発売日にあたっての長い謝辞。

昨日、23日から既に東京都内では本屋さんに並んでたみたいですね。

これは、友人が送ってくれた、池袋駅ビル7階の旭屋書店新書コーナーの写真。クリックすると拡大します。っていうか平積みありがとうございます!!!


何人かの友人から本屋さんで買ったよ!!っていう知らせが届いたりしてます。今日あたりからは、東京以外でも、ある程度大きな本屋さんには置かれているはずだと思います。

よろしくお願いします。

あと、アマゾンさんは届くのが来週アタマ~月末になるとか。

予約でソレってどうなん?という気がしないでもないですけど、お待ちくださればと思います。



さて、一個前の話、書き終わってパソコン閉じてからも、なんつーか、大げさなこと書いたかな?と思ってスマフォから再アクセスして自分で読んだりしてたんですけど、でもなんか、あんま大げさという感じでもなく、本心としてこの問題はずっと自分の中にあったなあ、と思いました。

なんか・・・「他人に批判されたくないから」って感じじゃないんですよね。むしろ「なんとでも言えよ!!」ぐらいの気持ちはあるんですよ。

それこそ坂本龍馬風にカッコつけて言うと

「世の人は我を何とも言わば言え 我が成す事は我のみぞ知る」

って気持ちは超凄いある。

・・・んだけど、僕の仕事は非常に「BtoC(企業間でなく一般消費者相手)」なところがあるんで、自分がこれでいいと思って大分進んでから、「大きな批判勢力」が向こう側から現れたら、もう僕としてもどうしようもないところがあるじゃないですか。

そこまでたどり着くために積んできたものを、その時点になったら絶対裏切れなくなってると思うしね。で、そしたら、「それが気に入らない存在」に対しては、「もう俺の人生とあなたの人生は関われそうにありません」でずっと行くしかなくなる。

つまり、「はじめる瞬間」に、「最大値」が決まっちゃってるんじゃないかっていうような思いがずっとあってね。

だから、「批判されること」自体はどうでもいいんだけど、遠い未来に自分が今進んでいこうと思っている道が、

「みんな」


に自然に受け入れてもらえるようになるようなものであるかどうか・・・・・っていうのは、もうほんと、必死でなんとかしなくちゃいけない課題だなと思ってた。

まあ、「みんな」って言っても数学的に「全員」って言う意味じゃなくてね、ある程度広範囲の、「自然な生活者の共感」っていうものが得られるかどうか・・・ってことですよ。

次の世代の「普通」っていう感じのものになりえるだけの、本質的な奥行きと「自然さ」を、自分のムーブメントの核心部分に宿らせることができるかどうか。

潜伏期間を経て、オープンな活動を再開するときに、そのイシュー(最重要の課題)にかんしては、自分なりの確信を持っていないと、そこから先の展開に心置きなく自分自身を全部載せていくことができないな、的な。

あとなんか、妙に、「俺がやらねば誰がやる」的な、押し売り的に謎の使命感みたいなのも感じてたしね。

次に人類が新しい「思想」を受胎するときには、過去の共産主義の馬鹿馬鹿しい失敗にはないような、「現実性」と「生活者の深い共感」を兼ね備えたものでなくてはならない・・・的な(笑)

ってお前ナニサマやねんという感じだが、まあ、うん。

でもまあ、今はある程度「自然な共感」を得られるだけのものになったな、「知性的に概念的に理解してくれる人たち」だけでない、なんか、「ココロでわかった!!」っていう人がいてくれるようなものになったんじゃないかな・・・と思ってるんで。

だから、もう気にすることなく、


「世の人は我を何とも言わば言え 我が成す事は我のみぞ知る」


の気分で行っていいし、今は気に入らない、今はよくわかってもらえない人に対しても、時間をかけてムーブメントが広がっていけば、最終的には理解してくれるだろうという感触を得られたってことなんでしょうね。



実は本の最後にね、最初の原稿では物凄く物凄く長ーーーーーぁい謝辞を書いてたんですよ(笑)

