「誠実なショービジネス」とは、真実とウソの適切な配分から生まれるのかな。

なんか、ちょっと開いてしまいましたね。発売日が近づくと色々あって自分が何者かわからなくなってきてるってところがあったりして。

妻の友人の旦那(僕も会ったことあるし彼らの結婚式に妻と二人で参加した)に、阪神タイガース球団で働いてる人がいるんですよ。選手じゃなくてスタッフさんね。

その人が、「21世紀の薩長同盟を結べ」ってスゲー面白そうじゃん!って言ってくれているらしく。

でね、そのこと自体はありがたいねえ!って話なんですけどね、それを聞いてからね、本の中で、僕が愛知県に引っ越してから初めてナゴヤドームで野球の応援行って、中日ファンになったっていう話を書いてるんですけど、そのことが変に気になったりしてね(笑)

経営における「モジュールの切り方」っていうもののやり方の文化的背景の一つとして、日本における野球文化を例示として使ってる部分があって、で、そこでちょこっと小ネタ的に挟んだんですけど。

それが、「いや、中日ファンとか言わんといたらよかったかなー」とか、「いや、サッカーしか触れずに育った自分がいかに野球ファンになったかっていう部分だけ取ったら好感なはずだ!」とか考えたりして(笑)。

まあ、別に、僕が中日ファンだから嫌いだ!!とか言うような人じゃないんで、半分冗談で言ってるんですけど、この程度のことですら結構真剣に悩んでる(というほどじゃないが少なくともアタマの中でグルグル考えてなんとか納得できる形を探しちゃう)んで、他に有形無形のこういう話があるんですよ今。

この本は、対象読者の「幅」が広いんで、普段経済の本なんて全然読まない普通の生活者の目線に響かなくちゃいけないことはもちろんなんですが、例えばもう日本なんか見捨ててシンガポールに移住して、税金安いしなんでみんなそうしないの?っていうレベルのグローバリストな個人主義者に対してもOKに響かなくちゃいけないし、一方で、そりゃ石原都知事の熱心な支持者(およびご本人)にすらちゃんと読んでもらわないと困るってなわけで、とにかく、「こういう言い方したけどあの人にはOKだっただろうか?」的な気遣いの問題が大量にあるんですよ。

ほんと、軽い話から深刻な話まで、小さい話から大きい話まで、色々ある。

凄く自分の中で「渦巻いている」と言ってもいい。

次々と色んなことをついつい考えてしまって、まとまった文章を書いたりするモードになれなかったんですよね。



まあ結局、今までの僕のビジネスはその程度の牧歌的な気遣いを残していても成立してたけど、これからはそういうわけにもいかなくなるんだな!!っていう、そういう単純明快な事実にアタマがついていってない・・・というか必死についていこうとしてるって感じですかね。

どこかで割り切ることが必要というか・・・・でも「割り切る」と言ってもそんな非人間的なことじゃなくて、多分読み手側からしても、書き手がそこまでアレコレ考えたりしてくること想定してないと思うんで、当然なことを当然にやるだけでいいんだと思うんですけど。

ただ、自分の人生的に、「今を生きている日本人の個々にできるだけ肉薄する」というフェーズが終わって、それを結晶化するフェーズも終わって、それを「世に問う」フェーズに入った以上、「肉薄」フェーズの時ほどの感度のアンテナをあっちこっちに飛ばしまくってたら僕の心身が持たないんだな・・・っていうことは実感してますね。

読者一人ひとりが中日ファンをどう思ってるかどうかとかまで気にしてられない(笑)

例えば読者が7000人いたら、それぞれの個別性っていうのはどこまでも奥深くあると思うし、実際に肉薄して一対一で話していったら、こっちとしても言えることがまた深くあるんですけど。

しかし、「マスに対して投げる数百ページの本」っていう媒体において、そんな個別性に対応してたりできないですしね。

で、そういう時に、なんか・・・・申し訳なさそうにしてたらアカンのやな・・・・という方向に自分を持っていこうとしている。

生身の自分が、生身の読者の人生を、生身に全部背負うとかできないし、そもそもやるべきでないことだし。

「すくいきれない個別性」にかんしては、「あなた自身の責任ですよ」っていうのがあるべき姿だと思うし。

そこで、「あらゆる読者のあらゆる個別性」を、ちゃんと「自分の本が完全にすくい上げているだろうか」なんかを考え始めると・・・・まあ構造的な無理があるんでね。

で、「最大公約数的ではあるけど、こういう風に捉えるとみんなが共有できる物語になるんじゃないかと思いますよ」っていうことを提示することが、これからの「仕事」だってことを考えると、いちいち読者が中日ファンかどうかを考えてオドオドすることで、その「商品」に対する自信が無いような印象になる振る舞いになったら本末転倒ってところがあるんで。

だから、ある意味大げさに言えば「絵空事」・・・・って言うと言いすぎだが、しかしまあ、個人相手のコンサルティングで、長期的関係を築く中で相手の中から自然に出てきたものを捉えてアドバイスをしていく・・・・というような繋がりから比べると、大分薄い、でもだからこそ大枠としての力のあるものを・・・・つまりは「物語」を売っていくんだな!???と思おう思おうとしているという感じか。

