チャゲアスの客席の『うおおおお』からの「東アジアの平和」。
当時はそれほどでなかったんですが、「CHAGE and ASKA」さんのファンに最近なったんですよね。
で、色んな動画や曲を漁っていて思うのは、彼らの全盛期の客席って「独特の雰囲気」があるなあ・・・ってことなんですよ。
よく「2ちゃんねる」とかで、オタクさんの熱烈な反応を表す表現として
オタ 「うおおおおおおお!」
というような書き方をすることがありますが、
「まさにそれ」
が、
もっと「カッコイイ形」で実現
されていたのがチャゲアス全盛期の客席だったんじゃないかと私は思っています。
・
で、彼らの色んな映像を見ていて思ったことがあるんですがね。
全盛期の彼らは、アジアツアーを行い、またモナコで行われた国際的な音楽祭にも、「MTVアンプラグド」にも出ています。
それらを比較すると、客席の感じが
オタ『うおおおお!!!』
と「まさに同じ感じ」だなあ・・・と思ったのは、「アジア限定」だったんですよね。
中でも中国語圏(台北・上海)は「日本国内とほとんど同じ感じの”うおおおお!”」があった。
特に、「You are free」っていう曲とか、非常に「東アジア的」な、漢字二文字で表すならば「悠久」というような感情の流れがあって、それをアジアツアーで歌っている時の「感じ」は、「我々の古来からの共有遺産に直接的にアクセスしている」ような感じがします。(実際に華流スターがよくカバーしているそうです)
でも、「韓国」のノリはちょっと違うように感じますし(それでも”かなりアジア的”ではありますが)、モナコやMTVの出演は、そもそもチャゲアス自体が「彼らの一番良い部分」を出しきれずに終わってしまったんじゃないかという印象でした。
「YAH YAH YAH」の前奏が流れた時点で、客席全体が一つの「野蛮な生き物の集まり」になったような「あの感じ」・・・・が、「アジア人の共有財産」的な部分には猛烈に共鳴しているものの、「アジア外」なもの、そして「韓国人のある性質」とはうまく噛み合わずにいた・・・っていうような・・・そういう印象を最近私は持っています(そしてその結果として彼らの爆発的ムーブメントもどこか尻すぼみに終わってしまったのではないかとすら思える)。
さて、その「うおおおお!」は、チャゲアスムーブメントが尻すぼみになってしまってから、どこに行ってしまったんでしょうか?
その後「うおおおお!」を発見したなあと思ったのは、「キャナーリ倶楽部」というアイドル?さんの「ドキッ!こういうのが恋なの?」という曲のライブをユーチューブでたまたま見た時の衝撃でした。
客席の一糸乱れぬ感じが・・・・いや、ちょっと形は違うんだけど、でもチャゲアスの客席にあった「うおおおおお!」そのものだな!と思ったりして。
その流れは、多分ありとあらゆるその後の「アイドルムーブメント」の客席にはずっと息づいているのではないかと想像します。
・
そういう「うおおおお!」にある「野蛮性とピースフルさの両立」って、東アジア以外ではなかなか見ないんですよね。(最近は、色んな”オタク文脈”自体の輸出によって欧米にも理解できる人が増えている様子ですが)
東アジア以外での「似たようなムーブメント」っていうのは、もっと攻撃的になりがちなんですよ。
「個人の中の野蛮性を抑えこんでしまうようなお行儀良さ」があるか、逆に「そのまま”攻撃性”として噴出させてしまうか」のどちらか
になりがちで。
東アジア的「うおおおお!」にあるような、「個人の野蛮性を全部放出させつつ、全体としてピースフルに収める」、言ってみれば「祭り」の作法
が生まれづらいんですよね。
もちろん、彼らには彼らの「祭りの作法」があるんですが、なんかそれが・・・どこか薄皮一枚「文明的」すぎて、それがまわり回って色んなところで「暴発」を起こしているような感覚が私にはあります。
長い歴史の中のたいていの期間ずっと基本的には平和主義でやってこれた東アジアに対して、ずっと戦争をしていたような欧米社会との奥底の、「祭り」のモードの違いというかね。
私はその、
「物凄く野蛮な感じだけど、でもピースフルさも感じる」ような「うおおおおお!」