よくアメリカ人の書いた本とかでね、数ページぐらいずっと謝辞って本珍しくないじゃないですか。

「原稿段階で貴重な示唆をくださって、本書を非常にわかりやすいものにしてくれた、X社のY氏に感謝を。Z大学のA教授は、当該分野における私の知識不足を補うために非常に我慢強い態度でレクチャーをしてくれた、感謝したい。また、注意深くチェックをして、原稿における専門用語の扱いのミスを、実に38箇所にもわたって指摘してくれた校正チームのB氏とC氏に・・・・・」

みたいなのが、延々数ページ続くやつ。

まあ、ちょっと雰囲気は違うけど、それぐらいに延々と書いてたんですよね。

でもなんか、既に税抜で1000円を超えない臨界点のページ数は常にギリギリになってたのもあるし、なんか・・・・そういうのって、結局僕個人が気持ち的にスッキリしたいから書いてるだけで、読者側からすると退屈かな?って思ってカットしたんですよね。

そういうのは、「感謝」してるんじゃなくて、一種の「ディスクレイマー(文句言われないようにするための但し書き)」なんじゃないか・・・っていうような気持ちにもなってた。

ちゃんとこう書いておけば、「あいつは俺の恩を忘れて一人だけ本を出しやがって」的なことを言われないんじゃないか的な?

そういう、「ありがとうって言っておきましたよ!!」的なアピール感を感じて、なんかそのへんが、日本的な感覚からすると「全部言うなよ」って感じになるかな?とか。寄付した時に名前を出すか出さないか文化みたいなね。

で、でもどうしようかなーっていうことはずっと思ってて、この記事を書き始めた時は、その「ズラーーーーー」っていう謝辞を、ブログには書くかな?と思ってたんですけど。

なんか、やっぱやめます。

形として「ありがとう」って言える存在だけに感謝してるというもんでもないしな。

色々まわりまわって、有形無形の関係の中で流れ流れてここまで来たんで。

「あの時これをしてくれてありがとう」を並べればそれが現せるかというと、そういうもんでもないと思うし。



ただ、幾人か、人生のかなり初期の段階で影響を受けた人の名前を4人だけあげておこうかと思います。普通の意味で、この「本」に対する貢献に対する謝辞という感じじゃあないけど。

ちょっと長くなっちゃったけど、本の中に流れてる「過去の先行的存在」の種類が明確にわかってくると思うんでお付き合いください。



まずは高校の音楽の先生の森田二郎氏ね。

高校の時の部活の顧問なんだけど。(名前検索しても同姓同名の違う人がたくさんでてくる 笑)

彼の作る音楽の方向性・・・・

「他人を威圧して印象づけるというものではない、自然な音の連鎖を純粋に追求することが大事だ」

「平和だ社会問題だなんだ・・・という”上に載ってる見かけ上のメッセージ”でなく、その裏に、もっとフィジカルで純粋な音楽の喜びっていうのがあるから、それを追求しなくちゃいけない」

みたいなのに、人生の初期に触れたことは、後々の自分を非常に決定づけたと思っています。それは明らかに僕の本の底流にある。

ありがとうございます。



次に、大学受験浪人を1年してたんですけど、その間に非常にユニークな二人の先生に関わって、それがかなり僕の中で大きい影響を与えてる気がするんですよね。

一人は、今は多分もう廃業しちゃった週3日制の小さな予備校で、英語の講師をしてたS氏ね。

なんか、元学生運動時代の革命家で、逮捕歴もあるとか言う、「バリバリの左翼」の人だったんだけど。

名前は偽名だとか、「僕は写真には写りません。アシがつくから」とかなんか・・・・今考えるとそういう部分はちょっと嘘臭いファッションだなと思うけど、でも、「うそ臭くなりながらも何か純粋なものを求めていた生き方」というありようにおいて、今でも凄く尊敬できる人だった。

独自のテキストで、独自の授業方法で、独自の英文法理論で、ガッチリ掌握していくような授業をしてて、しかもなんか、左翼風の学園ロマン的な?「カルチェラタン」的な?授業終わったら希望者の生徒を集めて喫茶店で授業と同じぐらいの時間「議論(というか雑談)」するとかね。