そう、だから


「物語を売る」、一種の「ショービジネスとしての自分」というものをシッカリとわきまえるように持っていくことが、この本を世に出すという仕事についての関係者全員の効用を最大化する道なんだな

とかね。

そういう、当たり前といえば当たり前なことを自分で理解するのに変に時間がかかって、アタマの中でグルグルグルグルしている感じの最近であります。



関係無いようで関係ある話に飛ぶとですね。

一個前の記事で、セリーヌ・ディオンとホイットニー・ヒューストンは、似てるけどメンタリティとか人生が大分違う感じがするって書いたんですけど、そういう感じのインタビューを妻がミクシィニュースで見つけてくれたんですよね。

元記事はマイナビエンターテイメントっていうサイト


「(前略)エルヴィス・プレスリー、マリリン・モンロー、マイケル・ジャクソン、エイミー・ワインハウス……。この人たちの死には薬物がまとわりついているわ。ホイットニーだってそうよ。愛情も、ファンも、家族も、母性も、彼女はすべてを持っていた。でも、ドラッグがそのすべてを破壊してしまったのよ」 
と断言した。 さらに続けて、 
「私は本当に怖いわ。ショービジネスが怖い。ドラッグが怖い。人の集まりが怖い。だから私はパーティをしないし、人とむやみにつるんだりしない。ショービジネスに取り込まれてもいない。私たちはこういうものを恐れなければいけないの」 
と、一見華やかなショービジネスの世界を暗に批判しながら、切々と語った。

っていうセリーヌ・ディオンの発言が紹介されてたんですけど。

僕は一個前の記事、そういう彼女の性質とか家族関係の詳しいこととかそういう情報は一切知らずに、ただ「マイハートウィルゴーオン」と「アイウィルオールウェイズ・ラブ・ユー」二曲聞いてそう思ったってだけで書いたんですけど、でもやっぱ、そういうのだけでも伝わってくるものがあるなあ・・・って思いますね。

旦那さんとラブラブだって話は、書き終わったものを読んだ妻から聞いたんで追記したんですけど。

そうそう、なんか、やっぱり「家族」とかね、長い時間かけて信頼関係を作っている仕事仲間とかね、そういうところのリアリティ的なものが抜け落ちてくるとヤバイんだと思うんですよね。

その「自然な延長」にしていく中で、多少はショービジネス的な「ウソ」が入ってくるっていうのは悪いことではないと思うんですよ。

っていうか、ずっと一緒に暮らしている家族と「同じような関係」を「本当に他人と」とか言うのは実質無理なんで。それこそ欺瞞ぽいところがあるんで。

そこのところで、変に「顧客と本当に家族であるとはどういうことか?」とか考え始めると、相手側としても全然期待してないことまでゼロから考えはじめて収集がつかなくなるしね。

ミュージシャンが舞台から何万人の観客に「愛してるぜ!!」って言ったからといってその言葉を普通のカップルのプロポーズと同等に捉えて「責任取ってよ」っていう話になったら困るし、でもだからといってじゃあそれを「責任持てないから俺は言わねえ!」って言うのもなんか、「引き受けてない」感じがするしな・・・・みたいな。

そのへん、「誠実なショービジネス」とはいったい何だろうか?みたいなことを最近は考えています。

「誠実なショービジネス」

っていうのは、

「全部を本当のこと」でやろうとすることじゃなく

て、

「大元の部分の真実性」に関しては徹底的にこだわり

ながら、その展開においては、

「合目的性のウソ」を適宜おりまぜて、「みんなが参加しやすいように」していくこと

なんじゃないかと思う。



でも結局、別の角度から言えば、健康第一なんじゃないかと思わないでもないな。

健康を損なってまで、他人に「約束」を振りまくような、そういう売り方は良くないという時代に、だんだんなってくるんじゃないかと思う。

もちろん、エルビス・プレスリーやマイケル・ジャクソンやホイットニー・ヒューストンが、相当な無理をしつつも実現してくれた「音楽」には意味があって、それが人類社会をある方向へゴゴゴゴゴゴと動かしてくれたと思うけど。

今はその「無理」がだんだん再度閉じていく時代だからね。

無理をしてでも全世界にグローバルシステムを行き渡らせたフェーズが終わって、今度はその「システム」の運用をどこまでも精緻にやって、「本当のリアリティ」を「システム上」に実現していく時代なんで。

単純な発想で「決然」としすぎると、後々「その他大勢」との間の心理的距離が開きすぎて凄く不安になったり寂しくなったりするんで、そのへんに薬物が必要になる隙間ができるんだと思うんですけど。

セリーヌ・ディオンみたいに、ちゃんと積んでいった二人の関係といった「リアルなもの」ベースで、そこから出るときには常に慎重でありながら、最終的には全世界規模にドカーンと一つのメロディを行き渡らせてしまうような、そういう風にやっていきたいと思っています。

こういうのは、僕と妻にとっての「最も長所(短所の裏返しとしての)を活かせる戦略」ってことになると思うし、粘着質な集団の文化が根深くあってそれが独自性の根幹である日本人にとっても、「自分たちの長所を徹底的に活用できる戦略」だと思うしね。

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