ホイットニー・ヒューストンとセリーヌ・ディオンとエルビス・プレスリーと山崎まさよし。

ホイットニー・ヒューストンさんが亡くなったそうで・・・・ご冥福をお祈りします。

で、なんかね、いや、凄い歌い手だったな・・・って思うのは思うんですけど、誰かが死んだら「お前昨日まで全然好きでもなんでもなかったやろーが!!」っていう人まで完全に「絶賛モード」に入るのってちょっと違和感あるんですよね僕は。

マイケル・ジャクソンの時もスティーブ・ジョブズの時もそう思ったんですけど、故人の一個一個の活動に対して「あれはこういうところがいいよね!」っていうような「リアルな個人の感覚」なしに、死ぬ前は全無視だった癖に死んだら一気に「完全に絶賛!!」って感じになるのって、ちょっと逆に死者に対する冒涜的なものを感じる。

いや、もちろん、亡くなったことによってみんなが注目し、それを機会に聞いてみたらこんなに良かったんだねえ(しみじみ)っていうのはいいんですけど、なんかね。違和感があるんですよね。

ほんとに君はその故人の業績そのものを自分のパーソナルな思いとして良いと思ってるのか?それとも、故人が死んだっていうイベントに後乗りして騒ぎたいだけなのか?

みたいな・・・・いやそこまで言うとアレで、やっぱ故人としてもそういうムーブメントが巻き起こってくれた方が嬉しいのかもしれないですけど。




まあ、それはともかくとして、2ちゃんねるとかのネットの定番のネタとして、映画タイタニックの音楽『マイハート・ウィル・ゴーオンbyセリーヌ・ディオン』と、映画ボディガードの音楽『アイウィルオールウェイズ・ラブ・ユーbyホイットニー・ヒューストン』を混同するってのがあるんですけど。

タイタニックの話始めたらすぐ「えんだーいやー!」って言うとか。そういうの。いやいやそれ違う歌やで!みたいな。

でも、似てるなあと思いながら、でも全然違うなあって思う部分がある。

ホイットニー・ヒューストンの歌を、今日いっぱい聞いたけど、なんつーか、物凄いと思うと同時にちょっと痛々しい部分もあるなあと思った。なんか、辛そう。

いや、ヤク中で亡くなったとか言う後情報があるからそう思うのかもしれないですけど、でもなんか、「無理」してるなあ・・・って感じがあるっていうかね。

ちょっと似てるなあという「感じ」として、なんか、エルビス・プレスリーに、「You don't have to say you love me」っていう曲があるんですよ。

歌詞コレ

で、僕はあの大時代的すぎるほど大げさな歌がかなり好きなんですが、しかし、ちょっとね、無理してるなあーって感じも同時にするじゃないですか。

いやいや、好きって言ってくれても良くない?みたいな(笑)

俺ばっか言うてたら俺だけしか好きちゃうんちゃうかなと思ってまうやんか。な?

映画の中だけじゃなくてこれからずっと一緒に暮らしていくわけやん?そうやって気張ってたら続かへんでほんましかし。一緒に時間を積んでいくんやっちゅーこと考えたら、お互い無理しない関係にせなアカンと思うやんか。なあ?

って感じがする。曲としてはいいんだけど。

そのへん、「アメリカだなあ!!」っていう歌は、同時に「不自由だなあ!!」て感じがする部分だなと思う。

特にエルビスは男なんで、強がり言ってナンボ的な部分もあるんですが、ホイットニー・ヒューストンさんの場合は・・・ってこういうこと言うのはフェミニズム的に良くないのかな?

でもなんか、辛そうだなと思ってしまう。そういう感じが色んな歌聞いてて思った。



僕は映画『ボディガード』の時にまだ小学生とかだったんで、世代的にハマりづらい部分があるんじゃないかと思わないでもないですけどね。

でも、大学時代に、「東大に4年行った後退学して京大に入り直したかなり”年上”の”後輩”」ってのが同じ部活にいてですね、彼と話してると、ほんと「世代が違うなあ!」と思った。

バブル絶頂期(ちょっと後)ぐらいに東京で学生生活を送り、なんか学生ベンチャーの走りみたいなんやってたからそれなりにお金も持ってた彼は、「クリスマスにはどこどこのホテルを予約しないと話が始まらない」みたいな感じで。(本人は物凄く音楽に造詣の深い趣味人だったりするところが、そのギャップがまた印象的だったんですけど)

いやいやいや、別に、二人の関係を積んでいくにあたって、ホテルの格式とか関係なくない?みたいなところが・・・・というのは僕の世代だから思うことかもしれないですけど。(←余談ですけどこういうのがデフレの根本原因だと思いますよやっぱり。マクロな貨幣供給量の問題だけじゃなくて)

でも、そこのところの、「本能的に自然な関係」を最初に築いておいて、そこから「積んでいく」形にしないと、どこかでこう・・・・「本当に満たされることじゃないことを無理してやってる」ってことのダメージがのちのち効いてくるみたいな問題が起きがちだと思うんですよね。