別に彼の英語の授業で英語が物凄くできるようになったか?と言われるとまあ微妙なところなんですけど(笑)、学園紛争時代の「モード」を、そのまま冷凍保存したような雰囲気を無理やり押し付けてくる感じと毎週接して毎週喫茶店で話し込んでるとね、なんか・・・・凄く勉強になったんですよ。

いわゆる団塊世代的な人たちの、「実は眠っている良い可能性」と、「結局こういうところがダメなんだよな」っていう部分と、両方を物凄く「目前の事例」として見せつけてくれたからね。

特に、現代風に優しい価値観からすると、普通こういうことするか?っていうようなヒドいことでも、「いや、僕は信条としてこういう時はこうなんです!」とか言って超ワガママ通すしね(笑)

おいおい、左翼なくせになんでそこだけ超「ちゃぶ台返す系ガンコ親父」なんだよ!みたいな(笑)

そういう

「過去の左翼ムーブメントが、いかに理想主義風な顔をまとったエゴにすぎなかったか」みたいなのをイタイほどさらけだしてくれた

し、でも同時に、その中に

”ほんの一瞬だけ垣間見える本当の可能性”みたいなのも全然無いわけじゃないんだな・・・・と信じさせてくれるだけの誠実さと知性

はあった。

今となっては、その


「ダメな部分も全然隠さない感じ」っていうのもひとつの「誠実さ」だな

と思うしね。


「ここには早く幻滅しろ。でもほんの一部分だけだけれども多分本当に良いものもここにはあるからそれだけを受け継いでくれ」っていうメッセージ

だと受け取ればね。

で、結局僕がそういう


「既存左翼思想」から受け継いだ「ほんの一部分だけだけれども本当に良いもの」っていうのは、「アジテーションのリズム」というか、「ロジックと日本的感情を統合して一つのストーリーにする技術」だった

のかなと今となっては思う。

今だに思い出すのが、例えば英文とかで、「It is widely believed that・・・」的な文章が始まったとするじゃないですか。「●●だと広く信じられている」って感じね。

で、
「ここまで読んだ瞬間に既にね!!いいかぁ?伝わってるかぁ?
す、で、に、そう・・・すでに!!
”しかし実は!!!そうじゃあないんだッ!!”
って文章が後に来るってことはね、
と、う、ぜ、ん、
予測できるじゃないか?きみたち?」

みたいなことをずっと言ってた。僕は彼のモノマネが超うまいというのでそのクラスで有名だった(笑)

要するに、わざわざ「みんなそう思ってるよね」って話を始めた時点で、その話が終わった後に絶対「しかし!!」って来るんだよ!!みたいな。

これ、あらゆる表現において、特に一種のロジカルさを持った文章には常にこういう傾向があって、で、その

「ロジカルな内容」と「日本風の語りのリズム」が、「噛みあう瞬間」がそこに”だけ”ある

って感じなんだと思うんですよね。

なんか、「みんなが思っている常識が覆される瞬間」的な、そういう「ロジカルな展開」と、「みなみなさまも、ずずずいいとぉおおおおお」みたいな口上のリズムが一致するように持っていきたいと思ってる感じ。

過去に書いたこの記事とか(長い記事だけど特に後半ね)、たしかに物凄く影響受けてると思うし、本の中でも凄く影響受けてるなあ・・・・「論理展開のリズムとフレージング」が・・・・って思うんだよね。

で、たしかに、ある程度長い英文っていうのは常にそういう「普通はこうだが実際にはこう」「もしこうであればこうだが、実際にはこう」「こうであればいいなあとみんなは思うが実際にはこう」みたいな、そういう展開をするんだよね。