を起点にすることによってしか、「東アジアの平和」は実現できないと考えています。
東アジアの国の関係は今色々と問題を抱えていますが、しかし「モメている当事者」のみなさんというのは、そもそも「欧米由来のお行儀の良さそうな言葉使いのモード」自体こそが世界の悪の元凶ぐらいに思っているわけですから、「彼らに対して彼らが一番嫌いな言葉使いで話を持っていく」のも無理があるんですよ。
しかし「彼らには彼らなりの仁義」っていうものがありますから、「彼らの仁義」同士がストーリーとして噛みあうように持っていくことが必要なんですよね。
つまり、「そこに確かにある野蛮さ」に対して「出来合いの欧米的理屈で断罪しにいく」から、東アジア各国の人々の「本能」がそれに対して反発し、その結果が「お互いを非難しあう結果」に終わっているんですよ。
だからこそ、「そこに確かにある野蛮さ」を断罪せずに認めてしまいつつ、しかしピースフルな「祭り」に回収するような「東アジアの文化的伝統に則った祭りのストーリー」こそが今必要なものなんですよ。
この問題は、東アジア人が共有する、「面倒くさい話を吹き飛ばしてしまう”うおおおおお!”という回路」に対して説得的なストーリーを提示していくことでしか解決できないんですよね。
もちろん、それ単体で刺激していくだけだといろいろと不具合もあるんですが、「そういう人にはそういう理解ができ」て、かつ「アメリカンな普遍性を信じている」人には「そういう価値観として理解できる」・・・・そういう「裏表に貼り合わせる」ような言論こそが今必要なことなんですよ。
チャゲアスの歌声に、「なんか東アジア人として、わかるなあ、この感じ!」的に「うおおおお!」となっている映像を見るとき、私は常にその可能性について考えます。
私は大学卒業後アメリカのコンサルティング会社に入ったのですが、その「グローバリズム風に啓蒙的過ぎる仕切り方」と「東アジア人の美点を支える集団的本能」との間のギャップをなんとかしないといけないという思いから、「その両者をシナジーする一貫した戦略」について一貫して模索を続けてきました。
そのプロセスの中では、その「野蛮さ」の中にも実際に入って行かねばならないという思いから、物凄くブラックかつ、詐欺一歩手前の浄水器の訪問販売会社に潜入していたこともありますし、物流倉庫の肉体労働をしていたこともありますし、ホストクラブや、時には新興宗教団体に潜入してフィールドワークをしていたこともあります。(なんでそんなアホなことをしようとしたのかは話すと長くなるので詳細はコチラ↓をどうぞ。)
そういう「文明社会の外側の野蛮性」と「文明社会の窮屈さ」との間をあたらしい信頼関係で繋ぎ直すことが、「アメリカ的秩序が踏みにじってきたもの」が、ウクライナやアフガニスタンで紛糾している現在の喫緊の課題なのです。
一神教の彼ら同士はどこまでもぶつかり合わねばならない宿命みたいなものもありますが、しかし、我々東アジアの文化的伝統を共有する人間同士なら、その「アメリカ秩序の外側にある野蛮さ」自体を、「そのまま持ち寄って理解しあうモード」で理解しあえる潜在力があるはずです。
ニッチもサッチも行かなくなった世界の平和を維持するための「諸国民の公正と信義に信頼するあたらしいコミュニケーション・モード」=我々の奥底にある「野蛮かつピースフルなうおおおお!のモード」の徹底した活用が、強く求められている時代なのです。
より詳しくは、以下の記事をお読みください。
・「日中韓が心の底から仲良くなる方法」↓(少し長いですが、ある出版社の社長さんに、これはちゃんとお金取ってミニ電子本にするべきですよ!と言われたぐらいの力作です)
http://keizokuramoto.blogspot.jp/2014/02/blog-post.html
・「●●人を殺せ!」的な方向で噴出していってしまっているエネルギーを、「断罪」するのではなくて「良い方向に誘導」することを考えよう!という記事がこちら↓
http://keizokuramoto.blogspot.jp/2014/04/blog-post.html
面白かった!というアナタはコチラから100円投げ銭することもできます!