そういうのが、ホイットニー・ヒューストンが莫大なお金を得ながら使い果たしたあげくに、ヤク中になったりセックス依存症になったり・・・・っていうヤバイ状態になってしまっていた根っこのところにあると思うんですよ。

つまり、二人の間の喜びが、「パーソナルなもの」じゃなくて、「世の中的に定義されたブランド」だけで出来上がってるから、そういうのはパーソナルな喜びからは常に遠いものなんで、「たまの刺激」にはいいけど、「それだけ」だと、やっぱココロの芯の部分に寂しさが募っていっちゃう部分があると思うんですよね。

セリーヌ・ディオンのほうが、まだなんというか・・・・まだ「自然」な感じがする。僕の世代からすると(って一般化するのは卑怯かもしれないんで、”僕にとって”にしてもいいんですけど)。

セリーヌ・ディオンは、カナダのケベック州出身で、フランス語が母語なんですよね。で、当然カトリック圏出身で。

なんか、心理的な奥底の部分に染みてきている文化として、「みんな」からあんまり無理には切断されていないような、そういう可能性を感じる。

今はラスベガスでずーっと公演し続けるみたいな、「ザ・プロ歌手」みたいな人生を送っておられるみたいなんですけど、そういうのを普通に堂々とやり続けられるって、やっぱ一つの「才能」が必要な分野だなと思うし。

旦那さんともかなりラブラブな暮らしをしているらしく、旦那さんの病気の看病のためにかなり長期間キャリアを中断したりとか、なんかそういう気概も持ってる感じで。(それがいいとか悪いとかじゃなくて単純にそういうタイプの人だってことですよ)

ただ、僕の妻は高校時代にカナダのケベックに留学してたことがあったんで、ケベックのことはよく話に聞くんですけど、周りが「超バリバリの北米文化圏」の中で、「フレンチな価値観」を保つのは結構心理的に大変な部分もあるみたいで、中に入って暮らしてみると結構苦しい部分もあるみたいな話を聞いたりして。

その、培った「文脈の密度が高い文化」と、「アメリカンに単純明快な文化」との間に板挟みになって自殺する人も多いとか。

かなり、「武士は食わねど高楊枝」的に、「フレンチな文化」を意地はって続けていくことの無理みたいなのを感じるというような。(ってこれは本国フランスでも同様の問題があるんでしょうけど、飛び地なケベックではさらにアメリカンな文化の侵略が激しいでしょうし)



で、それらに比べると、決然としたワールドワイドな明確さには全然欠けるけれども、こと「心理的密着感」的な話だけで言うならば、我らがJポップは凄いなあって思う部分があるんですけどね。

「みんな」に呪われまくって生きている我々が、「みんなに呪われて生きているから個人として決然とすることが物凄く難しい」っていうことのコストをかけてまで獲得している価値とはそこにあるんじゃないか。

なんか、似たテーマな曲で思いつくとこでいうと、SMAPと山崎まさよしさんの「セロリ」とかね。

歌詞これ

これ、いい歌だなあと思うけど、でも「ハッキリしない男だな!!」って怒ることもできると思う。

いきなり「アイウィルオールウェイズ・ラブ・ユー」とか言わない。

「いやなんか、うん、うまくいくかはわからないけど、でも俺はうまく行くと思ってるし、今二人ええ感じやん?だからさ、俺も頑張ってみるし、君も頑張ってみてくれへん?二人で積んでいこうや」

っていうぐらいしか言わない。

でも、「それしか言わない」からこそ、「積んでいった先」において、ただいきなり「アイウィルオールウェイズ・ラブ・ユー」ってドカーーンって言っちゃう時よりも「確実なもの」が培われていくんじゃないか・・・・と思ったりする。

と、いうか、「意地でもそういうふうに持っていってやろうじゃないか、それこそが21世紀のニッポンダンジのありようだろう!!」という感じがするっていうか。



まあ、どんなものでもそうなんですけどね。恋愛関係でも、仕事の関係においても、すべてにおいて。

最初のところで、「時間かけて基礎を固める」、しかもそれを「自然な流れとして成立するように持っていく」っていうことなしに、無理やりな促成栽培で、「You don't have to say you love me」とか「I will always love you」で乗り切っちゃうっていうのは、やっぱちょっと本当の意味では

「生身の他人から逃げてる」

って部分もあるんだろうなと思うんですよね。

でも、

「曖昧な状態がずっと続いていて、結局それを確実に信じることができない」

vs

「無理は含んでいるかもしれないが決然としている」

って・・・・まあ、どっちが良いわけでもないし、お互いはお互いの影として自分がいるから相手もいてもらわんと困る的な関係として存在しちゃってるわけなんで。

どっちが良いというわけでもない表裏一体の関係っていうかね。

だから、我々日本人としたらね、できるだけ「生身の正直な感覚」として「眼の前にいるリアルな他人」との「時間を積んでいくこと」をやっていく・・・・そういう「一貫した戦略」を取ると同時に、それが、やっぱり最終的に