で、そういう展開の「割り切り感」が、日本的な「空気」となかなか相容れないんだけど、このS氏が毎回「学生運動風の語り口調」で展開していた、

「こおおおおおおおおきて、こう!!」

みたいな「語りのリズムとフレージング」には、歌舞伎とか水戸黄門とか暴れん坊将軍とか仮面ライダーの変身シーンとかプロ野球の応援とかパチンコの大当たり演出とか・・・に共通する、「いよおおおおお、ぽん!!」みたいな、ああいう「日本人の空気を深く動員できるメカニズム」が満ちていたんですよね。

で、その


「ロジカルに突き詰めた内容」

と、その

「さあさあみなさまお手を拝借いたしまして、一本締めにて締めとうございます。みなさまがた全員の来年のご多幸とますますの発展を祈念いたしましてええ、はいはい、よござんすかよござんすか?いきますよいきますよいきますよ?、さて!いよおおおおおおおおおおおお、ぽん!!!・・・・・・・ありがとうございましたああパチパチパチパチパチ」

みたいなのを

合致

させよう、そこにこそ

「既存左翼思想の馬鹿馬鹿しさを乗り越える可能性はあるはずだ」

・・・・っていうような感覚を感じた。

だから結局、多くの日本人は空気によって生きていて、その空気によって生きているからこそ生まれている現場的密着感が強みなわけなので。

だからこそ、ロジカルな知性によって追い込んでいって手にいれた一つの思想を、そのままゴリ押しにすると無駄な反発が生まれるし、お互いの良さを両方発揮することなんて不可能になるんで。

この、「一本締めの口上」のような、その語りのリズムの中にみんなの「気持ち」を巻き込んでいって、「せーーのっ!!!」って感じでカタルシスが得られるような、そういう

「フレージングとロジカルな内容が一体となったようなもの」

でしか、既存左翼思想の馬鹿馬鹿しさは超越できないし、日本における「知性派」と「ゲンバ派」が手を取り合う「薩長同盟的関係」が取り結ばれることはないんだ・・・・

っていうことを、学んだ感じがするんですよね。

と、言うわけで、S氏・・・まだ生きてるのかな?ある程度本が売れたら必ず手にとってくれると信じているので、手にとってくれるといいな。ありがとうございました。



で、S氏とは物凄く対照的なんですが、もう一人浪人時代に凄い面白い先生がいてですね。

さっき書いた週3日の予備校は特待生で無料だったんで、親に頼んで単科で日本史だけね、当時阪神間で凄い有名だった変な先生の授業を受けに行ってたんですよね。

これがまた、今度は「超”右翼”」な先生で。宮本賢一さんって言う人なんですけど。

なんか、確か平安時代全部にかける時間が2時間だけなのに、太平洋戦争には一ヶ月まるまるかけたりしてね。

ミッドウェー海戦だけで2時間(笑)

2.26事件だけで2時間(笑)

あと、戦国時代も無駄に分厚くて、川中島の合戦で確か2時間(笑)

臆面もなく「天皇陛下バンザァアアアアアイ!!」とか言うしね。

「そしてこの第一航空艦隊を率いたのは誰かわかる者手をあげよ!!なにィ?わからんと言うのか!!!この非国民どもめぇ!!!なに?そう正解!!!!
(黒板に大書しながら)南・雲・忠・一(当時は)海軍中将閣下ァァアアアアアアアアただし入試にはッ!!!!!でないッ!!!!!(学生爆笑)」

みたいな授業だった(笑)

一応確認しとくと大学受験専用の予備校ですよ(笑)

でもね、色んな歴史の名シーンを、切々と語り出して、いざって時にはわざわざBGMをかけて泣きながら絶叫したりして、で大教室に詰めかけた普段完全ノンポリの学生が、みんな泣いたりしてたんですよね。

その「笑い」と「泣き」と、超右翼だけど右翼なりに一貫した歴史観みたいなのが合わさった名人芸みたいな授業で、ほんとプロとして見事だなあ!!と思った。

で、こういうのを聞いてると、思想的にどうかとか、近隣国への歴史的加害の問題は別にして、とりあえず「心情」として、「当時生きていた人たち」が、完全にただ悪というわけではない、「普通の人の普通の生活の積み重ね」だったんだなってことがわかるんですよね。