倉本圭造
経営コンサルタント・経済思想家
公式ウェブサイト→http://www.how-to-beat-the-usa.com/
ツイッター→@keizokuramoto
で、色んな動画や曲を漁っていて思うのは、彼らの全盛期の客席って「独特の雰囲気」があるなあ・・・ってことなんですよ。
よく「2ちゃんねる」とかで、オタクさんの熱烈な反応を表す表現として
オタ 「うおおおおおおお!」
というような書き方をすることがありますが、
「まさにそれ」
が、
もっと「カッコイイ形」で実現
されていたのがチャゲアス全盛期の客席だったんじゃないかと私は思っています。
・
で、彼らの色んな映像を見ていて思ったことがあるんですがね。
全盛期の彼らは、アジアツアーを行い、またモナコで行われた国際的な音楽祭にも、「MTVアンプラグド」にも出ています。
それらを比較すると、客席の感じが
オタ『うおおおお!!!』
と「まさに同じ感じ」だなあ・・・と思ったのは、「アジア限定」だったんですよね。
中でも中国語圏(台北・上海)は「日本国内とほとんど同じ感じの”うおおおお!”」があった。
でも、「韓国」のノリはちょっと違うように感じますし(それでも”かなりアジア的”ではありますが)、モナコやMTVの出演は、そもそもチャゲアス自体が「彼らの一番良い部分」を出しきれずに終わってしまったんじゃないかという印象でした。
「YAH YAH YAH」の前奏が流れた時点で、客席全体が一つの「野蛮な生き物の集まり」になったような「あの感じ」・・・・が、「アジア人の共有財産」的な部分には猛烈に共鳴しているものの、「アジア外」なもの、そして「韓国人のある性質」とはうまく噛み合わずにいた・・・っていうような・・・そういう印象を最近私は持っています(そしてその結果として彼らの爆発的ムーブメントもどこか尻すぼみに終わってしまったのではないかとすら思える)。
さて、その「うおおおお!」は、チャゲアスムーブメントが尻すぼみになってしまってから、どこに行ってしまったんでしょうか?
その後「うおおおお!」を発見したなあと思ったのは、「キャナーリ倶楽部」というアイドル?さんの「ドキッ!こういうのが恋なの?」という曲のライブをユーチューブでたまたま見た時の衝撃でした。
客席の一糸乱れぬ感じが・・・・いや、ちょっと形は違うんだけど、でもチャゲアスの客席にあった「うおおおおお!」そのものだな!と思ったりして。
その流れは、多分ありとあらゆるその後の「アイドルムーブメント」の客席にはずっと息づいているのではないかと想像します。
・
そういう「うおおおお!」にある「野蛮性とピースフルさの両立」って、東アジア以外ではなかなか見ないんですよね。(最近は、色んな”オタク文脈”自体の輸出によって欧米にも理解できる人が増えている様子ですが)
東アジア以外での「似たようなムーブメント」っていうのは、もっと攻撃的になりがちなんですよ。
「個人の中の野蛮性を抑えこんでしまうようなお行儀良さ」があるか、逆に「そのまま”攻撃性”として噴出させてしまうか」のどちらか
になりがちで。
東アジア的「うおおおお!」にあるような、「個人の野蛮性を全部放出させつつ、全体としてピースフルに収める」、言ってみれば「祭り」の作法
が生まれづらいんですよね。
長い歴史の中のたいていの期間ずっと基本的には平和主義でやってこれた東アジアに対して、ずっと戦争をしていたような欧米社会との奥底の、「祭り」のモードの違いというかね。
私はその、
「物凄く野蛮な感じだけど、でもピースフルさも感じる」ような「うおおおおお!」
を起点にすることによってしか、「東アジアの平和」は実現できないと考えています。
東アジアの国の関係は今色々と問題を抱えていますが、しかし「モメている当事者」のみなさんというのは、そもそも「欧米由来のお行儀の良さそうな言葉使いのモード」自体こそが世界の悪の元凶ぐらいに思っているわけですから、「彼らに対して彼らが一番嫌いな言葉使いで話を持っていく」のも無理があるんですよ。