「アメリカ人が相当な無理をして維持してくれている”決然性”」

を、

「代替できるレベルにまで確固としたものにまで高めていこうとすること」

を目指すべきだなあ・・・・と思います。



昔の時代は、「結婚」だとか「就職」だとか、「イエ」だとか「クニ」だとか、そういう「制度的なもの」の圧倒的な存在感があらゆるパーソナルなものを押し込めていたんで、だから別にパーソナルなものはただのお遊び的なレベルのことでよかったんですけど。

でも今、あらゆる「制度的なもの」の説得性がグダグダになってくる中で、初めて人類は「制度じゃない生身の他人」と「積んでいく」ことの必要性を発見しつつあるところがあって。

でもね、それがグダグダに信頼できないものだとしたら、結局旧世代の遺物的制度に載っかって経済を駆動しなくちゃいけなくなるんで、人々の「本当の思い」と「実際に具現化してる経済」とのギャップが大きくなってデフレにもなるし政府債務もヤバイことになるしね。

だからこそ、「本当に必要としている思い」と「実際に具現化している経済」との間のギャップを繋いでいくことが必要なんですけど。



そのへん、「セロリ」にあるような「積んでいくモード」を、ちゃんと戦略的に一貫して実行していって、いずれエルビスやホイットニー・ヒューストンレベルの「決然性」を具現化できるように持っていくことが、日本人のこれからの最大の課題(経済においても社会においてもあらゆる問題の根本的課題)だなっと思いました。

そう思ってみると、ほんと、ホイットニー・ヒューストンの歌は、「超絶的な強がりの美学」みたいな感じに聞こえてきて、それを歌い続けることの心理的負担が、かなり心身を病ませてしまっても、誰も彼女に「もういいんだよ」と言ってあげることのできない世界のふがいなさみたいなものを感じますね。

「不自然だけど決然としている」

vs

「自然だけど曖昧だ」

って、

どっちかしかない時代はそろそろ終わりにしないとダメ

ですよね。





「時間をかけて自然に積んでいくこと」を戦略的に一貫して行うことによって、「自然であり、かつ決然としている」を実現する





それが我々日本人が果たすべき役割ではありますまいか。

アメリカ人が「とりあえずの世界の共通了解」をつなぎとめるために自らに課している「無理」っていうのは物凄いものですからね。

それをちゃんと「慮って代替してやろうとする」姿勢なしに、米軍基地にだけ文句言うのは筋違いだと私は思います。

とにかく、ホイットニーさんのご冥福をお祈りいたします。おつかれさまでした。









追伸ですけど、この世代の女の人の生き様って僕かなり好きなんですよね。

プリンセス・プリンセスの「Diamonds」とかムッチャええ曲やなあ!!って思ってしまう。広瀬香美さんとかまでなると僕個人はちょっとついていけないけど、「頑張ってその道極めてくださいよ」ぐらいは思う。

マドンナの曲も凄い良いなあと思うし。それがレディ・ガガまでつながってる何かがあると思うし。

もちろんYUKIさんや椎名林檎さんにもつながっている「ガーリーパワー」っつーかなんつーか、そういうのの源流だと思うし。

あの時期の若い女の人が放出した無制限な願いのエネルギーが、ここ20年の世界経済を駆動したと言っても過言じゃない何かを感じる。

でも、それが、やっぱり、エルビスの歌に男側の無理があったように、キラキラの80年代末期90年代初頭の女性の歌には、女性側の強がりの無理が含まれていたんだろうなって思う部分があるんですよ。

で、それがね、その「意地やプライド」は損なわないように、「自然に着地できるポイント」が、今まさに見つかりつつあるんじゃないかと思わないでもないです。

彼女らの「意地」によって維持されていたムーブメントが、「古い社会の抑圧力」をネコソギに奪っていく中で、最終的に「崩壊寸前の世界の中に新しい秩序を形成しつつある」流れ・・・・の中に、僕の本その他のムーブメントを持っていきたいなと思っている今日このごろです。

どちらの側の性の「無理」も存在しない形で、「確実な確固たるもの」を文化として形成していけるか、それがこれからの日本の課題ですよ。

それができたら、そこベースに経済を駆動すればいいんだから、案外シンプルな話なんですよ。

今は「売上を上げるための文化」と「二人の関係を本当に幸せに導く文化」とのギャップがあまりに大きくなってるんで、消費を煽れば煽るほど空騒ぎ感が出てきてることになってるんでね。

そういう消費文化は、煽るほどに社会の安定的なファンダメンタルを痛めつけるんで、結局どっかで止まっちゃう程度のもんなんですよ。

今度は男側の自然なメカニズムに乗っかった形で、80年代末のような文化的キラキラ感を実現していきたいなと凄く思ってます。僕は。

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