

最近アマゾン在庫切れなこと多いですけど、リアル書店併設のウェブ本屋さんとか、またはリアル書店でぜひお求めください。





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1978年神戸市生まれ。兵庫県立神戸高校、京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感、その探求を単身スタートさせる。まずは「今を生きる日本人の全体像」を過不足なく体験として知るため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、時にはカルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働くフィールドワークを実行後、船井総研を経て独立。「個人の人生戦略コンサルティング」の中で、当初は誰もに不可能と言われたエコ系技術新事業創成や、ニートの社会再参加、元会社員の独立自営初年黒字事業化など、幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。星海社新書より『21世紀の薩長同盟を結べ』発売中です。
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ちなみに、ブログ再移転しました。ブックマークされてる方は変更をお願いします。

新ブログトップページ↓
http://keizokuramoto.blogspot.jp



で、久しぶりのブログ更新、しかもブログ移転一回目・・・がテレビドラマの話題ってなんてミーハーなって感じもしますが、2016年最大の(たぶん)ヒット作となった『逃げ恥』が超よかったので、年末だしそれについて書きます。

全体的に言って、「自分らしく生きる」っていう現代的に超超超言い古されたことについて、ちゃんと一歩ずつ考えて一歩ずつ実現していかなくちゃね!っていう気持ちになったところが凄く良いドラマだったと思ってます。夫婦で見てて毎週二回は泣いてました。

このブログはそういう方向で、

・『逃げ恥』のどこにこんな感動するのかって話
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というような話に広がっていく予定です。

日本から老害を一掃して残業を減らす唯一の方法

なんか挑戦的なタイトルになってしまいましたが、ただ最近「老害」っているんだよなァ〜と物凄く実感することがあって、その詳細をそのままは言えませんがそのやるせない思いをより広くて皆様と共有できるテーマとして昇華して書いてみたいと思っているんですが。

あなたは、「老害」って言葉、キライですか?好きですか?

私は最近まであまり好きではなかったです。老害扱いされてる人にも、うまく使ってあげればそれなりの価値やら色々あるんだぜ・・・と言いたい気持ちが結構あって。

ただ、そんなこと言ってると「老害さん本人」が「自分の老害性」を一切意識せずにノウノウと暮らし続ける反面、困ったことにその「老害さん」は権力持ってたりするのでその集団全体の適切な運営がどんどん滞り、直接的には「ヤル気のある若手」さんが、そして結果的には「その組織の人全員」が非常に困った状況にみんなで追い込まれていくことになってしまう。

物凄く大枠での言い方をすると、過去20年にわたる日本の苦境はこの「老害さんをどう扱うか」について、思い切りの良い諸外国のように何のテライもマヨイもなくボコボコに権力を奪って放逐していくような思い切ったマネジメントができなかったから・・・と言ってしまっても悪くないかもしれません。

ただね。現状の日本は、老害さんたちを腫れ物に触るように扱って捨てずにいたので、社会全体が「トランプvs反トランプ」みたいにどこまで行っても平行線な対立に落ち込んだり、スラム街がどこまでも悲惨なスラムになっていくようなことは避けられたり・・・というプラス面もあったんだろうとは思います。アメリカに比べたらまだ貧富の格差もまあマシなレベルに留まっている。

つまり、なぜ日本が「老害さん」たちを諸外国のようにはボコボコに斬ってしまえないかというと、「その老害さんが代表しているものの中に自分たちの良さの根幹も混ざっている」からだと言えるでしょう。