それが、ちょっとうまく全体としてうまく噛みあわせられなかったから結果として破滅的な流れになってしまっただけなんだな・・・とわかる。

2.26事件の青年将校なんて、ほんと現代風の価値観からすると諸悪の根源的な何かのように感じられるけど、切々と当時の庶民の苦境とそれを憂う青年の心情を語りあげた後に、「雪の降りしきるある日ついに!!」みたいな感じでテンポあがって最後絶叫!!!みたいな感じになるとなかなかグッとくるものがあった。

そして、その「赤心(せきしん)」っていうかね、そういう

「根っこのところの生活感」のレベルまで届く言説でなくては、本当に広範囲の転換を起こすことはできないな

っていうことを痛感させてくれるような授業だった。

で、S氏と違って、個人的には全然知り合いになったりしなかったし、しかも週の半分は「超バリバリの左翼」な人とカルチェラタンな雰囲気で暮らして、週1日だけ「非国民どもめぇ!!!」て絶叫するような授業を受けて・・・・っていう一年間が、なんか凄く自分の奥底の何かを作ってくれてるし、それは根っこのところで僕の活動全体を支えているし、本の中にも明確に息づいてるなあと思うんですよ。

いやほんと、多分まだどこかで活躍されていると思うので、これからも頑張ってください。ありがとうございました。



で、結局「言葉で語った理屈」だけを言うと、平行線に見えるようなものでも、ちゃんと「現実レベルでの具現性」を先にシッカリ考えたものであれば、

「右も左もないど真ん中の言説」

っていうものを、

「みんなのココロ」

へ浸透させていくような、そういう

「あらゆる党派性を超えたメッセージ」

っていうのが可能なはずだと思ったんですよね。

「20世紀的な紋切り型の延長」で罵り合ってたって仕方がない。

そう思わせてくれたっていうか。



そう思って大学入ってから、京大経済学部の吉田和男先生のゼミ入ったんですけど、なんか、彼にも凄い影響受けたと思います。今年退官されるそうですけど、おつかれさまでした。

大学の2年の時に、経済学とは全然関係なく哲学をやるゼミだったんですよね。で、3-4年は「その当時一番流行ってる最先端なことをやる」っていう方針で。

3年はデリバティブだとかブラック・ショールズがどうこうとかいう金融工学で、4年はIT革命(懐かしい言葉 笑)が、経済学的な論理をどう変えるのか?って話だった・・・んだけど、そういう「超ミーハーにホットなことを節操無くやる3-4年」と、「哲学しかやらない2年」っていうこのギャップが凄い良かった。

で、2年の時に、前期はデカルトで、後期は自分でテーマ選べたんで、僕はフーコーとかね、そういう構造主義者とか実存主義者とか言われてた時代のフランスの哲学の本とか読むことになったんですけど、スゲー熱いな!!と思った。

予備校時代に接した二人の「変人先生」から受け継いだものを、形にできる可能性がこういう態度の中から生まれるんじゃないかな?っていうような感じがした。

そういう「哲学」っぽいことをやりながら、卒業生がやたら就職に強いゼミだったんで、2年生から毎年、霞が関の官僚とか、当時の自分からすると「凄い」企業で活躍してる先輩とかに会いに行く企業見学会とかがあるんですよね。

で、日銀とか財務省とか経産省とか、内外の金融関係の有名なとことか広告代理店とかテレビ会社とか電機・車メーカーとか外資コンサルとかね、そういうところで活躍してる先輩に、普通に会える環境だとね、なんか、「そういうのが普通」になってくるじゃないですか。

「まあ、うちのゼミなら普通じゃね?」

みたいな感じになってくるっていうか。勘違いっちゃ勘違いだけど、でも勘違いから始まるマコトもあるしね(笑)

また、ゼミの友達が凄い良いヤツばっかりでね。僕一人だけだと全然世慣れない変なヤツってだけで終わってた可能性あるんですけど、適切に「世の中的に今風」な範囲のこととちゃんとつなぎとめてくれたなあって思ってるんですよ。