しかし「彼らには彼らなりの仁義」っていうものがありますから、「彼らの仁義」同士がストーリーとして噛みあうように持っていくことが必要なんですよね。
つまり、「そこに確かにある野蛮さ」に対して「出来合いの欧米的理屈で断罪しにいく」から、東アジア各国の人々の「本能」がそれに対して反発し、その結果が「お互いを非難しあう結果」に終わっているんですよ。
だからこそ、「そこに確かにある野蛮さ」を断罪せずに認めてしまいつつ、しかしピースフルな「祭り」に回収するような「東アジアの文化的伝統に則った祭りのストーリー」こそが今必要なものなんですよ。
この問題は、東アジア人が共有する、「面倒くさい話を吹き飛ばしてしまう”うおおおおお!”という回路」に対して説得的なストーリーを提示していくことでしか解決できないんですよね。
もちろん、それ単体で刺激していくだけだといろいろと不具合もあるんですが、「そういう人にはそういう理解ができ」て、かつ「アメリカンな普遍性を信じている」人には「そういう価値観として理解できる」・・・・そういう「裏表に貼り合わせる」ような言論こそが今必要なことなんですよ。
チャゲアスの歌声に、「なんか東アジア人として、わかるなあ、この感じ!」的に「うおおおお!」となっている映像を見るとき、私は常にその可能性について考えます。
私は大学卒業後アメリカのコンサルティング会社に入ったのですが、その「グローバリズム風に啓蒙的過ぎる仕切り方」と「東アジア人の美点を支える集団的本能」との間のギャップをなんとかしないといけないという思いから、「その両者をシナジーする一貫した戦略」について一貫して模索を続けてきました。
そのプロセスの中では、その「野蛮さ」の中にも実際に入って行かねばならないという思いから、物凄くブラックかつ、詐欺一歩手前の浄水器の訪問販売会社に潜入していたこともありますし、物流倉庫の肉体労働をしていたこともありますし、ホストクラブや、時には新興宗教団体に潜入してフィールドワークをしていたこともあります。(なんでそんなアホなことをしようとしたのかは話すと長くなるので詳細はコチラ↓をどうぞ。)
そういう「文明社会の外側の野蛮性」と「文明社会の窮屈さ」との間をあたらしい信頼関係で繋ぎ直すことが、「アメリカ的秩序が踏みにじってきたもの」が、ウクライナやアフガニスタンで紛糾している現在の喫緊の課題なのです。
一神教の彼ら同士はどこまでもぶつかり合わねばならない宿命みたいなものもありますが、しかし、我々東アジアの文化的伝統を共有する人間同士なら、その「アメリカ秩序の外側にある野蛮さ」自体を、「そのまま持ち寄って理解しあうモード」で理解しあえる潜在力があるはずです。
ニッチもサッチも行かなくなった世界の平和を維持するための「諸国民の公正と信義に信頼するあたらしいコミュニケーション・モード」=我々の奥底にある「野蛮かつピースフルなうおおおお!のモード」の徹底した活用が、強く求められている時代なのです。
より詳しくは、以下の記事をお読みください。
・「日中韓が心の底から仲良くなる方法」↓(少し長いですが、ある出版社の社長さんに、これはちゃんとお金取ってミニ電子本にするべきですよ!と言われたぐらいの力作です)
http://keizokuramoto.blogspot.jp/2014/02/blog-post.html
・「●●人を殺せ!」的な方向で噴出していってしまっているエネルギーを、「断罪」するのではなくて「良い方向に誘導」することを考えよう!という記事がこちら↓
http://keizokuramoto.blogspot.jp/2014/04/blog-post.html
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倉本圭造
経営コンサルタント・経済思想家
公式ウェブサイト→http://www.how-to-beat-the-usa.com/
ツイッター→@keizokuramoto