これは、東京に出てきてからもね、色んな人にね、「京都から変なヤツが来た」みたいな感じでね、「東京の仕事社会」の第一線で活躍してるような人たちが、「面白いヤツがいるから会ったらいいよ」みたいな感じで次々繋いでくれたんですよね。

あれはほんと、ありがたかったなと思ってるんですよ。

僕一人だけで僕が大事にしてることだけやってると、ほんと「爆破テロ犯」みたいになっていってもおかしくない性質があったと思うんですけど(笑)。

時代の空気が、僕みたいな変な人間をおもしろがって、「会ってやろう」って思ってくれる人たちが、「今風に活躍している人たち」の中に沢山いたんでね。

だからこそ、「変人先生二人」とか、20世紀の熱い時代のフランス思想とか、あるいは高校時代に培った「人間の集団や音楽のリアリティ」への感覚を追求するっていう

「浮世から外れたこと」と、「浮世なこと」をちゃんと接続することが自分の役割

だな・・・っていうところに集中していけた感じがしてるんですよね。

そういう存在がいたらね、

「今風のビジネス社会で凄く光があたってる人」

と、

「そういう場所とは離れてしまって、経済社会全体に恨みを抱いている人」

の、

「両方」に「新しい可能性」が開けるような「部品」になる

はずじゃないですか。

その「両者」の間を繋ぐことこそが、「21世紀の薩長同盟」だと思うしね。

今の社会に「怨念」を持ってる人には人生を開く「希望」になるはずだし、今の時代に活躍している人にとっては、「よくわからない文句を言ってくる奴ら」の中から、「今までにない経済付加価値の種」を取り出す技術ってことになるからね。

というわけなんで、吉田先生とゼミのみんな、そして東京に出てきてから倉本圭造のことをかわいがってくれたみなさん、ありがとうございました。



と、言うわけで、なんか長い謝辞になりましたけど。

就職してからの中で色々お世話になった人って言ったらもうほんとあげきれないんで、大枠で言って「日本の職場」ってもの全体に感謝してるっていうことにさせてもらおうと思ってます。それは本の中にも書いたしね。

とりあえず、今は、そういう「変な人から受け継いだもの」をちゃんととりあえず「今風に広い範囲にOKな形」に再結晶化させる役割は果たせたかなって感じで、「ほっとしてる」ってとこですね。

例えば、この10年ぐらい凄く「右翼」的な運動が流行ってたところがあるじゃないですか。戦後何十年の左翼全盛の時代が終わって、そのゆり戻し的な問題としてね。

で、「ゆり戻し」としての価値は凄くあるし、左翼思想家が自説の焚付けのために過去にやった捏造問題とかね、そういうのはちゃんと追求されて冷静に歴史的議論をされるべきだと思うんですけど。

でも、それだけだと、結局、最終的には「一切日本軍は悪いことしてない」って言いたい・・・・っていうところに行き着いちゃうんだけど、でもそこまで行ったらそんなわけあらへんやろ!って話ですからね。

だから、右翼的言説っていうのは、一瞬元気になるけど、いざ本当に「決然とした行動力」を具体的な社会・経済ムーブメントとして持たせようとすると、今度は色んな事情でガンジガラメになっちゃうんですよね。

でも、僕が予備校時代に日本史の授業で感じたような、「あの赤心を大事にしたい」っていうようなレベルでのムーブメントとしては凄く大事なものだと思うんで。

これからは、その

「近隣諸国の反感を買う無理矢理な右翼性」ではない「グローバリズム的にポリティカリーコレクト(政治的に問題ない)」な形で、


しかも「ただの空想的な既存左翼風美辞麗句ではない経済合理性がある新しいロジック」で、



でも「みんなの赤心のレベルまで届く」ような。


そういう思想的旗印・・・・が必要・・・・ってこれは日本だけの問題じゃないからね。


そういうものの端緒を作れるだけの本にはなってると思うので、ぜひどちらの立場の方も、よろしくお願いします。

21世紀の薩長同盟を結べ




この本に流れている歴史の流れを作ったすべての人に感謝します。


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